ジャズ Feed

2011年6月21日 (火)

「今月のこの1曲」Bill Evans "The Dolphin ---- After" 『From Left to Right』より

■ビル・エバンスの『フロム・レフト・トゥ・ライト』は、じつに思い出深いレコードだ。 ずっと欲しくて、30年以上東京都内の中古ジャズ・レコード屋さんを探し廻ったけれど、とうとう手に入らなかった。悔しかった。輸入盤CDでようやく入手したのは、つい5〜6年前のことだ。


YouTube: Bill Evans - The Dolphin (After)

このレコードを初めて聴いたのは、確か 1977年頃の茨城県新治郡桜村、追越学生宿舎(何号棟かは忘れたが、たぶん12号棟だな)3階の有賀淳くん(いま彼は東京女子医大の教授じゃないか。おいらと違って優秀だったんだね。)の部屋だったと思う。飯田高校出身で同じ長野県だったし、バスケット同好会に入った仲間だったので、仲良くしてもらっていたのかな。 あの頃、追越学生宿舎12号棟には、相田、大野、大滝、奥村、柏木、金子、河合、狩野、菅間とかが住んでいて、僕は少し離れた14号棟の1階に居たんだけれど、12号棟にしょっちゅう出入りしてしたんだ。 で、ある夜「おい、きたはらぁ〜。これ、中古盤で見つけてきたんだけど、いいだろう?」って、有賀くんが彼の部屋で聴かせてくれたのが『From Left to Right』 Bill Evans なのだった。 当時、すでに結構ジャズにのめり込んで参考書とか買い込んで、都内のジャズ喫茶も足繁く通って勉強していた僕は、半可通のジャズ・ファン気取りだったのだが、ビル・エバンズの「このレコード」は、何故かどの本にも載っていなかったから全く知らなかった。でも、聴いてみてすっごく良かったのだ。正直ショックだった。すごく。 あの口惜しさは、今でも忘れられない。 オイラの方が絶対的にジャズに詳しいはずなのに、有賀君のほうが、なんで俺よりビル・エバンズのことを判っているのかってね。それくらい、このレコードは良かったんだ。特に「ザ・ドルフィン」って曲が絶品だった。ビフォーよりもアフター(ストリングスやリズム・セクションが多重録音されたもの)のほう。 ■この曲は、タンバ・トリオでピアノを弾いていたルイス・エサが作った曲で、オリジナルは CTI から出た『二人と海』に収録されている(残念ながら、Youtube には音源なし) ■このレコードのポイントは、あのビル・エバンズが「フェンダーローズ」のエレピを弾きまくっているってことだ。そういう時代だったのだね、当時の。あの頃って(リアルタイムでは知らないけど)エレピが大活躍する、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォー・エバー』が出たのが 1972年のことだから、その2年前に「このLP」を出したビル・エヴァンズの選択は、決して間違ってはいなかったんじゃないかと思う。時代を先取りしていたのだ。 だって、猫も杓子も「エレピ」の時代だったからね。あの、オスカー・ピーターソンですら「フェンダーローズ」のエレピに夢中だった(ホントかどうかは自信ないが)のだから。 ただ、ぼくは正直「エレピ」は好きではなかったな。 あの頃、唯一納得して好きになった「エレピ」は、 映画『まる秘色情めす市場』田中登監督作品の中で、主人公の伊佐山ひろ子が行きずりの男と出会った後に、商店街のアーケードで彼女の最愛の弟が首を吊ってぶら下がっている場面のバックで流れる「エレピ」なのだな。 そんなこと言っても、誰もわかってはくれないだろうが。


YouTube: Stan Getz "The Dolphin"

■ところで、エレピに血迷った軟弱イージー・リスニング盤として当時の日本ジャズ界ではまったく評価されなかったこの「ビル・エバンスのドルフィン」を、いち早く日本で最初に認めた人がいる。 その人とは、松任谷由実だ。 (つづく)


YouTube: North Sea Jazz 2009 Live - Toots Thielemans - The Dolphin (HD)

2011年5月13日 (金)

PABLO LIVE AFRO BLUE IMPRESSIONS / John Coltrane

110513


■コルトレーンが好きだ。もう、ずっと前から大好きだ。

特に、夏が近づくと無性にコルトレーンが聴きたくなる。
ぼくが大学に入学した年の夏は暑かった。1977年のことだ。


この夏、ぼくは来る日も来る日も自分で買った2番目のジャズ・レコード『マイ・フェイバリット・シングス』ジョン・コルトレーン(Atlantic)を、汗を拭き拭き繰り返し聴いていた。なにか不思議な中毒性があったのだと思う。だからいまだに、コルトレーンといえば『マイ・フェイバリット・シングス』なのだ。


