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2016年7月 9日 (土)

ロックて、何だ?(その3)『ガケ書房の頃』→ 小田嶋隆

■『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)の追補。 <ロックという概念> が載っている部分「ライブはじまる」p139〜145 の前後を含めて、もう少し抜粋する。

 今考えると、とても恥ずかしくなるのだが、ガケ書房のオープン時のキャッチフレーズは、ジャパニーズ・サブカルチャー・ショップというのと、ロックの倉庫というものだった(ああ、恥ずかしい)。カテゴリーイメージとしてはサブカルチャーもロックも、今の時代、微妙になってしまった言葉だ。しかし、店のイメージを限定されそうなサブカルチャーはともかく、ロックという言葉に関しては、そこに僕の明確な価値基準があって、ぜひ使いたかった。

 そのころの僕は、物事の判断基準に<ロックかどうか>を用いていた。僕にとって、ロックという概念は、音楽のジャンル以上に、あり方や考え方を指す言葉だった。それは、存在としての異物感、衝動からくる行動、既存とは違う価値の提示、といういくつかの要素を、どれか一つでも兼ね備えているものを指した。僕は、そういう本や音楽や雑貨をオープニング在庫として集めた。そして、それに追随してくれる人たちを待った。

 しかし、すでに使い古されていたロックは、たくさんのゆるい解釈を飲み込んでしまっており、僕と似たような概念でロックを捉えている人は少数のようだった。むしろ、そうではないのに、という誤解のイメージにさいなまれることの方が多かった。なので、すぐにそのフレーズは封印した。(『ガケ書房の頃』139,140ページより)

■生き方そのものが「ロック」な人と言えば、内田裕也さんだ。裕也さんは、舛添元東京都知事騒動にコメントして「舛添はロックじゃねぇ。フォークソングだ!」と言ったそうだが、そんな裕也さん自身が「すでに使い古された、ゆるい解釈を飲み込んだ」ロックのイメージを作り上げてしまったのではないか。

それで思い出したのが、少し前に話題になった「フジロックに政治を持ち込むな」論争だ。最近、毎日新聞に「特集記事」が載ったが、小田嶋隆氏が「日経ビジネスオンライン」で連載している『ア・ピース・オブ・警句』2016年6月24日(金)の記事「音楽は政治と分離できるか」 が、最もしっくりくる内容だった。そのとおり、彼らは奥田愛基とSEALDs が単に嫌いなだけなのだ。

ただ、ひとつ気になったことは以下の部分だ。

具体的には、「音楽」なり「ロック」なりが、もはや往年の影響力を失っているという、今回の議論を通じて私が到達した感慨が、たぶん、若い人たちには了解不能なのだろうな、ということが私の伝えたいことの大部分だということだ。

 私の世代のロックファンにとって、「ロック」ないし「音楽」は、人生の一大テーマであり、それなしには生きていくことさえ不可能だと考えられるところのものだった。

 大げさに聞こえるかもしれないが、私はある時期まで本気でそう思っていた。
 いまにして思えば、その考え(No music no lifeとか)は、半ば以上錯覚であり、それ以上に思い上がりだった。

 どういうところが思い上がりだったのかというと、私の世代の若者は(あるいは「少なくとも私は」と言った方が良いのならそう言うが)、音楽に惑溺している自分を、人並み外れてセンシティブだからこそ音楽無しには生きられないのだというふうに考えていたのである。

 現時点から見れば、どうにも手に負えない自家中毒だと思う。現実逃避でもある。
 バカみたいだと思う若い人たちは、笑ってもかまわない。

 が、ともあれ、そういうふうに「こじらせて」いるというまさにそのことが、当時は、ロックファンがロックファンであるための条件であると信じられていたのだ。

『ア・ピース・オブ・警句』2016年6月24日(金)小田嶋隆

■小田嶋さんは、これを書く少し前のツイートでこう言っている。

 

小田嶋隆 小田嶋隆
@tako_ashi
6月20日
個人的には、滑稽であれ、空回りしているのであれ、大真面目にロックを語っている人間に好感を抱いている。ほかの誰かがロックについて真剣に語る様子を嘲笑するタイプの人間は好きになれない。

