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2016年2月

2016年2月29日 (月)

カマシ・ワシントンの続き

■ジャズはやっぱり、ブラックミュージックであることと、コンテンポラリー・ミュージックであることが、いま重要なんだと思う。

ぼく自身は、1990年代以降、同時代のジャズに興味を失って、新しいジャズをフォローすることをすっかり止めてしまっていた。気が付けば、ヨーロッパの演奏者ばかりが話題に上っていて、アメリカでは過去の博物館入り音楽に成り下がってしまった感があった。ニューヨークの若者たちはみな、ジャズなんて聴かないのだろう。そう思っていた。

『村上春樹 雑文集』(新潮社)112〜127ページに「日本人にジャズは理解できているんだろうか」という、かなり挑発的なタイトル、内容の文章が載っている。月刊総合誌『現代』1994年10月号に掲載されたものだ。

事の発端は、1980年代に颯爽と登場したジャズ界のサラブレッド、ウイントン・マルサリス(tp)の兄貴、ブランフォード・マルサリス(ts)が、アメリカ版「プレイボーイ」誌(1993年12月号)のインタビューに答えて、こう言ったことによる。

「日本人というのは、どうしてかはわからないけれど、歴史とか伝承的なものとかに目がないんだ。他の多くの国の人とは違って、彼らはジャズというものをアメリカ体験のひとつとして捉えている。でも理解しているかというと、ほとんどの人は理解しちゃいないね。

とにかく僕のコンサートに来る客について言えばそうだ。みんな『こいつらいったい、何やってんだ?』という顔で、ぽかんと僕らのことを見ているだけだ。それでもみんなわざわざ聴きにくるんだよ。クラシック音楽と同じことさ。誰かにこれはいい音楽で、聴く必要があるからって言われて聴きにくるんだ。それで頭をひねって、ぱちぱち拍手をして、帰っていく(後略)」

ぼくは「この発言」を読んで、めちゃくちゃ腹が立った。日本のジャズ・ファンの心意気が、本場のジャズメンに対してまったく通じていないことに大変なショックを受けたのだ。

でも確かに、当時(1980年代末〜90年代初め)はバブル最盛期で、斑尾ニューポート・ジャズ・フェスティバルをはじめ、全国各地で野外ジャズ・フェスが毎年開催されていて、金に物を言わせて往年の大物ジャズ・ミュージシャンを多数招聘していたことは事実だ。

そのあたりのことを、村上さんは鋭く突いてくる訳だ。

 さてそこで日本人は本当にジャズを理解しているか、という当初の問題に立ち戻るわけだが、そこには二種類の違った結論がでてくるだろう。

 ①「俺達黒人が歴史的になめてきた苦しみがお前らにわかるものか。そしてそのような苦しみや痛みのわからない人種にジャズという音楽の真髄がわかるものか。お前らは金を積んで俺らを雇ってレコードを作ったり、日本に呼んで目の前で演奏させたりしているだけじゃないか。俺たちはしょうがないからやっているけれど、みんな陰で笑っているんだぞ」

とブランフォード・マルサリスに面と向かってきっぱりと言われたら、たぶん「それはたしかにそのとおりです」と答えるしかないような気がする。あるいは「そうじゃない」という言い分を有効に証明することはできないだろう。そういう観点から見れば、日本人はジャズを本当には理解していないと言われても仕方ない部分はたしかにある。

日本人は経済的に豊になったぶんだけ昔に比べて、他者への素直な思いやりや共感といったようなものがいささか希薄になったのではないかと感じることも時にあるし、だからこそブランフォード・マルサリスだって日本人聴衆に対してそれほど強い親愛感を抱くことができないのではないか。

 ②しかし「いや、それは違うよ、マルサリスさん。そういう言い方はフェアじゃない。ジャズという音楽は既に世界の音楽の中で確固とした市民権を得たものだし、それは言うなれば世界市民の財産として機能しているんだ。

日本には日本のジャズがあり、ロシアにはロシアのジャズがあり、イタリアにはイタリアのジャズがある。たしかに黒人ミュージシャンはその中心的な推進者としておおいに敬意を払われるべきだし、その歴史は決して見過ごされるべきではない。

しかし彼らがその音楽の唯一の正統的理解者であり、表現者であり、他の人種にはそこに入り込む余地がないと言うのであれば、それはあまりにも傲慢な論理であり世界観ではないか。そのような一級市民と二級市民との分別は、まさにアパルトヘイトの精神そのものじゃないか」と反論することも可能である。

そういう文脈においては、日本人はかなり熱心に誠実に、「世界市民的に」ジャズを理解していると言っても差しつかえないだろう。(『村上春樹 雑文集』p124〜125)

