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2013年11月

2013年11月20日 (水)

『母が認知症になってから考えたこと』山登敬之(その3)

Photo

■南伸坊氏が装丁した「この本」の表紙は、シンプルでスタイリッシュで実に美しい。

ただ、本屋さんは「この本」をどのコーナーに置くのだろうか? 表紙だけ見れば、医療・健康コーナーの「介護・老人・認知症」の場所に置くに違いない。でもそれは、大きな間違いだ。

本書は、「育児・子育て」コーナーにこそ置かれるべき本だからだ。

実父母、義父母はまだまだ若いし元気で、バリバリ現役で働いているから「介護」なんてぜんぜん関係ないと思っている「おかあさん」にこそ、是非読んで欲しい。特に、男の子の子育てに難渋しているおかあさんの福音書となるのではないか? 

いや、子供は女の子しかいなくても「自分の夫」の心性、行動原理を理解する上で「この本」は大いに役立つに違いないのだ。

■山登先生は、自らの育ちをセキララに告白しながらも、「男の子の育ち方」を児童精神科医という冷徹な客観的な立場から、実に分かり易く解説してくれる。そこが一番の読みどころだからだ。

・エディプス・コンプレックスと「少年ハンス」の話。しかし、日本の多くの家庭では、「ママはパパにとってもママ」という関係でこれまでうまくやってきた「エディプスのいない家」だった。現在のぼくの家族もまさにそうだな。母親を頂点にして、息子たちとぼくが底辺を結ぶ三角形。「家族のエロス」

・東京オリンピック前の東京。暗渠となってしまった渋谷川。父親に連れて行ってもらった神宮球場の外野席。原宿表参道のキディランド。高度経済成長の勢いに乗って、急速に変貌を遂げてゆく東京の街並み。「わが町、東京」

・山登先生が、母親に経鼻栄養チューブを挿入する際に思い出すのは、拒食症の少女たちを、ときに入院ベッドに縛りつけ、無理やり鼻にチューブを通した苦々しい日々だった。「象を欲しがった少女」

・「子どもにとって、ほめられるのは大事なことです。しかも、子どもはそれが正当な評価か、ただのヨイショかも敏感にかぎ分けるので、周囲の大人は気をつけなくてはなりません。ここでいう『大人』は、ほとんどの場合、親と教師です。将来、親になるつもりの人、先生と呼ばれる職に就くつもりの人はとくに、そうでなくても子どもに関わる仕事をしたい人は、みなこのことをよく覚えておいてほしいと思います。」(p71)  山登先生、すっごく大切なことを言っているなぁ。「ほめられたい、もっと!」

・山登先生が小学校低学年の3年間担任だったモリ先生は、山登少年の作文「るすばん」を「おりこうに、おるすばんができましたね。○をつけてあげたところは、なかなかいいな、と思ったところです。しっかりかけましたよ」と評して、区の展覧会に出品した。それ以来、山登少年は文章を書くことが好きになったのだった。「ほめられたい、もっと!」

・息子のファッション・センスはどう磨く? 「あなたがわたしに着せたもの」

・「臆病な子、無鉄砲な子、ひよわな子、乱暴な子、性格はさまざまだろうが、どんな子どもでも、成長の過程で暴力の問題は避けて通れない。とくに男子ではそうだ。子どもは身をもって暴力を知り、怒りという感情を知り、それらに対処する知恵を身につけなくてはならない。」(p106) 「少年よ、拳を握れ」

・「なにか好きになれるこのがあること、好きなものを追い続ける情熱を持てることは幸せである。好きという感情に損得の入り込む余地はない。純粋である。その感情にすなおでいるかぎり、道をはずれる心配はない。『○○を好きなやつに悪いやつはいない』といわれる所以である」(p135) おたくの誕生。「アニメソングが聞こえる場所」

・「おふくろの味、妻の味」 (p137)  これも、ほんとよくわかる。

・男の子の育ちに欠かせない、ちょいと不良で、大人の世界を垣間見せてくれる「おじさん」との斜めの関係の重要性について。「ぼくのおじさん」

 などなど。

いやぁ、身に沁みるなぁ。東京の山の手育ちの山登先生と、信州の山の中で育ったぼくとでは、その生育環境はぜんぜん異なるのに、それでも我がことのように感じ入ってしまうのは、同じ時代の空気を吸って生きてきたからなのだろうか。