基本、ぼくもまったくそのとおりだと思っている。青春時代に「音楽」が唯一の信じ得る「生きる糧」であった人間にしか言えない言葉だ。だから、ぼくは小田嶋さんの言葉を信じる。

2016年7月 4日 (月)

ロックて、何だ?(その2)『奇跡の人』→『ガケ書房の頃』

■5月中旬から読んでいる『項羽と劉邦』司馬遼太郎(新潮文庫)が、なかなか進まない。一昨日ようやく「上巻」を読み終わった。まだ(中)(下)の2冊が残っている。さらには、ケン・リュウ『蒲公英王朝記(1)』も続く。

それにしても「この本」は勉強になる。「バカ」の語源が書いてあったのだ。446ページ。秦の始皇帝が死んだあと、暗躍した宦官の「趙高」が実質的な権力の頂点に今はいる。

咸陽の宮廷で趙高がやっていることというのは、恐怖人事である。(中略)趙高は人々から心服されることを望むほど人間を愛してもおらず、信じてもいなかった。(中略)

あるとき趙高はこれら臣官と女官を試しておかねばならないと思い、二世皇帝胡亥の前へ鹿を一頭曳いて来させた。

「なんだ」

胡亥は、趙高の意図をはかりかねた。

「これは馬でございます」

 と、趙高が二世皇帝に言上したときから、かれの実験がはじまった。二世皇帝は苦笑して、趙高、なにを言う、これは鹿ではないか、といったが、左右は沈黙している。なかには「上よ」と声をあげて、

「あれが馬であることがおわかりなりませぬか」

 と、言い、趙高にむかってそっと微笑を送る者もいた。愚直な何人かは、不審な顔つきで、上のおおせのとおり、たしかに鹿でございます、といった。この者たちは、あとで趙高によって、萱でも刈りとるように告発され、刑殺された。群臣の趙高に対する恐怖が極度につよくなったのはこのときからである。

権力が人々の恐怖を食い物にして成長してゆくとき、生起る(おこる)事がらというのは、みな似たような、いわば信じがたいほどのお伽話ふうであることが多い。

『項羽と劉邦』(上)司馬遼太郎(新潮文庫)より

この話、リアルすぎてめちゃくちゃ怖いぞ。今から2300年も前の中国の話なのに、誰かさんに言われて、鹿を「馬でございます」と白々しくも言っている人たちが、いま現在如何に多いことか……。

■NHKBSプレミアムドラマ『奇跡の人』の脚本は岡田惠和氏で、登場人物にやたら「アホ」「バカ!」言わせているが、もう一つ出演者の口から頻発する単語がある。それが「ロック」だ。

■『奇跡の人』(第6話)。一択(峯田和伸)にとって、東京でたった一人の友人である馬場ちゃん(勝地涼)が、いつもの居酒屋で一択の愚痴を聞いてやっている。そこへ大家の風子さん(宮本信子)がやって来て、「訊きたいことがあるんだけど…」って、2人に切り出す。そのあと、

「ロックて、何?」って訊くのだ。

で、馬場ちゃんはこう答えるんだな。

「俺、じつは、ロックの原点てのは、アイツだと思ってんだ。外人は外人なんだけど、少年?『裸の王様』に出てくるさ、『あれっ? 王様はだかじゃね? 何やってんの笑っちゃうんだけど。じゃ、俺も脱ごうかな』。

みんながさ、分かってるのに『それ言う?』みたいなさ。軽くぽーんと言うワケよ。

(ビクビクした感じで)『みんな平気なんですか? 王様はだかじゃないんですか?』みたいな言い方するとさ、『うるせーな黙ってろよ』みたいな感じになっちゃって、世界は動かない。王様ははだかのまま。

でもさ、『あれっ? 王様はだかじゃね? はだかはだか! 裸の王様ヌード・キングじゃね?』みたいな言い方するとさ、みんなが『だよな。そうだよな!』みたいなふうにして世界は動く。それがロックでしょうよ。

ロックが空気読んじゃダメ。空気を切り裂くのがロックでしょうよ。ロックはうるせぇって言われ続けないと。だからみんなが、大きな音に慣れている感じだったら、さらに爆音出すワケでしょ。『どうだ、うるせーだろ、ざまー見ろ』みたいなね。」

