落語 Feed

2012年10月16日 (火)

第13回 柳家喬太郎独演会 駒ヶ根・安楽寺

■昨日の10月15日(月)は、年に一度の「駒ヶ根安楽寺・柳家喬太郎独演会」。月曜日だったからね、ちょっと今回は無理だと思ってた。


でも、ラッキーなことに午後は案外患者さんが少なくて、午後6時前で診療が終了。急いで着替えて一路駒ヶ根へ。文化会館の駐車場に車を止めて走って安楽寺。18:45 着。よかった間に合った。


しかし、安楽寺本堂はすでに満杯だった。1人だったから、あわよくば前の方にすすっと出て行って隙間を見つけ座ってしまおうと考えていたのだが、とても無理。仕方なく、最後列の窓際の椅子に着席。300人以上は入ってるかな?って思ったら、安楽寺住職の話では 450人来てたんだって。もうビックリ。それにしても大変な人気じゃないか、喬太郎さん。


■開口一番は、ふつうお供で同行した師匠の弟子(前座)が務めるものだが、喬太郎師に弟子はいない。で、最初に高座に上がったのは、この6月に落語芸術協会の真打ちに昇進した春風亭愛橋師匠。


真打ちの落語家に対して「開口一番」なんて言ったら失礼なんだが、正直まだまだ喬太郎師の胸を借りている感じの愛橋師だったなぁ。もっと自信持って堂々と落語やればいいのに。演目は「かぼちゃ屋」。愛橋師得意の「与太郎もの」だ。


まだ、昔昔亭健太郎だった頃、あれは何年前だったか、伊那市駅前に酒蔵を持つ「漆戸酒造」での新酒お披露目落語会に家族4人で行ったことがあった。あの時は「牛ほめ」をやってくれた。妙になよなよした所作で、妙ちくりんな髪型、でも、独特な「フラ」があって、これはこれで面白いぞ! そう感じた。


あのまま突っ走ればよいのだよ。でも、昨日の愛橋師は、450人の聴衆を前にして、やたら肩に力が入っていた。地元だし、真打ち披露ではいろいろと世話になった人ばかりだったからね。戴いた帯とか、お祝いの後ろ幕とか。言及しとかなくちゃいけないことが多すぎた。だからか、本篇の落語が散漫になってしまったのかな。

伊那北高校の後輩だし、これからも一生懸命応援していきますよ。頑張って欲しいな。


■さて、喬太郎師はというと、貫禄の高座であった。


まくらで、こうして安楽寺のご本尊に背を向けて落語をしていると、いつかバチが当たるんじゃないかって思ってるんですよ。って話から、埼玉のお寺であった落語会の話へ。そこのお寺では本堂を使わずに、お寺の境内が客席だったんだって。で、演者は境内に面した「縁側」に座って噺した。

ところが、にわかに大雨が! って話。笑っちゃったなぁ。


そこから本篇の「蒟蒻問答」へ。


この噺、いままで正直それほど面白いと思ったことがない。ところが、喬太郎師の「こんにゃく問答」の面白いことと言ったら、あんた。もう大笑いでしたぜ。放送禁止用語もビシバシ飛び交って、いやぁ、勢いがあったなぁ。


喬太郎師の2席目は「へっつい幽霊」。

この噺、好きなんだ。ぼくが持ってる音源は、先代桂三木助のと、立川志の輔師のCD。何せ、三木助師は「ほんもの」の博打打ちだったからね。


喬太郎師は、基本的に古典落語を演じるときはあまりいじらない。先輩から教わった通りに崩さずに演じる。その態度がぼくは好きだ。最近は「いじりすぎる」落語家がやたら多いからね。本来、数百年の歴史ある噺の骨格がすでに出来上がっていて、それだけで面白いワケだから、変に崩す必要はないのだ。古典落語はね。


喬太郎師はそのことをよーく分かっている。


でも、今回はちょっとだけ「くすぐり」を入れてたな。最初に「へっつい」を買ってった客が、しゃべる度に「……道具屋!」と必ず語尾に付けるのだ。これがしつこい。


ぼくはこのくだりを聴きながら、Sさんっていう、いつも娘さんを2人連れてくるおかあさんを思い出していた。このおかあさん、必ず語尾に「……先生!」って付けるのだ。「昨日の夜に熱がでたんですよ、先生。夜中にうなされて苦しそうでした、先生。今朝はごはんを食べたんですけど、先生。そのあと吐いちゃったんです先生。」ってね。


そしたら、久しぶりに「そのSさん」が今日の午前中、娘2人を連れて受診したのだ。申し訳ないけど、ひとりで笑ってしまったよ。


450人の聴衆がみな大笑いした高座だった。大満足でした。やっぱ、ナマの落語はいいなぁ。これだけの人気落語会になったのも、すべて「駒喬会」の皆さまのご苦労あってのものだ。ほんと感謝してます。

来年は6月とのこと。今から楽しみだぞ。


以下、昨日つぶやいたツイートを転載。

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駒ヶ根「安楽寺」での第13回柳家喬太郎独演会から大満足で帰ってきたら、ブランコが逆転満塁ホームランを打っていた。びっくり。ちなみに今夜の演目は、春風亭愛嬌師が「南瓜屋」。喬太郎師は「蒟蒻問答」と「へっつい幽霊」。いやぁ、笑った笑った。


続き)まぁ、これは「ナマ」で落語を聴いた後の帰り道で毎回味わう感覚なのだが、得も言われぬ「幸福感」に満たされる訳だ。何なんだろう? この満足感。落語って、やっぱ凄いぞ。安楽寺住職の話では、今宵の本堂に450人もの人々がつめかけたという。恐るべき集客力だ、喬太郎師。


以前テレビでだったか、喬太郎師がまくらで駒ヶ根の独演会の話をしていた。会の主催者が興奮して言ったという。「喬太郎さん!300人以上入ったってことは、駒ヶ根市の人口の1%だ。東京で言うと10万人の集客ですよ!」ってね。

2012年5月 9日 (水)

