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2010年8月22日 (日)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その3)

さて、ようやく『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)の感想。


・ちょうど、NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』と同じ感じ、とでも言えばよいか、400ページ近い本の全体の 2/3近くが、売れる前の下積み時代の話が続く。これが読ませるのだ。

・歌笑は、他の貧乏な落語家の幼少時代とは異なり、いいとこのお坊ちゃんだった。東京の西の外れ五日市で、歌笑の父親は女工50人以上も抱える製糸工場の社長で、地元でも屈指の裕福な家だった。

・本来なら、御曹司として(次男ではあったが)父母の元で愛情に満ちた幼少時代を送るはずだったのだが、生来の斜視と弱視と出っ歯による特異な顔貌のために、母親からは「何であの子だけがあんな顔で生まれたのか……」と嫌われ、すぐに里子に出されてしまう。だから彼は、ほんとうの「母の愛」を知らない。母親との愛着形成ができなかったのだ。


・彼は家族からも疎まれ、近所の子供たちから虐められ、それはそれは惨めな子供時代だったのだが、里子に出された先の「ヒサ」を母のように姉のように慕って育った。ヒサとの間には、確かに愛着形成ができたのが彼には幸いだったと思う。戦後人気者になった歌笑は、実の母親とは最後まで疎遠だったという。その代わり、育ての親のヒサには何度も会いに行ったし、師匠の三代目三遊亭金馬の女将さんや、妻となった二二子さんには、まるで幼児に戻ってしまったような感じで甘えていたという。


・この本に載っているさまざまな面白いエピソードは、前述の『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)や『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)にも載っている。でも、三者それぞれ微妙に違っていて、いったいどれが真実なのかよく判らないところが面白い。もちろん、最後に出版された「この本」が一番正確なのであろうが、必ずしもそうじゃないかもしれない? と読者に思わせてしまうところが、「この本」の一番の弱みだと思った。

・というのは、「この本」は読んでいて、まったく暗くないのだ。とにかく美談やいい話に満ちている。しかも、悪人が一人も登場しない。みんないい人。そんな訳ないだろ! 読んでいて、そう思ってしまうのだな。もしも、歌笑の評伝を色川武大が書いていたとしたならば、きっと、もっと主人公に対しての「毒」があったんじゃないかと思う。この本には、その「毒」がないのだ。そこが不満だ。

・でもたぶん、こんな時代(平成22年夏)だからこそ、著者は殺伐とした戦争末期から敗戦後の未来も希望もない時代であった「たった5年間」に、パッと花開いて瞬く間に散っていった、奇跡の「あだ花」歌笑のことを、努めて明るく描ききったのかもしれないな。


・他の本にはない記載で特筆すべきことは、歌笑がどんなに同じ噺家仲間からバカにされ虐められても、彼のことを認めて支えた人たちがいた、ということだ。まずは、彼の師匠、三代目三遊亭金馬。弟子にはもの凄く厳しくて「このバカヤロウ!」と絶えず拳骨を飛ばしていたと言われた師匠だが、この本を読んでみて、大好きな金馬の落語以上に、この人のことが好きになったよ。本当に弟子思いでいい人だ。歌笑がしくじった、愛犬「寿限無」のくだりには、ほんと泣けてしまったな。


・それから、五代目・柳家小さん。歌笑より1つ年上の小さんとの友情も泣かせる。本に書かれている彼の口調が、まさに「小さん」そのものなのでリアリティがあるのだ。桂三木助との兄弟愛といい、歌笑との友情といい、小さんていう人は本当にいい人だったんだなぁ。泣かせるぜぃ。


・あと、歌笑が師匠をしくじって「お前は破門だぁ!」と金馬に言われる度に、実家の五日市に帰り、長兄の照政氏が同行して金馬師匠に詫びを入れたという。不出来ながらも、弟の才能を信じてずっと援助してきた兄、照政。彼なくしては、あの歌笑の絶頂時代はなかったであろう。

・それからもう一つ。歌笑の弟弟子。二代目桂小南との関係。これは、他の本には書かれていない。著者は、生前の桂小南師匠に取材しているという。だからの記載なのだ。これは貴重だったな。歌笑は弟弟子・金太郎(桂小南)と本当に仲が良かったようだ。