あの頃、火曜日の深夜にFM東京で「アスペクト・イン・ジャズ」というジャズ番組があって、ジェリー・マリガンの「ナイトライツ」をBGMに「こんばんは油井正一でございます」で毎回始まる有名番組だった。確かあの番組でだったか、それともNHKFMの本多俊夫さん(as奏者、本多俊之氏のお父さん)でだったか、この『PABLO LIVE AFRO BLUE IMPRESSIONS / John Coltrane』LP2枚組の1枚目B面に収録された「My Favorite Things」をFMで聴いてたまげたのだった。

「コルトレーン、すっげぇ!」ってね。この演奏は、欧州演奏旅行途中のコルトレーン・カルテットを、1963年11月にドイツ・ベルリンでライヴ収録したものだ。


このレコードは、ヴァーヴ・レーベルを大手レコード会社に売り払って、スイスで悠々自適な老後生活を送っていた JATP興行主のノーマン・グランツが、1970年代に突如復活して「パブロライヴ」というライヴ録音専門のジャズ・レーベルを立ち上げた中の目玉商品として発売されたものだ。当時これには皆がビックリした。


だって、ノーマン・グランツとコルトレーンって「水と油」だもん。


だから、当時はこのレコードは「キワモノ」的あつかいを受けていたように思う。スイング・ジャーナルでの点数も、それほど高くなかったんじゃないかな。録音もよくなかったしね。


でも、ぼくはオリジナル・スタジオ録音よりも気に入ってしっまったのだ。アフリカ大陸の地図のジャケットもよかったしね。このレコードは、ほんとよく聴いたなぁ。たぶん、コルトレーンのレコードの中では一番数多く僕のターンテーブルにのったレコードだ。


そういえば、以前コルトレーンに関して「こんなふうに」書いたこともある。


■コルトレーンを聴いていると時々体験することだけれど、「あちらの世界へ連れて行かれる」感じ? とでも言ったらいいのか、例えば、あの烈しい「トランジション」のあとに「ディア・ロード」が始まった瞬間とか、「クレッセント」の後の「ワイズ・ワン」とか、「サンシップ」の冒頭とか。ぼくのタマシイが、ふわっと「あちらがわ」へ持って行かれる感覚。コルトレーンの魅力はそこに尽きると僕は思っている。


■いつだったか、月間「KURA」を読んでいたら、高遠の老舗まんじゅう店「亀まん」店主の平沢さんが、自慢のオーディオ・ルームを公開した写真が載っていて、その中で平沢さんが一番好きなジャズ・レコードとして、この『PABLO LIVE AFRO BLUE IMPRESSIONS / John Coltrane』を挙げていたのでビックリした。

なんだ、おいらといっしょじゃん!


ちなみに、亀まん店主の平沢さんは、高遠小学校で僕の1つ下の学年だったと思う。

2011年5月 7日 (土)

『コルトレーン ジャズの殉教者』藤岡靖洋(岩波新書)

■本は薄いのに、内容はメチャクチャ濃い。

著者は、大阪の老舗呉服店の旦那はん。でも、趣味とか道楽とかの時限を超越している人で、世界的に有名なジョン・コルトレーン研究家なのだった。著書は、この岩波新書が3冊目で、初の日本語で書かれた本だという。と言うことは、前の2冊は英語で書かれたコルトレーンの本なのだそうだ。凄いな。


この本の中で、ぼくが一番に注目したのは p115 に載っている「アンダーグラウンド・レイルロード」という曲に関する記載だ。

J00001557
■この曲は『アフリカ/ブラス Vol.2』に収録されていて、ぼくがジャズを聴き始めてまだ間もない頃、すごく気に入ってさんざん聴いた覚えがある。このLPジャケットにも見覚えがあったので、書庫のLP棚を探したが見つからない。もしかして所有してなかったのか? おかしいなぁ。で、ふと気がついたのだが、たぶんあのレコードは、ぼくが大学1年生だった時に長兄から借りた10数枚のジャズレコードの中の1枚だったに違いない。

だから、いまは手元にないし、どんな曲だったかすっかり忘れてしまった。しかも、残念なことに iTunes Store では取り扱っていない。仕方なく、amazonで輸入盤を注文することにした。ぜひ、もう一度じっくり聴いてみたい。まてよ? YouTube にならあるかもしれない。そう思って探したら、あったあった。そうそう、この曲だ。なんとまぁ、自信に満ち満ちた力強い演奏なんだ! ほんと、カッコイイなあ。






YouTube: John Coltrane - Song Of The Underground Railroad

いずれにしても、この本の一番の読みどころは「アンダーグラウンド・レイルロード」や「ダカール」「バイーヤ」「バカイ」「アラバマ」とタイトルされた曲の本当の意味が書かれている、第3章「飛翔」その2「静かなる抵抗」(p108〜p126)にあると思う。「音楽が世界を変える」と信じて、最後の最後まで力の限り演奏し続けたコルトレーンだが、その死から41年後になって、アメリカ初の黒人大統領が誕生することになるとは、さすがの彼でも想いもよらなかっただろうなぁ。