■さて、問題は「最終章」だ。ぼくの母親の場合、その発症はぜんぜん気づかれないくらい「ゆっくり」だった。でも気が付くと、その日の会計処理ができなくなっていて、パーキンソン様の神経症状も伴っていたから、次第に歩行も困難になっていった。

ただ、認知症の進行はそれほどでもなかったために、今までずいぶんと周りに対して気を張って気高く頑張って生きてきた母は、その落ちぶれてゆく身体と頭脳に、どんなにか悔しく辛い思いをしたに違いない。だって、少なくとも母の意識が無くなるまでは、しっかりと僕のことは判っていたから。

そんなぼくの母親の介護をしたのは僕ではなく、兄だった。山登先生は毎週日曜日に実家を訪れ、母親の介護をしていた。えらいな。ぼくなんか、月に2〜3回だよ。高遠の実家に行って、母親の食事の介助とトイレの介助をしたのは。あとは兄貴に任せっきり。ダメダメな息子だったな。

だから、おしっこの介助はできた。でも、ウンコはダメだった。便秘に苦しむ母親の肛門に指を突っ込み「摘便」するのは、いつだって兄貴の役目だった。

そうこうするうちに、とある朝だったか。母が呼吸不全に陥った。あれよあれよという間に母の呼吸が止まった。救急車で伊那中央病医院に搬送され、幸いにも救急室で蘇生できた。ほんと間一髪だった。

ただ、それから3ヵ月間に渡り、意識の戻らぬ母は人工呼吸器につながれて生き延びたのだ。末梢点滴のみで、IVH も、経鼻栄養も、胃瘻造設も施さなかったのだが。

今になって考えてみると、その3ヵ月は、母にとって全く意味のない生存期間だったかもしれない。でも、息子のぼくにとっては、オギャーと生まれてから、今まで生きてきて、ずっとそこにいた母との関係性を再確認するために、絶対的に必要だった3ヵ月だったと思う。どんなに医療費の無駄だと陰口をたたかれようともね。

あれからもう、4年が過ぎた。

■そうは言っても、ぼくが自分の母親の介護に携わったのは、たったの3年間に過ぎない。だからこそ、耐えられたのだ。妻が自分の母親の介護で身動きが取れないために、仕方なく自ら一人で、妻に先立たれたばかりの父親の介護を買って出た平川克美氏だって、実質その期間は1年半に過ぎない。しかもその 1/3 は、彼の父親は病院に入院していたのだ。いずれにしても、ゴールを身近に予測できたからこその介護だった。

 

そういえば少し前に、布袋寅泰さんのブログを読んだ。おかあさんを看取った話だ。平川氏とも山登先生ともぜんぜん違ったエモーショナルな文章だった。そして、ぼくが母を看取った時のことをありありと思い出した。

ところがどうだ。「この本」の最終章を読んでみて僕はビックリした。なんと! つげ義春の漫画『李さん一家』のラストシーンそのままじゃないかと。

 

惚けて10年。寝たきりになってさらに10年。合わせて20年が経つというのに、山登先生のおかあさんはまだ生きている。凄いな! それはひとえに、90歳を超える、山登先生の父上が生きている「生き甲斐」のためだけに生きているのだ。

山登先生の「終わりのない日々」はまだまだ続く。

2013年11月17日 (日)

『母が認知症になってから考えたこと』山登敬之(つづき)

「この本」の最終章を読み終わり、なぜ「小津安二郎の映画を見終わったみたいだ」と感じたのか? その事についてちょっと考えてみたい。

来月の12月12日は、小津安二郎監督の誕生日であり命日でもある。しかも、今年は生誕110年、没後50年に当たるメモリアル・イヤーなのだった。それなので、「GyaO!」のサイトでは、現存する「小津映画」全37作品のうち33本を、11月15日から12月13日まで連日「日替わり」で「無料配信」している。

今日は、小津監督の遺作『秋刀魚の味』だった。レーザー・ディスクでは持っているのだが、DVDはなかったので、久々に見入ってしまった。やっぱりいいなぁ、トリス・バーでの岸田今日子(風呂上がりで、黄色いタオルを頭に巻いてる)と加東大介、そして笠智衆の「軍艦マーチの敬礼」のシーン。

それから、ちょいと下を向く仕草の佐田啓二は、息子の中井貴一とやっぱりどこか似ている。

■もう一本『小津と語る』という、小津を敬愛してやまない世界の映画監督7人(ヴィム・ヴェンダース、アキ・カウリスマキ、ホウ・シャオシェン、スタンリー・クワン、リンゼイ・アンダーソン、ポール・シュレイダー、クレール・ドゥニ)へのインタビューを、今から20年ほど前に映像化した作品が、期間中ずっと無料配信されていて、こちらも今日見た。フィンランドでの、アキ・カウリスマキ監督へのインタビューは、YouTube で既に何度も見ているが、フル・バージョンでは初めて見た。