・これも有名な話だが、三遊亭金馬の三番弟子、桂小南はずいぶんと苦労した人だ。京都出身で、上京したあと日本橋の呉服問屋に丁稚小僧として修行に入り、みるみる商才を示して頭角を現し、わずか17歳で番頭に抜擢されるほどの実力があった。店主から上野の店を任せられるほどになっていたのに、その全てをなげうって、彼は好きな落語の道に入ることを決意し、金馬の門を叩く。金馬の家にいたのは、当時内弟子であった歌笑だ。

歌笑も「なまり」に苦労したが、桂小南はその京都弁のためにもっと苦労した。ただそれはまた別のはなし。


・ところで、三遊亭歌笑の肉声が、ネット上で聴けるのです。

昭和24年に録音されたSPレコードの復刻盤。


<こちらのサイト>の下のほうにある、「三遊亭歌笑・音楽花電車」をクリックしてみて下さい。そうすると、前編・後編が聴けます。

2010年8月21日 (土)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その2)

ちっとも「この本」の感想にたどり着かないのだが、
家に歌笑さんのことが書かれた本が他にもないかどうか探してみたら
もう1冊見つかった。『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)だ。
この本は、買ったきり読んでなかったな。


 歌笑は、戦後の暗い、あのやるせない時代に、”笑い”という灯を、国民の胸に灯してくれた点、”歌”を与えてくれた笠置シズ子とともに、忘れることが出来ない。
 文中にもふれたようないきさつで、私と彼は親しい友人だった。そんな縁でその没後、彼のいとこの当代歌笑とも親しくしているし、二二子未亡人とも折にふれて、お目にかかることが多かった。現に「純情詩集」などの作品群も、そのご好意で紹介させていただいたものである。

 この『爆笑王歌笑純情伝』を書いたのは、昭和43年であった。(中略)

 そして、年が改まって53年の2月。
 歌笑の長兄で、五日市の高水家を襲いでいた照政氏がなくなった。享年68。歌笑が育ったこの生家は、大きな製糸工場だったが、その後、工場は閉鎖となり、広い土地を開拓して、うらの秋川渓谷にのぞむあたりに、宿泊も出来る「黒茶屋」を建て、一帯を観光センターにした。

 数年前、私も行ったことがあるが、夏のキャンプ地として、若者で賑わっていた。
 町の名士だけに、その葬儀は盛大をきわめ、ひっきりなしに来る悔やみの客のために、仏壇の電気は、一週間以上も消すことを忘れた。その仏壇の漏電から出火、母屋はアッという間に全焼した。黒茶屋までは火が及ばなかったのは、不幸中の幸いであったというほかない。

 一方、五日市町では、町が生んだ英雄として、歌笑のための顕彰碑を建てる議が進み、準備に入っていた。そのため、歌笑ゆかりの遺品などが、東京から生家に運ばれていた。それも、ほとんど持ち出すひまもなく灰となったという。
 その中に、歌笑自筆のノートや、新聞なののスクラップ・ブックがあった。「純情歌集」などの作品群の載ったものである。

『高座奇人伝』小島貞二・著(ちくま文庫)「爆笑王歌笑純情伝・余滴」p321〜p324

2010年8月20日 (金)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)

■今夜の『うぬぼれ刑事』は面白かったなぁ。小泉今日子が思いのほか良かったのだ。続いて『熱海の捜査官』が始まる。さて、こちらはどんな展開が待っているのか。楽しみ。


■『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)読了。面白くて一気に読んだ。

芸人さんの評伝はみな面白い。春風亭柳朝の評伝『江戸前の男』吉川潮(新潮文庫)、同じく吉川潮氏の二代広澤虎造一代記『江戸っ子だってねぇ』は読んだ。柳家三亀松の評伝『浮かれ三亀松』は未読。吉川潮氏が書く評伝は、まるで落語の人情噺みたいで、笑って泣いてまた泣いて読み終わる頃には、その芸人さんがまだ売れない昔からのファンだったような錯覚に陥ってしまうのだった。

ただ、本を読む前に広澤虎造はCDで「清水次郎長伝」を聴いていたし、春風亭柳朝は小中学生のころ、テレビやラジオで落語を聞いた覚えがある。

しかし、この「三遊亭歌笑」という人は「歌笑・純情詩集」という言葉だけは知っていたが、どんな落語家さんだったのか全く知らなかった。以下の文章を読むまでは。

 十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼を患って右眼はくもがかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。(中略)