映画『小三治』のDVDを見た。これは面白かった。

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■GW中に、伊那市立図書館へ行って「DVDコーナー」を見ていたら、なんと、以前から是非見たいと思っていた落語のDVDがあって感動してしまった。それは、「桂 歌丸 牡丹燈籠DVD5巻完全セット」と「ドキュメンタリー映画 小三治」だ。


で、『牡丹燈籠・お札はがし』『牡丹燈籠・栗橋宿』『映画・小三治』の3本をカウンターに持って行ったら「DVDは2本までしか貸し出しできません」とのこと。仕方ないので、『お札はがし』と『小三治』の2本を借りた。


■『小三治』を見たのは、5月5日の午後。最初に特典映像から見てしまった。そうか、小三治師は「シロクマ好き」だったのか! なんか、すっごくうれしくなってしまったよ。


この映画の中で主役小三治に次いで注目すべき人は、なんといっても「入船亭扇橋師」だ。この2人、昔からすっごく仲がいい。入船亭扇橋師は、昭和6年(1931年)5月29日生まれで、小三治師が昭和14年(1939年)生まれだから、なんと8つも年上(落語界入門は扇橋師が2年早いが、真打ち昇進は小三治師のほうが半年早い。二人とも十何人抜きの大抜擢での真打ち昇進だったそうだ)なのに、扇橋師は小三治師のことをものすごくリスペクトしているし、絶対的な信頼感でもって頼りきっているのだ。そこが可笑しい。


映画の後半、二人旅で東北の温泉旅館に一泊するシーンがある。あっ! この温泉知ってる。小児科学会が一昨年の春に盛岡であった時に、飯田の矢野先生ほかといっしょに泊まった、つなぎ温泉「四季亭」じゃないのか? それにしてもよく食べるね、この二人。


扇橋師は、新宿末廣亭で2回、あと上野鈴本でも確か聴いたことがある。マイクを通しても、何を言ってんだかちっとも判別できない、ごにょごにょとした小さな声で、しかも上半身が常に不規則に揺れていて、観客はみな「このじいちゃん、ホント大丈夫?」と心配してしまう。演目は「弥次郎」だったり「三人旅」だったり「つる」だったり「小三治をよろしく」みたいな漫談なのだが、たいてい突然歌い出すのだ。


「そーらーは、どうして〜 青いの〜」って。これは、そのむかし和田誠さんと永六輔さんが作って、平野レミさんが歌っていた。ぼくも大学生の頃に、TBSラジオで何度も聴いて知っている曲。それを落語とはぜんぜん関係なく、ほんと突然歌い出すんですよ。扇橋師。でも、好きだなぁ。ものすごく好きなんだ、このすっとぼけたような飄々とした佇まいが。


映画では、そんな扇橋師の可笑しさがじつによく捉えられていた。

よく言われることだが、『ねずみ』とか『鰍沢』『茄子娘』など、師の落語は「唱い調子」で完成されている。そういう意味では、春風亭柳好の落語と似ている。もともと浪曲が大好きで、広澤虎造に惚れ込んで最初は浪曲師になろうとしていた人だった。ただ、浪曲師にはなれなず、落語家になったのだ。彼の師匠は三代目桂三木助。三木助と五代目柳家小さんとは「兄弟仁義」の仲。そういうワケで、三木助は長男の名前を小さんの本名をもらって「小林盛夫」と名付けた。それが自死してしまった四代目桂三木助だ。三代目が亡くなって、まだ二つ目だった扇橋師は「小さん門下」の一員となる。


俳句作りは、中学生のころから玄人肌でならし、「光石」の俳号を持つ俳人でもあり、小三治、小沢昭一、永六輔、加藤武、桂米朝らが参加する「東京やなぎ句会」の宗匠でもあるのだ。

ちなみに、扇橋師も小三治師も下戸で酒は一滴も飲めない。あと扇橋師は、焼肉と「メーヤウ」の激辛タイカレーが大好きでトマトが嫌い。そんな兄弟子のことを、小三治師もすごくリスペクトしている。それは、このドキュメンタリー映画を見れば自然と判るようにできている。

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■さて、映画のファーストシーンは、柳亭こみちが高座の座布団を返して舞台袖に引っ込み、続いて「 二上がりかっこ」の出囃子とともに小三治師が肩を左右に揺らしながら、すこし面倒くさそうに高座に向かう場面を下手幕袖の舞台斜め後ろからカメラはとらえる。さらに高座に上がった小三治師を舞台下手真横からカメラは撮す。演目は『あくび指南』。そこにタイトル「小三治」。これがすっごくいい。


失敗をしでかした前座に対しての小三治師。「しつれい、じゃないよ、お前」

前座「はい。ひつれいしました」
小三治「そう。」


そう言ったあとに高座に上がってかけた噺は「らくだ」だ。
これ、いいなぁ。CDでもDVDでも持ってない。
「らくだ」と言えば三笑亭可楽だ。でも、小三治師のはいいんじゃないか。


小三治師が、楽屋で鏡に向かって電気カミソリで髭を剃るシーンが何度もある。師はわりと髭が濃い。見ていると、誰かに似ているなぁ、と思った。そうだ、マリナーズのイチローだ。二人ともB型で、人知れず努力を重ね「その道」を極めた武士というか、求道者のような佇まいが似ているのだな。


「自分で楽しくやれないことはね、ストレスの元だよね。(中略)こんな程度の人生だもの、あんな一生懸命やってどうすんだよ。(中略)しょうがねぇよな。そういう奴だったんだよ、どうも。生まれ育ちかな。なぜ百点取れないんだ!つって、95点の答案を前にして正座させられて親父から小言を言われたっていう、そういう刷り込みっていうのが、やっぱりずうっと消えないんじゃないかなぁ。自分で百点満点を取らないと、自分で自分を許可しない。そういうのが嫌な、それが嫌でこの世界に逃げ込んだのにねぇ、結局はそこから逃れられない。」


■あと、柳家三三の真打ち昇進披露の口上がよかった。実になんとも、うまいこと言うなぁ。


控え室で、サンドイッチを食べながら三遊亭歌る多を相手にしみじみ語るその背後で、三三さんが一人黙々と稽古している場面が好きだ。食べ終わった小三治師は、おもむろに「お手拭き」で目の前のテーブルを拭きはじめる。