最も印象に残った言葉は、ラストに収録されたフランスの女性映画監督クレール・ドゥニが言っていたことだ。

「先ほど『窓』という言葉を使いましたが、小津作品は全世界的普遍性に向けて開かれているのです。

『家族』ということでまとめてみましょうか。ヴィム・ヴェンダースがこんなことを書いていました。うまく引用できるかどうか分かりませんが。

 人にはそれぞれ、少なくとも兄弟、姉妹、両親、叔父、叔母さらにその父もいる。だから、何が小津作品の中で語られているのか分かる。

 ただそれは、それぞれの人々が大切な人と過ごした幼年時代の関係などを、小津映画から改めて見つけ出すことを意味するのではない。

 ある文化から作り出された世代とは何を意味するのか。どのような過程を踏んで育ち、どのような人間になったのか。といった問題を提示している」

そうして最後に、彼女が一番好きな『晩春』から笠智衆と原節子との1シーンを音読する。

笠智衆:「お父さんはもう五十六だ。お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ。だけどお前たちはこれからだ。これからようやく新しい人生が始まるんだよ。つまり佐竹君と二人で創り上げて行くんだよ。お父さんには関係のないことなんだ。それが人間生活の歴史の順序というものなんだよ」

 誕生、成長、成熟、衰退、死 ---- 。世代の違う人間同士が同居する家族(特に親子関係)とは、まさに「輪廻」「無常」の場だ。凡人たちにとっての根本的ドラマの場だ。『小津ごのみ』中野翠 p218(ちくま文庫)

まさに「そういうこと」が、「この本」には書かれていたのだった。しかも、小津映画と同様、決して情緒的でお涙頂戴になることなく、少し引いた視線で客観的に、静かで淡々とした筆致でね。

■以下、先だってのツイートから(一部誤りなど改変)

『母が認知症になってから考えたこと』山登敬之(講談社)を読み終わって、介護を通して親と自分との関係性を内省的に考察するという、似たようなテイストでありながら、尽く対照的な「介護本」が気になっていた。『俺に似たひと』平川克美(医学書院)だ。ウェブ連載中は読んでいたのだが本は未読だ。

で、早速本を入手し読んでみたのだ。平川氏は1950年生まれ。東京の下町である大田区の多摩川縁に近い下丸子(正確には、五反田と蒲田を結ぶ東急池上線の「千鳥町」と「久が原」のちょうど中間)に生家はあった。埼玉から出て来た父親は、この地で町工場を経営する社長だった。平川氏が小学校の時に転校してきた生意気なヤツ内田樹少年を彼は最初いじめたという。しかしその後直ぐに和解し、以後50年以上にわたり無二の友人関係を続けている。

一方、児童精神科医の山登敬之先生は 1957年生まれ。昭和32年になる。生家は千駄ヶ谷。いまの住所でいうと神宮前二丁目。いわゆる「裏原宿」にあった。父親は病院勤務の小児科医で、山登先生は四谷にある超有名幼稚園に通う、絵に描いたような東京山の手の「お坊ちゃま」だった。

でも、ちゃきちゃきの江戸っ子と言ったら、やっぱり山登先生の方だ。山登先生のおかあさんは、戦前の麹町で毛織物商を大々的に営む商家の長女で、茅ヶ崎には別宅もある、正真正銘の「山の手のお嬢様」だったのだから。

平川克美氏は、内田樹、中沢新一、矢作俊彦、高橋源一郎(早生まれ)と同学年だ。敗戦から5年して生まれた、団塊世代の末尾を飾る人たち。それに対して山登先生は、共通一次世代よりは古い、国立大一期校、二期校受験の頃で、いわゆる「しらけ世代」ということになるな。ぼくもそうだが。

一番違う点は、平川氏は「父親」の介護の話であり、父親と息子との確執と和解(でもそれは、かなわなかった?)の物語であるのに対し、山登先生は、自分を育て上げた「母親」への無意識な依存があった過去の日々への確認と、でもそれが決っして今の生きざまに対して間違ってはいなかったのだという確かな自信の物語であること。この違いは決定的かもしれないな。

それからもう一つ。重要な相違点があるのだが、そのことに関してはまた次回に続くのであった。(まだつづく)