 戦時中、中学生のころ、神楽坂の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくりがあったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。(中略)

 そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。(中略)

 歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。(中略)

 ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説にする気にならず、材料は山ほどあったのだが放棄した。(中略)

 昭和25年5月30日、夫婦生活誌の大宅壮一氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネージャーは出演予定の映画の打合せで居らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年三十三。

『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p182〜p188「歌笑ノート」より

それからもう一冊。『現代落語論』立川談志(三一書房)82ページ。

ラジオはNHKだけなので、落語が聞けるのは日曜日夜のラジオ寄席、金曜日の第二放送の放送演芸会、時折劇場中継としての寄席中継ぐらいのものだった。さらにくわえれば、第二放送の若手演芸会ぐらい。この若手演芸会には、馬生、小金馬(腹話術)、貞鳳、人見明とスイングボーイズなどといった人たちがやっていた。中で何といっても三遊亭歌笑の全盛時代、それと楽しかったのは、当時ちょうど油の乗り切った感じの三木トリローの日曜娯楽版。

 ところがある朝、目がさめるとおふくろに、
 ”お前、歌笑が死んだョ”
 と、新聞をみせてくれた。

 三面に小さく、”歌笑師禍死”と書いてあった。腹が立った。信じられなかった。あの歌笑が死ぬなんて、いやだった。悲しくて口惜しくてたまらなくなり、そんな馬鹿なことがこの世にあるもんかと、涙がこぼれた。

 他人が死んでこんな気持ちになったのは、歌笑と和田信賢が死んだ時ぐらいで、あとにも先にもこの二つぐらいしか思いだせない。



2010年8月 7日 (土)

「まっとうな芸人、圓生」色川武大

■自分で文章を綴るパワーが相変わらずないので、今日も他人の文章を勝手にアップするご無礼、どうかお許しください。


「まっとうな芸人、圓生」色川武大


 文楽、志ん生、圓生----、昔、寄席にかよいつめていた頃、私たちにとってこの三人が落語家の代名詞であった。金馬も底力があったし、三木助や現小さんも売出し中だったけれど、私どもにとって文楽、志ん生、圓生、がすべてだったといってもよい。(中略)


 文楽、志ん生にはそれぞれ明快な華があったが、圓生はいくらか陰な感じで、それが三本指には入っても、トップ一人を選ぶとなると、圓生とはいい難い理由だったろうか。
 けれども、だからといって他の二人に毫も劣る落語家とは思わない。特に、昭和二十年代後半から三十年代にかけての圓生は、私にとって”凄い落語家”であった。

 私は、芸というものに対して、点を辛くするのが礼儀だと思う。聴いている者の心底に深く重く残るような芸でなければ拍手をしない。そのくらいに”芸”というものを尊敬したい。だからこの一文も、亡き圓生の霊にヨイショしているつもりはない。(中略)


 私にとって圓生のどこが凄かったか。


 まず、第一に映画でいう屋外シーンの巧さである。たとえば『鰍沢』の、半分しびれたようになった旅人が、こけつまろびつ、雪の中を逃げていくところ。あるいは『三十石』の淀川の夜気。『乳房榎』の落合の川辺に蛍飛びかう闇の深さ。例にあげればまだたくさんある。いかにも私たち自身がそこに居て、風の気配、空気の味まで存分に浸ることができる。

 落語は、扇子と手拭いだけで、さまざまの人物を演じわけるという概念を、圓生はもうひとまわりワイドにしてくれた。私の知る範囲では、人物の喜怒哀楽の表現にとどまらず、あたふたする人間たちと対比させるように大きな自然までを描いて生彩を発揮した落語家を他に知らない。(中略)

 
 第二に、これも大きなことだが、圓生の描く女の味わいである。圓生を聴くひとつの楽しみは、女の描出が深いことであった。

 文楽も、志ん生も、個性は違うが、男の演じ手であったと思う。主題はたとえ女の話であっても、文楽も、志ん生も、いつも我が身の命題みたいなものをひっさげていた。男の哀しさ、世間の主流からはずれた男たちの、奇態にしか生きられない哀しさ、そうしたものを落語の形を借りていつもむんむんと発散していた。それが気魄となり、濃厚な説得力をうんでも居たと思う。(中略)