「でもぉ、男と女のロックはこれが違うんですよねぇ。これがまた。

女のロックはね、すぱーっと行くのよ。前ぶれもなく、いきなり行く感じ。でも男は違う。男のロックはね、もう、うじうじうじうじグジャグジャグジャグジャして、ためてためて最後の最後にドカンと行くワケですよ。」

■まぁ、ぼくは中学高校生の頃はフォーク、大学生になってジャズに没頭したから、じつは「ロック」がよく分からないんだ。つい最近読んだ本に、その「ロック」の定義が書いてあって、「なるほどな」と思った。それが、『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)だ。以下は、ツイッターに載せたもの。

行ったことはないけれど、僕でも名前は知っている、京都にあった有名な本屋さん店主の半生記『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)を読み始める。面白い! 淡々とした筆致なのに不思議とぐいぐい引き込まれる。最初の「こま書房」「初めて人前で話したこと」で「つかみ」は完璧だ。(2016/06/16)
 
『ガケ書房の頃』つづき。家出して横浜に出て来た18歳〜29歳までの、様々な職業を転々としていた頃の話が凄まじい。つげ義春の漫画みたいな印刷工の話「むなしい仕事」。学習教材の訪問販売員だった「かなしい仕事」。
「僕は、その場所でしか通用しない悪しき暗黙のルールというものが世の中にはたくさんあるということを学んだ」(70ページ)
引き続き『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)を読んでいる。いいなぁ。実にいい。この人の文章が好きだ。淡々と醒めているようでいて、情にほだされる描写もする。「ライブはじめる」p142。友部正人さんに飛び込みの直談判で、PAなしの生音ストア・ライヴをオファーする場面。すっごくイイぞ。(2016/06/22)
店主の山下さんは、高校時代に大好きだったんだそうだ。友部正人。145ページに、最初の「友部正人・ガケ書房ライブ」フライヤー写真が載っている。アパートの汚いキッチン流し台の写真に、店主の手書き文字で「にんじん」の歌詞。「ダーティー・ハリーの唄うのは/石の背中の重たさだ……」
 懐かしいなぁ。ぼくも「この曲」が大好きなんだ。中学三年生の時、この曲が収録されたレコード『にんじん』(URC)を買って、高校時代もずっと何度も何度も聴いた。レコードを聴く環境がなくなって、すっかり忘れてしまっていたら、昨年思いがけなくナマで「この曲」を聴くことができた。
南箕輪村の酒店「叶屋」のご主人が友部正人の長年のファンで、毎年店で「友部正人ライブ」を行っていて、去年初めて僕も参加したのだ。知らない歌のほうが多かったけれど、突然あの「ダーティー・ハリーの唄うのは」で始まる『にんじん』のフレーズに僕はゾクゾクしたのだった。
 じつは、今度の日曜日。午後4時から、その酒屋「叶屋」で「友部正人ライヴ」があるのです。上田で小児科学会地方会があるので、行けないなと諦めていたのだけれど、地方会サボってライヴの方に行こうかな。(2016/06/22)
南箕輪村の酒店『叶屋』へ友部正人のライヴを聴きに行ってきた。パワフルでエネルギッシュで、若いなぁ、ロックだなぁって、感嘆した。『はじめぼくはひとりだった』(レコード持ってるぞ)に始まって、1st セット最後の曲『歌は歌えば詩になって行く』は初めて聴いたがいい曲だなぁ。最新CDのか。(2016/06/26)

