読んだ本 Feed

2009年12月30日 (水)

『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(朝日新聞出版)

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■例年だと、「今年読んだ本、ベスト10」をアップする時期になったのだが、何かと忙しいので「その発表」は年越しということにしました。スミマセン。


今年読んだ本の傾向として、学生さんへの講義録をそのまま本に起こしたものが何冊もあって、それがどれも案外ハズレなく面白かったことがあげられる。その筆頭は、菊池成孔&大谷能生コンビの『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史篇&キーワード篇』(文春文庫)なワケだが、他にも、セイゴー先生の『17歳のための世界と日本の見方』松岡正剛(春秋社)に、『カムイ伝講義』田中優子(小学館)、『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二(朝日出版社)、『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子(朝日出版社)など、けっこう出ているね。ポイントは「読んでわかりやすい」ということだ。

むかしの読書家は、難解な本を何冊も読み込んで、その教養の高さを誇ったものだが、バカなぼくらには、内田樹センセイを筆頭に、消化のよくない食べ物を母親が噛み砕いて赤ちゃんに与えてくれる人、みたいな「センセイ」が絶対的に必要なのだよ。いま、内田センセイの『日本辺境論』(新潮社新書)を読んでいるところなのだが、丸山眞男センセイの文章を、内田センセイに「翻訳」してもらわないと理解できない自分のバカさ加減が実に嘆かわしい。

でもそれは、決して恥じるべきことではないのではないか? バカはバカとして正直に認めちゃって、その道の専門家の先生に教えを請えばよいのだから。50歳を過ぎて、高校生や大学生と机を並べて講義を受けるのは恥ずかしいことではあるけれども、これらの本を読みながら、僕はすっごく刺激的で楽しかったな。勉強って、強制されるものではなくて、自分が知りたいことを幾つになっても求め続けることなんだよね。


■そうした「流行の講義本」の最新刊が、『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(朝日新聞出版)だ。後半はザックリ読んだだけなので何だが、この本もじつに面白かった。作家の高橋源一郎氏が、明治学院大学国際学部の木曜日第4時限に持っていた「言語表現法」全13回の講義を、季刊誌「トリッパー」誌上で連載再構成したものだ。

よくある「文章読本」のようなタイトルだが、決してそうではない。もっと深いのだ。人間はなぜ「文章」を書かねばならないのか? そういう問いに答えようとしている本、とでもいうか。先週の金曜日の夜、高遠町図書館からあまり期待せずに借りてきたのだが、いやいやグイグイ読まされた。

いい文章を書くためには、まず「いい文章」をいっぱい読まなければならない。そう、高橋源一郎教授はいう。

そうして、いきなり1回目の講義でスーザン・ソンタグの文章を紹介している。これが、講義を受ける学生さんはもちろん、本を読む読者に対しても強烈な先制パンチとなっているのだ。少し引用する。


若い読者へのアドバイス……
(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

 人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのものまごうこかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと ---- 社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。

 本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)

(中略)


 自分自身について。あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。


 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。(後略)

                                      2004年2月  スーザン・ソンタグ


この文章は、実にかっこいい! その後の講義でも、高橋センセイは次々と魅力的な文章を提示してくれる。『ゲド戦記』で名高いSF作家 ル・グィンの「左きき卒業式祝辞」も実に印象的な文章だった。高橋センセイが「この文章」を取り上げたのには実は深い訳がある。そのことは、第9講、第10講を読んでいただくと分かるようになっているので、ここでは「ネタバレ」はしない。

この第10講で取り上げられる文章は、驚くなかれ、「絵本の文章」なのだ。しかも、紹介されたその3冊は我が家にもあって、ぼくも大好きな絵本だ。それは、『トマトさん』『わにわにのおふろ』、そうして『めっきらもっきらどおんどん』長谷川摂子・作、降矢なな・絵(福音館書店)なのだった。「ことば」の力を、まざまざと見せつけられたような「この回」の講義は感動的ですらあるな。

■ぼくは当初、はじめのころから引用される学生さんの「作文」が、どれもこれもみな上手なので、こんなに文章が上手なら、高橋センセイの講義なんて受ける必要ないのに、と訝しく思った。もしかして、講義録と称して、高橋源一郎氏が学生の作文も全部自分で書いてバーチャル講義を創作した本なのではないか? そう疑ってしまったものだ。でも、第10講を読んで、その考えが間違いだと訂正するに至った。それから、第2講で、知る人ぞ知るジャズドラマー「ハン・ベニンク」の話が登場してビックリしたな。女子大生にハン・ベニンクに関して語っちゃうんだ。凄いな。