 これに対して圓生は、彼等ほど自分の命題に執着していないように見受けられる。内心深く、叫びたいことはあったかもしれないが、落語に対する姿勢は微妙にちがう。
 圓生は、前二者よりもずっとまっとうに、話芸そのものに深く入りこもうとしたように思う。だから、ポイントは、何を演じるか、ではなかった。如何に演じるか、という人であった。

 当然のことながら、眼の人、描写の人になる。万象をどう眺め、感じとった物をどう演じるか。
 文楽や志ん生にとって、女は、話の中でも他人であった。いうならばオブジェで、主体は男の側にある。が、圓生にとっては、脇人物だからオブジェで方づけるというわけにはいかない。話全体が主人公なのである。だから人物のみならず、花鳥風月、樹立ちや闇や空気の揺れまでも等分に眼を配らなければならないことになる。(中略)

 その意味では圓生は辛い。自分の方に話をひっぱることをしないで、無限に完璧化していかねばならない。
 その辛い作業をよくやったと思う。圓生はよりよく演じるためにまず無限に近い気配りを持って万象を眺めなければならなかったろう。そうして掬いとったものは、それが真実であるという理由でどうしても削除するわけにはいかない。(中略)


 数多い圓生の極めつけの中で一つ選ぶとすれば、私は『包丁』をあげたいが、この不逞な男女の心情を美化など少しもせず。それでいて話芸の持つ美しさ快さに深くひきずりこまれること、おどろくばかりである。
 その他、『お若伊之助』『乳房榎』『累ヶ淵』『火事息子』など描写の要素の濃い人情噺系がどうしても主になるが、『豊竹屋』だの『一人酒盛』だの軽いものにも好ましいものがたくさんある。


 考えてみると、私は圓生と個人的面識はない。ただ寄席の隅で高座を眺めていただけで、それも烈しく聴いたのは人形町の独演の頃の前後十年ほどである。けれども子供の頃から、その声に親しみ、その所作、その話法が血肉化するほどになっていて、お新香や味噌汁と一緒に自分の一生に当然いつまでもついてまわるのだと思っていた落語家たちが、今はもう皆亡い。それが信じられない。

 眼をつぶると、清々とした圓生の出の姿が浮かんでくる。文楽も清々としていたが、練り固めて身構えているような静けさだった。小腰を折って出てくる柳好は芸人というより幇間的だし、顎を突き出してくる志ん生、ズカズカッとくる金馬、現小さんのノソノソ歩き、とこう考えてくると、圓生の出はスッキリと、しかも柔らかくあれが本当の芸人という感じがする。


 圓生はまっとうな、という点でまちがいなしに巨きな芸人であった。


(雪渓書房『六代目三遊亭圓生写真集』1981年刊) →『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ2 芸能』(ちくま文庫)p150〜p157 より。


2010年8月 1日 (日)

可楽の一瞬の精気『寄席放浪記』色川武大

■再び、色川武大『寄席放浪記』(河出文庫)からの抜粋

「可楽の一瞬の精気」

 私は小さいころから寄席にかよっていたわりに、可楽との出会いはおそかった。空襲直前の大塚鈴本ではじめてその高座を見たのだと思う。当時私は中学生で、大塚はすの中学のお膝元だったから、教師の眼が怖くて、そこに寄席があることを知っていながらほとんど立ち寄らなかった。(中略)

 たしか日曜の昼席で、なんだか特殊な催しだったと思う。まだ春風亭小柳枝といっていた時分の可楽が、後年と同じく、「にらみ返し」という落語に出てくる借金取り撃退業の男を地で行くような顔つきで(着流しだったような印象がある)、ぬっと出て来た。

 中入前くらいの出番だったがたっぷり時間をとり、「らくだ」を演じた。小さく会釈をして、すぐに暗い悲しい独特の眼つきになり、「クズウいー」久六がおずおずと長屋に入ってくる、もうそのへんで私は圧倒されていた。陰気、といってもしょぼしょぼしたものでなく、もっと構築された派手な(?)陰気さに見えた。(中略)


 あとで知ったが、可楽は、文楽や志ん生とほぼ同じキャリアの持ち主だった由。長い不遇のうちに、あの暗く煮立ったような顔ができあがったのか。(中略)
 
