日常 Feed

2013年1月24日 (木)

「炭酸水」製造器は、ほんと便利だ!

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「GLASS ONION」で、クリスマスプレゼントとして妻に買ってもらった「SodaSparkle ツインボトルスターターキット」 が、とても重宝している。これはいいや。

液体二酸化炭素のカートリッジ(1本 50円)をセットして、微炭酸なら 1.3L、強炭酸水は 1L できる。


炭酸好きのぼくは、西友で「PEPSI NEX ZERO」1.5L や、350ml のアルミ缶入り炭酸ソーダに、500ml のペットボトル「クラブソーダ」を、テルメに行った帰りに必ず買って帰るので、わが家は「ペットボトル」が山のように貯まってしまうのだった。

ビン、缶、ペットボトルの回収の日には、うちのペットボトルだけで回収箱があふれてしまうので、妻は「恥ずかしい」と、いつも言っていた。


でもしかし、この「SodaSparkle」を購入後はペットボトルを全く買わなくなったのだ。子供らも「おとうさん、炭酸水作って」と言っては、毎晩「カルピスソーダ」を楽しんでいる。妻も機嫌がいい。よかったよかった。

2012年12月 7日 (金)

是枝裕和監督の『ワンダフルライフ』と『ゴーイングマイホーム』

■『ゴーイングマイホーム』(第8話)に関してのツイート。


いやぁ、号泣しながら笑ってしまったよ『ゴーイングマイホーム』。番組ラストの西田敏行と宮崎あおい父娘のやり取り。それから、常田富士男が、亡き妻の石膏で象られた上顎歯形を愛おしそうに指で優しく撫でるシーンにも泣いた。でも今回は何と言っても宮崎あおいだな。高遠町役場屋上で掌を太陽にかざす顔のアップとか。


続き)つれない元夫との別れ際に、さっと振り返って「横向きアップ」になった時の涙腺決壊寸前で魅せる眼力の強さ。しみじみすっごい女優だなぁ。

ところで、加瀬亮が働く牛舎。てっきり富士見町あたりで撮影されたとばかり思っていたのだが、なんと高遠なのか。高遠町下山田にある竹内牧場とのことです。


■ぼくが初めて見た、是枝裕和監督の映画は『ワンダフルライフ』だった。映画館で見た記憶がないから、レンタルビデオで見たのか? どうして借りて見ようって思ったのか、まったく記憶にない。


でも、圧倒されたのだ。この映画に。どこか都内の取り壊しが近い古いコンクリート造りの研究施設が舞台だった。季節は冬。ちょうど今朝のように、宮沢賢治の『永訣の朝』みたいな「みぞれ混じりの雪」が施設屋上に積もっていたように思う。


いまで言えば「北野ブルー」の冷たい冬の色調で統一された静かな画面。


たったいま死んだばかりの人たちが「この施設」に集まってくる。施設職員は、彼らから1週間かけて「生前の一番大切な思い出」を聞き出し、最終日にその場面を再現して「記念写真」を撮るのだ。



今にして思えば、是枝監督が追い求めてきたテーマは一貫しているのだね。つまりは、「死者に対する敬意」だ。だからこそ、あの 3.11. を経験して、テレビドラマ『ゴーングマイホーム』が作られたに違いない。


「クーナ」は、生者が忘れられない「愛しい死者」に引き合わせてくれる存在なのだから。



■つい最近、このTVドラマとは全く関係なく、映画『ワンダフルライフ』の1シーンが鮮明に甦った。ちょうど、本を読んでいたんだ。『なんらかの事情』岸本佐知子(筑摩書房)p42 『上映』だ。


 死ぬ間際には、それまでの人生の思い出が走馬灯のように目の前に立ち現れるとよく言われる。

 その走馬灯の準備を、そろそろしておいたほうがいいのではないかと最近思うようになった。

 死ぬ時はたぶん苦しい。どこかが痛いかもしれないし呼吸もできないかもしれない。血とか内臓とかが出ていたりするかもしれない。だったらせめて目の前で上映されるシーンくらいは、楽しいものや愉快なもの、ドラマチックなものだけで構成されていてほしい。そのほうが気がまぎれるし、いい人生だったなあと思いながら死ぬことができようというものだ。


岸本エッセイでは、いつものようにこの後どんどん脱線してゆき、とんでもない着地点に降り立つことになるのだが、それはまた別のはなし。



■その次に見た是枝作品は『誰も知らない』。これは「伊那旭座」で見た。休診にしている水曜日の午後だった(2004年12月16日、18日の日記参照)