「柳家の伝統だよ、テーブル拭くのは。」
「人に言われて気が付いたんだよ。柳家ですねぇって。」

「そう、明らかにそれは小さんの癖なんだよね。」
「うそだろう!? って、ビックリした。えっ、みんな拭くのって。で、自分が拭いていることも意識にない。」


「そういうところがつまり、背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやっていることがいっぱいあるんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だなって、いっぱいある。」


「だからねぇ、教えることなんか何もないんだよ」
「ただ見てればいいんだよ」


次のカットで、三三さんが黙々と稽古しているとこに、音声だけで小三治師の指示が入る。すごく具体的で丁寧な教え方だ。あれっ? 三三さんに師匠が教えてるじゃん! ていうのは勘違いで、カメラが引くと、なんと小三治師が「足裏マッサージ」のやり方を柳亭こみちに懇切丁寧に教えているのだった。これには笑っちゃったよ。


小三治師は、スキーも懇切丁寧に教えてくれるらしい。
でも、落語の稽古はつけてくれない。


■それから、映画のナレーション。女優をやっている小三治師の実の娘さんだったんだね。「歌 ま・く・ら」の時、上野鈴本の楽屋に兄嫁といっしょに顔を出している。この時も、入船亭扇橋師の話で盛り上がるのが可笑しい。

2011年8月 5日 (金)

最近のこと(健忘録としての覚え書き)

■医学書院の看護師のためのWebサイト「かんかん」で連載されている平川克美氏の『俺に似た人について知っていること ---- 老人の発見』が、しみじみ読ませる。


平川克美氏は 1950年生まれで、内田樹先生とは小学校で同級生になった時からずっと親友なのだそうで『東京ファイティングキッズ』を読んでから、ぼくは平川氏の事を知った。『東京ファイティングキッズ・リターンズ』も買ったし、『ビジネスに「戦略」なんていらない』も買った。『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(筑摩書房)も、少しだけ読んだが積ん読中。あと、平川氏がやっている『ラジオデイズ』からもよく落語をダウンロードさせてもらっているのだった。


そんな訳で、彼のブログやツイッターは暫く前からずっとフォローさせてもらっていて、ご母堂が亡くなられた後くらいからの様子は、断片的にではあるがリアルタイムで聞いてきてはいた。しかし、こうして「団塊世代・後期」である人が自分の父親を介護する話を読むと、二番手である我々にもあまりに身近で普遍的で、近々我が身(1950年代後半生まれ)に迫る必然的な問題であるだけに、こんなふうに淡々と語られるとかえって、リアルに迫ってくるのだと思う。

実際、ぼくの同級生にも最近親を看取った友人が何人かいる。子育てもまだ終わらないというのにだ。平川氏のこの連載は、「そういう」覚悟を、ぼくらの世代にどうしようもなく確認させる、強い力がある文章なのだだと思った。


ぼくは父親を16年前に、母親を2年前に亡くした。しかし、父も母もその看病と介護に当たったのは、昭和24年1月生まれの兄貴(平川氏より学年は2つ上)に任せっきりだった。仙台市在住の平川氏の弟さんと違って、ぼくはすぐそばに住んでいたにもかかわらずにだ。その点に忸怩たる思いがある。兄貴、本当にごめんなさい。


いや、もちろんぼくの妻は嫁として彼女のできる限りの最善を尽くしてくれたよ。ぼくの父や、母に対して。本当によく看病と介護をしてくれたと思う。素直に本当に感謝している。よくやってくれたと。

でもだ。実の息子であるぼく自身はどうだったのか?


今となっては仕方ないことではあるが、9月にある母親の三回忌の時には、ちゃんと兄貴に謝ろうと思っている。


  (閑話休題)


■■ 落語の演題『替り目』は、寄席に行くと結構頻回にかかるネタだ。


時間が押していて、持ち時間が7分ぐらいしかなく、トリの2つ前とか、中入り前に上がった大御所、中堅の噺家がよくやっている印象がある。ぼく自身、新宿末廣亭で柳家さん喬師の「替り目」を聴いたし、浅草演芸ホールで古今亭菊之丞の「替り目」を聴いた記憶がある。いや待てよ。「片棒」だったかもしれないなぁ。「片棒」はさん喬師の十八番だしね。


「替り目」はサラッと流せて、いくらでも時間調整ができる噺で、しかも落ちでしんみりさせることができるという、寄席ではたいへん重宝する噺なのだな。


ま、ぼくは「この噺」を、その程度に理解していたのだ。


ところが先日、偶然にも「古今亭志ん生の『替り目』」を初めて聴いたのだ。
驚いた! 前半を聴きながら、大笑いの連続で、自分自身が「この噺」の主人公とまったく同じ酔っぱらいのダメダメ亭主だから、余計に心情移入してしまうのだな。

外で飲んで帰って、どんなに酔っぱらっていたとしても、仕上げに家でもうちょっと飲みたい。でも女房は言う。「あんた! それだけ飲んできたのに、まだ飲むの? 今まで何度も約束したでしょ。ダメよ!」って。


志ん生の落語を聴いていたら、なんだわが家の日常「そのまま」じゃん! って思ってしまって大笑いしたあと、例のサゲまできて何だか急に泣けてきてしまったのだ。


いや、本当に泣けるのだ、志ん生の『替り目』は。ダメな亭主はしっかり者の女房のことを本当に愛しているのだよ。でも、志ん生の『替り目』は特別なんだろうなぁ。この噺がこんなにイイとは思わなかった。

でも、この落語を女房に聴かせても、絶対に判ってはくれないのだろうなぁ。酔っぱらいの気持ちは。悲しいなぁ。しみじみ。

 
(閑話休題)

■■ なんだろうあやしげ氏のツイッターで知ったのだが、四コマ漫画「根暗トピア」以来大好きで、「ぼのぼの」も「Sink」もフォローしてきた天才漫画家、いがらしみきお氏の新作漫画単行本が7月末に発売されたのだという。


この漫画は、現在も月刊漫画雑誌「IKKI」(小学館)連載中だ。


昨日の晩、伊那のTSUTAYA へ行って『 i【アイ】』いがらしみきお(小学館)を買って帰った。で、その「第1回」を読んだ。おったまげた!! すんげぇ〜じゃないか!!