 しかし可楽を継いでからはほぼ順調に、特異な定着を示した。私は「らくだ」には最初のときほど驚かなくなったが、そのかわり、「二番煎じ」「味噌蔵」「反魂香」この三本を演じる可楽の大のファンになった。まったく可楽のエッセンスは、「らくだ」を含めたこの四本に尽きると思う。他にもよく演じるネタはあったが、大方はつまらない。

 調子でまくしたてる話が迫力が出ず、くすぐりだくさんが似合わず、感情の変化を深く見せる話がいけない。もっとも可楽に中毒すると、ぼそぼそして退屈なところが、実に捨て難くおかしいのであるが。(中略)


可楽の可楽たるところはこういう一瞬の切れ味にあったと思う。「反魂香」の枕で、物の陰陽に触れて、陽気な宗旨、陰気な宗旨を小噺にして寄席を沸かせたあとで、

「ーー淋しいにはなにかてェますと、夜中の一つ鐘で」と口調が改まり、ふっと間があって、「カーン、ーー」ここでまた絶妙な間があって、「南無や南無南無ーー」と主人公島田重三郎の夜更けの読経の声につながっていく、ああいうところの、凜烈とでもいうのか、暗く豪壮な中にどこか甘さを含んだものを一瞬の精気で打ち出すのが独特で、短くはしょった口説の中に飛躍が快く重なり、他のどの落語家にもない味わいがあった。

 可楽の精髄を示す演目の中には、こうしたすぐれた一瞬がいくつも重なっていて、それは何十度、何百度聴いてもあきることがない。まことに不思議な落語家であった。(p41〜p44)

■八代目三笑亭可楽の不思議な魅力に関して、これほど的確に鋭く分析してみせた人は、色川氏以外にはいまい。

     Karaku

2010年7月27日 (火)

名人文楽

■先日書いた、桂文楽の「区役所〜ぉ!」は、どの落語に出てくるかというと「王子の幇間」に登場するフレーズなのだった。神田の平助という野太鼓が主人公の落語。もう、ほとんどコイツの一人語りだ。ホントやな奴。それを八代目桂文楽は滑稽に、自虐的に、悲哀に満ちてしかも諧謔的に演じてみせる。こうなるともう、桂文楽の独断場だな。

旦那の家に来た平助。もう「よいしょ」のしまくり。でも、めちゃくちゃ毒がある。お手伝いさんから始まって、奥さん、子供たち。はては飼い猫に至るまで。今日、久々に聴いたが、思ったよりもテンポが速い。集中力が欠けると何言ってるか分からなくなってしまう。文楽は難しいぞ。よし、明日は「よかちょろ」を聴いてみよう。


■昨日の月曜の夜は、伊那中央病院の小児科一次救急当番だった。よる7時から9時までの2時間。でも、週の始めなので気分的にはけっこうキツイ。「とびひ」の4歳男児と、喘息の5歳児の2人を診ただけで終わった。ラッキー。おかげで本が読めた。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)の「歌笑ノート」。三遊亭歌笑は、三代目三遊亭金馬の弟子だった。

 右目は雲がかかって全く見えず、左目には星があって天気予報みたいだね、といわれた。(中略)なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p184


■同じく色川武大氏の落語エッセイには、こんなのもあった。

 暑いにつけ寒いにつけ、桂文楽を思い出す。(中略) つくづく思うけれども、昭和の落語家では文楽と志ん生が抜き出た存在だな。そのもっとも大きな理由は、二人ともそれぞれのやり方で、自分の落語を創りあげたことにあると思う。古典の方に自分から寄っていってしがみつくのではなく、自分の方に古典落語をひっぱり寄せた。

 古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のコピーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく、それではじめて古典が伝承されていくのである。

 志ん生は天衣無縫の個性で、たくまずして新装した。志ん生の演じる「火焔太鼓」や「ずっこけ」や「風呂敷」や「お直し」は、それ以前の演者からは聞けなかった。私はあれは新作といっていいと思う。そうして志ん生自身がどう思っていたか知らないが、志ん生の口跡に残っている前代のコピー的部分は、どちらかといえば邪魔な部分だった。

