日常 Feed

2012年8月 8日 (水)

死者とともに生きるということ

■ハンバートハンバートの代表曲『おなじ話』が、なぜ「おなじ話」というタイトルなのか? ということに言及した発言を未だ読んだことがない。


でも、じつは答は意外と簡単で、主人公の男性が、死んでしまったかつての恋人と会話をする設定だから、そこには全く意外性も未来もなくて、発展性のない主人公サイドだけの「いつもの同じはなし」にならざろう得ないのだね。つまりはそういうことだ。

■今日の「信濃毎日新聞」朝刊文化欄に興味深い記事が載っていた。「死者と生きる ---生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉---」と題されたその記事は、共同通信の配信か、それとも信毎独自の記事なのか、検索してもネット上ではまだ読めないみたいなので、勝手にここで転載させていただきます。


 多くの死者、行方不明者を出した東日本大震災から2度目の夏。時がたつにつれ、大切な人を亡くした被災者の喪失、その悲しみを置き去りにして、「復興」ばかりが声高に叫ばれてはいないだろうか。今、生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉が、静かに浸透し始めている。私たちは、死者とともに生きている、と。


 大学職員の小原武久さん(56)は、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の自宅にいた27歳の息子を津波で亡くした。「現実を受け入れられず、夢を見ているような毎日でした」。職場の大学の准教授に手記の執筆を依頼されたのは、震災から3ヵ月がたったころ。同僚が帰った夕暮れ時の職場で、一人パソコンに向かった。

 在りし日の面影、必死で行方を捜した日々がよみがえり、悲しみが胸を満たしていく。「そのとき、息子が語りかけてくれるような感覚があったんです。息子と2人の時間を過ごし、一緒に書いている。そんな気がして」


 死者とは、協同する不可視な「隣人」である--- 。批評家の若松英輔さんは著書「魂にふれる」でそうつづった。「人は死者を思うとき、決して一人で悲しむことはできない。なぜなら、そこには必ず死者がいるから」


 若松さん自身も一昨年、妻をがんで亡くした。「死者は存在するという問いは大きな仮説。でも私に取っては実感です」。そこにあるのは「死者によって終わるのではなく、死者として生まれる」という感覚だ。悲しみとは「死者が近づいてくる」合図であり、逆に言えば「悲しみこそが死者の存在を保証している」。


 今この瞬間も、言葉も音も持たない死者の「声」を待ち続け、沈黙の渦中にある人々がたくさんいる。その沈黙そのもにに大きな意味がある、と若松さん。「沈黙に至らざるを得ない経験、その苦しみを1歩生きたとき、自分の横に死者がいると感じるのだと思う」


 同書で若松さんは「死者と生きることは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ」と書いた。死者とは困難を解決してくれる人ではなく、困難とともに歩いてくれる人だと。「死者に支えられ、助けられた人間はいつか必ず誰かを助ける。悲しみ尽くした人は誰よりも人の悲しみを分かってあげられる。今、これ以上の希望があるでしょうか」


 哲学者の森岡正博さんは著書「生者と死者をつなぐ」で「死者とともに生きているというリアルな感覚」をこう描いた。「ふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ」


 宗教も、肉体から抜け出る魂の存在も信じていないという森岡さんは、近代以降の日本の死生観に不備があったと指摘する。「われわれは言葉になる以前の感覚として多くの人が持っているものに、言葉を与えられてこなかった」。むしろ、魂の存在や、お盆に死者が帰ってくるという儀式は、この「原体験の感覚」が基本にあり、それを説明するため、後から「発明」されたと考えることもできるのではないか。


 生者と死者が出会い、交わるということ。それは一方で「われわれが大切にしてきた伝統的な感受性」だという。例えば、世阿弥の「夢幻能」は、死者が能面をかぶって生者の前に現れ、語りかけ、舞う。「死者の声をどう聞くかというテーマを能は描いてきた。そうした感受性をもとに、死者とともにあるということを、今の視点から言葉に置き換えていく作業が必要です」と森岡さん。