でも、いがらしみきお氏は「この漫画の連載中」に、「3.11」を迎えたのだな。いったいどうするんだこの後。心配してしまうよ。物語はどう展開してゆくのだろうか?


で、久々に「いがらしみきお氏のブログ」を見にいった。


なんか、読んでマジでしみじみしちゃったじゃないか。

がんばれ! いがらし先生。

2011年3月 4日 (金)

春風亭一之輔さんを、初めてナマで聴く

■先週は、流行中のウイルス性胃腸炎に罹って水様下痢に悩まされたが、下痢がよくなったかと思ったら、今週は喉をやられて声が出なくなってしまった。濃い鼻汁に痰のからんだ咳、熱はないが、得もいえぬ体の怠さが続いている。そんなに不摂生な生活をしているつもりはないのだが、体力が弱ると、次々と病原体が容易に侵入してくるようだ。


また、こういう時に限って忙しいときている。


今度の日曜日は当番医で、来週の火曜日までに上伊那医師会2月の理事会の議事録をテープ起こしして事務長さんに提出しなければならない。翌日、水曜日の昼には伊那東小学校へ出向いて、卒業間近の6年生に「薬物依存とタバコの害」の授業をすることになっているのだが、その準備も全くできていない。さらには、上伊那医師会報3月号の巻頭言を書く約束になっていて、その締め切りが来週末の金曜日ときている。いやはや、まいったなぁ。


■さて、小学館『サライ』責任編集「隔週刊CDつきマガジン・落語 昭和の名人完結編」の刊行が始まった。その第1巻は「桂枝雀・代書、親子酒」で、確かこの音源は持っていたように思ったので買わなかった。で、その2巻目が「古今亭志ん朝」だ。これは即買った。東横落語会の音源(「居残り佐平時」s55/05/16 「猫の皿」 s53/11/29 収録)だったからだ。


よく、立川志らく師が言っていることだが「江戸の風が吹くものを古典落語という」と。


古今亭志ん朝の落語は、まさに「江戸の風」が吹いている。
志らく師が大好きな志ん朝師の兄、金原亭馬生の落語にも、たしかに「江戸の風」が吹いていた。

ただ、勘違いしてはいけないのだが、じゃぁ、チャキチャキの江戸っ子でなければ「江戸の風」を落語の中に吹かせることができないかと言うと、決してそうではないのだな。そこが落語の面白いところだ。


■と言うのも、今週の日曜の午後、駒ヶ根「音の芽ホール」で落語を聴いてきたのだが、そこには確かに「江戸の風」が吹いたように思ったのだ。っていうか、その落語家さんの所作、立ち振る舞い、口調に、古今亭志ん朝の粋と江戸前が重なって見えたのだ。

ところで、その落語家さんは江戸っ子ではない。


なんと、山下洋輔氏のお兄さんが醤油を作っていた(ヒゲタ醤油)千葉県野田市の出身なのだ。そう言えば、柳家三之助さんは千葉県銚子市の出身だったか。そうは言っても、彼は実力派正統落語家を数々生んできた、あの「日大芸術学部・落研」出身。今は亡き古今亭右朝。それから高田文夫、立川志らく。みな「日大芸術学部・落研」出身だ。(ちなみに、柳家喬太郎師は、同じ「日大」でも、名門「日大芸術学部の落研」出身じゃなくて、日大商学部の落研出身なのだった。)


で、「その落語家さん」の写真が、例の「隔週刊CDつきマガジン・落語 昭和の名人完結編2」の14〜15ページに載っているのですよ。「羽織の着方」の説明ページ。でもこの人、写真写りが悪すぎる! 実物はこの10倍いい男なのに。


彼の名は、春風亭一之輔。


昨年10月からは、日曜日の早朝にFMラジオのパーソナリティも務めている。『SUNDAY FLICKERS』だ。ぼくも何度か車の中で聴いたことがある。じつはこの放送、収録もとの「東京FM」では放送してなくて、FM長野をはじめ全国地方FM局でネットされているのだとか。


でも「こちら」で、ポッドキャストが聴けます。一之輔さんの「ダイジェスト落語」も聴けます。


■世間では、日本で一番「落語会」に通いつめているライターは堀井憲一郎氏であると思われているけど、堀井氏にまけないほど「落語会」に通い詰めているライターがいた。それが、月刊音楽雑誌『BURRN!』編集長の広瀬和生氏だ。


その広瀬氏が「いま一番の注目の若手落語家」として追っかけているのが、春風亭一之輔さんだ。


広瀬氏がどれほど春風亭一之輔に惚れ込んでいるかは、『この落語家を聴け!』(集英社文庫)の「文庫版のためのあとがき」を読めばよくわかる。なんと、まだ二ツ目の春風亭一之輔さんのために、まるまる3ページを割いているのだ。これは破格のあつかいと言えるな。


■追加(Twitter に書いたこと)


今日の午後3時から駒ヶ根市「音の芽ホール」であった「春風亭一之輔 噺の会その弐」を聴きに行ってきた。面白かったなぁ。一之輔さんはぜひ一度ナマで聴いてみたいと前から思っていた人だ。最後に入場したら最前列正面の3席だけ空いていて僕ら家族で座る。高座の落語家さんと超至近距離で緊張したよ。


(続き)観客は全部で30数人のアットホームな会で、そこがまたよかったな。考えてみれば贅沢な落語会だ。演目は「ろくろ首」「天狗裁き」「竹の水仙」。評判には聞いていたが、いや実際、この人はうまい。面白い。声もいい。ぜひまたナマで聴いてみたいと思う。


(じつは続き)春風亭一之輔さんの噺では、「あくび指南」か「茶の湯」を聴いてみたかったのだが、「あくび指南」は去年の6月に駒ヶ根へ来た時にやったんだね。その時、今日うちの次男が座った席にやはり小学性がいて、でも横の父親と本人の許可を得て郭噺をやったと一之輔さんが言ってたが「明烏」か? (追伸:H22年6月に駒ヶ根に来た時の演目は、「初天神」「あくび指南」「明烏」だったそうだ。)