Tomobe

それにしても、中学高校時代に大好きだったミュージシャンは、一生涯大好きなまま続いてゆくのだなぁ。しみじみそう思った。今日もサインしてもらおうとレコードとCDを持参したのだけれど、やめてしまった。来年は10回目とのこと。次回こそ!(2016/06/27)
 ちょっと追加。『ガケ書房の頃』140ページより引用。「そのころの僕は、物事の判断基準に<ロックかどうか>を用いていた。僕にとって、ロックという概念は、音楽のジャンル以上に、あり方や考え方を指す言葉だったからだ。それは、存在としての異物感、衝動からくる行動、既存とは違う価値の提示、といういくつかの要素を、どれか一つでも兼ね備えているものを指した。」(2016/06/22)
     この<ロックの定義>はいいんじゃないか。
p141「案の定、今かかっているのは誰ですか? とよく聞かれた。一番よく聞かれたのは、デビュー間もないハンバートハンバートだった。」(2016/06/22)
すごく久しぶりに『10年前のハンバートハンバート』を聴いている。2枚目のCD『道はつづく 特別篇』の15曲目『gone』。曲が始まる前のMCで、遊穂さんが、京都の本屋さん「ガケ書房」でライブやったねって、言ってた。2006年の録音だな。(2016/06/25)
「嘘みたいな話だが、ずっと動きが悪い本を棚から一度抜き出して、また元の位置に戻すだけで、その日に売れていくこともある。僕は何度もこれを経験している。人が触った痕跡というものが、そこに残るのだと思う。」『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)224ページ。
(2016/07/09)
わが家には、小沢健二のCDも本も全くないが、おとうさん「小澤俊夫」の昔話関連本と、おかあさん「小沢牧子」さんの児童心理学関連本は何冊もあるぞ。(『ガケ書房の頃』229ページ) (2016/07/09)
『ガケ書房の頃』(夏葉社)読了。圧倒的な満足感と共に深い余韻が残る稀有な読書体験だった。248ページの、いしいしんじさんとの対話を読んで泣けた。オザケンとのやり取りとか、人との出会いの大切さをしみじみ感じる。経営難にあがいてもがいて、めちゃくちゃ格好悪いところが逆にカッコイイぞ!
 特に、ラストの3行。まさに、「ロック」じゃないか! 『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)(2016/06/23)
       「めちゃくちゃ格好悪いところが逆にカッコイイぞ!」

 というのは、もちろん「早川義夫さんのレコードタイトル」にかけている。著者の山下さんは、辞めてしまった本屋の大先輩として絶大なリスペクトを早川さんに送っているワケだが、ぼくの感じでは、加島祥造さんのイメージに重なるのだ、早川義夫氏。よく言えば「老子」。悪く言うと「エロじじい」ごめんなさい。

■この本には、「著者あとがき」がない。まぁ、こうもカッコイイ最後の文章の後には、たしかに「あとがき」は書けなかったのだろう。でも、『ホホホ座』のサイトに「あとがきにかえて」という文章を見つけた。「バンス」のはなし。泣ける。

2016年6月24日 (金)

ロックって何だ?

■毎週すっごく楽しみにしていたテレビドラマ『重版出来』(TBS)と『奇跡の人』(NHKBSプレミアム)と『トットてれび』(NHK総合)が、相次いで終わってしまった。生き甲斐をなくしてしまったみたいで、ほんと空しい。あとは『真田丸』だけか……。

『奇跡の人』(第7話)で、光石研さんが演じる「八袋さん」が、「いい夜だぁ。生きててよかった」と、しみじみ言うシーンがある。このセリフは『泣くな、はらちゃん』で彼が演じた課長さんにかけた呟きでもあり、映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』で、松田龍平と決闘する峯田和伸に、ボクシングの決め技を伝授する小林薫と同じ役割(光石さんはレスリングだが)を果たしたからでもある。

『重版出来』(第9話)。デビューの決まった新人漫画家:中田伯(永山絢斗)も言う。「生きててよかった! 生まれてきてよかった」と。

『奇跡の人』(第8話)。山形から上京してきた ばあちゃん(白石加代子)が、一択(峯田和伸)にこう言うのだ。

「どうやって生きていったらいいか、そんなもんに答えはねえんだ。生きてくしかねんだ。人間は。あとは上等に生きるかどうかだ。わかっか?」

『奇跡の人』ラストシーン。一択は、海に向かって叫ぶ。

「生ぎででよがっだ! これからも、生ぎでぐぞぉ〜!」

「LOVE & PEACE & ROCK & SMILE だぁ〜!」

■以前にも書いたが、毎週日曜日の夜、このドラマを泣いて笑ってまたボロボロ大泣きして見終わると、何とも言えない「シアワセ」な気分になって、こんなバカが堂々と一直線に突っ走って生きてるんだから、どうしようもなくダメでクズな俺でも生きてていいんだって、カミサマに許してもらえたような気がしてきて、翌日のブルーな月曜日もなんとか頑張って乗り切ってこれたのだった。

