2020年12月10日 (木)

ぼくが大好きな映画ベスト30 +おまけ

■NHKBSP では、平日の午後1時から「プレミアム・シネマ」として、懐かしい渋い映画を放送している。ヘップバーン特集とか、マカロニ・ウエスタン特集とかね。

だから毎朝、中日新聞のテレビ欄をチェックしては、ブルーレイ・ディスクにせっせと録画予約している。WOWOW はね、フォローしきれないからノーチェックだ。あとで「オンデマンド」でも見ることができるし。

そんなかんなで録画したブルーレイ・ディスクは、すでに 100枚以上。でも、まだ1枚も見ていない。時間がないからだ。いったい何時見るのだ? Amazon prime にも無料で見たい映画がいっぱいあるというのにね。

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■さらに、昔レーザー・ディスクで買って捨てられずにいまだに持っている、思い入れの強い映画を、ブルーレイで買い直している。いったい何時見るのだ?

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高校生の頃から今までに見てきて、大好きな映画を並べてみた

1)「東京物語」小津安二郎(1953)

2)「マル秘色情めす市場」田中登(1974)

3)「ストーカー」アンドレイ・タルコフスキー(1979)

4)「八月の濡れた砂」藤田敏八(1971)日活

5)「牯嶺街少年殺人事件 」エドワード・ヤン(1991)

6)「ツィゴイネルワイゼン」鈴木清順(1980)

7)「エル・スール」ビクトル・エリセ(1983)

8)「まぼろしの市街戦」フィリップ・ド・ブロカ(1966)

9)「性賊/セックスジャック」若松孝二(1970)

10)「恋恋風塵」侯孝賢(1987)

11)「サウダーヂ」富田克也(2011)

12)「パリ・テキサス」ヴィム・ヴェンダース(1985) 

13)「隠し砦の三悪人」黒澤明(1958)

14)「ギルバート・グレイプ」ラッセ・ハルストレム(1994)

15)「冒険者たち」ロベール・アンリコ(1967)

16)「十九歳の地図」柳町光男(1979)

17)「タンポポ」伊丹十三(1985)

18)「ヒポクラテスたち」大森一樹(1980)

19)「ゆきゆきて、神軍」原一男(1987)

20)「長靴をはいた猫」東映動画(1969)

21)「青春の蹉跌」神代辰巳(1974)東宝

22)「0課の女 赤い手錠(わっぱ)」野田幸男(1974)東映

23)「七人の侍」黒澤明(1954)

24)「切腹」小林正樹(1962)

25)「秋刀魚の味」小津安二郎(1962)

【大好きな映画の拾遺】

・『股旅』市川崑(1973 ATG)萩原健一主演、尾藤イサオ、小倉一郎共演。

この若者3人組がメチャクチャ格好悪い。ロケの多くが長野県伊那市長谷村で撮影された。尾藤イサオは破傷風になる。市川崑はこの後『木枯し紋次郎』を撮ることになる。

・『ル・アーヴルの靴みがき』アキ・カウリスマキ(2011)。

カウリスマキ監督作品は見たいのだけれどなかなか見れない。あと見たのは『過去のない男』のみ。映画館に行けないからね。年老いたロッカーがいい。それから妻役の常連カティ・オウティネン。あはは!の外したラスト。

・『お嬢さん乾杯』木下恵介(1949 松竹)。
 
佐野周二がいい。サンモニ司会、関口宏の父親。小津『麦秋』でのチャラい上司と部下の関係の佐野と原節子もいい味出してるが、原節子の魅力を最大限に引き出したのは、この映画の木下恵介じゃないかと思っている。
 
 
・『さらば愛しき大地』柳町光男(1982)根津甚八・秋吉久美子・蟹江敬三。
 
静かに壊れてゆく根津甚八がとにかく素晴らしい! 茨城県で大学生活を過ごし、土浦東映の最前列でタバコを斜めにくわえながら、この映画をみた。沁みた。
 
 
 
・『枝葉のこと』二ノ宮隆太郎(2017)
 
監督主演の二ノ宮クンの佇まいが見せる。それから、役者木村知貴をこの映画で発見した。『父とゆうちゃん』田口史人(リクロ舎)を読んでいて、舞台も同じ横浜だし構造的にも共通する部分がある。赤石商店で観た。
 

・『フォロー・ミー』キャロル・リード監督ミア・ファロー主演(1972)。

原題は「The Pubrlc Eye」私立探偵のことは「Private Eye」と言う。ジョン・バリーの主題曲は、林美雄ミドリブタ・パックのクロージング・テーマだった。周防正行『Shall we ダンス?』に映画のポスターが

・『霧の中の風景』テオ・アンゲロプロス(1988年/ギリシャ映画)

アンゲロプロスの出世作『旅芸人の記録』は未だ見ていない。上映時間6時間だからね。ビデオもDVDも持ってないし、ネット配信もされていない。でも、いま一番見たい映画かもしれない。

『アレキサンダー大王』と『シテール島への船出』は、レーザー・ディスクで持っている。でも、何度も見直す映画じゃないな。長すぎる。

でも、『霧の中の風景』は何度でも見たい。今でも心に残る印象的なシーンが幾つもあるから。それに、主役の2人が子供なのがいい。

・『タレンタイム』ヤスミン・アフマド監督作品(2009)マレーシア映画

この映画は最近観た中でも特に印象深い愛おしい1本。松本シネマセレクトと「赤石商店」とで2回観た。

女性監督のヤスミン・アフマドさんは、2009年にまだ51歳の若さで亡くなる。脳出血だった。「赤石商店」で今年の8月に観た『細い目』もオススメ!

■しばらく前だったか、麒麟特製レモンサワー(9%)を飲んで酔っぱらったとき、ふと思い付いたことがあった。

上記に挙げた 33本の映画を、ランダムに「赤石商店」の蔵のミニシアターで上映できないだろうか?

もちろん、上映無料。ぼくが見たい映画を、DVDで「赤石商店」さんに所場代払って大画面でもう一度観る。その時に、いっしょに見てもいいよって人がいたら、無料で見れますよ! っていう映画会だ。

町山智浩さんみたいな映画解説はとても出来ないけれど、上映終了後にぼくの個人的な解説を加えることも出来るかもしれない。

ねえ、これって案外おもしろい企画じゃないかな?

2020年11月 3日 (火)

『物語を売る小さな本屋の物語』鈴木潤(晶文社)

■このところずっと、元気のいい女性が書いた「エッセイ」を続けて読んでいる。

ブレイディみかこさん、伊藤比呂美さん、そして、鈴木潤さん。

『物語を売る小さな本屋の物語』鈴木潤(晶文社)を 110ページまで読む。四日市のメリーゴーランド本店店主の、増田善昭さんとの掛け合いが面白いな。少林寺の師匠にして、はちゃめちゃな上司。苦労が絶えない。(2020/10/31 のツイートより)
 
■でも、落語家の一門と同じなんだね。入門が許された弟子は、師匠から芸と作法を習い教えてもらって、自分流にアレンジし、その芸をさらに高く発展させて行く。ただ、あくまでもオリジナルの基本を身につけ、それを継承してゆくことも大事。
 
だけれども、師匠をそっくり真似してたんじゃあダメだ。師匠の完全コピーなんて、誰も期待しない。
私と増田さんは性格が似ているところがあって、お互いの言い分をぶつけて喧嘩になることがしょっちゅうだった。(中略)天真爛漫ですぐに調子のいいことを言ってあとで自分やスタッフの首を絞める社長にイライラしつつも、(少林寺拳法の)道場ではやっぱり尊敬すべき存在ということを再認識できるのだ。(p83〜84)
 長く一緒にいたからなのか、私と増田さんは呆れるくらい似ているところがある(p87)
しょっちゅう喧嘩をするし、ぶつかり合うけれど増田さんの思想や思いは私の中にしっかりと詰まっている。
 
私たちはとにかくよく働き、よく遊び、よく旅をし、よく話し、よく読み、よく食べ、たくさんの人に会った。増田さんは社長で少林寺拳法の師匠である。そして本に対する情熱、子どもの本専門店として在り続ける意義、縁を大切にすること、恩義を忘れないことなど本当にたくさんのことを増田さんから学んだ。
 
気が付けば全て自分らしく生きることに繋がっているのだ。私にとって増田さんは父親のようであり、親戚の叔父さんのようでもあり、憧れの先輩のような存在でもあり、今でも一番のライバルなのだと思っている。(p89)
 
 

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■京都一の繁華街「四条河原町」を南へ少し下った東側の「寿ビル5F」に、鈴木潤さんが経営する『メリーゴーランド京都』はある。河原町通りに面した一等地。でも、地元京都の人たちはこう言う。

「河原町でも、四条より下へはよう行かへんわ」

■増田善昭さんがやっている、三重県四日市にある児童書専門店『メリーゴーランド』の初めての支店として、2007年9月17日に『メリーゴーランド京都』はオープンした。従業員兼店長の鈴木潤さんが、ひとりだけで業務(現在は2人体制)する。

支店とはいえ、まったくの独立採算制。本店からの経済的支援はない。

赤字が続いて、店長がくじけてしまえば、それでお終い。キビシイ世界だ。

  だけど彼女はくじけない。

  泣くのはイヤだ、笑っちゃお

  進め〜〜!