■この文章を初めて読んだ時の僕の感想が書いてあった。「ここ」だ。

残念ながら2011年の現在では、はたしてアメリカ本国で「ジャズ」という音楽が黒人文化や政治運動にどれほどの影響力を持っているのか甚だ疑問だ。

って言ってるが、まことにお恥ずかしいのだけれど、2011年から「たった5年」過ぎ去っただけの「いま・ここ」の現在。まさにアメリカ本国において「ジャズ」という音楽が、ディアンジェロのR&Bや、フライング・ロータス、ケンドリック・ラマーのヒップホップ、それから、ロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンの出現によって、黒人文化や政治運動に大きな影響力を「確かに」持つようになってきていることに、正直驚いているのだった。

2016年2月25日 (木)

カマシ・ワシントン『ジ・エピック』を聴く

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■カマシ・ワシントンは、期待以上に「おいらの好みの音」そのままだったので、びっくりしている。もう、ど真ん中だ。「こういう音」が、今の世界中の若者たちに受け入れられているのなら、こんなオジサンでも十分ついて行けるんじゃないか? そう確信した。

フライング・ロータス『ユーアー・デッド!』を聴いたあと、カマシ・ワシントン『ザ・エピック』の Disc 3を聴いている。なんか安心するなぁ。これは間違いなくジャズだよ。それにしても、CD3枚組とは。はったりカマしてんなぁ。やっぱり、テレサレーベルでのファラオ・サンダースをかなり意識しているな。 2016年2月7日
つい最近、伊那のブックオフで1550円で入手した、サン・ラー『ディスコ3000【デラックス・エディション2枚組】』を聴いている。案外シンプルでミニマルで、いいではないか。ジョン・ギルモアのテナー・サックスが結構好き。 2016年2月2日
あと、密林で『ブラック・メサイア』ディアンジェロと『ザ・エピック』カマシ・ワシントン(CD3枚組)を入手した。R&BもJazzも、ブラック・ミュージックのルーツからしっかり聴き込んで自らの血と肉にした上で、いまの音楽を自信を持って奏でる、こうした若手の登場は、なんとも頼もしいぞ。2016年2月2日
エリントンの「ロッキン・イン・リズム」(1931)→ ウェザー・リポート「ROCKIN' IN RHYTHM」(1980)→ ディアンジェロ「BETRAY MY HEART」(2014)と聞き継ぐ。ブラック・ミュージックの伝統が見事に継承されているな。たいしたもんだ。

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■カマシ・ワシントン『ザ・エピック』(Disc 1)1曲目。いきなりオーケストラの弦楽器が重層的に被さり、さらにはバック・コーラスも乗っかってくる。これじゃあまるで、マッコイ・タイナーの『フライ・ウイズ・ザ・ウインド』じゃぁないか!

2曲目「Askim」。これは実にイイ曲だ。ファラオ・サンダースの楽曲を連想させる。テナー・サックスのソロが、なんかこう「たゆたう」感じがじつにいいぞ。

こうして(Disc 1)を聴いてると、彼のアイドルは、コルトレーンとファラオ・サンダース、それに、マッコイ・タイナーとなるワケだけれど、(Disc 2)に入ると、いやちょっと待てよ? となる。案外、彼が一番好きなサックス奏者は、ウェイン・ショーターだったんじゃないだろうか? 

うん、そんな気がしてきたぞ。

2016年2月16日 (火)

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)

■最初に、ツイッターで言ったことを載せておきます。

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)を読み始める。なんと、先達て読んだ奇妙な味わいが癖になる『突然ノックの音が』(新潮社クレストブックス)の作者、エドガル・ケレットの短編が2つも収録されているぞ。(2016/02/06)

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)より、レイ・ヴクサヴィッチ「最終果実」を読む。おったまげた。めちゃくちゃグロテスクなのに、何故か愛しく切なく、深く心に刻まれた。こんなの、クライヴ・バーカー『丘に、町が』以来だ。『月の部屋で会いましょう』(東京創元社)も読まなきゃな。(2016/02/10)

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)読了。これは堪能した。『ポノたち』を読みながら、子供の頃のぼくは(実は今もそうなんだが)彼よりももっと卑怯な奴だったことを思い出して、胸が苦しくなった。『ブタを割る』は『金魚』みたいな「もうひとひねり」が欲しかった。ラストの『七人の司書の館』がまたよいな。(2016/02/14)