2010年8月22日 (日)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その3)

さて、ようやく『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)の感想。


・ちょうど、NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』と同じ感じ、とでも言えばよいか、400ページ近い本の全体の 2/3近くが、売れる前の下積み時代の話が続く。これが読ませるのだ。

・歌笑は、他の貧乏な落語家の幼少時代とは異なり、いいとこのお坊ちゃんだった。東京の西の外れ五日市で、歌笑の父親は女工50人以上も抱える製糸工場の社長で、地元でも屈指の裕福な家だった。

・本来なら、御曹司として(次男ではあったが)父母の元で愛情に満ちた幼少時代を送るはずだったのだが、生来の斜視と弱視と出っ歯による特異な顔貌のために、母親からは「何であの子だけがあんな顔で生まれたのか……」と嫌われ、すぐに里子に出されてしまう。だから彼は、ほんとうの「母の愛」を知らない。母親との愛着形成ができなかったのだ。


・彼は家族からも疎まれ、近所の子供たちから虐められ、それはそれは惨めな子供時代だったのだが、里子に出された先の「ヒサ」を母のように姉のように慕って育った。ヒサとの間には、確かに愛着形成ができたのが彼には幸いだったと思う。戦後人気者になった歌笑は、実の母親とは最後まで疎遠だったという。その代わり、育ての親のヒサには何度も会いに行ったし、師匠の三代目三遊亭金馬の女将さんや、妻となった二二子さんには、まるで幼児に戻ってしまったような感じで甘えていたという。


・この本に載っているさまざまな面白いエピソードは、前述の『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)や『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)にも載っている。でも、三者それぞれ微妙に違っていて、いったいどれが真実なのかよく判らないところが面白い。もちろん、最後に出版された「この本」が一番正確なのであろうが、必ずしもそうじゃないかもしれない? と読者に思わせてしまうところが、「この本」の一番の弱みだと思った。

・というのは、「この本」は読んでいて、まったく暗くないのだ。とにかく美談やいい話に満ちている。しかも、悪人が一人も登場しない。みんないい人。そんな訳ないだろ! 読んでいて、そう思ってしまうのだな。もしも、歌笑の評伝を色川武大が書いていたとしたならば、きっと、もっと主人公に対しての「毒」があったんじゃないかと思う。この本には、その「毒」がないのだ。そこが不満だ。

・でもたぶん、こんな時代(平成22年夏)だからこそ、著者は殺伐とした戦争末期から敗戦後の未来も希望もない時代であった「たった5年間」に、パッと花開いて瞬く間に散っていった、奇跡の「あだ花」歌笑のことを、努めて明るく描ききったのかもしれないな。


・他の本にはない記載で特筆すべきことは、歌笑がどんなに同じ噺家仲間からバカにされ虐められても、彼のことを認めて支えた人たちがいた、ということだ。まずは、彼の師匠、三代目三遊亭金馬。弟子にはもの凄く厳しくて「このバカヤロウ!」と絶えず拳骨を飛ばしていたと言われた師匠だが、この本を読んでみて、大好きな金馬の落語以上に、この人のことが好きになったよ。本当に弟子思いでいい人だ。歌笑がしくじった、愛犬「寿限無」のくだりには、ほんと泣けてしまったな。


・それから、五代目・柳家小さん。歌笑より1つ年上の小さんとの友情も泣かせる。本に書かれている彼の口調が、まさに「小さん」そのものなのでリアリティがあるのだ。桂三木助との兄弟愛といい、歌笑との友情といい、小さんていう人は本当にいい人だったんだなぁ。泣かせるぜぃ。


・あと、歌笑が師匠をしくじって「お前は破門だぁ!」と金馬に言われる度に、実家の五日市に帰り、長兄の照政氏が同行して金馬師匠に詫びを入れたという。不出来ながらも、弟の才能を信じてずっと援助してきた兄、照政。彼なくしては、あの歌笑の絶頂時代はなかったであろう。

・それからもう一つ。歌笑の弟弟子。二代目桂小南との関係。これは、他の本には書かれていない。著者は、生前の桂小南師匠に取材しているという。だからの記載なのだ。これは貴重だったな。歌笑は弟弟子・金太郎(桂小南)と本当に仲が良かったようだ。

・これも有名な話だが、三遊亭金馬の三番弟子、桂小南はずいぶんと苦労した人だ。京都出身で、上京したあと日本橋の呉服問屋に丁稚小僧として修行に入り、みるみる商才を示して頭角を現し、わずか17歳で番頭に抜擢されるほどの実力があった。店主から上野の店を任せられるほどになっていたのに、その全てをなげうって、彼は好きな落語の道に入ることを決意し、金馬の門を叩く。金馬の家にいたのは、当時内弟子であった歌笑だ。

歌笑も「なまり」に苦労したが、桂小南はその京都弁のためにもっと苦労した。ただそれはまた別のはなし。


・ところで、三遊亭歌笑の肉声が、ネット上で聴けるのです。

昭和24年に録音されたSPレコードの復刻盤。


<こちらのサイト>の下のほうにある、「三遊亭歌笑・音楽花電車」をクリックしてみて下さい。そうすると、前編・後編が聴けます。

2010年8月21日 (土)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その2)

ちっとも「この本」の感想にたどり着かないのだが、
家に歌笑さんのことが書かれた本が他にもないかどうか探してみたら
もう1冊見つかった。『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)だ。
この本は、買ったきり読んでなかったな。


 歌笑は、戦後の暗い、あのやるせない時代に、”笑い”という灯を、国民の胸に灯してくれた点、”歌”を与えてくれた笠置シズ子とともに、忘れることが出来ない。
 文中にもふれたようないきさつで、私と彼は親しい友人だった。そんな縁でその没後、彼のいとこの当代歌笑とも親しくしているし、二二子未亡人とも折にふれて、お目にかかることが多かった。現に「純情詩集」などの作品群も、そのご好意で紹介させていただいたものである。

 この『爆笑王歌笑純情伝』を書いたのは、昭和43年であった。(中略)