2013年11月11日 (月)

『母が認知症になってから考えたこと』山登敬之(講談社)

■11月6日にアップしたツイートから

雑誌『そだちの科学』に連載されてきた、山登敬之『こんな男に誰がした〜育てられのカガク』がついに本になった。『母が認知症になってから考えたこと』(講談社)だ。これはいい。連載時から著者の代表作になるんじゃないかと思っていたのだ。小津映画のような最終章を読んでいて不覚にも涙が溢れた。

 

Photo■小児科医になった当初から、何故だか「自閉症」に興味があった。ただ当時は、この疾患を取り扱うのは専ら精神科医であって、小児科医の範ちゅうにはなかったのだ。仕方なく、ぼくは「その興味」を置き去りにした。

 

それからずいぶんと経って、伊那市西澤書店で『そだちの科学』(日本評論社)という雑誌の「創刊1号:自閉症とともに生きる」を見つけ「おっ!」と思い即購入した。今から10年前、2003年秋のことだ。家に帰ってぱらぱら雑誌をめくってゆくと、133ページに『こんな男に誰がした 〜育てられのカガク』連載第1回「優しいママとダメ息子」山登敬之、という記事を発見した。読んでみて、これがメチャクチャ共感する内容だったのだ。

■気鋭の児童精神科医、山登敬之先生の母親は、1993年に認知症を発症した。アルツハイマーだった。この連載が始まった2003年には、歩くことも喋ることも、食べることさえもやめてしまっていたという。

 そうこうするうちに母が静かにボケ始めた。ある日、私が実家を訪れリビングでに座っていると、二階から母が降りてきた。彼女は一瞬凍ったような表情を見せてから、その戸惑いを隠すかのように大きな声で笑った。

「誰だかわかんなくなっちゃったわよ!」

 父親から母の容体を聞かされていたので、こちらも慌てることはなかったが、それでも、実の母親から面と向かって、あんた誰? と言われるのは、あまり気持ちのいいものではない。その体験は、私にとっても、やはりショックであった。

しかし、あとからジワリと、なにやら妙な開放感が湧き上がってきた。母が私の存在を忘れていくという事実が、私の心をどこかで軽くしてくれる感じ。この感覚もまた、私自身に小さな衝撃を与えた。(中略)

私はなにから「解放」されたがっていたのだろうか。それは、いうまでもなく、母親の呪縛からである。もう一度、「愛」という言葉を使うなら、優しい母親の愛に縛られた息子という役回りからの解放。

私の場合、その役はとっくに降ろしてもらったつもりだったのに、どうやら考えが甘かったようだ。ここにきて、私はようやく気づくのである、自分にとって、いかに母親の支配力が強大であったかということを。

それはまた、自分のダメ息子ぶりに、あらためて気づかされた瞬間でもあった。ここで私のいう「ダメ息子」の「ダメ」は「甘ったれ」とほぼ同義である。息子たちはみな間違いなく甘ったれである。(中略)

母親から生まれ母親に育てられる運命を持った男たちは、ともかく、みんな甘ったれでダメなのである。(中略)すなわち、この世の中は、優しいママに甘やかされたダメ息子と、優しいママを求めてやまないダメ息子で溢れている。

本書では、そんな優しいママとダメな息子の生態と心理を、私自身の生育歴をもとに考察してゆくつもりである。(『母が認知症になってから考えたこと』p14〜15)

どうです? 読んでみたくなったでしょう! このなんとも淡々とした筆致がいいのだ。

実際、この連載は毎回なかなかに力が入っていてほんと面白かった。読み応えがあった。次号が楽しみでしかたなかったのだ。しかし、この雑誌『そだちの科学』は、年に2回しか発刊されなかったので、どうも何号か買い逃している。

最終章が載った『そだちの科学』最新刊も読んでいなかった。だから、この本『母が認知症になってから考えたこと』を手にして、まっ先に読んだのが、その最終章だった。だって、山登先生とおかあさん、おとうさんの「その後」が気になってしかたなかったからだ。で、冒頭のツイートとなる訳である。

■雑誌でこの連載第一回を読んで、ぼくは驚いた。知らなかったよ山登くん。大変だったなぁ。って他人事のように思ったっけ。この時点ではまだ、ぼくの母親はボケていなかったように思う。

それから2〜3年してからか、うんそうだ。いま乗っている、マツダのMPVを購入して初めてうちの家族といっしょに母を乗せて長野までドライブした頃だったから、7年前か。ぼくの母もボケ始めたのだ。アルツハイマーではなく、脳血管性の認知症だった。