 桂文楽は典型的な古典と思われているようだけれども、あれはコピーではないのである。速記本で前代の演者が同じ演目を演じているのを見ると、そのちがいがわかる。
 たとえば「寝床」は、往年は、周辺を辟易させる旦那の素人義太夫の方に力点がかかっていた。文楽のは旦那と長屋衆の心理のおかしさが見せ場になっている。「素人鰻」も、鰻をあやつるおかしさよりも、職人の酒癖と武家の主人の対応の話に主点が移されている。「鰻の幇間」や「つるつる」の主人公たちのわびしさ、「干物箱」の善公、「愛宕山」の一八、「明烏」の遊治郎ご両人、その他いずれの登場人物たちも前代のそれより陰影が濃くなっている。それはただワザの練達だけではない。

 権力機構からはずれた庶民、特に街の底辺に下積みで暮らさざるを得ない下層庶民の口惜しさ、切なさが、どの演目にもみなぎっている。その切なさの極が形式に昇華されて笑いになっている。「厩火事」のおしまいのちょっとしか出てこない髪結いの亭主だって、その影を話の上に大きく落としている。


 文楽の落語はいつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身)呟きだ。それが文楽の命題であったろう。
 
 そういえば志ん生の落語も男の語りである。ひと口に個性といっても、彼の個性は庶民のはずれ者に共通する広がりがある。落語は代々こうした男たちの呟きが形式化されたものなのであろうが、文楽と志ん生は、大正から昭和にかけてこうした男たちの代弁者になった。特に文楽は、命題に沿って意識的にアングルを変え、ディテールを変えている。古典落語と綱引をやるように互いに引っ張り合い、膂力で自分の命題の方に引き寄せてしまった。そうして結果的に古典落語を衰亡から守った。そこがすごい。

 落語はジャズに似ている。特に古典はジャズにおけるスタンダードのようなものか。もはや原曲のままでは通用しない。同じ材料から、各人各様の命題により、或いは個性により、独特の旋律を生みだす。それが、なによりも古典落語というものである。

 文楽は、演目がすくなかった。本質的には不器用の人ともいわれた。そうして、絢爛たるワザの人ともいわれている。もちろん、すばらしい表現力に感嘆するけれども、その手前に、古い話をどうやって自分の命題に沿った形に造り直すかという問題があったはずである。私はむしろ、その点が演目のすくない理由だったと思う。自分の命題に沿えない話は演じない。そのうえ、ジャズがあくまでジャズであるように、あくまで古典落語として造り直すのである。

 いったん造り直した落語を、形式的に昇華するまで練る。これにも時間がかかったろう。そうしてそんな命題を表面にはケも見せない。

 ワザだけの伝承者ならば、才のある人はまだ他にもい居る。いったん命題化し、それに沿って形象化するというむずかしい作業をやっている落語家が他に居るだろうか。不器用といわれ、たしかに時間がかかり、苦闘もしてけれど、それは当然のことではあるまいか。

 たとえば円生は、芸界の家に生まれ、芸に生きることを当然として育った。円生の芸は、芸の道を本筋として考える人の芸だったと思う。文楽や志ん生は、ただの庶民の子で、自分流の生き方をつかむまでじたばたし、手探りで芸の道に来た。せんかたないことながらそこがちがう。彼らはもともと特殊人ではなくて、普通人のはずれ者なのである。この点、当代の志ん朝と談志にはめると、どんなことがいえるだろうか。

『寄席放浪記』色川武大(河出文庫)p51〜54。


2010年7月24日 (土)

落語のフレーズ。その魅力とは?

■いろいろと、うまくいかない日々は続いている。
ストレスフルな毎日だ。


こういう場合、たいていみな「不眠症」に悩まされることになるのだが、
幸いなことに、ぼくには「その悩み」がない。


だから、こういう場合の常套手段であるところの「入眠導入剤」や本格的な「睡眠薬」のお世話になったことがない。


その代わり常用しているのが、八代目三笑亭可楽の落語CDだ(七代目じゃなくて八代目でしたスミマセン)。
もう効果絶大。さっきまで、あれやこれや細かいことに気を病んで後悔ばかりしてたのに、例えば、三笑亭可楽の夏の定番「たちきり線香」をポータブル・DVDプレーヤーで流せば、前半1/3 くらい聞いたところで、いつも意識がなくなってしまう。つまり、寝てしまうのですね。