あと、この本を読んで面白かったことを、思いつくままに列挙すると、


・見たことのない珍しい写真や新事実が満載されている。
・南部で黒人教会の名高い牧師であった祖父からさんざん聴かされた黒人奴隷の話。
・信じられないくらい超過密な来日公演スケジュール。
・同郷の友を何よりも大切にするジャズマンたち。
・「ジャイアント・ステップス」にも収録された、カズン・メアリーのこと。
・戦後すぐ、ハワイ真珠湾で海軍の兵役につていたこと。
・その時、任務をサボって収録されたレコードを聴いたマイルズ・デイヴィスが
 コルトレーンをメンバーに招聘したこと。


・コルトレーンという名字は、アメリカでもすごく珍しい姓。
・母親が12回の分割払いで、息子のために中古のアルトサックスを買ってくれたこと。
・良き友であり、良きライバルであった、ソニー・ロリンズのこと。
・彼に白人の愛人がいたこと。その彼女が日記を残していたこと。
・アリス・コルトレーンのこと。
・名盤『至上の愛』誕生秘話。

・コルトレーン「でも、どうやって(演奏を)止めたらいいのか、わからないんだ」
 マイルズ  「サックスを口から離せばいいだけだ!」

・それから、巻末に収録された「当時のニューヨーク地図」。
 当時のジャズクラブの場所や、ジャズメンのアパートの位置が記入されていて、
 これは楽しかったな。そのうち、タイムマシンが実用化された時には、すっごく
 役立つ地図になると思うよ。

 そしたら僕は、1961年7月のドルフィー&ブッカー・リトル双頭コンボを見に、まずは
 「ファイブ・スポット」へ行くな、やっぱし。


2011年5月 1日 (日)

ビリー・ホリデイ「言い出しかねて」 村上春樹『雑文集』より

ようやっと『雑文集』村上春樹(新潮社)を読み終わった。面白くて、しかも濃い内容で「村上春樹のエッセンス」が見事に凝縮されていたな。 読みどころはいっぱいある。 前回取り上げたほかには、 「東京の地下のブラック・マジック」 「スティーヴン・キングの絶望と愛」 「スコット・フィッツジェラルド ---- ジャズ・エイジの旗手」 「カズオ・イシグロのような同時代作家を持つこと」 「安西水丸は褒めるしかない」 「デイヴ・ヒルトンのシーズン」 「正しいアイロンのかけ方」 「違う響きを求めて」 「遠くまで旅する部屋」 「物語の善きサイクル」 「解説対談」安西水丸 x 和田誠  などなど。 ■ただ、読みながらすっごく悔しい思いをした文章がある。 「言い出しかねて」( p171 〜 p180 ) だ。 なぜなら僕は、ビリー・ホリデイが唄う「言い出しかねて」を今まで一度も聴いたことがなかったのだ。もちろん、彼女のLPは6〜7枚、CDも4枚持っていて、1930年代の絶頂期の録音から最晩年の傑作『レディ・イン・サテン』まで、繰り返し愛聴してきた。でも、それらの中には「言い出しかねて」は収録されていなかったのだ。 あわてて YouTube で検索したら、米コロムビアで、1938年6月にスタジオ収録された演奏が見つかった。レスター・ヤングのテナー・ソロが素晴らしい。これだ。


YouTube: Billie Holiday & Her Orchestra - I Can't Get Started - Vocalion 4457

でもこのピアノは、カウント・ベイシーではない。 村上氏は言う

「言い出しかねて」ならこれしかない、という極めつけの演奏がある。ビリー・ホリデイがカウント・ベイシー楽団とともに吹き込んだ1937年11月3日の演奏だ。ただこれは正規の録音ではない。(中略) 音は今ひとつなのだけれど、演奏の方はまさに見事というしかない。ベイシー楽団のパワーは実に若々しく圧倒的だし、アレンジも楽しい。とくに楽団のアンサンブル間奏のあとに出てくるレスター・ヤングの情緒連綿たるテナー・ソロは、まさに絶品である。レスターの吹く吐息のようなフレーズが、本当に「言い出しかねる」みたいに、ビリーの歌唱にしっとりと寄り添い、からみついていくのだ。(中略)  この1937年のビリー・ホリデイの歌唱と、バックのベイシー楽団の演奏がどれくらい素晴らしいか、どれくらい見事にひとつの世界のあり方を示しているか、実際あなたに「ほら」とお聴かせできればいいのだけれど、残念ながらとりあえずは文章でしか書けない。