■「この本」には「子供」が関連した短篇が12本、収録されている。ただし、現代海外文学最先端の作家の中から、飛び切り「変な短篇小説」ばかりセレクトし読者に紹介している、名アンソロジスト&翻訳家の岸本佐知子さん「訳編」の本であるからして、心してかからねばならないことは言うまでもない。

■個人的お気に入りは、何と言っても「最終果実」。次いで「王様ネズミ」「まじない」、それから「七人の司書の館」。あと「靴」「子供」「ポノたち」。なんだ、ほとんどお気に入りじゃん。ツイートで言及しなかった短篇に関して少しコメント追加。

■「まじない」:リッキー・デュコーネィ(原題:ABRACADABRA  by Rikki Ducornet)

 「7歳までは夢の中」と言ったのは、シュタイナー教育に詳しい松井るり子さんだった。この頃の子供はまだ「魔法の世界の住人」なのだ。『まじない』の主人公も7歳の男の子。見えないものが見え、聞こえない音が確かに聞こえる。だから彼は「奴ら(宇宙人)」に絶対に負けないよう「決められた規律=まじない」を開発し、その実行を自らに課した。

こうした行動は、自閉症児の「こだわり」としてよく観察されるし、僕だって子供のころ「様々な規律」を開発した覚えがある。いや、実は今でも続けていることもあるのだ。例えば、階段は必ず左足で上り切らねばならないとか(下りる時も同じ)、横断歩道の白線は決して踏んではならないとかね。

7歳の彼は、地球上で唯一の地球防衛軍隊員として「たった一人で」宇宙人と闘い、地球を守っているのだった。同じような「空想の世界に没入する男の子」のはなしは、例えば、絵本『ぼくはおこった』きたむらさとし(評論社)がそう。それに、センダックの『かいじゅうたちのいるところ』もそうだな。

ただ、これら絵本の主人公に対する母の子を思う愛着は、この「まじない」の男の子の母親には感じられない。それが彼の悲劇だ。

■「弟」:ステイシー・レヴィーン(原題:THE TWIN  by Stacey Levine 

めちゃくちゃ不思議な短篇だ。姉と弟の関係がよく分からない。シャム双生児なんだが、ベトちゃんドクちゃんと違って、二人は対等の関係にはない。

「弟は彼女の腰から生えていて、だから砂の上にあおむけに横になれば弟を穴に押しこむことができた。彼女は穴に弟を押しこんだまま、食べ、話し、それでうまくいっていた。

「穴」って? へその穴か? 脱腸かイボ痔みたいに、肛門へ押し込むのか? それとも……

■「トンネル」:ベン・ルーリー

トンネルは怖い。でも、ほんとうに怖いのは「いわゆるトンネル」ではなくて、打ち棄てられた「排水管」のほうだ。キング『IT』しかり。それから漫画だと、浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』。最近読んだ本では『緑のさる』山下澄人(平凡社)が印象的だった。

■「靴」:エトガル・ケレット

作者はイスラエルの人だ。『突然ノックの音が』(新潮社クレスト・ブックス)は、ほんと変な短篇ばかりで面白かったな。登場人物の名前がみな、旧約聖書に出てくる人みたいな名前なんだ。そりゃそうか、ユダヤ人なんだから。

それにしても、アディダスがドイツの会社だったとは。知らなかった。「靴」の主人公のおじいちゃんは、ホロコーストで死んだ。戦争をしらない子供心にも、ナチスの凶悪犯罪は絶対に許してはならない記憶として心に刻み込まれている。さらに、見学先のユダヤ記念館の案内人のじいさんから「ドイツ製品を見たら、いいか忘れるな、どんなに外側はきれいに見えても、中の部品や管のひとつひとつは、殺されたユダヤ人の骨と皮と肉でできているのだ」と言い聞かされている。

それなのに、旅行のおみやげにアディダスのスニーカーを買って帰る無頓着な母親。でも、スニーカーが欲しかった僕。素直に喜べない僕。そして……。 こういうねじれて屈折した想いを、さらにラストで昇華させるというスゴ技を描いてみせるこの作者は、ほんと上手いな。

■「王様ネズミ」:カレン・ジョイ・ファゥラー

この人はほんと巧い。文章を読んでいて、まるで映画を見ているみたいに映像が浮かんでくる。いじめっ子の憎たらしい顔、父親が務める大学研究棟の長い廊下、地下の動物実験室。

まったく予想のつかない展開だった。でも読み返してみたら、『ハーメルンの笛吹き男』の話が唐突に登場してきていた。読みながら変だと思ったんだ。

■この感想を書くにあたって、ネットで他の人の読後感想をいくつか読んでみたのだが、ぼくが大好きな『最終果実』は、多くの読者から「まったく無視」されていて、正直ショックを受けた。オシャレな装丁から「この本」を手にし、岸本佐知子の名前を確認してから購入するような「図書館大好き&外国文学大好き女子」には、吐き気をもよおすようなグロテスクな描写は、生理的に受け付けられないのだろうか?