ぼくの母親は、昭和3年の生まれ。山登先生のおかあさんは、昭和元年の生まれか。

 

団塊の世代から10年遅れてきた、昭和30年代生まれの僕らが、いよいよ親の介護をしなければならない時代になったのだ。(つづく)

 

 

2013年11月10日 (日)

師匠とその弟子の関係は連鎖して行く(その3)

■師匠に弟子入りするということは、例えば落語家の場合「弟子にして下さい」とお願いに行き、師匠から入門を許され師匠宅での弟子入り修行が始まる訳だが、松尾スズキ氏の場合、宮沢氏の劇団に所属して何年も行動を共にしてきたワケではなかった。【『茫然とする技術』宮沢章夫(ちくま文庫)解説より、前回の続き。

 

果敢にも当時テレビのスタア構成作家であった宮沢さんに単身会いに行ったのは、ひとえにその才能に惚れ込んでしまったからでありました。(中略)

 

どこかのテレビ局の会議室で机を挟んだ状態で硬直しつつ「宮沢さんの演出を受けてセンスを盗みたいんです!」と言ったら「センスって生まれついての物じゃないか?」と返され「ん、いや、なにが『やってよいこと』でなにが『やってよくないこと』かは学ぶことができると思うのです」とつっぱると「ふうん、なるほど」と数秒間考えるふりをしていただいた、といった数分間の面接がファーストコンタクトでした。

宮沢さんは忘れているかもしれないが、私は鮮烈に覚えている。だって、東京で初めて出会ったスタアなのだから。そりゃあ、覚えていますとも。(中略)

 

 それほどに宮沢さんはかっこよかった。まあ、二十円しか持ってないものに比べれば、たいがいの人はかっこよかろうものだが、とにかく私にとってスペシャルな存在だった。

役者として採用されたものの電車賃の工面がつかないために遅刻を繰り返すだめな問題児だった私に、「茫然」としながらも「泰然」と接してくれた宮沢さんの視野に入るよう、私は毎日演出席の隣に陣取り続けた。ほかの役者に煙たがられても知ったことではなかった。

 

(中略)私が台詞をいうたびに椅子からずっこける真似をされていたが、今の私でも当時の私の台詞に同じリアクションをするだろう。激しく下手だったのだ。緊張して全然輝けない状態のまま楽日を迎えた。

 ああ、終わったあ。と思った。

 

 しかし、次の私の公演を宮沢さんは観に来てくれて、あろうことか、大人計画の旗揚げ公演となるそのとてもつたない芝居の劇評を雑誌にでかでかと取り上げてくれたのだ。そっから先の長いつきあいは、いろんな雑誌に書いているので割愛させていただくが、とにかくなにかと公私にわたって世話になった大切な恩人の一人であることには間違いない。

 

 かなりしばらくして私は岸田戯曲賞という有名な賞をいただいた。それまで演劇界からまったく無視されていただけに凄くびっくりした。

 受賞会場で宮沢さんはこんな素敵なスピーチをくれた。

「僕が一番最初に松尾君を見つけたんです。ざまあみろです」

 宮沢さんはマスコミで「俺が松尾を育てた」みたいなことを言うことはまずなく、そのストックな温度の低さこそ「宮沢的」なのであるが、その時少しだけ温度を感じました。(松尾スズキ『茫然とする技術』宮沢章夫(ちくま文庫)解説より

 

■ 松尾スズキさんが宮沢章夫演出の舞台に立ったのはたったの1回だけだったのだ。その芝居、カジビリバンバ2号 ナベナベフェヌア第一回公演『電波とラジオ』がシアタートップスで上演されたのは、1988年7月17日〜 とある。そのすぐ後には、もう大人計画の旗揚げ公演になるのか。

そうなると、文字通りの意味での「師弟関係」とまでは言えないわけなのか。

だから、宮沢氏は松尾氏のことを「知人」といい、松尾氏は宮沢氏のことを「恩人」というのか。でも、なんか「ものすごくいい話」なので、長々と勝手に引用してしまいました。

 

■さて、師匠と弟子の関係は次の世代へとバトンタッチされてゆく。

松尾スズキの弟子として、いま一番に注目されているは、やっぱり星野源なんじゃないか。

2013年11月 6日 (水)

師匠とその弟子の関係は連鎖して行く(その2)

