日常 Feed

2012年8月25日 (土)

今夜はBBQ

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■長年BBQをやってきて、ひとつ自信がついたことがある。「炭の火おこし」だ。最初のころは、ずいぶんと苦労したものだ。ここがお父さんの腕の見せ所なんてね。でも、今やガスバーナーを使えばものの10分で炭に火が付いてしまうのだった。

何も額に汗して、火吹き竹で「ふーふー」する必要はないのだよ。


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ただ、その弊害もあって、必要以上に炭を熾してしまうのだな。最近。

だから、いつも焼くものが全てなくなった後に、ちょうどいい遠赤外線を発する熾火が完成してしまうことが、ほんとうにもったいない。


■今回は、まずはグリーンファームまで行って買ってきた、虫食いかも?トウモロコシ5本入り(¥250) を、網に乗せてハケで醤油を付けながら焼く。やっぱ、焼きトウモロコシが最高。

続いては、ベルシャイン伊那で仕入れた、ニジマスとブラックタイガーに岩塩を振りかけて遠火で焼く。とにかく川魚は「遠火の加減」が一番重要なのだ。


さてあとは、焼き鳥でしょ、国産黒毛和牛カルビに、カナダ産の牛タン。ベルシャインではめったに見ない「牛タン」が2パック残っていたから、あわてて買い物籠に妻が入れたのだが、これは正解だったね。ほんと旨かったぞ。


そうして、シメのデザートは、マシュマロ焼き。これもわが家の定番です。犬のレオも、この夜は一緒に(物干し竿に繋がれてだけれど)野外でのBBQに最後まで参加してました。

2012年8月 8日 (水)

死者とともに生きるということ

■ハンバートハンバートの代表曲『おなじ話』が、なぜ「おなじ話」というタイトルなのか? ということに言及した発言を未だ読んだことがない。


でも、じつは答は意外と簡単で、主人公の男性が、死んでしまったかつての恋人と会話をする設定だから、そこには全く意外性も未来もなくて、発展性のない主人公サイドだけの「いつもの同じはなし」にならざろう得ないのだね。つまりはそういうことだ。

■今日の「信濃毎日新聞」朝刊文化欄に興味深い記事が載っていた。「死者と生きる ---生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉---」と題されたその記事は、共同通信の配信か、それとも信毎独自の記事なのか、検索してもネット上ではまだ読めないみたいなので、勝手にここで転載させていただきます。


 多くの死者、行方不明者を出した東日本大震災から2度目の夏。時がたつにつれ、大切な人を亡くした被災者の喪失、その悲しみを置き去りにして、「復興」ばかりが声高に叫ばれてはいないだろうか。今、生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉が、静かに浸透し始めている。私たちは、死者とともに生きている、と。


 大学職員の小原武久さん(56)は、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の自宅にいた27歳の息子を津波で亡くした。「現実を受け入れられず、夢を見ているような毎日でした」。職場の大学の准教授に手記の執筆を依頼されたのは、震災から3ヵ月がたったころ。同僚が帰った夕暮れ時の職場で、一人パソコンに向かった。

 在りし日の面影、必死で行方を捜した日々がよみがえり、悲しみが胸を満たしていく。「そのとき、息子が語りかけてくれるような感覚があったんです。息子と2人の時間を過ごし、一緒に書いている。そんな気がして」


 死者とは、協同する不可視な「隣人」である--- 。批評家の若松英輔さんは著書「魂にふれる」でそうつづった。「人は死者を思うとき、決して一人で悲しむことはできない。なぜなら、そこには必ず死者がいるから」


 若松さん自身も一昨年、妻をがんで亡くした。「死者は存在するという問いは大きな仮説。でも私に取っては実感です」。そこにあるのは「死者によって終わるのではなく、死者として生まれる」という感覚だ。悲しみとは「死者が近づいてくる」合図であり、逆に言えば「悲しみこそが死者の存在を保証している」。


 今この瞬間も、言葉も音も持たない死者の「声」を待ち続け、沈黙の渦中にある人々がたくさんいる。その沈黙そのもにに大きな意味がある、と若松さん。「沈黙に至らざるを得ない経験、その苦しみを1歩生きたとき、自分の横に死者がいると感じるのだと思う」


 同書で若松さんは「死者と生きることは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ」と書いた。死者とは困難を解決してくれる人ではなく、困難とともに歩いてくれる人だと。「死者に支えられ、助けられた人間はいつか必ず誰かを助ける。悲しみ尽くした人は誰よりも人の悲しみを分かってあげられる。今、これ以上の希望があるでしょうか」