 「いわく言い難い感覚であるため、口にしたり、考えたりするのはおかしいのではないかと思っている人々に、それはあり得るんだよ、そこから開けてくる生命観もあるんだよ、と伝えたい」(2012年8月8日付、信濃毎日新聞朝刊13面より)


■ところで、同じようなことを、ずいぶんと昔から繰り返し言ってきた人が他にもいた。


内田樹先生だ。


今日の午後、伊那の TSUTAYA で買ってきた『昭和のエートス』内田樹(文春文庫)を読んでいたら、「死者とのコミュニケーション」(p209) というパートがあった。読んでみたら、過去に同じ文章を読んで「うんうん、そのとおり!」と思った記憶がある。


そうさ。死者とともに生きることができるということが、人間という生物の最も高貴な性質に違いないのだから。

2012年7月18日 (水)

猛暑の日々に、さすがの犬も夏ばてぎみ。

■あまりに暑苦しいので、毛をカットしてもらったら、別人(いや、別イヌ)になってしまった。

    <カット前>

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    <カット後>


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■色も白くなったし、全体に2回りほど小さくなってしまった。
でも、すっきり涼しくなって、これなら夏を乗り越えられそうかな。

2012年6月23日 (土)

わが家に子犬がやってきた

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■先週土曜日の夕方、わが家に子犬がやってきた。生後8週のオス。体重は1.5kg。もうただひたすら可愛い。

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トイプードル(父親)と、シーズー(母親)のミックス犬。名前は、LEON と付けた。日本語、フランス語、スペイン語では「レオン」だが、アンドレア先生に聞いたら、英語よみだと「リーオン」なんだそうだ。レオン・ラッセルって言うのにね。


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■わが家で犬を飼うのは初めてなのだ。しかも室内犬。トイレトレーニングとか判らないことだらけ。あたふたしながら、あっという間に一週間が過ぎた。でも、人間が犬の生活パターンに合わせたらダメだ。お互いに譲歩しつつ、それでも人間の生活に犬の方が我慢して付き合っていってもらわないとね。


犬のほうは、すっかりわが家に慣れた。人間の側も、新たな家族の一員として認め「犬といっしょの生活」にいつの間にか馴染んできたようだ。不思議なものだな。


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■驚いたのは、息子たち(高1、中2)の可愛がりようだ。朝起きてきて犬と遊び、学校から帰ってきて犬と遊び、夕食後に犬と遊び、寝る前にまた遊ぶ。みんなから愛されて、犬も幸せだ。


でも、何よりも一番変わったのは、ぼく自身だな。毎朝6時には目ざめ、夜は午前0時には寝ている。この早朝の時間帯をもう少し有効に使いたいものだが、今のところ、犬と遊んでツイッター読んで NHKBSで火野正平が自転車こいでるのを見て、それでおしまい。それじゃあいけないぞ。



2012年6月19日 (火)

内田樹先生の講演会 at the 長野県立看護大学(駒ヶ根市)

■日曜日の午前中、駒ヶ根市の長野県立看護大学講堂であった内田樹先生の講演会を聴きに行ってきた。


言っちゃぁ何だが、ぼくは内田センセイのファンだ。

前々回にリビングの本を写真に撮った中には、センセイの本は一冊も写っていなかったが、納戸や寝室ベッド横に積み上げられた本の中から探し出してみると、すぐに20冊以上見つかった。読んではないけど、レヴィナスの訳書も2冊購入した。あと、納戸に積み上げられた段ボール箱の中には、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)『日本辺境論』(新潮新書)を含め4~5冊はあるはずだ。


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■だからと言ってはおこがましいが、この日の講演内容は大方予測していた。