■宮沢章夫『彼岸からの言葉』(新潮文庫)と同様、初めての著書となった『大人失格』松尾スズキ(知恵の森文庫)は過剰な意気込みに溢れている。それでいて、妙に醒めた自虐的視点が同居していて、すでに「松尾スズキのすべて」という内容になっているから驚く。

 

■まずはその「松尾スズキ」という、名字が2つ連なったような変な名前の由来。『大人失格』の「あとがき」(p246)にちゃんと書かれていました。

 

1)スズキは本名ではありません。

2)魚の「スズキ」が、人の名前みたいで面白いなーと思っていたので、なんとなく。まあ、本名が「勝幸」なんて、凄く意味のある名前なんで、人前に出る時は、なんかなるべく意味薄い名前がいいなと思って、パッとつけた訳で。特にウケを狙っているとかではないのですよ全く。極力その、「いきごみ」を感じさせたくないなと。名前ごときで。

 

ということはだ。「北尾トロ」氏と同じようなネーミングな訳ね。不思議だなぁ。2人とも福岡県の出身で、1988年頃から「その名前」が世間で知られるようになる。どっちが先に命名したのだろうか? ちょっと気になる。

 

■松尾氏は、1970年代の学生時代から東京でサブカルを満喫してきたとばかり思っていたのだが、そうではなかった。松尾氏は大学時代を故郷の北九州で過ごしていたのだ。当時は漫画研究会と演劇研究会に所属していたという。

聞いた話によると、大学時代の松尾氏はTBSラジオの深夜放送「那智チャコパック」の常連投稿者だったという。「北九州の黒タイツ」と名乗ってたんだって。スゴイな。関係ないけど、ぼくも一度だけ「那智チャコパック」の「お題拝借」で読まれたことがあるぞ。えへへ。

 

松尾氏は 1962年生まれだから、ぼくより4つ下だ。彼は大学を卒業した後、生涯2度目の上京をする。入居したアパートの両隣の入居者だけでなく、1階2階すべての住人に引っ越しの挨拶として 1000円の辛子明太子を配って廻ったという。なんか、泣ける話だ。田舎者まるだしじゃないか。「23歳で上京してしまったあなたへ」「会社の辞め方」「距離のテロリズム」(p193)より。

 

■上京して就職した印刷会社を辞めたあと、松尾氏は女のヒモとなってプータロー生活を続ける。

 

 25歳から27歳までの三年間、私の生活どうひいき目に見ても、立場としてはヒモだった。立場って、ヒモに立場なんかない訳ですけどね。

 就職した会社を10ヵ月で辞め、乏しいイラストの仕事と失業保険で一年はなんとかなっていた。それが24の時。

 保険も切れ、貯金もなくなり、持病の肩こりに負け手抜きが始まったため、イラストの仕事もパッタリ途絶えた25歳。大抵の人が「何者かになっている歳」で、私は何もかも失っていた。

 あの3年間、私はいったい何をしていたのだろう。

 それでも26、27の時は「芝居に専念していた」と言い訳はできる。そこからラジオやシナリオの仕事がポツポツ入り始め、なんとか自分の食いぶちくらいは稼げるようになったのだ。

 問題は25の頃だよ。何だったんだろうなあ、あの一年は、と今でも思い出そうするのだが、殆ど記憶が定かでない。(『大人失格』p230〜231)

 

■松尾スズキ氏が宮沢章夫氏に会いに行ったのは、この頃(26歳)だったんじゃないか? 当時のことが『彼岸からの言葉』宮沢章夫(新潮文庫)の「解説」に載っている。

 

さらに、松尾氏が「解説」を書いた『茫然とする技術』宮沢章夫(ちくま文庫)を読むと、こんなふうに書かれていて、思わず笑ってしまった。

 

       「解説 ポケットに 20円」    松尾スズキ

 

 かつてポケットに 20円しか入ってなかった男。

 として、たまに宮沢さんのエッセイに登場させてもらっている松尾というものです。と、胸を張らせていただきます。ほんとに私はその頃、20円しか持っていなかったのだから。(中略)

 20円しか持っていなかったばかりか、まだ上京したてで、東京そのものにびくついていた(地下鉄の長いエスカレーターとか、凄く怖かった)頃の私がである。鞄もなく東急ハンズの袋に物を入れて持ち歩いていた私がである。

果敢にも当時テレビのスタア構成作家であった宮沢さんに単身会いに行ったのは、ひとえにその才能に惚れ込んでしまったからでありました。当時宮沢さんはシティ。ボーイズや竹中直人らを擁する『ラジカル・ガジベリンバ・システム』というユニットの座付き作家であり、そりゃあもう、そおりゃああもう、狂ったようにおもしろい舞台を矢継ぎ早に発表していた時期だった。(『茫然とする技術』p320〜321)