この感じ、何かに似てる。そうだ、寄席とか落語会に行って、大笑いして、ちょっとだけ泣いて、満足して家路につく時にいつも感じる「シアワセ」な気分といっしょなのだ。落語の世界には、与太郎をはじめとして、とにかく「どうしようもないバカ」しか登場しない。

みんなに「バカ」「バカ」って言われながらも、じつは心底心配され、支えられ、愛されている存在。ドラマでは、峯田和伸が演じる亀持一択がまさに「それ」だ。映画でいえば、柴又帝釈天「とらや」の、おいちゃんが「寅はほんとにバカだねぇ」って言うセリフも同じだな。

映画『男はつらいよ』も、観客は見終わって映画館をあとにするとき、何とも言えない「シアワセ」な気分に浸っていたはずだ。でなければ、盆と正月は必ず「寅さん」を観に行こうなんて思わないもの。(まだまだ続く)

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2016年4月 9日 (土)

小津安二郎と戦争(その1)

■映画監督、小津安二郎の死生観を決定付けたのが、1937年(昭和12年)に盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争である。同年9月に小津は招集され、以後約2年間にわたり中国大陸を従軍し、一兵卒(伍長)として実際に最前線で戦争体験をしたのだ。

その詳細を初めて明らかにしたのが、『小津安二郎周游(上)』田中眞澄(岩波現代文庫)の第8章、第9章だ。『昭和史』半藤一利(平凡社)によると、昭和11年に 2.26事件が起き、その結果、陸軍「皇軍派」は一掃され、陸軍の実権を握った「統制派」の主導により、翌昭和12年7月7日夜「一発の銃声」(本当はかなりの数の銃弾だったそうだが)が演習中の日本駐屯軍に向けて放たれたことを理由に、盧溝橋事件が起こる。

当初陸軍は、蒋介石が率いる中国国民党軍の本拠地であり、実質的な中国の「首都」であった「南京」を落とせば、簡単に日中戦争を完全勝利で終結できると高をくくっていた。ところが、イギリスやアメリカの後ろ盾があった中国軍は思いのほか強かった。

上海での激戦は、日比野士朗『呉松(ウースン)クリーク』に書かれている。日本から大軍を送り込んで、やっとこさ撃破すると、揚子江をさかのぼって、南京へ後退した中国軍を日本軍は追撃に追撃を重ねる。そこで「南京事件(南京大虐殺)」が起こる訳だ。

小津は中国上陸後、呉松(ウースン)に入る。そして南京が陥落した直後に、小津は南京に入城している。1937年12月20日のことだった。

「小津安二郎と戦争」に関しては、同タイトルの田中眞澄氏の著書(みすず書房)が出ているが、ぼくは未読。田中眞澄氏以外で、小津と戦争との関連を取り扱った人は、ぐぐると案外多い。

■保坂正康『太平洋戦争を考えるヒント』(PHP/ 2014/6/20)第14章「小津安二郎と『戦争の時代

茂木健一郎「日常が底光りする理由」(文學界 /2004年1月号所収)

■ガディスの緑の風さん:小津安二郎における戦争の影響 - 追悼の陰膳

             小津安二郎監督が映画に託す追悼の意 

2016年2月16日 (火)

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)

■最初に、ツイッターで言ったことを載せておきます。

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)を読み始める。なんと、先達て読んだ奇妙な味わいが癖になる『突然ノックの音が』(新潮社クレストブックス)の作者、エドガル・ケレットの短編が2つも収録されているぞ。(2016/02/06)

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)より、レイ・ヴクサヴィッチ「最終果実」を読む。おったまげた。めちゃくちゃグロテスクなのに、何故か愛しく切なく、深く心に刻まれた。こんなの、クライヴ・バーカー『丘に、町が』以来だ。『月の部屋で会いましょう』(東京創元社)も読まなきゃな。(2016/02/10)