2016年2月12日 (金)

今月のこの一曲。デューク・エリントンの『ロッキン・イン・リズム』

■今ごろになって、ようやくディアンジェロのCD『ブラック・メサイア』を購入した。1曲目「AIN'T THAT EASY」は、ワザと調子っ外れでルーズな感じのドラムスとベース。なんとも不穏な雰囲気のブラック・ロックだ。

2曲目「IOOO DEATHS」はさらに不穏。調性が欠落した音楽。そう。まるで、エレクトリック・マイルスみたいじゃないか。ドラムスをたたいている3人のうち、クリス・デイヴは知ってるぞ。ロバート・グラスパーの『ブラック・レィディオ』に参加している人か?

つまり、めちゃくちゃ上手いのに、下手な振りしてドラムをたたいてるんだな。

でも、本気出すと怖い。9曲目「Betray My Heart」(この曲のドラムスは「クエストラヴ」だが)。この曲の中程から後半にかけて、ブラスが加わってからのスウィング感といったら、ハンパないな。 今あるジャズ音楽が、総掛かりで攻めてきたって、この曲を演奏する人たちが奏でる強烈なドライヴ感を超えることは出来まい。

それほど完璧で、ルーツ音楽を丹念に聴き勉強し知り尽くした者だけが許される「ブラックミュージック」の本質を「はい、どうぞ!」って、まるで3分間待ってカップヌードルが出来上がったみたいに、いとも簡単にぼくらに提示してくれているのだ。「この曲」では、デューク・エリントンが 1932年に作曲した「ロッキン・イン・リズム」を、たぶん間違いなくディアンジェロは意識しているに違いない。

彼はジャズという認識ではなくて、ブラックミュージックの源泉として「エリントン」を意識しているのだろう。さらには、大西洋を渡ってくる前のアフリカ大陸だ。3曲目「THE CHARADE」では、たしかにアフリカから吹く偏西風の音がする。

つまりは、このCDには「アフリカ大陸」の音もするし、エリントン楽団のハーモニーもある。さらには、マイルス・デイヴィスや「Song of the Underground Railroad」って曲を書いたジョン・コルトレーン、それに、キング牧師と共に黒人公民権運動を闘ってきたカーティス・メイフィールドの「ブラック・パワー」の血も脈々と流れている。

それにもちろん、マービン・ゲイやスティービー・ワンダー、プリンスもね。すべてが混沌としながらも、正統派「ブラックミュージック」の歴史を完璧に吸収して、反芻し消化した上で、彼はこのCDを作り上げたのだと思うぞ。ちょっと大げさ(^^;;


YouTube: D'Angelo and The Vanguard - Betray My Heart


YouTube: Rockin In Rhythm


YouTube: Duke Ellington - Rockin' in Rhythm


YouTube: Rockin' In Rhythm Weather Report Jazz Duke Ellington cover

2016年2月 3日 (水)

山下澄人『鳥の会議』(河出書房新社)『ルンタ』(講談社)

 

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(上の写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■最近、すっかり山下澄人さんのファンになってしまった。読んでいる時間が、不思議と心地よいのだ。いつまでもずっと読んでいたい。何だかよく分からないのだけれど、中毒性のある作家さんなのだ。基本、視覚的・映像的文章であり、しかも、耳からも来る文章なんだな。地の文も、会話の大阪弁も、読んでいてとても気持ちがいい。作者が一人で勝手に漫才みたいな「のりつっこみ」するんだよ。

その独特なグルーブ感が癖になって、知らないうちに、似非大阪弁で自分もしゃべっていたりするんだ。もうめちゃくちゃ影響大だな。

■このところツイッターに書いてきた感想を、ここにまとめておきます。ただし一部改編。

山下澄人『ルンタ』(講談社)を読んでいる。これ、いいなあ。なんか好きだ。82ページまで読んできて、突然ぬっと、牡の黒馬ルンタが登場した。驚いた。チベット語で「風の馬」っていう意味なんだって。それにしても、主人公が吹雪に見舞われて膝までの豪雪って。関西の話じゃないんか? 北海道なのか? それとも、夢?(2015/01/18)

馬といえば、内藤洋子だ。このところ評判の悪い喜多嶋舞の母親でもある。「白馬のルンナ」っていうレコードも出しているんだよ。「ルンナ」は牝馬だろうな。白馬だし。だから、ルンタは「ルン太」で、黒い牡馬なんだと思った。