 「私のモットーは『当たって砕けろ』だ。」

■もともと、京都の店も、社長の増田さんがある日突然「京都に店出すぞ。潤、京都に行くやろ?」と言い出して、彼ひとりだけの突然の思いつきで始まったプロジェクトだ。

 増田さんはきっと今までだって目に見えない何かに突き動かされて、まだ見えないどこかに向かってきたのだろう。書店の経験も全くない25歳の増田青年がある日突然「子どもの本屋をやりたい!」と言い出し、どんどんいろんな人を巻き込みながら店を作ってきたことだってきっとそういうことなのだ。

 私にはこの「根拠のない自信」がとてもよくわかる。(中略)

 私たちは目の前に波があったらとりあえず乗りたいタイプで、その波が大したことなくても、怪我をしたとしても「乗った」ことが大事。「逃した」ことで後悔したくないのだ。

そういえば増田さんはサーファーでもあった。(p97)

■本の後半、京都での仕事・生活が落ち着いてきた彼女は、京都の男性と出会い恋をし、結婚した。そして2人の男の子の母親になる。

ただ普通の人とちょっと違っていたのは、その男性が「徳正寺」という有名なお寺さんの後継ぎであったことだ。住職で父親の秋野等氏は陶芸家で、その母「秋野不矩」(あきのふく)は大変有名な日本画家という芸術一家だ。

■おおっ! 秋野不矩。以前に浜松を訪れたさい、旧天竜市にある「秋野不矩美術館へ行ってきたのだ。不思議な外観、内装の超個性的な美術館で、設計はあの藤森照信氏。

ちなみに、京都「徳正寺」にも、藤森照信氏が設計した茶室「矩庵」がある。

■大変な芸術一家のお寺さんだから、当然、潤さんの夫「迅くん」もただ者ではない。彼は僧侶という本業のかたわら、

文章を書いたり本の編集やデザインをしたりしている。古本屋めぐりが大好きで、仲間内から「ブッダハンド」と呼ばれている。古書善行堂の山本善行さんさんが古本屋の均一台から煌めくような本を探し出すことから、「ゴッドハンド」と呼ばれていていたことがあり、迅くんも時々そんなことがあったので神に対して仏ということで「ブッダハンド」と呼ばれるようになったのだとか。(p154)

 お互いに好きな作家も読む本も全く違うのだけれど、私は迅くんの言葉や本に対する思い、縁を大切にする人との付き合い方などとても尊敬している。なので時々私の書いた文章を「ええやん」「面白かったわ」と言ってもらえるととても嬉しいのだ。違うけれど同じ方向を向いている。同じだけれど時々違う方向も向く。

わたしたちはそんな夫婦だと思っている。(p157)

その続きを読んで行くと「荻原魚雷さん」の名前が!

おお、迅くんと友だちなのか。しかも、荻原魚雷氏は潤さんと同郷(三重県)なのだ。さらに、ぼくはいまちょうど『中年の本棚』荻原魚雷(紀伊國屋書店)を読み始めていたところだったのだ。

なんか、妙なシンクロニシティだな。

よのなか、不思議な縁でつながっているのかな? 

 ■以下、付箋を貼ったところなど。

もし学校生活に満足していたら、彼氏ができてバイトで稼いだお金で楽しく遊んで暮らしていたら、今のように本屋をやっていなかったかもしれない。

 人生は間違いなく繋がっている。「一生の汚点」と思い出したくないようなできごとも、「一生の不覚」と誰にも話せないようなできごとも含めて、その点と点が繋がって蛇行する川の流れだ。ボタン一つでリセットなんてできるわけがないのだけれど、人は良くも悪くも「忘れる」のだ。

私は自分に都合の悪いことや嫌だったことはちょっと隅っこに置いておいていつもは忘れているのかもしれない。「忘れたいこと」「絶対忘れたくないこと」「自慢したいこと」「つまらなかったこと」などなど全部ひっくるめて私の人生なのだ。(p47〜48)

美味しい料理の条件はまず第一に素材の良さ。次にどんな器に盛り付けるか、つまり見せ方。そして場の雰囲気だろうと思う。

 つまり、味はほどほどであれば良い。どんなに美味しい料理だって重苦しい雰囲気の中でそんなに好きでもない人たちと食べれば味も半減だろう。(p174)

 親は子どもが独り立ちするまでに色んなことを伝えたいと思うだろう。それには様々な方法がある。野生動物ならそれが狩りの仕方だったり、安全な寝ぐらを確保する生き抜くための術なのだろう。

 けれど本で伝えたいのは目には見えないものだ。それは薄ぼんやりした気持ちの揺らぎだったり、人に話さずにはいられないような感動だったりするだろう。それを言葉で話して伝えようとするのはとても難しい。けれど本でなら、すぐには確信できないかもしれないけれど心のどこかにそっと種をまくことができるのだと、私はブッククラブや店に来てくれるお客さんから教わったのだ。(p180)

 本は決して特効薬ではない。けれど行き場のない思いやどうしようもない悲しみ、何だか落ち込んでしまっている状況を少しだけ方向転換するきっかけをもらえたりするのだ。(p186)

 何気ない会話だったけれどみなさんとても仲よさそうで、楽しげで私までなんだか嬉しくなった。こんな風に一言二言だけでいいのだ。旅行で訪れた人も地元の人もさり気無いやりとりだけでいい一日が過ごせるような気持ちになるものだ。

道ですれ違う人みんなと会話するわけにはいかないけれど、店に来てくれた人が「今日は良い一日だった」と思えるひとかけらをメリーゴーランドで感じてもらえたらこんなにうれしいことはないと思う。(p229)

■「おわりに」を読むと、これまた驚いたことに NHKの歴史番組でよく拝見する磯田道史先生とは、息子さんたちの小学校で兄弟ともに「同じクラス」で、家族ぐるみのお付き合いをしているとのこと。

■それから、これは最初にツイートして失礼かと削除してしまったことだけれど、「この本」の表紙の色が、何とも懐かしい見覚えのある色合いなのだ(思い出した! ぼくの実家の便所の便器の色と同じ色なのだった。失礼いたしました、ごめんなさい。 あと、うちのブログの背景色も、なんだ同じ色じゃん!)

Blue In Green」は、マイルス・デイヴィスの名盤『カインド・オブ・ブルー』A面3曲目に収録された、ビル・エヴァンス作の印象的な楽曲だが、「それ」に「薄い灰色」を混ぜた感じの色なんだな。

どうして「この地味な色」が表紙のカラーに選ばれたのか? その答は 115ページに載っていた!

「メリーゴーランド京都」のお店に並ぶ本棚の色がみな、この色なのだった。

■前回京都へ行ったときは「古書善行堂」と「ホホホ座」には行ったのに、「メリーゴーランド京都」は訪れなかった。すぐ近くの、四条河原町の高島屋前にはいたのにね。残念。

追記)2020/12/09 

■録画してあった NHKBSP『英雄達の選択』「100年前のパンデミック〜“スペイン風邪”の教訓〜」を見る。大正時代、パンデミック下の京都で 12歳の少女が日記を付けていた。司会の磯田道史氏が訪れたのは、京都市の徳正寺。応対する住職は、井上迅(扉野良人)さん。なんとも優しそうで穏やかな風情の人だ。

続き)そう「メリーゴーランド京都」店主、鈴木潤さんの夫で、磯田道史先生とは家族ぐるみで友だち付き合いをしてるって、本にも書いてあったな。扉野良人(とびらのらびと)さんて、後ろから読んでも同じトマトみたいな回文になっているんだ!