 <以下、ぼくの勝手な妄想>


 ポイントは福島第一原発だ。それから、福井県にある、関西電力「大飯原発」再稼働問題。先だってからネット上で話題になっていた、長野県上伊那郡中川村村長・曽我逸郎氏の話題から、6月15日の信濃毎日新聞社説要旨が、内田センセイが『「国民生活」という語の意味について』と題してブログに載せた文章と呼応していたこと。


 そうして、内田センセイの祖先は「東北人」(山形県鶴岡出身)であること。庄内藩は、会津藩と共に戊辰戦争を戦った仲だ。そして会津藩開祖、保科正幸から信州高遠に行き着く。戊辰戦争の負け組は、明治以降ずっと虐げられてきた。そんな導入で、講演は始まるはずだと確信していたのだ。


ところが、実際の講演内容は、ぜんぜん違っていた。いやはや。


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■この日の講演内容に関して「こんな話をする予定」という文章が、内田センセイによって前日の土曜日に書かれていて、月曜日に既にアップされているので、じつはもうここに書く必要はないのだった。


■この第13回日本赤十字看護学会の「趣旨」に書かれている『エビデンスブーム』とは、EBM ( Evidence-Based Medicine ) のことを言っている。すなわち、医療は「科学的根拠」に基づいて患者に対して施されなければならないということだ。科学的な基礎実験。ダブルブラインド方式による客観的で公正な臨床研究。疫学的、統計学的にも明らかに有意に治療効果があると認められた治療法を選択すべきである。つまりは、そういうことだ。


ところが、医学や看護の現場では、長年代々と継承されてきた「エビデンスでは証明できない、経験的直感」とでもいうべきことが、じつは大切にされてきた。内田センセイは、そういう話をされたのだ。

センセイはこう言った。

「医療従事者には、この『ある種の直感力』が必要なのではないか」と。


■内田先生が、何故よく看護の学会に講師として呼ばれるのか?


それは、合気道師範である内田センセイが極めた「武道の力」と、看護の世界で必要とされている「ヒーラー(癒しの力)」は近い(似通った)関係にあるからなのではないかと先生は言う。


武道で一番大切なことは、「気配」や「殺気」「危険」を感知する、センサーやアラームを磨くこと(すなわち「気の感応」)だと。


こうした能力は、人類が原始時代から生き残る上で最も大切な技として、親は子供たちに訓練してきたに違いない。だって、左の道を行って、いきなりライオンに出会ってしまったら、その人間は食われてお終いだ。だから前もって、左の道をこれから行くと、なんかとてつもなく危険な臭いがするという直感さえあれば、あらかじめ危機を回避できるのだ。


江戸時代までは「こうした能力」を効率的に身につける訓練方法が確立されていた。それが「武道」の修行だ。

ところが、明治以降、日本人は科学と進歩のエビデンスしか信用しなくなり、人間が原始時代から培ってきた「潜在能力」を磨く手段を放棄してしまった。そのために、福島第一原発の事故は起こってしまったのだ。


カタストロフというのは、よっぽどの悪条件が何重にも重なり合わない限り起こらない。そういうものです。福島第一原発職員の中に、アラームとセンサー能力を養ってきた人が1人でもいれば、この原発事故は起こらなかったはずですよ。内田センセイは、そう言った。


2012年6月16日 (土)

長野県に住んでいながら、意外と知らない事実について

■最近、びっくりしたことがある。

ツイッターのTLを読んでいて、なんだか「中川村村長」が「すばらしいこと」を言っているという噂を聞いたのだ。


で、検索したら直ちにでた。これだ。「国旗と国歌についての村長の認識は?」

同じ「上伊那」に住みながら、この村長さんのことはほとんど知らなかった。恥ずかしい。中川村の村長さんは、農業をするためにiターンで村民になった人で、現職を破って村長に当選。現在2期目。

■それから昨日、坂本龍一氏や町山広美さんら注目したのが昨日の「信濃毎日新聞・社説」。「これが法治国家なのか」だ。信毎は取っているが、社説はめったに読まない。ダメじゃないか。