この本を読めば誰でも「名文」が書けるようになるとは決して思わないが、人間はなぜ文章を書くのか? いったい誰に向かって書くのか? ということを、改めて深く考えさせらる好著だと思う。オススメの一冊です。

2009年12月14日 (月)

『支援から共生への道』田中康雄(慶応義塾大学出版会)

■昨日の日曜日は、朝9時から午後4時まで、1〜6歳の子供と積み残した喘息の小中学生、合計90人弱に新型インフルエンザ・ワクチンのまとめ接種を行った。予約した後にインフルエンザにかかっちゃった子もいて、キャンセルが出たこともあるが、途中で無駄な患者さん待ちの時間がたくさんできてしまった。もう少しタイトに時間あたりの接種数を増やしても大丈夫なんじゃないだろうか? あと、予診票・カルテ・母子手帳と3カ所に同じこと(ワクチンのメーカー名や製造番号、接種日時、署名印など)を僕が書き込まなくてはならなくて、これが案外時間がかかる。事務スタッフに代行してもらうとかできないものか?


『支援から共生への道』田中康雄(慶応義塾大学出版会)読了。

これは素晴らしい本だ。田中康雄先生って、本当にいい先生だなぁ。まじめで正直で、すっごく謙虚で、でも患者さんのためにはメチャクチャ一生懸命。同じように日々子供たちと接していながら、いつも一段高い所から子供たちを見下しているような小児科医としては、反省させられる事ばかりが書かれている。専門用語を極力使わず、誰が読んでも平易で分かりやすいエッセイだから、1日2日でサッと読めてしまうのだが、何気に「大切な事」が宝石のように散りばめられているので、何度も読み返す必要がある本だ。値段は高いけど買って損はないと思うよ。

この本の帯には、こんなことが書かれている。


「僕に何ができるだろう」と自問自答する児童精神科医が診察室を出て、
教育・福祉関係者とのつながりを広げていく、数々のエピソード。

発達障害への「僕」のまなざしと希望


■ぼくも一度だけ、伊那で田中康雄先生に直接お会いしたことがある。たぶん日本で一番人気のある児童精神科医だから、ものすごく忙しい先生で、週末は全国各地を講演して回っている。去年の5月に伊那へ来て頂いて講演してもらった時も、先生は土曜日の未明に札幌の自宅を出て、新千歳空港から羽田→浜松町→新宿(特急あずさ)→岡谷→(飯田線)伊那へと、午後3時前ようやく会場の「いなっせ」に到着した。この日は講演終了後直ちにタクシーで中央道を塩尻に向かい、特急しなので名古屋へ出て、翌日の講演会場である福井へ行くとのことだった。田中先生のことを待っている人がいれば、どんなに忙しくても何処へでも出向いて行く。本当に真面目で、情熱的で、一生懸命な人だ。

このエネルギーの源は、いったい何なんだろう? ぼくはずっと不思議だったのだが、この本を読んで少しだけ分かったような気がする。田中先生は演劇青年だった。同じく児童精神科医の山登敬之くんと共通していて面白い。田中先生は高校時代に演劇部所属で、大学時代はステージには上がらずに、東由多加・主宰「東京キッドブラザーズ」の芝居を見続けてきたという。


僕にとってのその劇団の魅力は、「脱出の果てに、ユートピアまでたどり着くことができるかもしれないのだ。もし、<私>からさえも脱出して<私達>の世界に旅立ち『共同体』を創り出すことができさえすれば」という意志(それは、今や幻想でしかないのですが)の存在でした。僕は結局<脱出>できないまま幻想から脱却し、共同体を諦め、医師への道を選択しました。その劇団が声高に謳っていた「人と人が手をつなげば、そこには新しい地平線ができる」という世迷い言だけは脳裏に残して(p12)


そう、田中先生は明日への「希望」を信じているのだ。人を信じること。人と共生すること。ただただ人の話を聴くこと。それから、そっと「その人」に寄り添って、焦らずにじっと待つこと。患児とその家族の立場になって、彼らの気持ちに共感すること。なぜ、それができるのか? それは「希望」があるからに違いない。