この映画も沁みたなぁ。育児放棄の YOUに無性に腹が立ち、長男として必死に妹弟たちを守ろうとする設楽君に涙した。



「伊那旭座」といえば、つい最近、あの「スキマスイッチ」が新曲のPVを伊那で撮っていて、旭座、錦町新地、西箕輪公民館でロケされたらしい。

2012年11月23日 (金)

近頃の、我が家の「れおん君」

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■生後7ヵ月になるが、最近ちょっと反抗期なのだ。

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2012年10月11日 (木)

陸前高田『ジャズ喫茶ジョニー』のママのその後

■共同通信が配信している連載記事『新日本の幸福』は、信濃毎日新聞では夕刊で連載している。その最新シリーズ「震災1年半 今も傷痕」をこのところずっと読んでいるが、正直とても辛い。でもなぜか読まされてしまうのだ。

昨日の水曜日の記事を読んでいたら、陸前高田「ジャズ喫茶ジョニー」店主、照井由紀子さんのことが載っていた。(以下転載)

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『新日本の幸福』(97) 「震災1年半 今も傷痕」(16)
 
 何のために続けるのか --- 再開した店 友の姿なく ---
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 岩手県陸前高田市の中心部にかつてあった、大きな2階建ての木造家屋。津波に流される前の「ジャズ喫茶ジョニー」は、商店街でも目立つ存在だった。そこから約3キロ離れた国道沿いの高台に、四角いプレハブの仮店舗が4軒並ぶ。右から2軒目が今のジョニー。引き戸を開けると、心地よいジャズのリズムと、コーヒーの香り。

 カウンターの向こうで湯を沸かす店主の照井由紀子(59)の胸には、時折、思いがよぎる。「私は何のために、この店を続けているんだろう」
 隣で雑貨店を営む中野貴徳(42)が、震災前のジョニーを撮った大きな写真を、窓際の明るいテーブルに広げた。「昔は漫画を読むのも難しいぐらい暗かったんだ」

 ジョニーを始めたのは1975年。7千枚近いレコードや骨董品を飾った店で、夫はピアニストの秋吉敏子ら有名なアーティストを呼び、よくライブを開いた。夫ほどジャズへのこだわりがなかった照井は、もっぱら厨房での調理を担当した。客と言葉を交わすことは、ごくわずかだった。

 10年ほど前に離婚したが、1人ででも店を続けるしか生きる方法がなかった。ただ、離婚前から悪くなり始めていた耳は、ほとんど聞こえなくなっていた。診察した医師は「何でほっといたんだ」と叱った。原因は「過度のストレス」と診断された。

 それでも、毎日のように顔を出してくれる常連客の支えで営業は続いた。近くで写真館を営み、震災で亡くなった菅野有恒=当時(57)=もその1人。照井は菅野に教えられてカメラが趣味になった。


      ■             ■

 昨年3月10日夜。コーヒーを飲んでいた菅野は、照井に言った。「何があっても、由紀子さんは僕たちが守るからね」。突然の言葉に驚いたが、うれしかった。

 翌日の午後。照井は激しい揺れが収まると店の外に飛び出した。目にしたのは、海から迫る茶色の”壁”。津波はすぐそこまで来ていた。

 「ゆきちゃん、逃げて」。叫び声が聞こえ、高台に走る。「バリバリ」。背後で店が崩れる音も分かった。木にしがみつき、助かった。

 しかし、多くの友を津波は連れ去った。「私だけ仲間はずれ。置いてけぼりにされたみたい」。菅野は間もなく遺体で見つかった。照井はカメラを手にするのがおっくうになった。

 昨年6月、避難所でコーヒーを入れていた照井を、菅野の写真仲間だった中野が仮設店舗に誘った。資金や機材、ジャズのCDは知人が集めてくれた。同9月、仮店舗でジョニーを再開した。「ここで細く長く続けてやる」と誓った。生き残った自分のため、そして今も支えてくれる仲間のため。

 今ではかつてのジョニーの客も顔を出す。話題は自然と震災のことになる。補聴器を使っても、1人の声を聞き分けるのがやっと。「でも、全部聞いていたら、もたないかも。聞こえないぐらいがちょうどいいのかな」
 (敬称略)
            「信濃毎日新聞夕刊 2012/10/10 2面より転載」

2012年10月 5日 (金)

チョビ と レオン アンコール

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2012年10月 1日 (月)