読者の目の前にニンジンをぶら下げながら、絶対に食べさせない「いじわる」を、村上氏はよくやるが、これなんかはその最たるものだな。だって、聴きたいじゃないか。ラジオ放送を私家録音した、ベイシー楽団とビリー・ホリデイの「言い出しかねて」。でも聴けない。こういうスノッブ的嫌らしさが、一部で村上春樹が嫌われる原因ではないかな。 ■しかし、村上氏は甘かった! インターネットを駆使すれば、たちどころに判明するのだ。あはは! ビリー・ホリデイの百科事典みたいなサイトがあるのだよ。 そこに載ってました。「1937年11月3日の演奏」。村上春樹氏が書いているのは、まさにこの時の演奏に違いない。この演奏が収録されたCD一覧もあるぞ。 でも、ふと思いついたのだが、iTunes Store へ行けば、曲単位で安く購入できるじゃないか。で、iTunes Store で「Billie Holiday I can't get started」を検索したら、50曲も見つかった。おおっ! この中のどの演奏が「それ」なんだ? 困ったぞ。 仕方なく、1番からかたっぱしに試聴していった。しかし、そのほとんどが 1938年6月スタジオ収録版のようだった。でも、よーく聴いていくと、3,6,34、の演奏は違うみたい。思い切って、34番目をダウンロードしてみた。う〜む、これかなぁ。自信ないなぁ。だって、レスター・ヤングのテナー・ソロが入ってないんだもの。 でも、ビリー・ホリデイがサビを唄うバックで、彼女にぴったり寄り添うようにサックス吹いてるなぁ、レスター・ヤング。 やっぱりコレだな。きっと。

2011年4月14日 (木)

村上春樹氏が書いたライナーノーツに関して

■村上春樹『雑文集』(新潮社)を読んでいる。これ、面白いなあ。特に「音楽について」のパート。

最初の、別冊ステレオサウンドに掲載されたインタビュー「余白のある音楽は聞き飽きない」の文章は、伊那の TSUTAYAで立ち読みした記憶がある。(少しだけ引用する)

 オーディオ雑誌でこんなことを言うのもなんだけど、若いころは機械のことよりも音楽のことをまず一所懸命考えたほうがいいと、僕は思うんです。立派なオーディオ装置はある程度お金ができてから揃えればいいだろう、と。若いときは音楽も、そして本もそうだけど、多少条件が悪くたって、どんどん勝手に心に沁みてくるじゃないですか。いくらでも心に音楽を貯め込んでいけるんです。そしてそういう貯金が歳を取ってから大きな価値を発揮してくることになります。そういう記憶や体験のコレクションというのは、世界にたったひとつしかないものなんです。その人だけのものなんだ。だから何より貴重なんです。(中略)


もちろん悪い音で聴くよりは、いい音で聴く方がいいに決まっているんだけれど、自分がどういう音を求めているか、どんな音を自分にとってのいい音とするかというのは、自分がどのような成り立ちの音楽を求めているかによって変わってきます。だからまず「自分の希求する音楽像」みたいなものを確立するのが先だろうと思うんです。(『雑文集』p87〜88)


■「日本人にジャズは理解できているんだろうか」という文章は、確かに全く思いもよらなかった視座を提示されていて、読みながらはっとさせられるのだけれど、所詮は1994年にアメリカ在住の著者によって書かれた、地域と時代限定の文章だと思う。残念ながら2011年の現在では、はたしてアメリカ本国で「ジャズ」という音楽が黒人文化や政治運動にどれほどの影響力を持っているのか甚だ疑問だ。


■「ノルウェイの木を見て森を見ず」はすっごく面白い。村上氏が、ビートルズのレコードを生まれて初めて買ったのが 1980年代に入ってからだと知って、ちょっと意外だったし、でも、そうだよなぁって一人ほくそえんだりした。


■あとは、村上氏が書いた、CDのライナーノーツが4本掲載されている。その白眉はラストに収録された「ビリー・ホリデイの話」だ。ちょっとキザだけれど、めちゃくちゃカッコイイ。黒人兵の彼女が着ていたレインコートの雨の匂いを、ぼくも嗅いだような気がした。まるで『海を見ていたジョニー』みたいな話で、作り話なんじゃないの? なんて勘ぐってしまったのだが、村上氏は2度も「これは本当にあった話」と書いているから、事実なんだろうなぁ。ほんとジャズだねぇ。


1104151


■ぼくが持っているLPレコード(数百枚)の中で、村上春樹氏が書いたライナーノーツが載っているのはたぶん「この一枚」だけだと思う。そう、ソニー・クリスの『アップ・アップ・アンド・アウェイ』だ。先だって、再発の紙ジャケCDを中古盤で入手したら、やはり村上氏のラーナーノートがそのまま添付されていた。ジャズのライナーノーツは、それこそ数百読んできたけれど、これが一番好きだ。2番目は、油井正一氏の『フラッシュアップ』森山威男カルテット(テイチク)に書かれたものか。


とにかく、この村上氏のライナーノーツが傑作で、チャーリー・パーカーが死んだ後のジャズ・アルトサックス業界がどうなって行ったかを、まるで落語家みたいな口調で軽妙に語っていて、そこそこのジャズ好きが「あいや!」と叫びたくなるツボを押さえた名文なのだ。でも、この『雑文集』に載ってないということは、たぶん村上氏の本に収録されることは永久にないのだろうな。残念だ。