 

2009年12月12日 (土)

『バッド・モンキーズ』マット・ラフ(文藝春秋)

■一昨日の木曜日は、昼休みに近くの竜東保育園へ自転車に乗って行って、午後2時から年長さんの秋の内科健診。2クラスで60人強。30分で終わったので、残りの時間をいつものように絵本を読んで過ごす。


1)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村俊雄・作(福音館書店)
2)『これがほんとの大きさ!』S・ジェンキンズ作(評論社)
3)『子うさぎましろのお話』佐々木たづ・文、三好碩也・絵(ポプラ社)


1)を読む前に「サーカス見に行ったことある人」って訊いたら、「ハイ、ハイッ!」と、いっぱい手が上がった。木下サーカスかな? それとも、キグレ大サーカスかなって思ったら、一番前の男の子が言った「あのね、名古屋へ行って サルティンバンコ観たよ! 」おいおい、いきなり「シルク・ドゥ・ソレイユ」かよ。でも、この絵本を読むのは楽しいな。「みなさん、拍手をおねがいしまーす」と読むと、子供たちは真剣に「すっごぉい!」って顔をして大きな拍手をしてくれるからだ。それから、最後の出し物の「空中ブランコ」。ブタくんはサクラで最初から仕組まれていたんだね。だって、裏表紙を見ると、ブタくんも他のサーカス団員といっしょにバスに乗ってるもん。


3)は、クリスマスも近いので、しみじみ読んでみる。長いお話なのに子供たちはみな集中して静かに聞いてくれた。地味だけど、ぼくの大好きなおはなし。


■金曜日の昼休みは「いなっせ」7F「こども広場」でお話会。インフルエンザ流行中なので、集まってくれたのは4組の親子のみ。「咳のはなし」をする。気合いが入っていなかったので、20分くらい話して終わってしまう。残りの時間は絵本を読んでお茶を濁す。


1)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村俊雄・作(福音館書店)
2)『クリスマスって なあに』ディック・ブルーナ・作(講談社)
3)『クリスマスのほし』ジョセフ・スレイト・文、フェリチア・ボンド・絵(聖文社)

若いおかあさんの心に、『クリスマスのほし』が輝いてくれたらいいな。


■テルメの帰りに TSUTAYA へ寄って『このミステリーがすごい! 2010年版』を購入。大幅増ページなのに、500円と値下がりしている。出版界もデフレの嵐なのか? これは大英断だね。順位を見て驚いたのは、『バッド・モンキーズ』マット・ラフ著(文藝春秋)が、なんと4位! そんなに傑作か? ぼくも一昨日読み終わったばかりだが、表紙のイラストそのままの雰囲気の内容。めちゃくちゃクールで、ビートの効いたヒップ・ホップのテンポに乗って、軽快にぐいぐい読ませる希有な小説であることは認めるが、これ、ミステリーとしてはルール違反なんじゃない? ぼく的評価は(★★★半)だな。


40過ぎのドラッグ中毒で(でもヘロインには手を出さない節度はある)もしかすると統合失調症ぎみのオバサンが、精神科医を相手に独白する荒唐無稽な話。彼女の話す内容は妄想と幻覚に満ちてはいるが、とにかくメチャクチャ面白い。でも、最初から「語り手 = 騙り手」であることが見え見えで、しかも、読者としては了解不能な領域まで彼女がすぐに行ってしまうので、ついて行けないのだ。これが、例えば「騙り手」の名手である、イギリスのSF作家、クリストファー・プリーストの小説だと、物語の終盤まで騙されていることに全く気が付かないように出来ている。だからこそ、読了後に何とも言えない「現実崩壊感」を味わうことができるのだ。

でも、『バッド・モンキーズ』の読後感は微妙に違うのだ。確かに、最終章の逆転につぐ逆転に「目がテン」になったことは事実。「めくるめく」なりすぎちゃって、何が何だか判らなくなってしまったよ。でもそれは、プリーストの「現実崩壊感」とは違うな。そこが不満だ。


今、冷静になって思い返すと、この小説も実は『闇の奥』とよく似た構造をしている。主人公の独り語りで成り立っていて、主人公は失踪した弟を捜して「ある組織」に加入する。じつは彼女は、弟に対して人には言えない負い目があるのだ。そのことを、面接する精神科医にカミングアウトするところが、この小説の一番の山場なんじゃないかと、ぼくは思う。ちょうど、無免許のアル中私立探偵マット・スカダーが『八百万の死にざま』のラストでカミングアウトするみたいに。


さらに言うと、『長いお別れ』にもよく似ている。なんか不思議とリンクしているのだな。というワケで、さらにリンクするらしい『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド・著、村上春樹・訳(中央公論社)を昨日の夜、高遠町図書館から借りてきたところだ。これを読み終わったら、次はいよいよ『1Q84』か!?