 

■宮沢章夫氏は「200円」って書いているのに、20円しか持ってなかったと告白する松尾氏が可笑しい。師匠はたぶんちょっとだけ松尾スズキの自尊心に遠慮して「200円」と書いたのに、当時芝居の稽古に通う電車賃が工面できず、遅刻ばかりしていた松尾氏のポケットには、たぶん本当に「20円」しか入ってなかったのだろう。

 

ところで、宮沢章夫氏が「最も嫌う」のが「紙袋をぶらさげている人」(p114「バナナが一本」『牛への道』宮沢章夫・新潮文庫)だってことを、知っていたのだろうか?  当時「東急ハンズ」の紙袋を下げて宮沢氏に会いに行った松尾スズキ氏は。

たぶん、宮沢氏の松尾氏に対する第1印象は最悪だったんじゃないか?

 

だって、具現化した「貧乏」と「紙袋」だったワケだから。(もう少しだけ続く)

 

 

 

2013年11月 4日 (月)

師匠とその弟子の関係は連鎖して行く(その1)

 

■今日 11月4日(月)文化の日の振替休日は、スタッフ4人に休日出勤してもらって「インフルエンザ・ワクチンの集中接種」を実施。午前9時から午後4時半まで、約130人に接種した。正直疲れた。やれやれだ。これだけ皆で苦労して一生懸命やっているのだから、もう少しワクチンの効果があってもいいのにと、毎度ながら思ってしまう。

 

■さて、このところずっと「小津安二郎」ばかりなのだが、実は今回も先日読み終わった『小津安二郎の反映画』吉田喜重(岩波書店)と、いま読んでいる『小津ごのみ』中野翠(ちくま文庫)のことを書こうと思っていた。しかし、吉田喜重の『小津安二郎の反映画』が案外手強かった。文章は平易なのに言ってることがむずかしい。ちゃんと理解できていないことがもどかしいのだ。

というワケで、この話題は宿題とさせていただきます。

 

■で、もう一つ。ずっと書こうと思っていたことを今日は書く。

NHK朝ドラ『あまちゃん』の脚本家、宮藤官九郎の師匠は、劇団「大人計画」主宰の松尾スズキだ。『あまちゃん』にも、原宿の喫茶店「アイドル」のマスター甲斐さん役で出演したいた。

実を言うと、ぼくは松尾氏の本を『老人賭博』(文藝春秋)と『ギリギリデイズ』(文春文庫)しか読んだことがなかった。もちろん大人計画の舞台も映画も見たことがない。あの、クドカンに原稿用紙の書き方から教えてやったという松尾スズキなのにだ。

 

 早速、松尾氏の最新刊『人生に座右の銘はいらない』(朝日新聞出版)と、処女作である『大人失格』松尾スズキ(知恵の森文庫・光文社)を入手して読んでみた。どちらも、すこぶる面白かった。最新作では案外マジメに真摯な解答をしていることに驚いたし、弟子であるクドカンに対して妬み嫉みを顕わにしている点が、師匠らしからぬ自虐的セコさを強調するキャラが見え見えで笑ってしまった。

 

『ギリギリデイズ』なんて、酔っぱらって書き散らかしただけのような文章(ごめんなさい。でも、だからこそのドライブ感と刹那さが絶妙にアレンジされた傑作だと思う)だったのに対し、『大人失格』の気合いの入った全力投球の文章は何だ? とにかく凄い! なるほど、これは傑作の誉れ高い本だぞ。

 

ただ、前半はちょっと硬い。『大人失格』で本当に面白い文章は、適度に肩の力が抜けた、もうどうでもいいかと著者が開き直った後の文章だ。「Hanako」連載初期の文章は、どうみたって彼の師匠「宮沢章夫」のモノマネだ。「『まぬけ』へのベクトル」を読むと特にそう感じる。話題の展開のしかた、文章のリズム、間の取り方。その口調。そのままじゃないか。松尾氏はたぶん自分でも意識していたんじゃないか?

 

ちなみに、彼らの「師匠の系図」を明らかにすると、

   宮藤官九郎 → 松尾スズキ → 宮沢章夫 となる。

 

で、松尾氏が師匠「宮沢章夫」の呪縛から解き放たれた瞬間が、『大人失格』を読んでいくとと何となく判るような気がするのだ。

ところで、師匠の宮沢章夫氏は無名時代の松尾スズキ氏のことをどう思っていたのか?