 哲学者の森岡正博さんは著書「生者と死者をつなぐ」で「死者とともに生きているというリアルな感覚」をこう描いた。「ふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ」


 宗教も、肉体から抜け出る魂の存在も信じていないという森岡さんは、近代以降の日本の死生観に不備があったと指摘する。「われわれは言葉になる以前の感覚として多くの人が持っているものに、言葉を与えられてこなかった」。むしろ、魂の存在や、お盆に死者が帰ってくるという儀式は、この「原体験の感覚」が基本にあり、それを説明するため、後から「発明」されたと考えることもできるのではないか。


 生者と死者が出会い、交わるということ。それは一方で「われわれが大切にしてきた伝統的な感受性」だという。例えば、世阿弥の「夢幻能」は、死者が能面をかぶって生者の前に現れ、語りかけ、舞う。「死者の声をどう聞くかというテーマを能は描いてきた。そうした感受性をもとに、死者とともにあるということを、今の視点から言葉に置き換えていく作業が必要です」と森岡さん。


 「いわく言い難い感覚であるため、口にしたり、考えたりするのはおかしいのではないかと思っている人々に、それはあり得るんだよ、そこから開けてくる生命観もあるんだよ、と伝えたい」(2012年8月8日付、信濃毎日新聞朝刊13面より)


■ところで、同じようなことを、ずいぶんと昔から繰り返し言ってきた人が他にもいた。


内田樹先生だ。


今日の午後、伊那の TSUTAYA で買ってきた『昭和のエートス』内田樹(文春文庫)を読んでいたら、「死者とのコミュニケーション」(p209) というパートがあった。読んでみたら、過去に同じ文章を読んで「うんうん、そのとおり!」と思った記憶がある。


そうさ。死者とともに生きることができるということが、人間という生物の最も高貴な性質に違いないのだから。

2012年7月18日 (水)

猛暑の日々に、さすがの犬も夏ばてぎみ。

■あまりに暑苦しいので、毛をカットしてもらったら、別人(いや、別イヌ)になってしまった。

    <カット前>

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    <カット後>


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■色も白くなったし、全体に2回りほど小さくなってしまった。
でも、すっきり涼しくなって、これなら夏を乗り越えられそうかな。

2012年6月23日 (土)

わが家に子犬がやってきた

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■先週土曜日の夕方、わが家に子犬がやってきた。生後8週のオス。体重は1.5kg。もうただひたすら可愛い。

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トイプードル(父親)と、シーズー(母親)のミックス犬。名前は、LEON と付けた。日本語、フランス語、スペイン語では「レオン」だが、アンドレア先生に聞いたら、英語よみだと「リーオン」なんだそうだ。レオン・ラッセルって言うのにね。


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■わが家で犬を飼うのは初めてなのだ。しかも室内犬。トイレトレーニングとか判らないことだらけ。あたふたしながら、あっという間に一週間が過ぎた。でも、人間が犬の生活パターンに合わせたらダメだ。お互いに譲歩しつつ、それでも人間の生活に犬の方が我慢して付き合っていってもらわないとね。


犬のほうは、すっかりわが家に慣れた。人間の側も、新たな家族の一員として認め「犬といっしょの生活」にいつの間にか馴染んできたようだ。不思議なものだな。


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■驚いたのは、息子たち(高1、中2)の可愛がりようだ。朝起きてきて犬と遊び、学校から帰ってきて犬と遊び、夕食後に犬と遊び、寝る前にまた遊ぶ。みんなから愛されて、犬も幸せだ。


でも、何よりも一番変わったのは、ぼく自身だな。毎朝6時には目ざめ、夜は午前0時には寝ている。この早朝の時間帯をもう少し有効に使いたいものだが、今のところ、犬と遊んでツイッター読んで NHKBSで火野正平が自転車こいでるのを見て、それでおしまい。それじゃあいけないぞ。



2012年6月19日 (火)

内田樹先生の講演会 at the 長野県立看護大学(駒ヶ根市)

■日曜日の午前中、駒ヶ根市の長野県立看護大学講堂であった内田樹先生の講演会を聴きに行ってきた。


言っちゃぁ何だが、ぼくは内田センセイのファンだ。

前々回にリビングの本を写真に撮った中には、センセイの本は一冊も写っていなかったが、納戸や寝室ベッド横に積み上げられた本の中から探し出してみると、すぐに20冊以上見つかった。読んではないけど、レヴィナスの訳書も2冊購入した。あと、納戸に積み上げられた段ボール箱の中には、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)『日本辺境論』(新潮新書)を含め4~5冊はあるはずだ。