昨日の「ワサブロー コンサート」は本当に素晴らしかった

■あぁ、それにしても本当に素晴らしいステージだった。


家に帰ってから、なんか、めちゃくちゃ美味しいフルコースを食べ終わって、幸せで満腹して、満足しきった気分とでも言ったらいいのか、何度も何度も「はぁ〜」って、言葉にならない溜息しか出なかった。凄かったな、ワサブローさん。


月並みだけど、やっぱり「ライヴ」ってのは、CDで聴くのと、ましてや YouTube で見るのとは違う。もう、ぜんぜん違う。


一人の歌い手がいて、聴きに来た聴衆がいる。そこに「場の力」が生まれるのだ。強力な磁石のような互いに引き合う磁場がね。


美しい日本語の文章、作品を残してくれた島村利正さんに対して、高遠で歌を歌うことで何とか恩返しがしたいという、ワサブローさんの「思いのたけ」が、聴いていてこれほどまでに、ずんずんびしびし突き刺さってくるとは。いやはや、ほんと凄かった。


そしてなによりも、ぼくは「シャンソン」という音楽を根本的に間違って理解していたことを思い知らされた。


僕が初めてシャンソンっていいなと思ったのは、ジョルジュ・ムスタキ「私の孤独」だった。たしか、TBSのテレビドラマ「木下啓介アワー・バラ色の人生」の主題歌だったと思う。

ごにょごにょ、ぼそぼそと、ちょうど、ジョアン・ジルベルトがボサノバを囁くように歌うものなのかと。その後も、フランソワ・アルディ「もう森へなんか行かない」とか、クレモンティーヌとか。


ああいうのがフランスが生み出した音楽なのだと思っていたのだ。そして、さらにその後に買ったLPが「金子由香里・銀巴里ライヴ」だったわけで。何十年もフランスで歌い継がれてきた「シャンソン」を、彼女は「字余りの日本語」で平気で歌っていた。それを聴いたぼくも、それがシャンソンなんだって、思っていた。


ところが、ワサブローさんがフランス語で歌った「本物のシャンソン」て、ぜんぜん違うんだよ。「フレンチシャンソンとは音とリズムの万華鏡(カレードスコープ)である」って、ワサブローさんは言っているけれど、なるほど、「フランス語」という言語だけが、シャンソンの音とリズムに合致した「ことば」だったんだね。


それと、「劇的」ということ。英語で言うと「ドラマティック」となってしまうのだが、それでは安っぽいな。ワサブローさんのシャンソンは、日本語で言うところの「劇的」なのだった。


ダイナミックで、めちゃくちゃエネルギッシュで、全身全霊を込めて、心の底から身体の極限を尽くして歌う。そういう姿勢が、ほんと凛として気高くて、これぞ「ホンモノ」なのだと思い知れされたのだった。

「セ・シ・ボン」「さくらんぼの実る頃」「そして今は」、それから「パタム」。そうして、ラストで歌ってくれた「愛の賛歌」。ほんと素晴らしかったなぁ。


あと、驚いたのが「百万本のバラ」。これは日本語で歌われたのだが、ワサブローさんオリジナルの歌詞で、笑いと皮肉とエスプリに満ちた、加藤登紀子も真っ青のぜんぜん違う曲になっていた。


それから、新曲の「俳句。」と「椅子。」伊藤アキラさんが作詞した日本語のオリジナル曲だ。「くっくっく、くっくっく、はいく。くっくっく、くっくっく、はいく。」の部分が印象的で耳に残る。これはいい曲だな。


じつはこの日、ぼくがワサブローさんにどうしても歌ってもらいたい曲があった。YouTube で見つけた「ヌガ」という、不条理でナンセンスな曲。でも、この曲はプログラムには記載されていなかった。う〜む残念。って思ってたら、なんと! アンコールに応えてワサブローさんが歌ってくれたのだ「ヌガ」を。へんてこダンスを踊りながら。うれしかったなぁ、ほんとうれしかった。



YouTube: ワサブロー 『ヌガ』

実はぜんぜん知らなかったのだが、この曲の詩は、あの、アメリカのアバンギャルド、ジャズ集団「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」といっしょに『ラジオのように』っていうレコードを作った、ブリジッド・フォンテーヌ・作、だったんだね。もうビックリ。だってこの『ラジオのように』は大好きで、レコードでも、CDになってからも、何度も何度も、30年来聴いてきたレコードだったから。


当日は、会場の信州高遠美術館に 150人近くの人が聴きに来てくださった。遠くは京都や東京からも。椅子が足りなくなって追加していたし、2階席にも人がいっぱいだった。


聴衆はみな、ワサブローさんの熱唱に圧倒され、京都弁での軽妙なトークに大笑いし、茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」に涙した。この掛け替えのない時間をいっしょに共有できたことが、ほんとうにうれしい。

ああ、感無量だ。


ワサブローさん、ほんとうにありがとうございました!