『絵本といっしょに まっすぐまっすぐ』鈴木潤(アノニマ・スタジオ)を読んでいる。こんなふうに読み手に届く文章を書きたいものだ。例えばこんな文章。 「私が本を好きな理由のひとつに、『しあわせなため息』があります。一冊の本を読み終わり、本を閉じるのと同時に、体の中に言葉がおさまっていく

続き)というか、染み込んでいくのをじっと待つとき、思わずもれるため息。この感覚を何度も味わいたいけれど、なかなか出会えるものではありません。」32ページより。(2020/11/10)

『中年の本棚』荻原魚雷(紀伊國屋書店)を読んでいる。面白い! これは!と思ったのが「上機嫌な中年になるには」p32〜40。取り上げられている本は、田辺聖子の『星を撒く』。中でも「余生について」と「とりあえずお昼」それと、1つしかない不機嫌の椅子を夫婦で椅子取りゲームしてること。(2020/11/05)

ある程度の長さの文章を、毎日書き続けることが案外大事なんだな。ジムに通って筋トレするみたいに、日々の鍛錬が「読んでもらえる文章」を書くコツなのかもしれない。そのことは、黒猫の田口さんの文章を読んでいて、しみじみ実感することだ。見習わなければな。

140字以内のツイートばかりじゃ、ダメなんだよ。(2020/11/05)

2020年10月31日 (土)

伊藤比呂美『道行きや』(新潮社)が面白い!

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■『道行きや』伊藤比呂美(新潮社)は傑作だ。

以下、ツイートした文章を編集。

伊藤比呂美『道行きや』(新潮社)を読み始める。面白いなあ。『良いおっぱい悪いおっぱい』の頃からずっと、この人の文章が好きだ。読んでて元気が出る。bastards って「ゴースト・バスターズ」のそれだよね。引いたら、ろくでなし・くそったれって意味だ。

追記)2020/11/03  khさん がコメントしてくれました。

「ゴーストバスターズはGhostbustersです。動詞のbustは捕まえる、といった意味のスラングです。」

ありがとうございました! スペルが違うのですね。お恥ずかしいです。よく調べもせずに、無知をさらしてしまったなあ。反省。

表紙の「道行きや」の下に載っている英語が気になる。

「 Hey, you bastards! I'm still here! 」

ググったらすぐに分かった。映画『パピヨン』のラストシーン。椰子の実で作った浮き輪につかまったスティーブ・マックイーンが叫んだ言葉だった。おお、僕も映画館で観たぞ! オリジナルの『パピヨン』。

サントラがね、泣けるんだよ。検索したら、映画の脚本は、赤狩り(マッカーシズム)でハリウッドを追放された『ローマの休日』を書いた脚本家:ダルトン・トランボだったんだね。知らなかったな。

それを思うと、すっごく深いよね。この映画の主題。

続き)ツイッターはフォローしているので、カリフォルニアから保護犬のジャーマン・シェパードを連れて日本(熊本)に帰国し、早稲田で文学を教えていることは知っている。『犬心』も読んだから、彼女が以前に飼っていたジャーマン・シェパードのことも知ってるよ。だから、「鰻と犬」はハラハラだった。

続き)これは!と思ったのが、その次の「耳の聞こえ」だ。31ページ。

「違うのだ」と父も夫もくり返した。

「正面から向き合ってしゃべってくれ」

「1音1音はっきり話してくれ」

「高音のサ行やカ行はとくに聞きにくいから、低い声で発音してくれ」

「固有名詞はゆっくりと確実に発音してくれ」

これはつい最近知って驚いたことだが、補聴器ってめちゃくちゃ高いんだね。軒並みうん十万円する。義父の耳の聞こえが悪いので「補聴器を買い換えたら?」と言ったら、妻に怒られた。伊藤比呂美さんは、難聴の老人の苛立ちと恥ずかしみ、やるせなさ、悔しさを「humiliating」という単語で表現する。

あ、「屈辱的」っていう意味ね。

伊藤比呂美『道行きや』(新潮社)の続きを読む。「粗忽長屋」「燕と猫」「木下ヨージ園芸百科」「むねのたが」メガネをなくし、鍵をなくし、とにかく物をなくす。落とす。そして忘れる。一つのことに集中できない。ADHDには、いま、いろいろと良い薬が出ている。生き辛さが酷ければ、それもいいのでは

でもそれだと、彼女の溢れ出る芸術的衝動が損なわれてしまうような気もする。むずかしいな。「燕と猫」はちょっと怖い。熊本には川があって、その遊水池には様々な植物が繁茂している。夕暮れ。椋鳥は南へ向かい、燕は遙か上空から葦原へ落下する。まるで死に向かうみたいに。

引き続き『道行きや』伊藤比呂美を読んでいる。「山のからだ」は、彼女にしか書けない真骨頂だな。熊本の彼女の家から東方にそびえる立田山には、山の神が三体在る。彼女は三体目の山の神に気に入られている。山を人体とすれば、ちょうど臍下くらいの場所(子宮か丹田)に、その小さな石の祠がある。

山の臍下だから、かなり奥まったところにあって、彼女は犬を連れてそこに行くたび、そこから戻るたびに迷って、数時間歩き続けた。彼女はその「石の祠」に前に立ったとたん、全身をわしづかみされたような気がした。これまで感じたことのない感覚で、信じたこともない何かだったという。

その「石の祠」が醸し出す異様な妖気に当てられたには、彼女だけではなかった。

ところが、山の神の在るところに近づくにつれて、犬が歩かなくなっていった。後ろから何かが来るというような。聞き慣れぬ音がするとでもいうような、そんな様子で何度も後ろを振り向いて、立ち止まって動かなくなっていった。焦れて呼んだら、ぺたんと座って、赤いペニスを出して、首をかしげてこっちをみつめる犬は、ほんとうに美しかった。(88ページ)

続き)『もののけ姫』の森のイメージを匂わせつつ、もっとアメリカ的な「荒野」とか「野生」とかを感じる。なにか、生き物と自然の織りなす根源的な「生」と「エロス」を体感させる文章だと思いました。クラカワー『荒野へ』(集英社文庫)を思い出したな。

■伊藤比呂美さんは、アメリカでよく「オノ・ヨーコに似ている」と言われたそうだ。そうかなあ? と僕は思う。日本からアメリカへ渡った「ヨーコさん」はオノ・ヨーコ(彼女は、日本→ロンドン→ニューヨークだけれどね)だけではない。比呂美さんの周囲にはヨーコさんがいっぱいいる。

陽子さん、容子さん、耀子さん、瑤子さん、洋子さん。あれ? もっといたっけ……。

アメリカで「グリーンカード」を取得することは、移民としてアメリカに永住権を得ることだ。アメリカに住み続けること、税金は払うこと、でも選挙権はないことを約束させられる。異邦人として。日本領事館へ行けば、日本のパスポート更新ができる。でも、日本に帰ってそのまま居続けることはできない。

比呂美さんは、結局「市民権」を取得する。「永住権」と「市民権」、アメリカ在住の日本人はみな悩む問題なのだそうだ。さらに厄介なのは、アメリカ人と結婚した日本人女性が、離婚して子供を連れて日本に帰国しようとすると、アメリカには「ハーグ条約」っていうのがあって、監護権のある親(アメリカ人の父親)から同意なしに子供を国外に連れ去ってはいけないという条約。アメリカで暮らすということは、想像できない様々な不都合があるのだな。

『道行きや』伊藤比呂美 読了。熊本、カリフォルニア、東京、新潟、名古屋、ポーランドと、彼女は常に疾走する。走り続ける。タンブルウィード(転がる草)みたいに。転がる石じゃなくて、もっと軽やかに世界を駆け巡る。かっこいいなあ。

「量も、動きも、存在も、いかにも過剰だった。過剰なのだった。過剰に吹き寄せられ、過剰に吹き溜まり、風が吹くと、風なら、絶え間なく吹きつづけていたのだったが、次から次へと路上に転がり出ていって、車に轢き潰された」

2020年8月28日 (金)

最近観た映画『ゆきゆきて神軍』と『細い目』のこと

■この8月中旬以降に観た2本の映画について。ツイッターに投稿した文章を改編して載せます。

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■■ 原一男監督作品『ゆきゆきて神軍』■■

【8月16日】 原一男監督作品『ゆきゆきて神軍』を「まつもと市民芸術館小ホール」まで行って観てきた。初見は 1988年1月松本中劇シネサロンで確か観ている。なんと!32年ぶりの再見だったが、今回の方が圧倒されたし、いろいろ腑に落ちた。奥崎謙三は映画撮影時62歳。僕もこの9月で62歳になる。今こそ必見の映画だ。