ぼくが特に好きなのは以下の部分。

 でも言ってみればこれは当たり前のことで、チャーリー・パーカーの音楽はあまりにもチャーリー・パーカー的でありすぎて、他人がどれだけそれを真似ようとしても、所詮下町の鉄工所の親父が、銀座の高級クラブのホステスを口説いているという図になってしまう。「テクニックがイモなのよ」なんて軽くあしらわれ、それじゃとテクニックを身につけて出直していくと今度は「柄じゃないのよ」と頭から水割りをかけられたりしてね……、とにかくこれじゃ浮かばれない。絶対に浮かばれない。


そこで「キャバレーならやはり東上線」と叫ぶエリック・ドルフィーやらオーネット・コールマンの出現となるのだけれど、こういうの書いているとキリないので、ソニー・クリスの話。


1104152

■ネットでググったら、村上氏は「スヌーピーのゲッツ」で知られる、スタン・ゲッツのLPにもラーナーノーツを寄せている。「ここ」でその一部が読める。ありがたいな。

あはは! 「ドーナツ・ホール・パラドックス」か。相変わらず上手いこと言うな、村上さんは。

2010年9月11日 (土)

今月のこの一曲 「You've got to have freedom」 by Pharoah Sanders

■今月のこの一曲は、じつは以前にも取り上げたことがある曲だ。<ここ>の下の方へスクロールしてくと出てくる『 You've Got To Have Freedom 』。2003年10月14日に書いたものです。 数あるジャズの名曲の中でも、ぼくが一番好きな曲。もう大好きで、初めて聴いてから30年も経つのに今でも聴き続けている。落ち込んだ時、心が弱っている時、どうにもならない時、大音量で、何度も何度も繰り返し繰り返し聴いてきた。 ファラオ自身の演奏は5種類(5ヴァージョン)あって、レコードはみんな持っている。これだ。 100911 ■以前「YouTube」で検索してみた時には、2006年にファラオ・サンダースが来日した際に伊豆の修善寺で「sleep walker」と共演した時のライヴ映像がヒットしただけだった。 でも、先日久々に検索してみたら、いろいろいっぱいアップされていて驚いたのだ。 まずは、Theresa Records『Journey To The One』(2枚組)3面1曲目に収録された、1980年録音のオリジナル演奏がこれだ!


YouTube: Pharoah Sanders "You Got To Have Freedom"

この曲の一番烈しい熱狂的な演奏は、Theresa Records「Pharoah Sanders Live!」なのだが、長いからさすがに YouTube にはなかった。ベース以外は同じメンツで、オランダのタイムレス・レコードに録音された演奏がこれだ。これも熱いぞ。すっごく充実した密度の濃い演奏だ。ピアノのジョン・ヒックスがいいんだなぁ。


YouTube: YOU'VE GOT TO HAVE FREEDOM @ AFRICA PHAROAH SANDERS

他の人がカヴァーしたものも、いっぱいあるぞ。


YouTube: YOUVE GOTTA HAVE FREEDOM


YouTube: BOOGALOO / YOU GATTA HAVE FREEDOM


YouTube: You've Got To Have Freedom - Courtney Pine ft.Carroll Thompson


YouTube: Dj Cam - You got to have freedom (feat. Inlove)

■今年70歳になるファラオ・サンダースもさすがに寄る年には勝てない。最近の演奏にはかつてのパワーは期待できないが、まだまだ元気だぞ! 動いているファラオを見ることが出来るだけでもうれしいな。以下は、ごく最近の 2009年のライヴ映像。


YouTube: Pharoah Sanders @ Big Chill 2009 pt 3


YouTube: Pharoah Sanders - You Gotta Have Freedom @ Big Chill 2009

■なお、ファラオ・サンダースのCDに関しては、昨年の夏に再来日した時の「HMVでのインタビュー記事」が詳しいです。 iTunes でも、150円で買えます。


YouTube: Pharoah Sanders

■おまけ■ ニコニコ動画にあった「吉幾三 v.s ファラオ・サンダース」あはは! こいつはたまげた。

2010年9月 6日 (月)

外来小児科学会で、福岡に行ってきた(その3)

さてさて、無事ぼくが担当したWSも修了し、ランチョンセミナーは西村先生のオカルト・バクテレミアのはなし。西村先生は、いつも説得力のある講演をするなぁ。感心する。午後は、Meet the Expert #6「21世紀の子育て事情」を聴く。あきやま子どもクリニック院長の秋山千枝子先生の講演に感銘を受ける。すごく示唆に富んだ講演だった。それから「子どもの村・福岡」が誕生した経緯と意義がよく分かったこともよかったな。


土曜日の午後は、本当は総会から会頭講演、特別講演と聴いて、懇親会に出席する予定でいたのだが、日曜日の朝、福岡空港発 7:40 の飛行機に乗るとなると、お土産を買っている時間がない。それはマズい。


