『母が認知症になってから考えたこと』山登敬之(講談社)
■11月6日にアップしたツイートから
雑誌『そだちの科学』に連載されてきた、山登敬之『こんな男に誰がした〜育てられのカガク』がついに本になった。『母が認知症になってから考えたこと』(講談社)だ。これはいい。連載時から著者の代表作になるんじゃないかと思っていたのだ。小津映画のような最終章を読んでいて不覚にも涙が溢れた。
■小児科医になった当初から、何故だか「自閉症」に興味があった。ただ当時は、この疾患を取り扱うのは専ら精神科医であって、小児科医の範ちゅうにはなかったのだ。仕方なく、ぼくは「その興味」を置き去りにした。
それからずいぶんと経って、伊那市西澤書店で『そだちの科学』(日本評論社)という雑誌の「創刊1号:自閉症とともに生きる」を見つけ「おっ!」と思い即購入した。今から10年前、2003年秋のことだ。家に帰ってぱらぱら雑誌をめくってゆくと、133ページに『こんな男に誰がした 〜育てられのカガク』連載第1回「優しいママとダメ息子」山登敬之、という記事を発見した。読んでみて、これがメチャクチャ共感する内容だったのだ。
■気鋭の児童精神科医、山登敬之先生の母親は、1993年に認知症を発症した。アルツハイマーだった。この連載が始まった2003年には、歩くことも喋ることも、食べることさえもやめてしまっていたという。
そうこうするうちに母が静かにボケ始めた。ある日、私が実家を訪れリビングでに座っていると、二階から母が降りてきた。彼女は一瞬凍ったような表情を見せてから、その戸惑いを隠すかのように大きな声で笑った。
「誰だかわかんなくなっちゃったわよ!」
父親から母の容体を聞かされていたので、こちらも慌てることはなかったが、それでも、実の母親から面と向かって、あんた誰? と言われるのは、あまり気持ちのいいものではない。その体験は、私にとっても、やはりショックであった。
しかし、あとからジワリと、なにやら妙な開放感が湧き上がってきた。母が私の存在を忘れていくという事実が、私の心をどこかで軽くしてくれる感じ。この感覚もまた、私自身に小さな衝撃を与えた。(中略)
私はなにから「解放」されたがっていたのだろうか。それは、いうまでもなく、母親の呪縛からである。もう一度、「愛」という言葉を使うなら、優しい母親の愛に縛られた息子という役回りからの解放。
私の場合、その役はとっくに降ろしてもらったつもりだったのに、どうやら考えが甘かったようだ。ここにきて、私はようやく気づくのである、自分にとって、いかに母親の支配力が強大であったかということを。
それはまた、自分のダメ息子ぶりに、あらためて気づかされた瞬間でもあった。ここで私のいう「ダメ息子」の「ダメ」は「甘ったれ」とほぼ同義である。息子たちはみな間違いなく甘ったれである。(中略)
母親から生まれ母親に育てられる運命を持った男たちは、ともかく、みんな甘ったれでダメなのである。(中略)すなわち、この世の中は、優しいママに甘やかされたダメ息子と、優しいママを求めてやまないダメ息子で溢れている。
本書では、そんな優しいママとダメな息子の生態と心理を、私自身の生育歴をもとに考察してゆくつもりである。(『母が認知症になってから考えたこと』p14〜15)
■どうです? 読んでみたくなったでしょう! このなんとも淡々とした筆致がいいのだ。
実際、この連載は毎回なかなかに力が入っていてほんと面白かった。読み応えがあった。次号が楽しみでしかたなかったのだ。しかし、この雑誌『そだちの科学』は、年に2回しか発刊されなかったので、どうも何号か買い逃している。
最終章が載った『そだちの科学』最新刊も読んでいなかった。だから、この本『母が認知症になってから考えたこと』を手にして、まっ先に読んだのが、その最終章だった。だって、山登先生とおかあさん、おとうさんの「その後」が気になってしかたなかったからだ。で、冒頭のツイートとなる訳である。
■雑誌でこの連載第一回を読んで、ぼくは驚いた。知らなかったよ山登くん。大変だったなぁ。って他人事のように思ったっけ。この時点ではまだ、ぼくの母親はボケていなかったように思う。
それから2〜3年してからか、うんそうだ。いま乗っている、マツダのMPVを購入して初めてうちの家族といっしょに母を乗せて長野までドライブした頃だったから、7年前か。ぼくの母もボケ始めたのだ。アルツハイマーではなく、脳血管性の認知症だった。
ぼくの母親は、昭和3年の生まれ。山登先生のおかあさんは、昭和元年の生まれか。
団塊の世代から10年遅れてきた、昭和30年代生まれの僕らが、いよいよ親の介護をしなければならない時代になったのだ。(つづく)
コメント