初見の時は、奥崎謙三の強烈な個性と行動原理にただただ圧倒された。革靴履いたまま、かつての上官を平気で殴る蹴る。トンデモナイおやじだ。そう思った。この映像の場面だ。


YouTube: Do you want the police? - The Emperor's Naked Army Marches On (1987)

奥崎謙三は言う。「私は、責任も取らずにのうのうと生きている人間が許せないのだ」と。その頂点にいるのが「ヒロヒト」だと。

日本は、75年前から今でも何にもまったく変わっていない。誰もちゃんと責任を取らない。そういうことがめんめんと繰り返されている。奥崎謙三は、トンデモナイ性格破綻者であり、世間に迷惑な犯罪者ではあるのだが、彼のこの「行動原理」はまったくもって正しい。「ヤマザキ、天皇を撃て!」奥崎はそう叫んで、パチンコ玉を打った。

彼はずっと、たった一人で国家権力に対し真っ向から刃向かった。

そのためには、暴力を行使することも致し方ない。それが彼の考えだ。

ただ、自らが犯した暴力に関しては、ちゃんと責任を取って刑務所に入った。で、刑期を満了して出所した。それは、彼がピストルを発砲し相手に重傷を負わせた最後の犯罪においても、責任を果たし刑期を満了して出所している。奥崎はいつでも、ちゃんと自分で責任を取って落とし前を付けてきたのだ。それが彼なりの仁義、流儀だった。

■近畿財務局勤務で公文書改ざんを強いられ、自殺に追いやられた赤木俊夫さんの妻、赤木雅子さんが「この映画」を観終わったあと、原一男監督と会ったそうだ。彼女も、たった一人で国家権力に立ち向かおうとしていた。

https://hbol.jp/226688

この映画を観ていてちょっと感動するのは、奥崎の2歳年上の奥さんが、彼のことを絶対的に信頼しいっしょに行動しているとこだ。彼のために、何度も別人(ニューギニア戦線部隊兵士の遺族)のふりもしている。でも、苦労が絶えなかったんだろうなあ。奥崎が収監されたあと、まだ60代だったのに、一人淋しく亡くなる。

■【『ゆきゆきて神軍』追補】:映画が始まって暫くして笑ったのが、奥崎が兵庫県警の公安担当に電話すると、相手は即座にやって来て「先生、今後のご予定は?」と訊く場面だ。警察が奥崎のことを「先生」とヨイショしていて、奥崎はまんざらでもない、いや当たり前だと思っていた節がある。


YouTube: ゆきゆきて神軍 YukiyukiteShingun (introduction)

映画上映後のアフタートークで、リモート出演した原監督はこう言った。「彼の最終目標は、新たな宗教の教主になることだった」と。あの狂信的なパワーの源は、強烈なコンプレックスの裏返しだと。俺のことを、俺が生きた証しを認めてくれ!という切実な願望だったのだと。

奥崎は原監督に言った。「あなたは何故『センセイ』と呼ばないのか?」と。先生と呼んだら、二人の関係は「師弟」になってしまう。弟子になってしまったら、映画は撮れない。あくまでも対等の関係でなければ。さらに、奥崎は最後に実行することになる犯行計画を原監督に明かしていた。その犯行場面を映像に撮れ! と。さすがにそれだけは出来ない。原監督は奥崎に言って断った。


YouTube: ゆきゆきて、神軍 予告編

■奥崎が島根県山中に暮らす妹尾元軍曹を訪ね、突然激高した奥崎は元上官をボコボコ殴り床に組み伏せた。妹尾は首だけ起こしカメラに向かって「いいか、ちゃんと撮れよ!」と言った。暫くして家人に呼ばれた近所の男達3人に逆に押さえつけられ一気に情勢は逆転。

こんどは奥崎が顔だけカメラに向けて情けない表情で「おい、撮るな!止めろ!」と言うシーンには笑ってしまった。妙なユーモアがある映画だったな。

■ぼくが何故、奥崎に惹かれるのかというと、彼がアナキストだからだ。ぼくが大好きな殿山泰司がアナキストだった。奥崎にも同じ匂いがした。伊藤野枝にも、金子文子にも。そして、赤木雅子さんにも!

ガンバレ!! 赤木さん。

2020年8月 4日 (火)

医院の冷房室外機が故障した

■とうとうブログの更新間隔が2ヵ月以上も空いてしまった。

言い訳をすれば、6月7月と忙しかったのです。

これは以前にも書いたことだけれど、ぼくに降りかかるトラブルの多くが6月に集中して発生するのだ。で、今年の6月にも実はいろいろあった。一番大変だったことはここには書けないが、2番目に起こった大変な事態が、医院の冷房システムの室外機(大きなファンが縦に2つ並んでいる)の下のファンが、回らなくなってしまったことだった。

■毎年6月に、医院の冷房システム(本体機械は天井裏に設置され、ダクトで各部屋に冷気が送られている)の点検をダイキンにお願いしているのだが、何かあるといつでも松本から駆けつけてくれる担当氏が点検終了後にこう言ったのだ。

「室外機の下のファンが故障して回らなくなっています。設置して20年以上経つので、交換部品はなく修理は不可能です。上のファンは生きてますので、まだ冷房は使えます。ただし、猛暑で外気温が上がると、ファン1つだけだと熱放散が追いつかずオーバーヒートして、システムが止まってしまう恐れがあります」

僕:「ええっ!? ということは、この夏は冷房が使えないってことですか?」

ダイキン:「はい。システムを全取っ替えするしかないですね。屋根裏から本体を取り出して新しいものに交換するには、天井に大きな穴を開けて、しっかり足場を組んでかなり大がかりな工事が必要になります」

ぼく:「えええ!!?? でも、冷房なしでこの夏を乗り越えることはできないので、医院を設計施工した住宅メーカーのリフォーム担当者に訊いてみます。 ところで、取りあえず冷房を使っていてオーバーヒートしてしまった時には、どうすればいいんですか?」

ダイキン:「あ、水をかけて下さい。室外機に。裏側の放熱板にです」

・ 

■天井に大きな穴を開けて機械を入れ替える大工事。それは大変だ。めちゃくちゃ費用もかかりそうだ。いやまてよ? 天井裏の装置はそのままで、医院の各部屋に家庭用のエアコンを必要数設置したほうが安上がりなのではないかな?

ただ、ヤマダ電機や「ジャパネットたかた」で格安エアコンを購入し設置工事してもらうことは出来ない。電機の配電盤、配線、ツーバイシックス構造と断熱材の配置。そうしたものを熟知した住宅メーカーを通さないと、結局エアコン設置はできないのだった。世の中すべて、そういうふうに出来ているのだ。

住宅メーカーのリフォーム部に見積もりを出してもらった。ををを! 結局○00万円近くかかるじゃないか…… しかし、夏はすぐそこまで来ている。時間がないとハンコを押した。8月上旬には着工できるとのこと。よかった!

■ただラッキーだったのは、7月が冷夏だったことだ。確か去年は7月初めから30℃以上の猛暑が続き、こんなんでマラソンできるのか? と、IOCから言われた東京オリンピック招致委員会はしぶしぶマラソン・コースを札幌に変更した。ああ、思いだしたよ「こんなに暑くて、ほんとに東京オリンピック開催できるの? トライアスロンが行われるお台場は、大腸菌ウヨウヨで大丈夫なの?」たぶん多くの人たちがそう感じていたはずだ。

ところが! 今年は長雨が続き涼しい毎日。医院も窓を開けるだけで心地よい風が待合室に吹き込み、冷房を入れる必要がまったくなかったのだ。

しかし、さすがに梅雨明けした8月になって、冷房なしでは厳しくなった。室外機のファンは一つだけでもなんとか頑張ってくれていた。昨日までは。

■今日の昼休み、午前中は窓を開け放ち外気の風だけで何とか過ごしたが、さすがにダメだ。冷房のスイッチオン。ところが! エラーの表示が出たきり「うん」とも「すん」とも言わない。あっちゃー、オーバーヒートだ。

ダイキン:「あ、水をかけて下さい。室外機に。裏側の放熱板にです」

おおそうじゃ! 水をかけるのじゃ!!

最初はジョウロに水を汲んできて室外機の横に水をかけた。しかし動かない。

次はバケツリレーだ。これはいけるんじゃないか? しかし動かない。

仕方なく妻がカインズホームまで行って、庭の水撒き用 30m のゴムホースを買ってきて自宅の蛇口に接続。ぼくが先端のシャワーの取っ手を握り、室外機裏面の放熱板に連続して放水を「これでもか!」と続けた。

すると「チチチチチ…ゴオゥ〜〜」と室外機のスイッチが入り、上の段のファンが回り始めた。よかった!