というワケで、MTE 終了後に歩いてホテルに戻り、天神の繁華街まで行って、デパ地下で美味しそうな「めんたいこ」を探す。本当は『極楽おいしい二泊三日』さとなお著(文藝春秋)の、215ページに載っていた「きよ味や」の「辛子めんたいこ」が欲しかったのだが、どこにも売っていない。あとで家に帰ってからネットで調べたら「こんなサービス」もあったんじゃん。福岡へはこの MacBookを持参しなかったので、ホテルフロントで「きよ味や」をネット検索してもらったのだが、この日のフロントの兄ちゃん、てんで要領をを得ない人で、検索ダメダメ人間だったのが実に残念だった。


で、仕方なく「岩田屋」で「福さ屋」の「辛子明太子のたたき」廉価版を購入し、クール宅急便で配送してもらうことにした(でもこれは正解で、先日食ったが実に旨かったぞ)。さて、夕食はどうするか? 今日も一人だ。となると、鮨だな。玄界灘の新鮮な魚が食べたい。福岡に来る前に調べた時には、博多駅前のビルの地下に「やま中」があって、ここにしようと考えていたのだが、先ほどの『極楽おいしい二泊三日』を紐解くと、212ページに「吉冨寿し」が載っていた。長浜生鮮市場の近くにある「この店」を、あの「さとなお」さんが絶賛していたのだ。


となると、ここに行ってみるしかないでしょう!
天神繁華街から北に向かって歩いて行き、RKB九州放送局の角を左折して、長浜方面へ延々と歩く。地図によると、この通り沿いの左側、福岡市立少年科学文化会館を通り過ぎて浜の町公園の手前にある。さんざん歩いてちょっと迷い、ようやく「吉冨寿し」を発見。ところが、店のカウンターはお客さんでいっぱいで、無情にも、入り口には「本日は閉店しました」の看板。やはり予約してこなければ無理だったんだなぁ。残念。


伊那に帰ってから、このあたりの地図をもう一度確認してみたら、例の「長浜ラーメン抗争」の3店は、浜の町公園を過ぎたあたりの、この通り沿いにあったのだな。でも、この日は挫けてしまって、そのままUターン。とぼとぼ歩きながらふと見上げると「長浜屋台 一心亭本店」の看板。鮨は諦めて、本場の長浜ラーメンでも食って帰るか、そう決めて店ののれんをくぐった。ひろい店内はすいていて、カウンターにタクシーの運ちゃんが一人。テーブル席には地元の家族連れが2組。客はそれだけ。観光客は一人もいなかった。


生ビールとAセット(ラーメン+餃子)600円を注文。ほどなくラーメンが運ばれてきた。熱々のスープはかなり濃厚な豚骨スープなのだが、変な「けもの臭さ」はまったくない。麺は堅めで好みの歯ごたえ。残念だったのは、高菜は別トッピングメニューになっていて有料だったことだ。紅ショウガは無料だったけどね。ここの長浜ラーメン、ぼくには十分美味かったぞ。替え玉は80円で、家族連れのお父さんは2人とも、替え玉を注文していたな。ぼくは、カロリー・オーバーになってしまうので、ぐっと我慢したが。


中洲まで戻ると、川沿いの屋台では外来小児科学会の懇親会を終えた小児科の先生やスタッフの皆さんが大勢で盛り上がっていた。実はぼくはもう一軒、行くことに決めていた店があった。ジャズ喫茶「リバーサイド」だ。TSUTAYA が入る、Gate's の南側の川沿い2階に、店は確かにあった。うれしかったな。


じつは、30数年前にぼくはこの店を訪れている。学生時代、東京駅から鈍行列車を乗り継いで九州までやって来たことがあった。宿泊はユースホステル。でも、土曜日の夜だけオールナイトの映画館で朝まで眠ることにしていた。あのとき、大分、別府、臼杵と廻って福岡入りしたのは土曜日だった。当時、全国ジャズ喫茶巡り、というのもやっていたので『ジャズ批評・ジャズ日本列島55年版』を見て「リバーサイド」に辿り着いたのだ。記憶では店は2階にあって、ピアノが置かれていた。浅川マキを細くしたような、黒ずくめのママが一人で店にいた。たしか、ビル・エバンズが大きなスピーカーから流れていたな。


深夜まで粘ってから店を出て、結局泊まったのは中洲の映画館。日活ロマンポルノを上映していた。座席は硬いし、場内は異様な雰囲気だし、ぼくはぜんぜん眠れずに朝を迎えたのだった。そんなかんなを、つい昨日のことのように思い出していた。



2010年8月13日 (金)

『ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く』マイク・モラスキー(筑摩書房)その2


■先ほど読了した。この本はほんと面白かったなぁ。

普通、ジャズ喫茶の話となると、昔はよかったなぁっていう、単なるノスタルジーだけで語られた本がほとんどだったのに、この本は違った。第一に、著者が変な外人(セントルイス生まれのアメリカ人)で、しかも、一橋大学社会学研究科教授の肩書きで「日本語」で書かれた本である、ということが驚きだ。彼の書く日本語がじつによくこなれていて読み易いのだ。