『ルンタ』山下澄人(講談社)読了した。これ、凄い。すごいな。なんかよくわからんけど、めちゃくちゃ感動した。いや、感動という言葉とは違うな。最新号の『TV Bros.で、豊崎由美さんが『よはい』いしいしんじ(集英社)を褒めていて、

「さまざまな生を生き、死を死ぬ人たちのたくさんの肯定的な声が聞こえる祝祭感あふれる物語になっています。」

って書いているけど、これってそのまま『ルンタ』じゃん。さらには、

「いしい作品がどうしてわたしを幸せにしてくれるかというと、それは氏の小説が肯定感を基本にしているからです。生きていることは言うまでもなく、死んでいることも。男であることも女であることも。老人であることも子供であることも。美しい世界も醜い世界も。自分も他者も。此処も彼方も。」

と彼女は言う。山下澄人作品も、まったく「そう」だぞ。さらに追加すれば、山下作品では「わたし」という人称や、「過去も未来も現在も」時制は全く無意味にされてしまうのだ。すごいぞ。

ちなみに、いしいしんじは、ぼくも大好きな作家さんです。でも、最近は熱心な読者ではなくなっていたかな。ちょっと反省。


『ルンタ』を読んでいて想い出したのは、柳田國男の『先祖の話』だ。人は死ぬと、ずっと遠くへ行ってしまう訳ではない。自分が生き生活していた里を見下ろす「故郷の山」の頂きに宿って、子や孫たちの家の繁栄を見守り、盆と正月には子孫の家に招かれ戻る。死者はいつだって隣にいる。(2015/01/30)

今年読んだ本【日本の小説】のベストは、なんと言っても『鳥の会議』山下澄人(河出書房新社)だ。山下さんのことは、1月に下北沢B&Bで行われた、保坂和志&湯浅学対談の席で、保坂さんの口から初めて聞いて興味を持ったのだ。

そしたら、NHKラジオ第一の大友良英さんの番組に飴屋法水さんが登場して、飴屋氏が演出した芝居『コルバトントリ、』の台本を、大友良英氏のギターをBGMに朗読してたのをたまたま聴いて、あっ!また山下さんだ。そう思ったんだ。で、『コルバトントリ』(文藝春秋)を読んだ。面白かった。癖になる面白さだった。昨日の夕方アンコール放送があって、飴屋さんの朗読をもう一度聴いた。やはり、異様に感動した。録音に失敗したのが本当に悔やまれる。(2015/12/30)

月刊文芸誌『新潮 2016.1』より、山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」を読む。面白い。変にこねくりまわさずにストレートな一人語りなんだけど、やっぱり何か変。そこが好き。それにしても、最初から活字がみっちり並んでいて驚く。改行も余白もない。(2015/12/15)

いや、ちょうどいま『鳥の会議』山下澄人(河出書房新社)の 30ページ目まで読んでいたところだったので、まさか著者自身の朗読が聴けるとは! びっくりだ。それにしても、やっぱネイティヴの人の発音とイントネーションは、ぜんぜん違うな。(2015/11/26)

山下澄人『鳥の会議』を読み終わった。喧嘩ばかりしている不良の中学2年生4人組の話なんだけど、これはよかった。すごくよかった。山下さんの文章って、映画のカット割りみたいだから、特にこの小説は映画にしたらいいと思う。

続き)『はふり』は、ずっと佐々木昭一郎の『さすらい』をイメージしながら読んでいたし、『コルバトントリ』は同じく『夢の島少女』のイメージだったから、『鳥の会議』も井筒監督というよりは、佐々木昭一郎の弟子の、是枝監督の感じのほうが案外リアルで幻想的な映像になるのではないかって、勝手に想像している。(2015/11/30)

ピース又吉の『火花』が載っている『文学界 2015 2月号』は買ってきたまま未読だったのだ。で、『火花』は読まずに『はふり』山下澄人を読み始めた。154ページ。カタカナで外国の歌詞が載っている。最初、意味不明のデタラメ語かと思ったら、サッチモが唄う「この素晴らしき世界」だった。(2015/11/17)

山下澄人『はふり』(文学界 2015年 2月号)読了。これは上方落語の『東の旅』だな。喜六と清八の珍道中。四国四十八ヵ所巡りのお遍路さんは「同行二人」だけれど、『はふり』の「北の旅」は、結局「同行三人」だったのか? 分からない。『ロートレック荘事件』かも? と予測してたが違った。(2015/11/18)

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