『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)読了。これは堪能した。『ポノたち』を読みながら、子供の頃のぼくは(実は今もそうなんだが)彼よりももっと卑怯な奴だったことを思い出して、胸が苦しくなった。『ブタを割る』は『金魚』みたいな「もうひとひねり」が欲しかった。ラストの『七人の司書の館』がまたよいな。(2016/02/14)

■「この本」には「子供」が関連した短篇が12本、収録されている。ただし、現代海外文学最先端の作家の中から、飛び切り「変な短篇小説」ばかりセレクトし読者に紹介している、名アンソロジスト&翻訳家の岸本佐知子さん「訳編」の本であるからして、心してかからねばならないことは言うまでもない。

■個人的お気に入りは、何と言っても「最終果実」。次いで「王様ネズミ」「まじない」、それから「七人の司書の館」。あと「靴」「子供」「ポノたち」。なんだ、ほとんどお気に入りじゃん。ツイートで言及しなかった短篇に関して少しコメント追加。

■「まじない」:リッキー・デュコーネィ(原題:ABRACADABRA  by Rikki Ducornet)

 「7歳までは夢の中」と言ったのは、シュタイナー教育に詳しい松井るり子さんだった。この頃の子供はまだ「魔法の世界の住人」なのだ。『まじない』の主人公も7歳の男の子。見えないものが見え、聞こえない音が確かに聞こえる。だから彼は「奴ら(宇宙人)」に絶対に負けないよう「決められた規律=まじない」を開発し、その実行を自らに課した。

こうした行動は、自閉症児の「こだわり」としてよく観察されるし、僕だって子供のころ「様々な規律」を開発した覚えがある。いや、実は今でも続けていることもあるのだ。例えば、階段は必ず左足で上り切らねばならないとか(下りる時も同じ)、横断歩道の白線は決して踏んではならないとかね。

7歳の彼は、地球上で唯一の地球防衛軍隊員として「たった一人で」宇宙人と闘い、地球を守っているのだった。同じような「空想の世界に没入する男の子」のはなしは、例えば、絵本『ぼくはおこった』きたむらさとし(評論社)がそう。それに、センダックの『かいじゅうたちのいるところ』もそうだな。

ただ、これら絵本の主人公に対する母の子を思う愛着は、この「まじない」の男の子の母親には感じられない。それが彼の悲劇だ。

■「弟」:ステイシー・レヴィーン(原題:THE TWIN  by Stacey Levine 

めちゃくちゃ不思議な短篇だ。姉と弟の関係がよく分からない。シャム双生児なんだが、ベトちゃんドクちゃんと違って、二人は対等の関係にはない。

「弟は彼女の腰から生えていて、だから砂の上にあおむけに横になれば弟を穴に押しこむことができた。彼女は穴に弟を押しこんだまま、食べ、話し、それでうまくいっていた。

「穴」って? へその穴か? 脱腸かイボ痔みたいに、肛門へ押し込むのか? それとも……

■「トンネル」:ベン・ルーリー

トンネルは怖い。でも、ほんとうに怖いのは「いわゆるトンネル」ではなくて、打ち棄てられた「排水管」のほうだ。キング『IT』しかり。それから漫画だと、浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』。最近読んだ本では『緑のさる』山下澄人(平凡社)が印象的だった。

■「靴」:エトガル・ケレット

作者はイスラエルの人だ。『突然ノックの音が』(新潮社クレスト・ブックス)は、ほんと変な短篇ばかりで面白かったな。登場人物の名前がみな、旧約聖書に出てくる人みたいな名前なんだ。そりゃそうか、ユダヤ人なんだから。

それにしても、アディダスがドイツの会社だったとは。知らなかった。「靴」の主人公のおじいちゃんは、ホロコーストで死んだ。戦争をしらない子供心にも、ナチスの凶悪犯罪は絶対に許してはならない記憶として心に刻み込まれている。さらに、見学先のユダヤ記念館の案内人のじいさんから「ドイツ製品を見たら、いいか忘れるな、どんなに外側はきれいに見えても、中の部品や管のひとつひとつは、殺されたユダヤ人の骨と皮と肉でできているのだ」と言い聞かされている。