 そして、年が改まって53年の2月。
 歌笑の長兄で、五日市の高水家を襲いでいた照政氏がなくなった。享年68。歌笑が育ったこの生家は、大きな製糸工場だったが、その後、工場は閉鎖となり、広い土地を開拓して、うらの秋川渓谷にのぞむあたりに、宿泊も出来る「黒茶屋」を建て、一帯を観光センターにした。

 数年前、私も行ったことがあるが、夏のキャンプ地として、若者で賑わっていた。
 町の名士だけに、その葬儀は盛大をきわめ、ひっきりなしに来る悔やみの客のために、仏壇の電気は、一週間以上も消すことを忘れた。その仏壇の漏電から出火、母屋はアッという間に全焼した。黒茶屋までは火が及ばなかったのは、不幸中の幸いであったというほかない。

 一方、五日市町では、町が生んだ英雄として、歌笑のための顕彰碑を建てる議が進み、準備に入っていた。そのため、歌笑ゆかりの遺品などが、東京から生家に運ばれていた。それも、ほとんど持ち出すひまもなく灰となったという。
 その中に、歌笑自筆のノートや、新聞なののスクラップ・ブックがあった。「純情歌集」などの作品群の載ったものである。

『高座奇人伝』小島貞二・著(ちくま文庫)「爆笑王歌笑純情伝・余滴」p321〜p324

2010年8月20日 (金)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)

■今夜の『うぬぼれ刑事』は面白かったなぁ。小泉今日子が思いのほか良かったのだ。続いて『熱海の捜査官』が始まる。さて、こちらはどんな展開が待っているのか。楽しみ。


■『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)読了。面白くて一気に読んだ。

芸人さんの評伝はみな面白い。春風亭柳朝の評伝『江戸前の男』吉川潮(新潮文庫)、同じく吉川潮氏の二代広澤虎造一代記『江戸っ子だってねぇ』は読んだ。柳家三亀松の評伝『浮かれ三亀松』は未読。吉川潮氏が書く評伝は、まるで落語の人情噺みたいで、笑って泣いてまた泣いて読み終わる頃には、その芸人さんがまだ売れない昔からのファンだったような錯覚に陥ってしまうのだった。

ただ、本を読む前に広澤虎造はCDで「清水次郎長伝」を聴いていたし、春風亭柳朝は小中学生のころ、テレビやラジオで落語を聞いた覚えがある。

しかし、この「三遊亭歌笑」という人は「歌笑・純情詩集」という言葉だけは知っていたが、どんな落語家さんだったのか全く知らなかった。以下の文章を読むまでは。

 十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼を患って右眼はくもがかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。(中略)

 戦時中、中学生のころ、神楽坂の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくりがあったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。(中略)

 そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。(中略)

 歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。(中略)

 ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説にする気にならず、材料は山ほどあったのだが放棄した。(中略)

 昭和25年5月30日、夫婦生活誌の大宅壮一氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネージャーは出演予定の映画の打合せで居らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年三十三。

『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p182〜p188「歌笑ノート」より

それからもう一冊。『現代落語論』立川談志(三一書房)82ページ。

ラジオはNHKだけなので、落語が聞けるのは日曜日夜のラジオ寄席、金曜日の第二放送の放送演芸会、時折劇場中継としての寄席中継ぐらいのものだった。さらにくわえれば、第二放送の若手演芸会ぐらい。この若手演芸会には、馬生、小金馬(腹話術)、貞鳳、人見明とスイングボーイズなどといった人たちがやっていた。中で何といっても三遊亭歌笑の全盛時代、それと楽しかったのは、当時ちょうど油の乗り切った感じの三木トリローの日曜娯楽版。

 ところがある朝、目がさめるとおふくろに、
 ”お前、歌笑が死んだョ”
 と、新聞をみせてくれた。

 三面に小さく、”歌笑師禍死”と書いてあった。腹が立った。信じられなかった。あの歌笑が死ぬなんて、いやだった。悲しくて口惜しくてたまらなくなり、そんな馬鹿なことがこの世にあるもんかと、涙がこぼれた。

 他人が死んでこんな気持ちになったのは、歌笑と和田信賢が死んだ時ぐらいで、あとにも先にもこの二つぐらいしか思いだせない。



2010年8月 7日 (土)

「まっとうな芸人、圓生」色川武大

■自分で文章を綴るパワーが相変わらずないので、今日も他人の文章を勝手にアップするご無礼、どうかお許しください。


「まっとうな芸人、圓生」色川武大


 文楽、志ん生、圓生----、昔、寄席にかよいつめていた頃、私たちにとってこの三人が落語家の代名詞であった。金馬も底力があったし、三木助や現小さんも売出し中だったけれど、私どもにとって文楽、志ん生、圓生、がすべてだったといってもよい。(中略)


 文楽、志ん生にはそれぞれ明快な華があったが、圓生はいくらか陰な感じで、それが三本指には入っても、トップ一人を選ぶとなると、圓生とはいい難い理由だったろうか。
 けれども、だからといって他の二人に毫も劣る落語家とは思わない。特に、昭和二十年代後半から三十年代にかけての圓生は、私にとって”凄い落語家”であった。

 私は、芸というものに対して、点を辛くするのが礼儀だと思う。聴いている者の心底に深く重く残るような芸でなければ拍手をしない。そのくらいに”芸”というものを尊敬したい。だからこの一文も、亡き圓生の霊にヨイショしているつもりはない。(中略)


 私にとって圓生のどこが凄かったか。


 まず、第一に映画でいう屋外シーンの巧さである。たとえば『鰍沢』の、半分しびれたようになった旅人が、こけつまろびつ、雪の中を逃げていくところ。あるいは『三十石』の淀川の夜気。『乳房榎』の落合の川辺に蛍飛びかう闇の深さ。例にあげればまだたくさんある。いかにも私たち自身がそこに居て、風の気配、空気の味まで存分に浸ることができる。

 落語は、扇子と手拭いだけで、さまざまの人物を演じわけるという概念を、圓生はもうひとまわりワイドにしてくれた。私の知る範囲では、人物の喜怒哀楽の表現にとどまらず、あたふたする人間たちと対比させるように大きな自然までを描いて生彩を発揮した落語家を他に知らない。(中略)