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■だからと言ってはおこがましいが、この日の講演内容は大方予測していた。

 <以下、ぼくの勝手な妄想>


 ポイントは福島第一原発だ。それから、福井県にある、関西電力「大飯原発」再稼働問題。先だってからネット上で話題になっていた、長野県上伊那郡中川村村長・曽我逸郎氏の話題から、6月15日の信濃毎日新聞社説要旨が、内田センセイが『「国民生活」という語の意味について』と題してブログに載せた文章と呼応していたこと。


 そうして、内田センセイの祖先は「東北人」(山形県鶴岡出身)であること。庄内藩は、会津藩と共に戊辰戦争を戦った仲だ。そして会津藩開祖、保科正幸から信州高遠に行き着く。戊辰戦争の負け組は、明治以降ずっと虐げられてきた。そんな導入で、講演は始まるはずだと確信していたのだ。


ところが、実際の講演内容は、ぜんぜん違っていた。いやはや。


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■この日の講演内容に関して「こんな話をする予定」という文章が、内田センセイによって前日の土曜日に書かれていて、月曜日に既にアップされているので、じつはもうここに書く必要はないのだった。


■この第13回日本赤十字看護学会の「趣旨」に書かれている『エビデンスブーム』とは、EBM ( Evidence-Based Medicine ) のことを言っている。すなわち、医療は「科学的根拠」に基づいて患者に対して施されなければならないということだ。科学的な基礎実験。ダブルブラインド方式による客観的で公正な臨床研究。疫学的、統計学的にも明らかに有意に治療効果があると認められた治療法を選択すべきである。つまりは、そういうことだ。


ところが、医学や看護の現場では、長年代々と継承されてきた「エビデンスでは証明できない、経験的直感」とでもいうべきことが、じつは大切にされてきた。内田センセイは、そういう話をされたのだ。

センセイはこう言った。

「医療従事者には、この『ある種の直感力』が必要なのではないか」と。


■内田先生が、何故よく看護の学会に講師として呼ばれるのか?


それは、合気道師範である内田センセイが極めた「武道の力」と、看護の世界で必要とされている「ヒーラー(癒しの力)」は近い(似通った)関係にあるからなのではないかと先生は言う。


武道で一番大切なことは、「気配」や「殺気」「危険」を感知する、センサーやアラームを磨くこと(すなわち「気の感応」)だと。


こうした能力は、人類が原始時代から生き残る上で最も大切な技として、親は子供たちに訓練してきたに違いない。だって、左の道を行って、いきなりライオンに出会ってしまったら、その人間は食われてお終いだ。だから前もって、左の道をこれから行くと、なんかとてつもなく危険な臭いがするという直感さえあれば、あらかじめ危機を回避できるのだ。


江戸時代までは「こうした能力」を効率的に身につける訓練方法が確立されていた。それが「武道」の修行だ。

ところが、明治以降、日本人は科学と進歩のエビデンスしか信用しなくなり、人間が原始時代から培ってきた「潜在能力」を磨く手段を放棄してしまった。そのために、福島第一原発の事故は起こってしまったのだ。


カタストロフというのは、よっぽどの悪条件が何重にも重なり合わない限り起こらない。そういうものです。福島第一原発職員の中に、アラームとセンサー能力を養ってきた人が1人でもいれば、この原発事故は起こらなかったはずですよ。内田センセイは、そう言った。


2012年6月16日 (土)

長野県に住んでいながら、意外と知らない事実について

■最近、びっくりしたことがある。

ツイッターのTLを読んでいて、なんだか「中川村村長」が「すばらしいこと」を言っているという噂を聞いたのだ。


で、検索したら直ちにでた。これだ。「国旗と国歌についての村長の認識は?」

同じ「上伊那」に住みながら、この村長さんのことはほとんど知らなかった。恥ずかしい。中川村の村長さんは、農業をするためにiターンで村民になった人で、現職を破って村長に当選。現在2期目。

■それから昨日、坂本龍一氏や町山広美さんら注目したのが昨日の「信濃毎日新聞・社説」。「これが法治国家なのか」だ。信毎は取っているが、社説はめったに読まない。ダメじゃないか。

そうして、一昨日の『中日新聞』に載っていた談話は、なんだかピンとこなかった内田樹先生のコメントだが、「ここ」を読むと、なるほど「そういうこと」かと、ほんとうに良く判った。


■で、さらにビックリしたのは、その内田センセイが今日のツイッターで


「さて、これから雨の中をロングドライブで長野県は駒ヶ根というところまで走ります。何時間かかるのかな。とにかく18時ごろまでに着けばいいので、のんびり参ります。晴れていたら気分のいい初夏のドライブだったんですけどね。」


「伊吹山にて、小休止。小雨が降り続けています。駒ヶ根着は14:00過ぎくらいになりそうです。今回は看護系学会で講演なのです。さて、もうひとふんばり。」


と、つぶやいていたのだ。

え!? もしかして、駒ヶ根の長野県立看護大学で講演するのか?