院内に冷気が流れる。助かったぞ!!

明日もう一日だけ堪えてくれよ、室外機。

明後日の午後には、新しい空調システム工事が大方終了する予定だ。

それならば、おまえが頑張ってファンを回すのは、明日1日。

ガンバレ! 

暑くて辛かったならば、いくらでも俺が水をかけてやるよ。

コロナ禍で、たぶん患者さんはそんなに来ないから、

30分おきに水をかけてあげる。

だからさ、

明日1日

なんとか

勢いよく

ファンを

回してくれよ!

お願いだからさ。

2020年5月30日 (土)

演者と観客とが「息を合わせる」ことについて

■気がついたら、前回の更新から1ヵ月以上過ぎてしまった。

最近「書きたい」って思うことが何もないのだ。情けない。

コロナのせいだ。

この3ヵ月、小説がまったく読めなくなってしまった。

漠然とした不安に常時覆われていて、小説世界に没入することが出来なくなってしまったからだ。それと、フィクションなら有り得ないような信じられないくらい「くだらない、人をバカにしたような」(アベノマスクとか、スピード感をもってとか、賭け麻雀とか、ブルーインパルスとか)不条理でリアルな毎日の堪え難い苦痛を連日我慢していたら、いつしかすっかり慣れてしまって、小説世界の「リアルさ」が、逆に嘘っぽく思えてきたからかもしれない。悲しい。

■そんな中でちょっと「これは!」と思った文章。

「斎藤環氏の note」

山田ズーニー「おとなの小論文教室」Lesson 966 失われた「息」

■「息を合わせる」ためには、ステージ上の演者同士、それから演者と客席の観客とが、同時に息を吸ってそれから吐く動作が必要だ。

その簡単な例が「お笑い」だ。息を吸いながら笑うのは、明石家さんましかいない。普通、人は笑う時、息を吸って貯め込んでから思い切り「わはは!」と息を吐き出す。それが「笑い」だ。

それで思い出したのが、国立こども図書館の松岡享子さんが、語りの「間」について語っている文章だ。『お話しを語る』松岡享子(日本エディターススクール)98〜101ページ。

ずいぶんと前に書いた(本文を引用・抜粋した)文章(2005/04/05)だが、以下に再録します。

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●彼女は、「間」には基本的にふたつの働きがあると言っている (p98)


 ひとつは、語り手がそれまでに語ったことを、聞き手に受けいれさせる働きです。語り手が、「おじいさんとおばあさんがいました」といえば、聞き手は、「ああ、おじいさんとおばあさんがいたんだな」と思い、心のスクリーンに、おじいさんとおばあさんを描きだします。これに必要な時間が間です。(中略)

 間のもうひとつの働きは、聞き手の気持ちを話の先へつなげていく働きです。さきほどの例でいえば、聞き手が、「ああ、おじいさんとおばあさんがいたんだな」と、その事実をのみこんで、さらに「そして、その人たちがどうしたの?」と、問いかける時間です。つまり、聞き手が、語り手に、話を先へすすめるよううながす時間です。(中略)

語り手に話の先をうながす間は、同時に、聞き手に能動的な聞き方をうながす間でもあることがおわかりいただけるでしょう。間が与えられてはじめて、聞き手は、疑問をもったり、予想をしたり、期待したり、要するに、自分の中で話についてさまざまに、思いめぐらすことが出来るのです。これは、聞き手の側からの話への参加です。


『子どもへの絵本の読みかたり』古橋和夫(萌文書林)を伊那市立図書館から借りてきて読んでたら、また、間の働きのはなしがでてきた。「読みかたりでの「間」について 『間で聞き手を魔法にかける』 



「人間的感動の大部分は人間の内部にあるのではなく、人と人との間にある」

フルトヴェングラー、芦津丈夫訳『音楽ノート』(白水社)

◆2つの「間」について
「間」の取り方というのは、休止のことです。この休止については、「論理的休止」と「心理的休止」があると言ったのは、演出家のスタニスラフスキー(『俳優の仕事』千田是也・訳、理論社)です。(中略)

スタニスラフスキーによりますと、「論理的休止」とは、「いろいろの小節や文を機械的に分けて、その意味をはっきりさせる」休止のことです。文章には、句読点がありますが、それが意味のひとまとまりをつくっています。論理的休止とは、この句読点のところに置かれる「間」のことです。

もうひとつの「心理的休止」とは、「思想や文や言語小節に生命を吹きこみ、その台詞の裏にあるものがそとにあらわれるようにする」「間」のことです。(中略)

たとえば、『おおきなかぶ』を例にとりますと、「おじいさんは かぶをぬこうとしました。『うんとこしょ どっこいしょ』……」というところで、「間」をとります。「うんとこしょ どっこいしょ」という言い方は、おじいさんが力を込めてかぶをにいている様子です。それにつられて、聞き手の方も思わず力が入ってしまいます。「ぬけるかな」という期待が高まります。

このような「間」を置いてから、「ところが かぶは ぬけません」といふうに語りますと、その場のイメージに力を感じていた分、抜けないという事実との落差に意外性を感じていくのです。また、それが楽しくおもしろい読みの体験です。このような「間」が「心理的休止」であるといってよいでしょう。(p64 ~ p74)

●何だか、分かったようなわからんような解説だが、またまた出ました、有名なスタニスラフスキー・システム。このあたりのことを、松岡享子さんは、もっと直感的に分かりやすく説明してくれます。例えば、こんなふうに……


 ところで、間には、ここに述べたふたつの基本的な働きのほかに、もっと微妙な、もっとおもしろい働きがあります。たとえば、場面転換に使われる間とか、聞き手の気持ちをひとつにまとめる間などです。


 お話には、パッと場面が変わるとか、長い時間が経過するとかいったように、そこで話が大きく変わるときや、生まれたときある予言をされていた女の子が、時が経ってその予言の成就する年頃になりました……といったときなど。これは、お芝居でいえば、いったん幕が下がったり、暗転したりするところです。

ただ、お話では、それができませんから、そこで十分に間をとることで、場面の転換を表現します。こうした間は、いわば聞き手の心のスクリーンをいちど白紙にして、そこに新しいイメージを迎え入れる準備をする働きをしているといえるでしょう。


 もっと強力な、もっと効果的な間は、話のクライマックスで用いられる間です。これは、緊張を盛りあげるための間といえばよいでしょうか。たとえば、風船をふくらますときなど、強く息を吹きたいとき、わたしたちは、いったん息をとめて、それから勢いをつけて息を吐きだします。

それと同じように、話のおしまいなどで、だんだん積みあげられていったサスペンスが一挙にくずれるとき、あるいは大きなどんでんがえしがあるときなど、もちあげられ、ふくらんだエネルギーが一気に開放される場面では、この「息をとめる」間がとられます。「エパミナンダス」の話のおしまいで、「エパミナンダスは、足のふみ場に気をつけましたよ、気をつけましたとも」のあとに来る間などがそれです。

 この間は、語り手と聞き手の呼吸を共調させる動きをもっています。わたしは、音楽の演奏でも、物語の語りでも、演劇でも、演者と聴衆が時間を共有して行う芸術では、両者の間に一体感が生み出されるときには、両者は同じ呼吸をしているのではないかと思います。

ともあれ、少なくとも、さきの述べたような、”劇的”瞬間には、両者の呼吸は一致していなければなりません。聞き手は、このときの語り手の一言で、ホーッと緊張をといたり、「ワァーッ」と笑ったりするわけで、そのときには、そろって息を吐かなければなりません。そのための時間、それが間なのです。つまり固唾をのむ時間というわけです。

 このことについて、亡くなった落語家の柳家金語楼が、たいへんおもしろいことをいっていました。金語楼は、あるインタビューで、「人を笑わせるこつはなんですか?」と聞かれたのに対し、言下に、「それは、人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」と、こたえていました。そして、「人間というものは、息を吸いながらでは笑えないものですよ」と、いっていましたが、なるほどと思いました。

そういえば、落語の下げの前には、必ず、たっぷりした間があります。その瞬間、聴衆が揃って、「……?……」と息をとめるからこそ、次の瞬間、一斉にドッと笑えるのです。間には、まちまちに吸ったり吐いたりしている聴衆の呼吸を一致させる働きもあるわけです。(p99 ~ p101)『お話を語る』(日本エディタースクール)

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■この柳家金語楼のはなしが大切なことの「すべて」を「たったひと言」で言い表していて素晴らしいですね。

■同じ頃(2005/1月)書いた文章を読んでたら、こんなのもあった。

「落語」と「絵本」の読み聞かせは、よく似てる?(その1)2005/01/04

松岡享子さんの『お話を語る』については、このページの 2005/01/20、01/21 にも記載があります。

2020年4月26日 (日)

演劇のネット配信は、なぜダメなのか?