 
 第二に、これも大きなことだが、圓生の描く女の味わいである。圓生を聴くひとつの楽しみは、女の描出が深いことであった。

 文楽も、志ん生も、個性は違うが、男の演じ手であったと思う。主題はたとえ女の話であっても、文楽も、志ん生も、いつも我が身の命題みたいなものをひっさげていた。男の哀しさ、世間の主流からはずれた男たちの、奇態にしか生きられない哀しさ、そうしたものを落語の形を借りていつもむんむんと発散していた。それが気魄となり、濃厚な説得力をうんでも居たと思う。(中略)


 これに対して圓生は、彼等ほど自分の命題に執着していないように見受けられる。内心深く、叫びたいことはあったかもしれないが、落語に対する姿勢は微妙にちがう。
 圓生は、前二者よりもずっとまっとうに、話芸そのものに深く入りこもうとしたように思う。だから、ポイントは、何を演じるか、ではなかった。如何に演じるか、という人であった。

 当然のことながら、眼の人、描写の人になる。万象をどう眺め、感じとった物をどう演じるか。
 文楽や志ん生にとって、女は、話の中でも他人であった。いうならばオブジェで、主体は男の側にある。が、圓生にとっては、脇人物だからオブジェで方づけるというわけにはいかない。話全体が主人公なのである。だから人物のみならず、花鳥風月、樹立ちや闇や空気の揺れまでも等分に眼を配らなければならないことになる。(中略)

 その意味では圓生は辛い。自分の方に話をひっぱることをしないで、無限に完璧化していかねばならない。
 その辛い作業をよくやったと思う。圓生はよりよく演じるためにまず無限に近い気配りを持って万象を眺めなければならなかったろう。そうして掬いとったものは、それが真実であるという理由でどうしても削除するわけにはいかない。(中略)


 数多い圓生の極めつけの中で一つ選ぶとすれば、私は『包丁』をあげたいが、この不逞な男女の心情を美化など少しもせず。それでいて話芸の持つ美しさ快さに深くひきずりこまれること、おどろくばかりである。
 その他、『お若伊之助』『乳房榎』『累ヶ淵』『火事息子』など描写の要素の濃い人情噺系がどうしても主になるが、『豊竹屋』だの『一人酒盛』だの軽いものにも好ましいものがたくさんある。


 考えてみると、私は圓生と個人的面識はない。ただ寄席の隅で高座を眺めていただけで、それも烈しく聴いたのは人形町の独演の頃の前後十年ほどである。けれども子供の頃から、その声に親しみ、その所作、その話法が血肉化するほどになっていて、お新香や味噌汁と一緒に自分の一生に当然いつまでもついてまわるのだと思っていた落語家たちが、今はもう皆亡い。それが信じられない。

 眼をつぶると、清々とした圓生の出の姿が浮かんでくる。文楽も清々としていたが、練り固めて身構えているような静けさだった。小腰を折って出てくる柳好は芸人というより幇間的だし、顎を突き出してくる志ん生、ズカズカッとくる金馬、現小さんのノソノソ歩き、とこう考えてくると、圓生の出はスッキリと、しかも柔らかくあれが本当の芸人という感じがする。


 圓生はまっとうな、という点でまちがいなしに巨きな芸人であった。


(雪渓書房『六代目三遊亭圓生写真集』1981年刊) →『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ2 芸能』(ちくま文庫)p150〜p157 より。


2010年8月 1日 (日)

可楽の一瞬の精気『寄席放浪記』色川武大

■再び、色川武大『寄席放浪記』(河出文庫)からの抜粋

「可楽の一瞬の精気」

 私は小さいころから寄席にかよっていたわりに、可楽との出会いはおそかった。空襲直前の大塚鈴本ではじめてその高座を見たのだと思う。当時私は中学生で、大塚はすの中学のお膝元だったから、教師の眼が怖くて、そこに寄席があることを知っていながらほとんど立ち寄らなかった。(中略)

 たしか日曜の昼席で、なんだか特殊な催しだったと思う。まだ春風亭小柳枝といっていた時分の可楽が、後年と同じく、「にらみ返し」という落語に出てくる借金取り撃退業の男を地で行くような顔つきで(着流しだったような印象がある)、ぬっと出て来た。

 中入前くらいの出番だったがたっぷり時間をとり、「らくだ」を演じた。小さく会釈をして、すぐに暗い悲しい独特の眼つきになり、「クズウいー」久六がおずおずと長屋に入ってくる、もうそのへんで私は圧倒されていた。陰気、といってもしょぼしょぼしたものでなく、もっと構築された派手な(?)陰気さに見えた。(中略)


 あとで知ったが、可楽は、文楽や志ん生とほぼ同じキャリアの持ち主だった由。長い不遇のうちに、あの暗く煮立ったような顔ができあがったのか。(中略)
 
 しかし可楽を継いでからはほぼ順調に、特異な定着を示した。私は「らくだ」には最初のときほど驚かなくなったが、そのかわり、「二番煎じ」「味噌蔵」「反魂香」この三本を演じる可楽の大のファンになった。まったく可楽のエッセンスは、「らくだ」を含めたこの四本に尽きると思う。他にもよく演じるネタはあったが、大方はつまらない。

 調子でまくしたてる話が迫力が出ず、くすぐりだくさんが似合わず、感情の変化を深く見せる話がいけない。もっとも可楽に中毒すると、ぼそぼそして退屈なところが、実に捨て難くおかしいのであるが。(中略)


可楽の可楽たるところはこういう一瞬の切れ味にあったと思う。「反魂香」の枕で、物の陰陽に触れて、陽気な宗旨、陰気な宗旨を小噺にして寄席を沸かせたあとで、

「ーー淋しいにはなにかてェますと、夜中の一つ鐘で」と口調が改まり、ふっと間があって、「カーン、ーー」ここでまた絶妙な間があって、「南無や南無南無ーー」と主人公島田重三郎の夜更けの読経の声につながっていく、ああいうところの、凜烈とでもいうのか、暗く豪壮な中にどこか甘さを含んだものを一瞬の精気で打ち出すのが独特で、短くはしょった口説の中に飛躍が快く重なり、他のどの落語家にもない味わいがあった。

