『もののけ姫』と『神無き月十番目の夜』
■いま、テレビで宮崎駿監督作品『もののけ姫』をやっている。この映画を見るのは、「おっこと(乙事)」や「えぼし(烏帽子)」という名の地区がある、諏訪郡富士見町に住んでいた頃に、松本の映画館で観て以来のことだ。いま調べたら、1997年7月12日公開とあった。すごく面白かったのだが、ラストが不満だった。なんか中途半端で投げやりで、大風呂敷を広げるだけ広げといて、きちんと落とし前をつけなかったから。
何故そう思ったのかというと、この映画を観る前に、ほぼ同じ主題の小説『神無き月十番目の夜』飯嶋和一(河出書房新社)を読んでいたからだ。いま調べたら、この小説が発刊されたのが 1997年6月25日で、奇遇にも『もののけ姫』とほとんど同時期だった。当時、この小説と『もののけ姫』との類似性に触れた映画評はなかったと思う。
時代設定は微妙に違う。『もののけ姫』が室町時代末期、『神無き月十番目の夜』は徳川家康が江戸幕府を開く前年、慶長七年十月の出来事。舞台も、山陰地方と関東常陸と違うが、網野善彦の歴史観に大きく影響されているところが共通している。それから、アジールとしての「里山」と、そこに縄文の大昔から中世まで、人々から奉られてきた「土着の神」の存在。ここも同じ。
そこへ「近代」を象徴する専業武士(職業軍人)の軍隊が攻め入り、土着の神と民との共同体を殲滅する話。つまりは、時代の転換点を活写していることでは共通しているのだ。それなのに、小説『神無き月十番目の夜』には読後の圧倒的なカタルシス(かつ、圧倒的な虚無感)があったのに対して、映画『もののけ姫』には残念ながら「それ」はなかった。たぶんそれが不満だったのだ。
■ぼくは、とことん暗い「これでもか!」っていう話が好きなのだ。コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』は、ようやく「第6章」まで読み終わった。まだ全体の 1/4。主人公の少年が、メキシコ・チワワ市の刑務所で、あのトードヴァィンやホールデン 判事と再会し、釈放されたところだ。これからいよいよインディアンの頭皮狩りが始まる。こういう(『神無き月十番目の夜』と同じく、読者に有無も言わせぬ)小説がぼくは好きなのだ。
■閑話休題。今日(昨日)は、今年初めての伊那中央病院救急部の当番日。前回と違って、救急車が1台も入らず、全体に閑な夜だったのだが、夜の8時半を過ぎてから子供が受診しだした。来るならもっと早く受診してよね。だって、聞けば「子供の熱」は今日の午前中からだったり、午後2時からだったりしてるのだ。だったら、日中に開業医を受診できたでしょうに。そう思っても、決して親御さんには直接は言わない。
午後9時までに2人診て、さて帰ろうかと救急部の廊下へ出たら、発熱の子供が受付していた。見て見ぬふりして帰る訳にもいかない。しかたなく第2診察室に戻って、看護師さんの問診が済むのを待つ。夜の9時20分を回っていた。診察が終わって、インフルエンザの迅速診断の結果を待ち、陰性を確認してから処方を打ち込み、親御さんに説明し終わって、さて、今度こそ帰ろうかと思って救急部の廊下へ出たら、デジャブーのように、新たな発熱の子供が受付していた。
でも、ここは心を鬼にして「その子」を無視し、救急口玄関を後にした。だっておいら、明日も午後2時まで診療があるのだよ。しかも、明後日の日曜日は、午前と午後の「まる一日」、伊那市保健センターで小学生に新型インフルエンザの集団予防接種に従事することになっているのだよ。ごめんね。
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