2012年8月25日 (土)

今夜はBBQ

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■長年BBQをやってきて、ひとつ自信がついたことがある。「炭の火おこし」だ。最初のころは、ずいぶんと苦労したものだ。ここがお父さんの腕の見せ所なんてね。でも、今やガスバーナーを使えばものの10分で炭に火が付いてしまうのだった。

何も額に汗して、火吹き竹で「ふーふー」する必要はないのだよ。


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ただ、その弊害もあって、必要以上に炭を熾してしまうのだな。最近。

だから、いつも焼くものが全てなくなった後に、ちょうどいい遠赤外線を発する熾火が完成してしまうことが、ほんとうにもったいない。


■今回は、まずはグリーンファームまで行って買ってきた、虫食いかも?トウモロコシ5本入り(¥250) を、網に乗せてハケで醤油を付けながら焼く。やっぱ、焼きトウモロコシが最高。

続いては、ベルシャイン伊那で仕入れた、ニジマスとブラックタイガーに岩塩を振りかけて遠火で焼く。とにかく川魚は「遠火の加減」が一番重要なのだ。


さてあとは、焼き鳥でしょ、国産黒毛和牛カルビに、カナダ産の牛タン。ベルシャインではめったに見ない「牛タン」が2パック残っていたから、あわてて買い物籠に妻が入れたのだが、これは正解だったね。ほんと旨かったぞ。


そうして、シメのデザートは、マシュマロ焼き。これもわが家の定番です。犬のレオも、この夜は一緒に(物干し竿に繋がれてだけれど)野外でのBBQに最後まで参加してました。

2012年8月 8日 (水)

死者とともに生きるということ

■ハンバートハンバートの代表曲『おなじ話』が、なぜ「おなじ話」というタイトルなのか? ということに言及した発言を未だ読んだことがない。


でも、じつは答は意外と簡単で、主人公の男性が、死んでしまったかつての恋人と会話をする設定だから、そこには全く意外性も未来もなくて、発展性のない主人公サイドだけの「いつもの同じはなし」にならざろう得ないのだね。つまりはそういうことだ。

■今日の「信濃毎日新聞」朝刊文化欄に興味深い記事が載っていた。「死者と生きる ---生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉---」と題されたその記事は、共同通信の配信か、それとも信毎独自の記事なのか、検索してもネット上ではまだ読めないみたいなので、勝手にここで転載させていただきます。


 多くの死者、行方不明者を出した東日本大震災から2度目の夏。時がたつにつれ、大切な人を亡くした被災者の喪失、その悲しみを置き去りにして、「復興」ばかりが声高に叫ばれてはいないだろうか。今、生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉が、静かに浸透し始めている。私たちは、死者とともに生きている、と。


 大学職員の小原武久さん(56)は、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の自宅にいた27歳の息子を津波で亡くした。「現実を受け入れられず、夢を見ているような毎日でした」。職場の大学の准教授に手記の執筆を依頼されたのは、震災から3ヵ月がたったころ。同僚が帰った夕暮れ時の職場で、一人パソコンに向かった。

 在りし日の面影、必死で行方を捜した日々がよみがえり、悲しみが胸を満たしていく。「そのとき、息子が語りかけてくれるような感覚があったんです。息子と2人の時間を過ごし、一緒に書いている。そんな気がして」


 死者とは、協同する不可視な「隣人」である--- 。批評家の若松英輔さんは著書「魂にふれる」でそうつづった。「人は死者を思うとき、決して一人で悲しむことはできない。なぜなら、そこには必ず死者がいるから」


 若松さん自身も一昨年、妻をがんで亡くした。「死者は存在するという問いは大きな仮説。でも私に取っては実感です」。そこにあるのは「死者によって終わるのではなく、死者として生まれる」という感覚だ。悲しみとは「死者が近づいてくる」合図であり、逆に言えば「悲しみこそが死者の存在を保証している」。