■先日、面白い「 note 」の文章を Twitter で教えてもらった。

「家で演劇を観る」という心許なさについて。

 なるほどなあ。自宅リビングだと周りに雑音が多すぎて、お芝居に意識を集中できないから、緊張感が維持できないのか。

「劇場の空間は、否が応でも僕と日常を切り離してくる。」

 ただ、著者も言ってるけど、じゃあ何故「映画」ならスマホで見ても見た気がするのか? それに、この方は役者さんだから、観客としてよりもステージ上から客席を見ている立場にあるはずなのに、その視点がまったくない。どうしてだろう?

 僕も、保育園で「絵本の読み聞かせ」をし、准看護学校で小児科の講義をし、講演会の講師としての経験も多々ある。で、そのつど聴衆の心を如何につかみ取るかで四苦八苦し、外した(スベった)時の、あの波が引いていく感じの怖ろしさを何度も体験した。大切なのは、劇場という閉鎖空間に閉じ込められたステージ上の役者と、客席に座っている観客とが、互いに呼応して醸し出す、あの独特な「その場の空気」なのではないか?

■以下は、『長野医報4月号』の特集「お芝居大好き」の「前文」としてぼくが書いた文章です。実際に載ったのは、この短縮版でちょっと(ずいぶん?)違います。ご了承ください。

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 今や映画は、映画館へわざわざ足を運ばなくても、WOWOW、レンタルDVD、ネット配信で、自宅のリビングや外出先のスマホでも見ることができます。もちろん巨大スクリーンで大音響のもと観たほうがいい映画(スターウォーズ・シリーズとか)はありますが、小さな液晶画面でもそれなりに満足してしまうものです。


 ところが、お芝居は違います。テレビの「劇場中継」を60V型の液晶大画面で眺めても全く観た気がしない。何故でしょうか? 理由は簡単です。「そこ」に自分が「いなかった」からです。

 先日、劇作家・前川知大さんのツイートを読んで「はっ!」としました。


「昨日来た姪(高1)は演劇を観るのがまだ二回目。アニメや映画で育ってきて、演劇はどう思ったかと聞くと。干渉可能性が怖いと。つまり立ち上がって叫べば芝居を壊せるという事実が恐ろしく、客席で緊張するのだと言う。よく客が入って芝居は完成すると言うが、そのことを本質的に理解してるのだな。」


 演劇というのは、ステージ上の役者とフロアの観客とが「共犯関係」にある芸術なんですね。劇場というその場限りの閉鎖空間に「いま・ここ」で役者と観客が息を合わせ(同時に息を吸い、同時に息を吐く)その「一体感」を感じることができる。それが「お芝居」なのです。紀元前5世紀のギリシャで生まれた演劇が、2020年を迎えヴァーチャル技術全盛の現在でも未だ途絶えないという不思議は、まさに「そこ」にあるのだと思います。


 一人芝居の極意は落語です。さらに日本の伝統芸能には能や歌舞伎があります。海外には、シェークスピアの演劇やワーグナーのオペラがあるし、劇団四季のミュージカルや宝塚歌劇の語りきれない魅力もあるでしょう。松本には「まつもと市民芸術館」があって、隔年で「信州まつもと大歌舞伎」が開催され、串田和美芸術監督のもと、日本中の演劇人注目の的となっています。

 もちろん自ら役者としてステージ上で大活躍する人もいます。よく言われますよね『○○と役者は三日やったらやめられない』と。さて、どんなお芝居好きが登場するのでしょうか。

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■先日の昼休み、日テレ『ヒルナンデス』を見ていたら、落語家の「柳亭こみち」さんが出ていた。

 早稲田を出て、英語学習で有名な出版社「アルク」に就職した彼女が、なぜそのキャリアを捨ててまで落語家の道を選んだのか? 

 「たまたま入った寄席(新宿末廣亭)で、初めて落語を聴いたんです。ビックリしました! たった1人でその場の空気を支配し、観客の心を鷲づかみしている。冴えないオジサンが1人ただしゃべっているだけなのに、聞いていて目の前にその風景がありありと浮かんでくる。落語って凄いな! そう思ったんです。」

 柳亭こみち師は、学生時代に熱烈な演劇ファンだったのだそうだ。そんな彼女が、究極の「一人芝居」である日本の古典芸能「落語」に出会った。その時に体験した落語家が、柳家小三治だったんですね。以後、彼女は小三治師の「おっかけ」女子となる。

■新型コロナ禍による緊急事態宣言によって、寄席は閉鎖され、地方の落語会もことごとく中止となった。 Twitter でフォローしている落語家さんはみな、3月からは全くの収入ゼロの日々が続いている。そこで、過去の高座の映像をネットにアップする落語家さんも何人か出てきた。


YouTube: 【重大発表】落語家・春風亭一之輔から皆様にお知らせ【緊急事態】


春風亭一之輔さんは、YouTube でなんと! 毎晩「十夜連続公演」をライブ配信で続けている。画面右横に次々と聴視者のコメントが流れてゆく。なるほど双方向で呼応してはいる。でも、何かが決定的に違う。

やはり、落語でネット配信は無理なんじゃないか。映像をやめて「音声のみ」なら、まだあるかもしれない。だって昔から

落語はラジオで聴いてたし、レコードやCDで聴いてきた。見えないほうが想像力がかき立てられるからね。落語のDVDはたくさん買って随分と持ってはいるけど、ほとんど見ないな。だって、面白くないもの。寝る前にCDで聴いていたほうがよっぽど臨場感がある。

ただ、それを言っちゃあおしまいだよなあ。

すみませんでした。

2020年4月14日 (火)

串田和美とオンシアター自由劇場の『上海バンスキング』

■長野県医師会が毎月発行している広報誌『長野医報』の4月号が、先月末に配布されたので、同誌に掲載していただいた、ぼくの文章「串田和美とオンシアター自由劇場の『上海バンスキング』」を、こちらにも転載させていただきます。

(一部改変あり)

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串田和美とオンシアター自由劇場の『上海バンスキング』

上伊那医師会 北原文徳

 

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(写真をクリックすると、画像が大きくなります)


 

 設定は1945年11月の上海。舞台上に一人残され佇む吉田日出子。静寂。静かに幕が下りる。オンシアター自由劇場の音楽劇『上海バンスキング』の終幕だ。万雷の拍手。カーテンコールに応え彼女だけが登場し再び幕。すると、ステージから劇団員の生演奏が流れ出しまた幕が上がる。劇の冒頭でも演奏された、串田和美(くしだかずよし)作詞、越部信義作曲による『ウェルカム上海』だ。

 

     ああ、夢が多すぎる

     にがい夜明けの 朝もやのように

     幻の”ウィ・ムッシュ” なつかしき上海

 

 黒のチャイナドレスに着替えた吉田日出子が唄いながら螺旋階段を降りてきて、各々楽器を手に演奏する劇団員たちが白のタキシードで横一列に並ぶセンター前に合流する。観客一人一人の脳裏には、このお芝居の印象的なシーンが走馬灯のように次々と浮かんでいることだろう。何とも言えない幸せに満ち溢れた瞬間だ。と、その時。

「どんどんつたどん、どんつたつたどん」と、ジーン・クルーパばりの印象的なドラムソロが鳴り出す。ベニー・グッドマン楽団で有名な「シング・シング・シング」だ! 今でこそ、伊那中学校吹奏楽部も十八番にしているこの楽曲は、映画『スウィングガールズ』(2004年公開)で取り上げられ広く知られるようになったのだが、この映画は明らかに『上海バンスキング』のやり方を真似している。主演の上野樹里や貫地谷しほりは、映画の撮影前に数ヶ月間合宿してサックスやトランペット演奏の特訓を受けたという。役者が実際に楽器を演奏するリアルさを監督が要求したからだ。

 1966年に六本木の硝子屋さんの地下室で誕生した「アンダーグラウンド自由劇場」では、新人が入団するとまずは地下劇場の床にずらっと一列に並べた楽器から好きなのを選ばせた。不思議と役者の個性に合った楽器をみな選ぶという。自由劇場の稽古は凄まじくキツイことで有名だったが、さらに楽器の練習が加わり、プロのミュージシャン並の演奏技術が役者たちに求められた。