だから、八代目三笑亭可楽の落語CDで、最後までちゃんと聴いて憶えているものは案外少ないかも。ごめんなさい。たしか、あの堀井憲一郎氏も寝る前に「子守歌」代わりに三笑亭可楽の「らくだ」をかけていると言ってたぞ。だから、堀井氏も、可楽の「らくだ」を仕舞までちゃんと聴いたことがないのだ。


これは、よく聞く話だが、上手い噺家の落語を聞いているうちに、なんだか心地よくなってきて、知らず知らずと寝てしまった、なんてことがよくあるらしい。


実際、8代目三笑亭可楽の落語は、聴いていて実に心地よいのだ。
リズム、テンポ。そして、お決まりの「フレーズ」。


人間、あまりにリラックスすると、寝てしまうのだね。


■お決まりの「フレーズ」と言えば、小さな子供たちが「同じ絵本」を何度でも繰り返し読んでもらいたがるのは、お気に入りの場面、お気に入りのフレーズが「その絵本」の中にあるからだ。長谷川摂子さんの講演会で聴いた話だが、長谷川さんが年少児に『どろにんぎょう』内田 莉莎子・著、井上洋介・絵(福音館書店)を何度も読んであげていて、子供たちは、物語の後半にヤギの角で「どろにんぎょう」のおなかが「ぱ〜ん!」て割れる場面がくるのをじっと待っているのだそうだ。そして、長谷川さんといっしょになって、大きな声で「ぱ〜ん!」と言って、とても満足そうな顔をするという。


ぼくはこの話を聴いて、落語も同じだなぁと思った。
同じ噺を何回聴いても、落語は面白い。飽きることがない。
桂文楽の「区役所〜ぉ!」が有名だが、落語も「フレーズ」で聴かせる芸なんじゃないかな。
そんなことを思ったのでした。

2010年3月15日 (月)

田舎者よのう

■つくづく思うのだが、サブカルにしても伝統芸能にしても
あらゆる「文化的活動」をライヴでリアルタイムに体験するためには
東京に住んで暮らすしかないのだなぁ。


例えば芝居。小劇場から歌舞伎、オペラまで、伊那に居ては
観たいときには観られない。
もちろん、伊那市民劇場はあるし、伊那文化会館にオペラが
来ることだってある。岡谷カノラホールや塩尻レザンホール、
松本市民会館まで範囲を広げれば、けっこう芝居は見れるか。


でも、落語はダメだな。
聴きたい落語家さんの独演会とか、寄席にぶらりと入ったりとか、
やっぱり落語は都会の文化なんだね。


映画だってそうだ。評判でも単館上映のマイナーな映画は
田舎の映画館では絶対にかからない。だから、伊那にも「伊那シネマクラブ」
があって、一生懸命フォローしてくれてはいるが、
結局は DVD になるのを待って TSUTAYA で借りてくるしかない。


ましてや、クラブなんて一度も行ったことない田舎者だ。


だから、ネット生中継の「dommune」にはぶったまげた。
イヤだね、いなかもんは。

日曜日から木曜日まで毎晩 21:00〜24:00 渋谷のクラブから生中継されている。
今更だが、DJって、カッコイイね。
ジャズとか、こういうふうに使ってるんだ。
選曲の妙、曲をチェンジするタイミング。
川の流れのように、全体で大きな1曲になっているんだね。
なるほどなあ。


でも、この生中継を見てて面白いと思ったのは、右画面で
次々と リアルタイムで Twitter が呟かれることだ。
これって「ニコニコ動画」のコメントよりも楽しい。
だって、いま日本中で 5000人近くの人が同じ生中継を見て聴いていて、
からだ揺すっているかと思うと、楽しいじゃん。
クラブ疑似体験。


■ほんとに、ありがたい時代になったもので、
田舎に居ながらネットで落語も聴けます。
リアルタイムはまだ無理だけれど。

「ニコニコ動画」が一番充実しているかな。著作権無視の違法アップが多いのだが。


オススメは、
落語協会が流している「インターネット落語会」だ。
以前は、Mac では見れなかったのだが、YouTube に移行したので
だれでも見られます。


今月のナビゲーターは、なんと、我が家の家族全員で贔屓にしている
三遊亭金翔さん。

林家たい平さんも、柳家喬太郎さんも、若いねぇ。
髪の毛黒いし、顔細いし。
これは貴重な映像だ。


見てね!

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