それなのに、旅行のおみやげにアディダスのスニーカーを買って帰る無頓着な母親。でも、スニーカーが欲しかった僕。素直に喜べない僕。そして……。 こういうねじれて屈折した想いを、さらにラストで昇華させるというスゴ技を描いてみせるこの作者は、ほんと上手いな。

■「王様ネズミ」:カレン・ジョイ・ファゥラー

この人はほんと巧い。文章を読んでいて、まるで映画を見ているみたいに映像が浮かんでくる。いじめっ子の憎たらしい顔、父親が務める大学研究棟の長い廊下、地下の動物実験室。

まったく予想のつかない展開だった。でも読み返してみたら、『ハーメルンの笛吹き男』の話が唐突に登場してきていた。読みながら変だと思ったんだ。

■この感想を書くにあたって、ネットで他の人の読後感想をいくつか読んでみたのだが、ぼくが大好きな『最終果実』は、多くの読者から「まったく無視」されていて、正直ショックを受けた。オシャレな装丁から「この本」を手にし、岸本佐知子の名前を確認してから購入するような「図書館大好き&外国文学大好き女子」には、吐き気をもよおすようなグロテスクな描写は、生理的に受け付けられないのだろうか?

2016年2月 3日 (水)

山下澄人『鳥の会議』(河出書房新社)『ルンタ』(講談社)

 

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(上の写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■最近、すっかり山下澄人さんのファンになってしまった。読んでいる時間が、不思議と心地よいのだ。いつまでもずっと読んでいたい。何だかよく分からないのだけれど、中毒性のある作家さんなのだ。基本、視覚的・映像的文章であり、しかも、耳からも来る文章なんだな。地の文も、会話の大阪弁も、読んでいてとても気持ちがいい。作者が一人で勝手に漫才みたいな「のりつっこみ」するんだよ。

その独特なグルーブ感が癖になって、知らないうちに、似非大阪弁で自分もしゃべっていたりするんだ。もうめちゃくちゃ影響大だな。

■このところツイッターに書いてきた感想を、ここにまとめておきます。ただし一部改編。

山下澄人『ルンタ』(講談社)を読んでいる。これ、いいなあ。なんか好きだ。82ページまで読んできて、突然ぬっと、牡の黒馬ルンタが登場した。驚いた。チベット語で「風の馬」っていう意味なんだって。それにしても、主人公が吹雪に見舞われて膝までの豪雪って。関西の話じゃないんか? 北海道なのか? それとも、夢?(2015/01/18)

馬といえば、内藤洋子だ。このところ評判の悪い喜多嶋舞の母親でもある。「白馬のルンナ」っていうレコードも出しているんだよ。「ルンナ」は牝馬だろうな。白馬だし。だから、ルンタは「ルン太」で、黒い牡馬なんだと思った。

『ルンタ』山下澄人(講談社)読了した。これ、凄い。すごいな。なんかよくわからんけど、めちゃくちゃ感動した。いや、感動という言葉とは違うな。最新号の『TV Bros.で、豊崎由美さんが『よはい』いしいしんじ(集英社)を褒めていて、

「さまざまな生を生き、死を死ぬ人たちのたくさんの肯定的な声が聞こえる祝祭感あふれる物語になっています。」

って書いているけど、これってそのまま『ルンタ』じゃん。さらには、

「いしい作品がどうしてわたしを幸せにしてくれるかというと、それは氏の小説が肯定感を基本にしているからです。生きていることは言うまでもなく、死んでいることも。男であることも女であることも。老人であることも子供であることも。美しい世界も醜い世界も。自分も他者も。此処も彼方も。」

と彼女は言う。山下澄人作品も、まったく「そう」だぞ。さらに追加すれば、山下作品では「わたし」という人称や、「過去も未来も現在も」時制は全く無意味にされてしまうのだ。すごいぞ。

ちなみに、いしいしんじは、ぼくも大好きな作家さんです。でも、最近は熱心な読者ではなくなっていたかな。ちょっと反省。


『ルンタ』を読んでいて想い出したのは、柳田國男の『先祖の話』だ。人は死ぬと、ずっと遠くへ行ってしまう訳ではない。自分が生き生活していた里を見下ろす「故郷の山」の頂きに宿って、子や孫たちの家の繁栄を見守り、盆と正月には子孫の家に招かれ戻る。死者はいつだって隣にいる。(2015/01/30)