 小日向文世はアルトサックス、笹野高史はトランペット、主宰の串田和美はクラリネットを担当した。地方を巡る長期公演ではダブル・キャストで応じるので、役者さんは別の役、別の楽器にも対応しなければならないから大変だ。

 

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 大興奮の中「シング・シング・シング」が終わると、曲は「オーバー・ザ・ウェイブ」に変わり、メンバーは次々にステージを降りて演奏しながら客席の合間を行進し、劇場最後部のドアからみな外に出て行ってしまう。そして劇場入口のエントランスで更に演奏を続けるのだ。

 観客はあわてて座席を立って劇場外へと急ぐ。すでにスタンバイした吉田日出子がお立ち台に上り、おもむろに「林檎の木の下で」を唄い始める。観客の目の前で。芝居が終わって劇場の外に出たのにまだ夢の続きの世界にいる陶酔感。しかも、ステージ上にいた役者さんたちが手を伸ばせば触れそうな近距離で唄い演奏している。

 

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 僕はこのお芝居を1984年11月の初めに長野市民会館で観た。猛烈に感動した。お芝居って凄いな!ただただ驚嘆した。

 当時の僕は、大学病院で1年間の研修を終え、厚生連北信総合病院で2年目を迎えた新米小児科医だった。何をやっても上手くいかず出来損ないの小児科医で、日々ただ悶々と過ごしていた。暗く落ち込んだ僕に手を焼いていた先輩の安河内先生は、奥さまと入会していた長野市民劇場の特別公演『上海バンスキング』に僕を誘ってくれたのだ。本当にありがたかった。このお芝居にどれだけ救われたことか。あの時は本当にありがとうございました!

 

 この年、9月〜12月にかけて「オンシアター自由劇場」は全国52ヵ所で『上海バンスキング』を87回公演している。1979年の初演以来、評判を呼んだ舞台は大ヒットし、1996年に自由劇場が解散するまで、日本全国各地で435回も公演が繰り返され驚異的なロングランとなった。更に2010年には、ほぼオリジナル・メンバーによる奇跡的な再演が実現し、渋谷のシアターコクーンで20回の公演が行われている。

 当時ミュージカルと言えばみなブロードウェイから輸入された翻案ものだった。ところが『上海バンスキング』は完全な日本オリジナルだ。この戯曲は斎藤憐(さいとうれん1940 - 2011)が手掛けた。彼は、戦前の日本人ジャズに詳しい服部良一らに取材し、昭和初期に日本を離れ上海でバンスキング(前借り王)の異名を取っていたジャズ・トランペット奏者、南里文雄をヒントに芝居のタイトルとした。

 斎藤憐は、この舞台で演出・美術・主役の波多野四郎を演じた串田和美の2つ年上で幼なじみだった。共に小学校から高校まで成蹊学園に学んだ。斎藤は早稲田に進学したが、串田は演劇がやりたくて日大芸術学部に入った。串田の父親は、哲学者で詩人、山岳随筆家でもあった串田孫一。祖父は三菱銀行初代会長の串田万蔵。母方の高祖父は土佐藩上士の佐佐木高行で、祖父は伊勢神宮大宮司を務めた佐佐木行忠。言わば由緒あるいいとこのお坊ちゃんだ。

 理想とかけ離れた大学を1年で辞めた串田は、1962年俳優座養成所に第14期生として入所。同期には、佐藤信、吉田日出子、原田芳雄がいた。既成の劇団では飽き足らず、1966年に串田と斎藤らは自分たちの劇団と劇場を立ち上げる。「アンダーグラウンド自由劇場」だ。1975年には「オンシアター自由劇場」と改め、吉田日出子、笹野高史の他に、小日向文世、佐藤B作、下條アトム、柄本明、ベンガル、綾田俊樹、萩原流行、高田純次、イッセー尾形、岩松了が当時のメンバーに名を連ねている。

 

 『上海バンスキング』が大成功を収めた後、串田は是非にと請われて東急Bunkamura「シアターコクーン」の芸術監督に就任する。ここでは、亡くなった中村勘三郎とコクーン歌舞伎、平成中村座を手掛け、2003年からは、建設中の「まつもと市民芸術館」の芸術監督に就任。当時松本では有賀市長4選を阻止するべく「劇場などいらない!」と建設反対運動が盛り上がっていて大変だったという。

 しかし、2008年7月から隔年で「平成中村座信州まつもと大歌舞伎」が開催されるようになると、期間中に歌舞伎役者や俳優たちを乗せた人力車が松本市内をお練り行列する行事が恒例となり、一般市民も「まつもと大歌舞伎」の役者として大勢参加した。こうして、松本はいつしか演劇の町として広く知れ渡るようになっていったのだ。

 僕は2014年、2016年、2018年と観に行っているが、注目したのは小ホールで同時開催された「木ノ下歌舞伎」の『勧進帳』と『三番叟』『娘道成寺』だ。京都造形芸術大学出身の木ノ下裕一(1985年生まれ)が主宰する新進気鋭の若手集団で、斬新な演出により歌舞伎という古典芸能が、いま・ここで鮮やかによみがえっていた。客席には中村七之助ほか若手歌舞伎役者たちや笹野高史さんが僕のすぐ近くの席でじっと舞台を見つめていたのが、とても印象的だった。

 

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 ただ、松本での串田和美の真骨頂は、歌舞伎の行われない年の夏に隔年で開催される『空中キャバレー』にある。地下のアンダーグラウンドで始まった自由劇場が地上に出て「オンシアター」となり、松本の地でとうとう「空に浮かんだ」のだ。この舞台は構造的に「まつもと市民芸術館」でしか上演できないように出来ている。

 観客は普段シャッターで閉ざされた大道具搬入口から建物内に入る。するとそこは遙か異国の露天商通り(空中マルシェ)になっていて、いろんな食べ物やビールにワイン、雑貨やアクセサリーも買うことができる場所だ。通りでは出演者たちが楽器演奏をしたりサーカス団のメンバーが大道芸を披露していて、観客はいきなり異次元の祝祭空間に紛れ込んだ感覚に陥るのだ。

 しばらくして串田さんが登場し、舞台の開演を宣言する。音楽監督のアコーディオン奏者cobaがピアソラの「リベルタンゴ」を生演奏し、フランスからやって来たジェロ率いるサーカス団が空中ブランコや綱渡り、アクロバティックな曲芸を次々と披露する。串田和美と大森博史がゴドーを待っていると、実際にゴドーが登場するし、自由劇場のメンバーだった小西康久・内田伸一郎・片岡正二郎(撥管兄弟:バチカンブラザーズ)の3人が、松本出身の秋本奈緒美を加えてサボテン・ブラザーズとなり、達者なマリアッチを演奏しながらショートコントを演じる。劇場専属劇団「TCアルプ」メンバーも頭にサバを被って、フランス語で「サヴァ、サヴァ」言う不思議なエチュードを披露する。

 観客は客席ではなくステージ上に体育座りして演目ごとに舞台上を次々と移動し、真上の空中ブランコを見上げ、振り返って本来の大ホール客席を眺める。時には出演者と手をつないで輪になって踊ったりもする。信じられないくらい演者と観客が近い。こんな舞台は観たことがない。いや、観るというよりも体験したと言ったほうがよいか。前半のラストでは、片岡正二郎と『怪力男オクタゴン』の歌を皆で大合唱する。「人にはそれぞれ才能がある。その才能は放棄できない」と。

 観客の中には幼子を連れた若夫婦も多い。串田さんの演技中に、退屈した子供たちがバックステージを走り回ったりするのもご愛敬。とにかく、演者も観客もみな実に楽しそうで幸せな顔をしている。ああ、これが串田和美が目指したお芝居だったのか。

 

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写真:串田明緒『幕があがる。Vol.53』 p4〜5より転載

(写真をクリックすると、画像が大きくなります) 

 1977年に初演された自由劇場の『もっと泣いてよフラッパー』は、吉田日出子の役を松たか子が演じ歌って2014年に再演された。僕も松本まで観に行った。とってもよかった。松たか子さんは、ホテルから劇場まで歩いて行く途中にある「ポンヌフ」でパンを買って食べるのが楽しみだと終演後のアフタートークで語っていた。じゃあ『上海バンスキング』のマドンナ「正岡まどか」役を松たか子で再演できるかというと、それはもう絶対に無理だ。