そうして、一昨日の『中日新聞』に載っていた談話は、なんだかピンとこなかった内田樹先生のコメントだが、「ここ」を読むと、なるほど「そういうこと」かと、ほんとうに良く判った。


■で、さらにビックリしたのは、その内田センセイが今日のツイッターで


「さて、これから雨の中をロングドライブで長野県は駒ヶ根というところまで走ります。何時間かかるのかな。とにかく18時ごろまでに着けばいいので、のんびり参ります。晴れていたら気分のいい初夏のドライブだったんですけどね。」


「伊吹山にて、小休止。小雨が降り続けています。駒ヶ根着は14:00過ぎくらいになりそうです。今回は看護系学会で講演なのです。さて、もうひとふんばり。」


と、つぶやいていたのだ。

え!? もしかして、駒ヶ根の長野県立看護大学で講演するのか?


早速「長野県立看護大学」のサイトを見に行くと、「第13回日本赤十字看護学会学術集会」が、この土日で開催されていて、日曜日の午前中に内田樹先生の特別講演(市民公開講座)がある。

  6月17日(日)午前 10:30〜11:50 

  長野県立看護大学講堂(教育研究棟2F)入場無料、誰でも参加可とのことなので、もちろん僕は行きます。


まさかこのタイミングで、内田センセイの講演を生で直に聴くことができるとは思いもよらなかった。ラッキーだなあ。


2012年5月29日 (火)

アイザックの「くちパク」プロポーズ

■今朝、茂木健一郎氏がツイッターで教えてくれた、YouTube画像 「Isaac’s Live Lip-Dub Proposal」。 これはたまげた驚いた! 2012年5月23日(先週の水曜日)に録画された画像だ。カメラは最初から最後まで「まわしっぱなし」の「ワンシーン・ワンカット」で、一切編集は施されていない。それなのに、なんなんだ! この完璧さ。感動して、ラストで泣いてしまったよ。先ほど、iPad の大きな画面で見たら、もっとよかった。 曲がいいんだね。 Bruno Mars の『Marry You』って曲。 あぁそうか。「Gree」でカヴァーされた曲なんだ。 場所は何処なんだろう? アメリカというより、イギリスって感じかな? あ。いや、ホンダCRV の後ろに駐車している車のナンバーは「オレゴン」だ。てことは、アメリカ西海岸北部か。


YouTube: Isaac's Live Lip-Dub Proposal

でも、日本語的には「結婚してください」だから、英語で「Marry Me」って感じなのだが、正しい英語では『Marry You』なのか? Youが主語なら「 Will you marry me」だが、I が主語だから「 I wanna marry you. 」ってなるわけか。

2012年5月21日 (月)

金環日食を間接的に見る


■リッツ・クラッカーの「穴の中」の太陽

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■テレフォンカードが見つからなかったので、JR東海の「オレンジカード」の穴の中の「金環日食」


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2012年4月24日 (火)

今宵の高遠城趾公園の夜桜。満開ちょっとすぎ。

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2012年4月 6日 (金)

新聞記事だって、いまは記者の署名記事が多いのになぁ

■昨日は、夜7時から上伊那医師会広報部委員会があって、常務理事として参加した。

広報委員の仕事は、毎月発行される「上伊那医師会報」の原稿集めと編集作業、それからアドプランニングが発行している『月刊かみいな』の中の「健康カレンダー」の記事を提供することだ。


この『月刊かみいな』の「健康カレンダー」は、記事を書いた人はイニシャルのみの表記で匿名記事となっている。ぼくが広報委員だった頃からずっとそうだった。当時ぼくは署名記事にしたほうがよいと主張したのだけれど、名前が出ると、宣伝売名行為と取る医師会員がいるかもしれないとか、匿名のほうが専門分野以外のことでも自由に気楽に書けるからいい、という意見が大多数で、ぼくの意見は却下されてしまった。