第二に、各ジャズ喫茶が自慢するオーディオ・スペックや、ジャズレコード・コレクションを記載することを、意識的に排除したこと。これが意外だった。当時、ジャズ喫茶のスピーカーは「JBL派」と「アルティック派」とに分かれていた。それぞれの代表が、岩手県一関市の「ベイシー」と、東京は門前中町にあった「タカノ」だ。もちろん、この本には日本のジャズ喫茶のメッカであった、この2つの名店の記載はある。「タカノ」はマッチの写真も載っている。でも、著者は微妙に外して紹介しているのだ。そこに、モラスキー氏のポリシーを感じて面白かった。

第三に、著者が「ジャズ喫茶」体験をした時期と、ぼくが「ジャズ喫茶」体験をした時期とが、ぴったし一致すること。本書264ページによると、それは「ジャズ喫茶混迷期 --- 1973年頃〜1980年代初頭」に当たる。巻末に載っている、著者が全国旅して取材した各地の「ジャズ喫茶」リストを見ると、ぼくが大学生の頃に日本全国を旅して巡って実際に訪れた「ジャズ喫茶」が25店以上もあった(現在は営業していない店も含めると)。あのころ集めた「ジャズ喫茶のマッチ」を、たしか今でも取ってあったはずなのだが、納戸の奥の段ボール箱の中に仕舞われているみたいで、発見できなかった。残念。


■ぼくは「Web ちくま」に著者の連載が載ったときから、ずっと楽しみに読んできたのだが、1冊の本になって読み返してみると、実に見事に再構成されていて、すごく読み易くなっていることに感心した。


それから、読みながら「はっ!」とさせられる記載が随所にあったことも注目に値する。たとえば、

そして、あまり指摘されないようだが、ジャズ喫茶の店主たちの中に、社会の主流的価値体系に抵抗心は抱いていても、闘争や組織などに直接関わったりする人が少なかったように思える。つまり、個人レベルでは大まかな「反体制精神」は共有していても、基本的に「ノンポリ」の店主が圧倒的だった、ということは見逃せない。(p263)

たしかに、かつてジャズ喫茶の店主でもあった村上春樹は、まさにそうだった。

 基本的には店主がレコードを棚から選択し、ジャケットから盤を取り出し、ほこりをきれいに拭き落とし、ターンテーブルに置く前に表面の針の傷の有無を点検し、そしてターンテーブルに置いてから位置を慎重に定めながら針を落とす。どの行為もきわめて慎重に行われ、見ている客には、レコードとオーディオ装置の希少性が十分に伝わり、同時に店主自身のジャズに対する知識と愛情が披露される結末になる。

 私はこれらの行為を<パフォーマンス>と見なしたい。いわば、<通の演技>である。あるいは、演奏するという不在のミュージシャンの代理行為とでも見なせるかもしれない。(中略)

 ところで、LPに対するフェティシズムはあっても、CDに対するそのような態度をジャズ喫茶ではほとんど見かけない。(中略)

 ジャズ喫茶でCDがヒンシュクを買っているとしたら、その理由は単に音質や上記の具象性をめぐる問題だけに由来するのではないような気がする。店内の秩序を乱し、しかも店主や店員のパフォーマンス的表現の大事な一部を奪ってしまう、という効果も関係しているのではないかと思う。

■この本が、単なるノスタルジーに終わらない店を挙げるとしたら、


1)アメリカ軍基地がある街には「ジャズ喫茶」が数多く存在するに違いない、ということにこだわっているところ。彼はそのために沖縄を何度も訪問している。これは、日本のジャズに言及した評論の中で、欠落していた視点だと思った。


2)地方の、一般にはほとんど知られていない「ジャズ喫茶」にスポットを当てた功績は大きいな。特に、北海道は函館の「バップ」(ここは僕も行ったことがある)とか、海のない埼玉県にある「海」という名のジャズ喫茶とか。あとは、大阪阿倍野区(たぶん飛田遊郭の近く)にあった「マントヒヒ」や、若松プロダクションに所属していたマスターの店「ろくでなし」の紹介。

それから、熱海の遊郭街の外れで細々と営業を続ける「ゆしま」とか。常連は、結婚してもいい相手かどうか、ゆしまのママに鑑定してもらっていたという。


あとは、ジャズ喫茶といえば昔から敵対関係にあった「JASRAC」の著作権に対する取り立ての話も面白かった。断固許さず対決して裁判で負けた、新潟「スワン」のマスターの話をもっと聴きたいぞ。


3)著者は「ジャズ喫茶」を決して「過去の遺産」もしくは「博物館」としてノスタルジックに懐古しているのではなくて、新しいタイプの「ジャズ喫茶」に期待している記述があること。

その、新しいタイプのジャズ喫茶とは、沖縄県ゴザにできた「スコット・ラファロ」と、井の頭公園の脇のビル7階にできた「ズミ」だ。それから、大阪にできた古本屋&ジャズ・カフェの「ワイルド・バンチ」も期待できるか。