2009年12月10日 (木)

青年は荒野をめざす 『闇の奥』(その3)

■ヨセミテに魅せられたナチュラリスト、ジョン・ミューアは、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーに生まれた。『闇の奥』の作者コンラッドは、1857年12月3日、ポーランドの貴族の一人息子として生まれた。日本で言えば江戸時代末期のことだ。この2人に共通することは、青年時代に各地を放浪して歩いたことだ。彼らが目指していた場所とは、荒野(ウィルダネス)だった。ヨーロッパには既に荒野はなかったから、ジョン・ミューアは新大陸アメリカで荒野を探し、コンラッドは暗黒大陸アフリカに荒野を見つけた。

なぜ、青年は荒野をめざすのか?  その問いに答えを見つけようとしたのが、傑作ノンフィクション『荒野へ/ Into The Wild』を書いた、ジョン・クラカワーだ。この本『荒野へ』の構造が、そのまんま『闇の奥』なのだった。アラスカの荒野に廃棄され朽ち果てたおんぼろバスの近くで発見された、マッカンドレス青年の死体。何一つ不自由なく育ったこの青年が、なぜアラスカの荒野の果てで死体となって発見されなければならなかったのか?

クラカワーはまさに「私立探偵」となって、生前のマッカンドレス青年を関わった人間を訪ねて回り、彼の人となりに近づいてゆく。『闇の奥』のマーロウと唯一異なっている点は、マーロウは生きているクルツに出会えたのに、マッカンドレス青年は最初から死んでいて、彼本人の話をクラカワーは聴くことができなかった点だ。


でも、マーロウとクラカワーが見つけた失踪者の心の闇には、ただただ荒野(ウィルダネス)が広がっているだけなのだった。青年は意味もなく荒野(ウィルダネス)に魅せられる。そこでは生命の危機が(もちろん、それより先に精神の危機が)待っているに違いないのに。そういうことなのだ。この感覚は、女性には決して理解できないと思う。クルツ氏の許嫁が、完璧に誤解していたように。

2009年12月 9日 (水)

コンラッド『闇の奥』 つづき

■さて、しがない私立探偵への一番多い依頼仕事は、失踪した人間の「人探し」だ。手がかりは、失踪者を知る人を次々と訪ねて歩き、聞き込み調査をして少しずつ「その人となり」の情報を増やしてゆくのが私立探偵の常道。そうやって聞き込みを続けていくうちに、私立探偵は失踪者に一度も会ったことがないにもかかわらず、いつしか「その人」のことを誰よりもよく理解し、共感するようになっている。さらに言えば、「その人」のことを恋してしまっているのだ。


ぼくが初めて読んだハードボイルド小説は、ローレンス・ブロックの『暗闇にひと突き』だった。アル中の無免許私立探偵、マット・スカダー・シリーズの中の1作。傑作『八百万の死にざま』の一つ前の小品。これがなかなかによかったのだ。次に読んだのは、たしか、ジェイムズ・クラムリーの『さらば甘き口づけ』。チャンドラーの『長いお別れ』を読んだのは、それからもう少し後だったように思う。

■ここでもう一度『闇の奥』に戻るけど、この小説の語り手「マーロウ」は一人語り(一人称一視点)で、失踪者「クルツ」を捜索するためにコンゴ川をさかのぼって行く。謎の人物「クルツ」の人となりは、いろんな人から話を聴きながらイメージしていくしかない。河口近くの出張所で出会った会計士、中央出張所の支配人とレンガ積み師。さらに、奥地主張所近くで出会った道化師のような衣装を着たロシア青年。それからクルツ氏のいいなづけも。彼らはそれぞれに「クルツ氏」のことを語る。自分の「主観的な言葉」で。