 今この瞬間も、言葉も音も持たない死者の「声」を待ち続け、沈黙の渦中にある人々がたくさんいる。その沈黙そのもにに大きな意味がある、と若松さん。「沈黙に至らざるを得ない経験、その苦しみを1歩生きたとき、自分の横に死者がいると感じるのだと思う」


 同書で若松さんは「死者と生きることは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ」と書いた。死者とは困難を解決してくれる人ではなく、困難とともに歩いてくれる人だと。「死者に支えられ、助けられた人間はいつか必ず誰かを助ける。悲しみ尽くした人は誰よりも人の悲しみを分かってあげられる。今、これ以上の希望があるでしょうか」


 哲学者の森岡正博さんは著書「生者と死者をつなぐ」で「死者とともに生きているというリアルな感覚」をこう描いた。「ふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ」


 宗教も、肉体から抜け出る魂の存在も信じていないという森岡さんは、近代以降の日本の死生観に不備があったと指摘する。「われわれは言葉になる以前の感覚として多くの人が持っているものに、言葉を与えられてこなかった」。むしろ、魂の存在や、お盆に死者が帰ってくるという儀式は、この「原体験の感覚」が基本にあり、それを説明するため、後から「発明」されたと考えることもできるのではないか。


 生者と死者が出会い、交わるということ。それは一方で「われわれが大切にしてきた伝統的な感受性」だという。例えば、世阿弥の「夢幻能」は、死者が能面をかぶって生者の前に現れ、語りかけ、舞う。「死者の声をどう聞くかというテーマを能は描いてきた。そうした感受性をもとに、死者とともにあるということを、今の視点から言葉に置き換えていく作業が必要です」と森岡さん。


 「いわく言い難い感覚であるため、口にしたり、考えたりするのはおかしいのではないかと思っている人々に、それはあり得るんだよ、そこから開けてくる生命観もあるんだよ、と伝えたい」(2012年8月8日付、信濃毎日新聞朝刊13面より)


■ところで、同じようなことを、ずいぶんと昔から繰り返し言ってきた人が他にもいた。


内田樹先生だ。


今日の午後、伊那の TSUTAYA で買ってきた『昭和のエートス』内田樹(文春文庫)を読んでいたら、「死者とのコミュニケーション」(p209) というパートがあった。読んでみたら、過去に同じ文章を読んで「うんうん、そのとおり!」と思った記憶がある。


そうさ。死者とともに生きることができるということが、人間という生物の最も高貴な性質に違いないのだから。

2012年7月18日 (水)

猛暑の日々に、さすがの犬も夏ばてぎみ。

■あまりに暑苦しいので、毛をカットしてもらったら、別人(いや、別イヌ)になってしまった。

    <カット前>

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    <カット後>


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■色も白くなったし、全体に2回りほど小さくなってしまった。
でも、すっきり涼しくなって、これなら夏を乗り越えられそうかな。

2012年6月23日 (土)

わが家に子犬がやってきた

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■先週土曜日の夕方、わが家に子犬がやってきた。生後8週のオス。体重は1.5kg。もうただひたすら可愛い。

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トイプードル(父親)と、シーズー(母親)のミックス犬。名前は、LEON と付けた。日本語、フランス語、スペイン語では「レオン」だが、アンドレア先生に聞いたら、英語よみだと「リーオン」なんだそうだ。レオン・ラッセルって言うのにね。


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■わが家で犬を飼うのは初めてなのだ。しかも室内犬。トイレトレーニングとか判らないことだらけ。あたふたしながら、あっという間に一週間が過ぎた。でも、人間が犬の生活パターンに合わせたらダメだ。お互いに譲歩しつつ、それでも人間の生活に犬の方が我慢して付き合っていってもらわないとね。


犬のほうは、すっかりわが家に慣れた。人間の側も、新たな家族の一員として認め「犬といっしょの生活」にいつの間にか馴染んできたようだ。不思議なものだな。


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■驚いたのは、息子たち(高1、中2)の可愛がりようだ。朝起きてきて犬と遊び、学校から帰ってきて犬と遊び、夕食後に犬と遊び、寝る前にまた遊ぶ。みんなから愛されて、犬も幸せだ。


でも、何よりも一番変わったのは、ぼく自身だな。毎朝6時には目ざめ、夜は午前0時には寝ている。この早朝の時間帯をもう少し有効に使いたいものだが、今のところ、犬と遊んでツイッター読んで NHKBSで火野正平が自転車こいでるのを見て、それでおしまい。それじゃあいけないぞ。



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