4)日本人が、よくジャズを分類する時に使う「しろ(白人)」「くろ(黒人)」の表記はナンセンス! と著者が声高に主張している点。これは気付かなかったな。なるほど。ぼくも知らずとそういう分類をしたきたような気がする。女性ジャズ・ヴォーカルなら、やっぱり白人金髪とか。動機が不純だね。


5)ジャズ本来の楽しみ方である「ライヴ」と、ジャズ喫茶で再生される「レコード」での「ライヴ録音」の関係。その「リアルさ」を競うこと。それはそのまま、落語の再生記録は、DVDで見てもちっとも「リアル」には感じられないのに、CD(もしくはレコード)の音だけで目を閉じて聴けば、リアルな寄席の空間が体感できることと同じだ。

(もう少し続くかも)

2010年8月 9日 (月)

マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)

■先日から、マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)を読んでいる。じつに面白い。彼(モラスキー氏)が来日して初めて新宿アルタ近くの「ジャズ喫茶」体験をしたのは、1976年9月。その約半年後に、ぼくも同じジャズ喫茶で新宿デビューした。それは『びざーる』という名のジャズ喫茶だった。たしか『ディグ』よりも先だったように思う。

当時すでに、ぼくの故郷の伊那市にも「ジャズ喫茶」があった。サッチモの笑顔が白い線で黒地に描かれたマッチの「アップル・コア」だ。僕が高校生になった年(2年生じゃなくて)に伊那バスターミナル向かいから少し南へ下ったビルの2階にオープンした(いま『ジャズ批評別冊・ジャズ日本列島61年版』を調べたら、昭和49年5月21日オープンとある)。同級生だった小林君なんかは、さっそく常連になって昼間から(?)入り浸っていたみたいだが、当時ぼくはまだジャズを知らなかった。

だから、高校生の頃には「アップル・コア」の怪しい雰囲気が怖くて、とても足を踏み入れる勇気はなかったな。結局、この店に初めて入ったのは、1979年の夏だったか。この頃にはもう、タバコをすぱすぱ吸っていたなぁ。

それからさらに数年して、アップル・コアの名物美人ママが突如ニューヨークへ行ってしまい、JBLのオーディオ・システムも、ジャズ・レコードもそのまま居抜きで、この店は人手に渡ってしまった。その途端、客足は一気に減ったという。結局あの店はママさんの妖しい魅力で保っていたんだね。

Applecoa_2


■読んでいて思わず笑ってしまったのは『ジャズ喫茶論』の55ページ。そうか、ジャズ喫茶のマスターって、じつは店主の意味じゃなくて、スターウォーズの「ジェダイ・マスター」と同じ意味の「師匠」だったんだ。なるほどなぁ。(つづくかも)

2010年7月31日 (土)

小鳩園で絵本を読む。それから、板橋文夫のこと

■今週の水曜の午後は、園医をしている「小鳩園」に出向く日だった。小鳩園は、発達障害児や重度心身障害児が母親とともに通う伊那市の母子通所施設だ。ぼくは夏と冬の2回行って、お母さん方に話をしてくる。 この日は、手足口病などの「夏かぜ」の話と、Hibワクチン、7価肺炎球菌ワクチン(プレベナー)の話をした。そのあと、子供たちと園の先生方もいっしょになっての「絵本タイム」。ぼくが読んだ絵本は、  1)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄・作(福音館書店)  2)『ぐやんよやん』長谷川摂子・ぶん、ながさわまさこ・え(福音館書店)  3)『まるまるまるのほん』エルヴェ・テュレ作、谷川俊太郎・訳(ポプラ社) 『ぐやんよやん』を読み始めたら、すっごく反応のいい子が一人いて、ぼくがページをめくって「じんじ じんじ ずー」とか言うたびにキャッキャ言って喜んでくれた。それ見て、その子のお母さんと先生方がちょっと驚いたような反応を示した。しめしめ、やったね! 『まるまるまるのほん』は、子供たちに絵本をクリックさせたりタッチさせると「ぼくも私も!」と、みんな寄ってきて収集がつかなくなる。それがこの絵本の唯一の欠点だな。でも、幼い子も年長児も、障害のある子も関係なく、子供たちを夢中にさせる魅力がこの絵本には確かにある。 ■ナマの色川武大さんを一度だけ目撃したことがある。あれは何時だったか? 1978年〜1982年ころか。 場所は新宿ピットイン。板橋文夫トリオが出演した夜だった。周りの人は誰も特別視することなく、色川氏は一般客とごく自然に混ざって板橋文夫のピアノを聴いていたな。 板橋文夫と言えば、今年の2月に、東京FMのホールでクラシック・ピアノのソロコンサートを催したのだけれど、その日に演奏された「渡良瀬」の映像がネットにアップされている。これだ。 これは凄いな。数ある「渡良瀬」ソロ・ヴァージョンの中でも屈指の演奏なのではないか。 久々に板橋さんらしい演奏が見れてほんとうれしい。

Powered by Six Apart

最近のトラックバック