マーロウは、彼らの言葉を頭の中で組み合わせながら、次第に「クルツ氏」のイメージを固めてゆくのだ。だから、マーロウは実際にクルツ氏に会う前から「クルツ氏」のすべてが既に判っていたに違いない。


それで、ふと思いついたのだが、チャンドラーが考えたハードボイルド小説の構造は『闇の奥』が元になっているのではないか。っていうことは、村上版『長いお別れ』である『羊をめぐる冒険』の原典もやはり『闇の奥』なのか? つまり、「鼠」イコール「クルツ氏」なのだから。なんか面白いな。


『闇の奥』をもう少し深く掘り下げるためには、もう一つのキーワード、ウィルダネスについて考察する必要がある。ウィルダネスは、wilderness で、ワイルダネスとは発音しない。日本語で「ワイルド」と言うと、野生とか荒野とか野蛮とか、そんなイメージか。でも、西洋人(ヨーロッパ人+アメリカ人)にとっては「荒地」のイメージなのだ。そう、エリオットの詩集「荒地」。荒野に対するイメージが、日本人とは決定的に違う。


そのあたりのことを理解するためには、『荒野へ』ジョン・クラカワー著(集英社文庫)を読む必要がある。(もう少し続く)

2009年12月 8日 (火)

『闇の奥』コンラッド著、黒原敏行・訳(光文社古典新訳文庫)

■きのうの月曜日は、夜7時から伊那中央病院救急部で「小児科一次救急」の当番。救急車が次々と何台も入ってきて、救急部の先生方は大忙し。ところが、小児一次救急には患者さんは来ないので、8時45分まで誰も診ずに延滞していた長野県衛生部に提出する書類書きと、先日から読み始めた『バッド・モンキーズ』(文藝春秋)を46ページまで読み進む。もしかしてこのまま一人も診ずにお終いか? と思ったら、日系ブラジル人の1歳4ヵ月の女の子が発熱で受診。インフルエンザ迅速診断は陰性。元気もいい。母親が仕事に出ている昼間、子供を預かっている叔母さんが不安になって受診したようだ。実際、母親と娘はぜんぜん心配してない様子。

夜9時10分。拘束時間の9時を過ぎたので、さて帰るかと椅子を立ったら、次の患者さん。救急部の先生は救急車の重症患者さんの対応で手が回らない。仕方なく僕が診ることに。患者さんの兄妹は、昨日の当番医で診た子だ。インフルエンザは陰性だった。高熱が続くので不安になって受診したという。顔を見るなり思わず言ってしまった。「おかあさん、せっかく来たのに、ぼくが救急当番でごめんね」


その後も続々と救急車が到着し、救急部の先生方には、今日は大当たりの日だったようだ。軽症で後回しにされた父子が未だ診てもらえずにいたので、結局ぼくが診る。やはりインフルエンザ陰性。でも、2日前に手良保育園に通う4歳の姉がフルー陽性だったとのことで、結局患児にはタミフルDSを処方した。よる10時20分。残業を終え、伊那中央病院の駐車場へ出ると、底冷えの夜がそこに待っていた。さっぶーい!


『闇の奥』コンラッド著、黒原敏行・訳(光文社古典新訳文庫)読了。

う〜ん、よく分からんかった。『血と暴力の国』『ザ・ロード』の著者、コーマック・マッカーシーの訳者である黒原敏行氏の新訳とのことで読んでみた。確かに訳文はすごく読みやすいのだが、独り善がりで思わせぶりな主人公マーロウの語りでは、彼が崇拝しかつ嫌悪する魔境の帝王「クルツ」の実像がぜんぜん見えてこないのだ。最後まで読めば
分かるのかもしれない、そう信じて読み続けたのだが、肝心のクルツさんがほとんど何も語らないので、結局ぜんぜん分からなかった。


まぁ、「この本」を原作とした映画、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』を実は未だ観てなかったりするので、まずは「この映画」を TSUTAYA から借りてきて、ちゃんと観てから感想を述べたほうがいいのかもしれないな。


キーワードは幾つか見つかった。まずは主人公の名前、マーロウ。ハードボイルド小説の大家、レイモンド・チャンドラーの本に登場する私立探偵の名前がマーロウであることは、決して無関係ではあるまい。それから、ウィルダネス。スペルは、wilderness 。「訳者あとがき」に書かれた「この言葉」を目にして、ようやく少しだけ「この小説」が理解できるような気がしてきた。(もう少し続く予定)

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