 吉田日出子さんは頭部打撲のあと高次脳機能障害(short-term memory loss)を合併し、現在も闘病中だという。いつの日か奇跡的に彼女がステージ上に復帰して、数多のジャズ歌手よりも圧倒的に雰囲気のあるその歌声を、是非ともまたナマで披露して欲しいと切に願っている。

 

  最後に吉田日出子さんの言葉を引用してこの文章の幕引きとさせて頂きます。

「テレビや映画にたくさん出て、何万人もの人に好かれるよりも、たった一人のお客さんでもいいから、その人が一生忘れないような舞台を仲間たちと一緒につくれたら……。そう願って、『劇場でまた会いましょう』というひと言で締めくくりました。」吉田日出子著『私の記憶が消えないうちに』(講談社)より。

(おわり)

【参考文献】

 1)『わたしの上海バンスキング』写真・文 明緒(愛育社)2013年

 2)『私の記憶が消えないうちに』吉田日出子(講談社)2014年

 3)『幕があがる。Vol.53』まつもと市民芸術館「季刊誌」2020年冬号

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【参考映像】

   BSスカパー!「STAGE LEGEND」2016年6月1日放送。

   オンシアター自由劇場公演『上海バンスキング』1991年、渋谷東急 Bunkamura「シアターコクーン」にて収録。

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2020年3月20日 (金)

『栃東の取り組み見たか』吾妻光良とスウィンギンバッパーズ

■長野県医師会「広報委員会」で随分とお世話になった、松本の野村先生が、先月CDを貸してくれた。

というのも、野村先生が引退する最後の広報委員会の時に、僕が強引に「Jポップの原点」となるCDたち(荒井由実、細野雅臣、大瀧詠一、矢野顕子、大貫妙子、シュガーベイブ、竹内まりや、はちみつぱい、小坂忠)を無理矢理貸した。そのCDたちを先月「ゆうパック」で返却してくれた際、オススメのCDを同封してくれたのだ。

そのCDたちとは、パット・メセニーが4枚、熊谷幸子が3枚、そして、吾妻光良とスウィンギンバッパーズのCDが4枚だった。ちょうど、ライル・メイズが亡くなった次の日だったから、レコードは持っていたがCDはなかった『トラベルズ』を心して聴いた。めちゃくちゃ良かった。

熊谷幸子もよかった! あの『夏子の酒』のテレビドラマ主題歌を歌った人だ。

■そうして、最後に聴いたのがこの曲。ぶったまげた! のりのりのジャイヴ&ジャンプ! カウント・ベイシー・ビッグバンドも真っ蒼じゃん!! それに、まるで平家の落ち武者みたいな、ハゲなのに長髪の「変なオッサン」誰? 彼が吾妻光良なの? デビュー40周年を迎えたバンドなのに、僕は今まで一度も聴いたことがなかった。なんと恥ずかしい!

 


YouTube: 吾妻光良&The Swinging Boppers "最後まで楽しもう"

■ジャズ好きを自認する俺が、なぜ「吾妻光良とスウィンギンバッパーズ」を今まで一度も聴いたことなかったのか? 60過ぎても聴いたことのない「めちゃくちゃ凄い音楽」が、まだまだいっぱいあるのだなあ。

野村先生! 教えて頂いて、ほんと有り難うございました。

ちょっと調べたら、吾妻光良氏はアマチュア(日テレで音響関係の社員として勤務されているらしい)を貫き、学生時代(早稲田大学理工学部に5年いたらしい)に既にブルース・ギターの教則本を出版したらしい。お〜、ギターめちゃくちゃ上手いじゃん!


YouTube: 『Player』6月号 ぶるーすギター高座 特別編 吾妻光良meets KORG KR-55 Pro

■で、彼らのCDを聴いてきて最後の4枚目に収録されていたのが、かの名曲『栃東の取り組み見たか』だったのだ。ただ、オリジナルは YouTute にない。全て著作権(原曲管理者がアメリカで五月蠅いのだ)の関係で削除されてしまった。

見つけたのは、憂歌団みたいな関西のバンドがカバーしたこれ。


YouTube: 栃東の取り組み見たか

おお! ニコニコ動画には、オリジナル残ってたのか!

https://www.nicovideo.jp/watch/sm24361739

う〜ん。うまく画像が貼れないぞ。

この曲は彼らのライヴでは昔から有名な定番曲だったが、原曲の著作権管理者から許可がなかなか下りず、音源化されなかった。でようやく認可されて『シニア・バカナルズ』に収録されたのだった。

ラストの歌詞は、当初「栃東は次は優勝だ」だったのが、→「栃東はすぐに横綱だ」に変わり、CD収録時には、とうとう「栃東は今や親方だ」になってしまった(^^;

2007年5月に渋谷クアトロで行われた「吾妻光良とスウィンギンバッパーズ」のライヴに、なんと引退直後の栃東が聴きに来ていたとのこと。もちろん『栃東の取り組み見たか』が演奏されたよ。


YouTube: Tochiazuma vs. Asashoryu : Hatsu 2002 (栃東 対 朝青龍)

■「この曲のオリジナルはなに?」ってツイッターで訊いたら、すぐに教えて下さる方がいた。ありがとうございました!

原曲は、"Did you see Jackie Robinson hit that ball ?" 1949年カウント・ベイシー楽団&タップス・ミラー(Vo) で、アメリカの黒人メジャー・大リーガーの草分け「ジャッキー・ロビンソン」讃歌だ。これです。


YouTube: Did You See Jackie Robinson Hit That Ball? (1949 Version)

■彼がドジャーズで黒人としてメジャーデビューを果たした4月15日は、毎年「ジャッキー・ロビンソン・デイ」として大リーガー全員が彼の背番号42 を付けたユニフォームを着て試合をする。「42」は、米球界全体で永久欠番となっているそうだ。



YouTube: "SENIOR BACCHANALS" Trailer

■ ほんと、そう思うぞ! 「カッコイイよね福田さん!!」


YouTube: 吾妻光良トリオ 福田さん

2020年3月 7日 (土)

「保育園で感染拡大を防ぐためにできること」2019/12/6 上伊那保育協会未満児部門での講演会のスライドより

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■「空気感染」が、一番感染力が強い!

■「不顕性感染」(症状がない・軽度なのにウイルスを排出している児童や保育士)が多いほど、潜伏期間が長いほど、保育園で感染拡大を防ぐのはほとんど不可能に近い。

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■「1つのウイルスに罹ると」とスライドにはありますが、現在進行形で「1つのウイルスに罹っていると」という意味です。例えば、ウンコがしたくなってトイレへ駆け込んだら、大便所(個室)にすでに人が入っていてウンコができない。というイメージです。

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■新型コロナウイルスにも、油の膜「エンベロープ」がある。だから、石鹸やアルコールが有効!

しかし、ノロウイルスには「エンベロープ」がないため、アルコールは効きにくい。(石鹸と水道水で、しっかり手洗いすれば洗い落とすことはできます)

だから、ノロウイルスは胃の中でも胃酸で失活せずに小腸まで行って、小腸の粘膜細胞に感染し、嘔吐下痢症を発症することができるのです。

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■新型コロナウイルスも、ライノウイルスに近いので、数日は失活せずに体外で「生きて」います。乾燥にも強いという報告もあります。ドイツの文献では、9日間経っても活性があったとの報告もあります。

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■右側の値段は、当院で仕入れている「検査キット」1回分の仕入れ値です(医療機関によっては、金額は異なります)

■開業の一般小児科医院の多くは、3歳未満児の医療費は「定額制」です。つまり今で言うところの「サブスク」ですね。この4月からは「6歳未満」に引き上げられる予定です。

当院では3歳未満の場合、迅速検査の保険適応の有無に関わらず、必要とあらば検査を行っています。例えば、RSウイルスの検査は当院では保険適応はありません。

ですので、価格の高い検査キットを一度に何種類もすると、正直「赤字」になってしまいます。保育園の先生は、熱が出るとすぐ「小児科へ行って検査してもらってきて!」と言います。

いまの時期だと「ヒトメタニューモウイルス」の検査をしてもらって! ですかね。

でも、ヒトメタの迅速検査は値段が高いんですよ! しかも、3歳以上で肺炎の臨床診断がないと保険適応がありません。

■それから「感度」と「精度」の問題も大切です。いま、新型コロナウイルスのPCR検査でも言われていることですね。「擬陽性」と「偽陰性」の問題。そのキットが、どの程度信頼できるか? ということです。

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YouTube: 花王 ビオレu ビオレu泡ハンドソープ 「あわあわ手あらいのうた」練習編 CM

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