早速「長野県立看護大学」のサイトを見に行くと、「第13回日本赤十字看護学会学術集会」が、この土日で開催されていて、日曜日の午前中に内田樹先生の特別講演(市民公開講座)がある。

  6月17日(日)午前 10:30〜11:50 

  長野県立看護大学講堂(教育研究棟2F)入場無料、誰でも参加可とのことなので、もちろん僕は行きます。


まさかこのタイミングで、内田センセイの講演を生で直に聴くことができるとは思いもよらなかった。ラッキーだなあ。


2012年5月29日 (火)

アイザックの「くちパク」プロポーズ

■今朝、茂木健一郎氏がツイッターで教えてくれた、YouTube画像 「Isaac’s Live Lip-Dub Proposal」。 これはたまげた驚いた! 2012年5月23日(先週の水曜日)に録画された画像だ。カメラは最初から最後まで「まわしっぱなし」の「ワンシーン・ワンカット」で、一切編集は施されていない。それなのに、なんなんだ! この完璧さ。感動して、ラストで泣いてしまったよ。先ほど、iPad の大きな画面で見たら、もっとよかった。 曲がいいんだね。 Bruno Mars の『Marry You』って曲。 あぁそうか。「Gree」でカヴァーされた曲なんだ。 場所は何処なんだろう? アメリカというより、イギリスって感じかな? あ。いや、ホンダCRV の後ろに駐車している車のナンバーは「オレゴン」だ。てことは、アメリカ西海岸北部か。


YouTube: Isaac's Live Lip-Dub Proposal

でも、日本語的には「結婚してください」だから、英語で「Marry Me」って感じなのだが、正しい英語では『Marry You』なのか? Youが主語なら「 Will you marry me」だが、I が主語だから「 I wanna marry you. 」ってなるわけか。

2012年5月21日 (月)

金環日食を間接的に見る


■リッツ・クラッカーの「穴の中」の太陽

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■テレフォンカードが見つからなかったので、JR東海の「オレンジカード」の穴の中の「金環日食」


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2012年4月24日 (火)

今宵の高遠城趾公園の夜桜。満開ちょっとすぎ。

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2012年4月 6日 (金)

新聞記事だって、いまは記者の署名記事が多いのになぁ

■昨日は、夜7時から上伊那医師会広報部委員会があって、常務理事として参加した。

広報委員の仕事は、毎月発行される「上伊那医師会報」の原稿集めと編集作業、それからアドプランニングが発行している『月刊かみいな』の中の「健康カレンダー」の記事を提供することだ。


この『月刊かみいな』の「健康カレンダー」は、記事を書いた人はイニシャルのみの表記で匿名記事となっている。ぼくが広報委員だった頃からずっとそうだった。当時ぼくは署名記事にしたほうがよいと主張したのだけれど、名前が出ると、宣伝売名行為と取る医師会員がいるかもしれないとか、匿名のほうが専門分野以外のことでも自由に気楽に書けるからいい、という意見が大多数で、ぼくの意見は却下されてしまった。


だから昨日、もう一度「署名入り記事」にした方がいいんじゃないでしょうかと提案したのだ。


そしたらまた、ほぼ同じ理由で却下された。
なんだかなぁ。


いまは新聞記事だって記者の署名入り記事が多いし、かえって署名入りのほうが入魂の記事であることが読者にひしひしと伝わってきて説得力があるように、ぼくは思うのだが。


■このところ「生まれた年」にこだわっていることを書いているのには、じつは意味がある。


facebook は原則「実名」だ。生年月日も公開されている。


今から20年近く前に「パソコン通信」が始まったころ、ニフティの会議室では大学教授と小学性がそれぞれ匿名の「ハンドル名」で同じ立ち位置で対等にやり取りしているなんてことが実際にあったんだそうで、職業や年齢や性別といった先入観を一切排除したコミュニティの可能性に皆がビックリしたものだ。


でも、時代はもはや「匿名」での発言が説得力を持つことが不可能になりつつあるように感じる。
ツイッターだってそうだ。


この人はどういうバックボーンで「こういう発言」をしているのか?


そういうことが読者に分かったほうが、いまは説得力が圧倒的に高い。ぼくはそう考えているのだけれど、間違っているのかなぁ。

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