 可楽の精髄を示す演目の中には、こうしたすぐれた一瞬がいくつも重なっていて、それは何十度、何百度聴いてもあきることがない。まことに不思議な落語家であった。(p41〜p44)

■八代目三笑亭可楽の不思議な魅力に関して、これほど的確に鋭く分析してみせた人は、色川氏以外にはいまい。

     Karaku

2010年7月27日 (火)

名人文楽

■先日書いた、桂文楽の「区役所〜ぉ!」は、どの落語に出てくるかというと「王子の幇間」に登場するフレーズなのだった。神田の平助という野太鼓が主人公の落語。もう、ほとんどコイツの一人語りだ。ホントやな奴。それを八代目桂文楽は滑稽に、自虐的に、悲哀に満ちてしかも諧謔的に演じてみせる。こうなるともう、桂文楽の独断場だな。

旦那の家に来た平助。もう「よいしょ」のしまくり。でも、めちゃくちゃ毒がある。お手伝いさんから始まって、奥さん、子供たち。はては飼い猫に至るまで。今日、久々に聴いたが、思ったよりもテンポが速い。集中力が欠けると何言ってるか分からなくなってしまう。文楽は難しいぞ。よし、明日は「よかちょろ」を聴いてみよう。


■昨日の月曜の夜は、伊那中央病院の小児科一次救急当番だった。よる7時から9時までの2時間。でも、週の始めなので気分的にはけっこうキツイ。「とびひ」の4歳男児と、喘息の5歳児の2人を診ただけで終わった。ラッキー。おかげで本が読めた。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)の「歌笑ノート」。三遊亭歌笑は、三代目三遊亭金馬の弟子だった。

 右目は雲がかかって全く見えず、左目には星があって天気予報みたいだね、といわれた。(中略)なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p184


■同じく色川武大氏の落語エッセイには、こんなのもあった。

 暑いにつけ寒いにつけ、桂文楽を思い出す。(中略) つくづく思うけれども、昭和の落語家では文楽と志ん生が抜き出た存在だな。そのもっとも大きな理由は、二人ともそれぞれのやり方で、自分の落語を創りあげたことにあると思う。古典の方に自分から寄っていってしがみつくのではなく、自分の方に古典落語をひっぱり寄せた。

 古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のコピーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく、それではじめて古典が伝承されていくのである。

 志ん生は天衣無縫の個性で、たくまずして新装した。志ん生の演じる「火焔太鼓」や「ずっこけ」や「風呂敷」や「お直し」は、それ以前の演者からは聞けなかった。私はあれは新作といっていいと思う。そうして志ん生自身がどう思っていたか知らないが、志ん生の口跡に残っている前代のコピー的部分は、どちらかといえば邪魔な部分だった。

 桂文楽は典型的な古典と思われているようだけれども、あれはコピーではないのである。速記本で前代の演者が同じ演目を演じているのを見ると、そのちがいがわかる。
 たとえば「寝床」は、往年は、周辺を辟易させる旦那の素人義太夫の方に力点がかかっていた。文楽のは旦那と長屋衆の心理のおかしさが見せ場になっている。「素人鰻」も、鰻をあやつるおかしさよりも、職人の酒癖と武家の主人の対応の話に主点が移されている。「鰻の幇間」や「つるつる」の主人公たちのわびしさ、「干物箱」の善公、「愛宕山」の一八、「明烏」の遊治郎ご両人、その他いずれの登場人物たちも前代のそれより陰影が濃くなっている。それはただワザの練達だけではない。

 権力機構からはずれた庶民、特に街の底辺に下積みで暮らさざるを得ない下層庶民の口惜しさ、切なさが、どの演目にもみなぎっている。その切なさの極が形式に昇華されて笑いになっている。「厩火事」のおしまいのちょっとしか出てこない髪結いの亭主だって、その影を話の上に大きく落としている。


 文楽の落語はいつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身)呟きだ。それが文楽の命題であったろう。
 
 そういえば志ん生の落語も男の語りである。ひと口に個性といっても、彼の個性は庶民のはずれ者に共通する広がりがある。落語は代々こうした男たちの呟きが形式化されたものなのであろうが、文楽と志ん生は、大正から昭和にかけてこうした男たちの代弁者になった。特に文楽は、命題に沿って意識的にアングルを変え、ディテールを変えている。古典落語と綱引をやるように互いに引っ張り合い、膂力で自分の命題の方に引き寄せてしまった。そうして結果的に古典落語を衰亡から守った。そこがすごい。

 落語はジャズに似ている。特に古典はジャズにおけるスタンダードのようなものか。もはや原曲のままでは通用しない。同じ材料から、各人各様の命題により、或いは個性により、独特の旋律を生みだす。それが、なによりも古典落語というものである。

 文楽は、演目がすくなかった。本質的には不器用の人ともいわれた。そうして、絢爛たるワザの人ともいわれている。もちろん、すばらしい表現力に感嘆するけれども、その手前に、古い話をどうやって自分の命題に沿った形に造り直すかという問題があったはずである。私はむしろ、その点が演目のすくない理由だったと思う。自分の命題に沿えない話は演じない。そのうえ、ジャズがあくまでジャズであるように、あくまで古典落語として造り直すのである。

 いったん造り直した落語を、形式的に昇華するまで練る。これにも時間がかかったろう。そうしてそんな命題を表面にはケも見せない。

 ワザだけの伝承者ならば、才のある人はまだ他にもい居る。いったん命題化し、それに沿って形象化するというむずかしい作業をやっている落語家が他に居るだろうか。不器用といわれ、たしかに時間がかかり、苦闘もしてけれど、それは当然のことではあるまいか。

 たとえば円生は、芸界の家に生まれ、芸に生きることを当然として育った。円生の芸は、芸の道を本筋として考える人の芸だったと思う。文楽や志ん生は、ただの庶民の子で、自分流の生き方をつかむまでじたばたし、手探りで芸の道に来た。せんかたないことながらそこがちがう。彼らはもともと特殊人ではなくて、普通人のはずれ者なのである。この点、当代の志ん朝と談志にはめると、どんなことがいえるだろうか。

『寄席放浪記』色川武大(河出文庫)p51〜54。


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