だから昨日、もう一度「署名入り記事」にした方がいいんじゃないでしょうかと提案したのだ。


そしたらまた、ほぼ同じ理由で却下された。
なんだかなぁ。


いまは新聞記事だって記者の署名入り記事が多いし、かえって署名入りのほうが入魂の記事であることが読者にひしひしと伝わってきて説得力があるように、ぼくは思うのだが。


■このところ「生まれた年」にこだわっていることを書いているのには、じつは意味がある。


facebook は原則「実名」だ。生年月日も公開されている。


今から20年近く前に「パソコン通信」が始まったころ、ニフティの会議室では大学教授と小学性がそれぞれ匿名の「ハンドル名」で同じ立ち位置で対等にやり取りしているなんてことが実際にあったんだそうで、職業や年齢や性別といった先入観を一切排除したコミュニティの可能性に皆がビックリしたものだ。


でも、時代はもはや「匿名」での発言が説得力を持つことが不可能になりつつあるように感じる。
ツイッターだってそうだ。


この人はどういうバックボーンで「こういう発言」をしているのか?


そういうことが読者に分かったほうが、いまは説得力が圧倒的に高い。ぼくはそう考えているのだけれど、間違っているのかなぁ。

2012年3月23日 (金)

一年ぶりの『上伊那医師会報・巻頭言』

■「上伊那医師会報 2012年/ 3月号」の「巻頭言」を書く当番がまた廻ってきた。医師会事務局の稲垣さんから「北原先生、次号の巻頭言、3月16日が締切ですから宜しくお願いします」というメールがきたのだ。あれは、2月24日のこと。


医師会報の「巻頭言」は、上伊那医師会の理事が持ち回りで書くことになっている。前回ぼくが書いたのは、ちょうど1年前の「3月号」だった。それが、「この文章」だ。


タイムリーな話題であったこともあり、この文章は『長野医報』に転載され、さらには『千葉県医師会雑誌』にも載せていただいた。たいへん光栄なことであった。そこで、2匹目のドジョウではないが、今回も「ツイッター」のはなしで行くことに決めた。タイトルは、「当事者の時代」だ。


何故かというと、前回の文章の中で佐々木俊尚氏の『キュレーションの時代』(ちくま新書)を取りあげていたので、今回も、佐々木氏の1年ぶりの新刊『「当事者」の時代』佐々木俊尚(光文社新書)から「いただく」ことにしたのだ。勝手に盗用ごめんなさい。


ただ一番の問題は、この巻頭言の締切が『「当事者」の時代』佐々木俊尚・著の発売日である 3月16日(金)であったことだ。タイトルを戴くことは決めていたものの、さすがに本文も読まずに使ったのでは気が引ける。で、当日の夜に「いなっせ」西澤書店で「この新書」を見つけて買って帰った。ところが、ぺらぺら捲ってみたら、ぼくが予想した内容の本とはどうもちょっと違う本であるらしい。困ったぞ。


というワケで、「この本」からは単にタイトルだけを戴いて、内容は以下の本、ネット上の文章、などを参考にして書き上げました。ですので、どこかで読んだことあるような主張だなぁ、と思われてもしかたありません。ぼくオリジナルの考えではないのですから。それから、以下の文章は上伊那医師会報に投稿したものを、さらに改稿増補したものです。


<参考文献>

『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』中島岳志・対談集(金曜日)
『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』辺見庸(NHK出版新書)

・ほぼ日「しがらみを科学してみた」
・ほぼ日「メディアと私 糸井重里 × 佐々木俊尚」

・小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」 より「メディア陰謀論を共有する人たち」
・小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」 より「レッテルとしてのフクシマ」