 

その答は、『考える水、その他の石』宮沢章夫(白水社)p55。「下北沢と怪しい眼差し ---- 大人計画と松尾スズキについて」に書いてある。

 

 数年前、松尾スズキにはじめて会ったのは、私が演出するナベナベフェヌアの第一回公演『電波とラヂオ』の稽古場で、彼がどういう経緯でそこに来たのか今になっては私にもよくわからないが、それは今でも変わらない不健康そうな顔色と怪しい目つきを携え彼は私の前に現れた。

その姿は貧乏が実体化しているとしか私の眼には映らず、実際、その日の所持金を手のひらに出してみると、彼の手の上には小銭ばかりが二百円ほどしかないので、そうした貧乏はもう十年前には終わっているんじゃないかと思っていた私にしてみれば、まだここに存在しているのだと認識させられ、ひどく不思議でならなかった。 (中略

 

前述したトラディショナル・プアーやニュー・プアーと明らかに違うのは、彼らが、彼らの貧乏を表現する手立てを持つことによって時代の雰囲気を作り出す奇妙としか言いようのないパワーを内在させていることだ。

 時代とともにその姿は変化するが、ここで不思議なのは<町>が表現に形を与えることだ。かつての新宿がそうだったろう。吉祥寺がそうだったこともある。今、そのことで私が感じる<町>こそ、下北沢に他ならない。

 大人計画の魅力とは、すなわち下北沢が形象する、この時代の隠蔽された領域に漂う空気だ。無論のことそれは作ろうとして作られたものではなく、かつて「薬品関係」の怪しい仕事をしていた者のなかからやみがたく湧き出す<表現>に違いない。(中略)

 おそらく彼はそんなことには気づいてはいまい。彼の内部の<呪われた部分>がそうさせ、そのことから私は、『猿ヲ放ツ』を、<下北沢ニュー・ゴシック・ロマンス>と呼ぼうと考えているのだ。(『シティロード』1991年4月号)

 

■『考える水、その他の石』宮沢章夫(白水社・2006年刊)を読むと、「大人計画」のことが何度も出てくる。宮沢氏本人もこう言っている。

 

いきなり私事で恐縮だが、評論集(この本)を出すことになった。それで過去の原稿を整理する必要があり、まとめて目を通して驚いたのは、大人計画について書いた文章がやけに多いことだ。なぜ私はこんなに、大人計画について書いたのだろう。彼らの何が私に多くを語らせたのか。(p68「本能の物語」『シティロード』1994年 4/5月合併号)

 

はじめて「大人計画」が登場する文章は、たぶんコレだ。

■劇団健康『カラフル・メリィでオハヨ』/大人計画『手塚治虫の生涯』

 

 知人が出演、あるいは演出する舞台を同じ時期に二つ観た。ひとつがあのケラが主宰する劇団健康で、知名度も高く、一定の評価も与えられているが、もうひとつは、私の舞台にも出演してくれた松尾スズキの、そんな名前を聞いても、誰だそいつはと言われるだろうけど、まるで無名の大人計画である。

 

(中略)ストレートな物語をどう語るかについての冒険だ。重層的な、「面白さ」への志向があるからこそ、この舞台を、ケラの作品を私は支持するのだ。

その冒険について、そうした面白さについて、久々に刺激を受けたのが大人計画の舞台だった。もちろん役者のなかにはまだまだ未熟な人もいるし、幾つかの部分でクオリティの低い印象を受けもするのだが、語らずにはいられない面白さがそこにはあった。

『手塚治虫の生涯』と題されたその作品は饒舌とも思えるほど過剰に物語りが語られていく。それはガルシア・マルケスを想起させるし、過剰な物語が迷宮のなかを彷徨する様は、トマス・ピンチョンの小説世界だ(っていうのはほめすぎか)。逸脱したり、後戻りしたり、ひとつの物語から、また別の物語へとイメージが錯綜する文脈の重層的な構造は、私の頭脳を刺激してやまなかった。

私も自分の舞台で同様の方法を取るが、山藤章二さんをはじめとするお年を召した方々は「何だかわからん」とおっしゃるよ。そんなの知ったことかであるよ。

 重層的な非決定の面白さだ。(p108『TARZAN』1988年10月より)

 

なんと、最大限の賛辞ではないか! すごいな。しかも宮沢氏は、松尾スズキのことを「弟子」とは言わずに「知人」と言っている。(まだつづく)

 

 

 

 

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