          当事者の時代           北原文徳

 ちょうど1年前に「Twitter」のはなしを書かせていただいたのだが、今回もその続きです。ネットを見ていたら「やるだけ損? 芸能人のTwitter利用の是非」という記事があった。雨上がり決死隊の宮迫博之の呟きがもとで炎上状態になったとのこと。で、実際のツイートを読みに行ったら、過大広告も甚だしい、たわいのない内容のボヤでお終いじゃないか。なんだ、つまらない。


 ところで、宮迫のフォロワーの数は618,409人、NHK朝の連続テレビ小説『カーネーション』の北村役でブレイクした「ほっしゃん。」が130,535人、それから、文化人だと糸井重里氏のフォロワーは479,748人もいる。ちなみに僕のフォロワーは231で、そのうちの2/3は営業アカウントだから読者じゃない。つまり、Twitterというツールは、あくまで有名人の個人ラジオのリスナーとして一般人の多くが参加するプラットホームなのだ。そういう意味ではフォロワーの少ない無名人が情報発信するツールではない。


 ところが、Twitterの面白いところは「メンション(言及)」を飛ばすと言って、@アカウントで直接その有名人に関して誰でも呟けるので、運良く彼(彼女)がそのツイートを目にして気に入り「リツイート」すれば、彼のフォロワー数十万人が瞬時に自分の発言を読むことになるのだ。


しかも、あからさまなヨイショ発言よりも攻撃的で批判的な発言のほうが感情的になった有名人は「晒し」の意味合いを込めてリツイートすることが多い。そうまでして有名になりたい悪意に満ちたバカな輩がネット上には多いからほんとウンザリしてしまうし、そういう事態すら予測できずに、ただ単に有名人の悪口を気軽な気持ちで呟いただけなのに、いきなし「その有名人」のファンから猛烈な非難の攻撃を受けてしどろもどろになり、「有名人が僕のような無名人を晒してイジメるのは卑怯だ」みたいな最後っ屁を残して自分のアカウントを削除するアホがいっぱいいることがほんと情けない。


 さらに厄介なのは、悪意のかけらもなく自らは善意と正義の使者の如き輩がネット上を徘徊しながら、まるで旧東ドイツの秘密警察気取りで、他人の発言の揚げ足取りや吊し上げに躍起になっている無名人がいることだ。彼らは、あの 3.11 後に一気に勢力を拡大した。被災した人々に対して不謹慎な発言だというのが彼らの論理だったが、さらに問題を複雑にしてしまったのが福島第一原発による放射能被害だ。


 彼らは「弱者」を勝手に代弁する人々だ。自らは安全地帯に身を置きながら、東京電力や原子力ムラを絶対的な悪として徹底的にバッシングした。これは一面正しい。僕も基本「脱原発」だから。


ただ問題は「私は加害者とは何にも関係ありません」という正義の味方的な態度にある。じゃぁ、あんたは福島第一原発が放射能を撒き散らす前から「原発反対」の旗頭を上げていたのか? 当たり前のように福島第一原発で作られた「電気」を利用していたのではないか? となれば、あんただって「加害者」という「当事者」なのではないか?


そのあたりの傍ら痛い感覚を、下諏訪町在住の樽川通子さんは信濃毎日新聞「私の声」に投書したのだ。


だから、彼らの東電バッシングは、反面多大な危険性を秘めることとなる。われわれ日本医師会を含め過去の既得権にしがみつく者たちを悪の根源として徹底的に批判してきたのが自民党小泉政権であり、いまの橋下大阪市長なのだ。敵を断定し、ズバッと切ってくれる政治家を今の大衆は渇望している。そこには微かにファシズムの足音が忍び寄っているのではないか?


 『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』辺見庸(NHK出版新書)のあとがきを読むと、この本のテーマは「言葉と言葉の間に屍がある」がひとつ。もうひとつは「人間存在というものの根源的な無責任さ」である。と書いてあった。この言葉は重い。当事者のみが語ることができるということは、3.11 一番の当事者は、2万人にもおよぶ死者たちなのだから。     


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