今年読んだ本【日本の小説】のベストは、なんと言っても『鳥の会議』山下澄人(河出書房新社)だ。山下さんのことは、1月に下北沢B&Bで行われた、保坂和志&湯浅学対談の席で、保坂さんの口から初めて聞いて興味を持ったのだ。

そしたら、NHKラジオ第一の大友良英さんの番組に飴屋法水さんが登場して、飴屋氏が演出した芝居『コルバトントリ、』の台本を、大友良英氏のギターをBGMに朗読してたのをたまたま聴いて、あっ!また山下さんだ。そう思ったんだ。で、『コルバトントリ』(文藝春秋)を読んだ。面白かった。癖になる面白さだった。昨日の夕方アンコール放送があって、飴屋さんの朗読をもう一度聴いた。やはり、異様に感動した。録音に失敗したのが本当に悔やまれる。(2015/12/30)

月刊文芸誌『新潮 2016.1』より、山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」を読む。面白い。変にこねくりまわさずにストレートな一人語りなんだけど、やっぱり何か変。そこが好き。それにしても、最初から活字がみっちり並んでいて驚く。改行も余白もない。(2015/12/15)

いや、ちょうどいま『鳥の会議』山下澄人(河出書房新社)の 30ページ目まで読んでいたところだったので、まさか著者自身の朗読が聴けるとは! びっくりだ。それにしても、やっぱネイティヴの人の発音とイントネーションは、ぜんぜん違うな。(2015/11/26)

山下澄人『鳥の会議』を読み終わった。喧嘩ばかりしている不良の中学2年生4人組の話なんだけど、これはよかった。すごくよかった。山下さんの文章って、映画のカット割りみたいだから、特にこの小説は映画にしたらいいと思う。

続き)『はふり』は、ずっと佐々木昭一郎の『さすらい』をイメージしながら読んでいたし、『コルバトントリ』は同じく『夢の島少女』のイメージだったから、『鳥の会議』も井筒監督というよりは、佐々木昭一郎の弟子の、是枝監督の感じのほうが案外リアルで幻想的な映像になるのではないかって、勝手に想像している。(2015/11/30)

ピース又吉の『火花』が載っている『文学界 2015 2月号』は買ってきたまま未読だったのだ。で、『火花』は読まずに『はふり』山下澄人を読み始めた。154ページ。カタカナで外国の歌詞が載っている。最初、意味不明のデタラメ語かと思ったら、サッチモが唄う「この素晴らしき世界」だった。(2015/11/17)

山下澄人『はふり』(文学界 2015年 2月号)読了。これは上方落語の『東の旅』だな。喜六と清八の珍道中。四国四十八ヵ所巡りのお遍路さんは「同行二人」だけれど、『はふり』の「北の旅」は、結局「同行三人」だったのか? 分からない。『ロートレック荘事件』かも? と予測してたが違った。(2015/11/18)

2015年12月30日 (水)

『ポップスで精神医学:大衆音楽を”診る”ための18の断章』(日本評論社)山登敬之、斉藤環、松本俊彦、井上祐紀、井原裕、春日武彦

「この本」は面白かったな。さすが手練れの文章家揃いで、一気に読まされてしまったよ。

もちろん、勉強にもなる。それに、信じられないような「花形人気精神科医夢の共演企画」であり、それがピタリと決まって、予想以上に執筆者たちがお互いに対抗意識丸出しで、みな結構本気の真剣勝負に挑んでいるのだ。手を抜いて軽くいなしたような文章が一つもないことに驚く。

山登敬之氏の「はしがき」によると、この本は『こころの科学』164〜181号に連載された、6人の精神科医による「この病、この一曲 --- 大衆音楽を“診る”ための18の断章 」を編み直し、一冊にまとめたもので、

企画の趣旨は、精神科医は自分のこだわりのある病気をひとつ選び、同時にそれを語る際のテーマとなる一曲を選んで思いの丈をぶつけてみようというもの。

内容的には、斎藤環の言葉を借りていうと、「精神疾患の隠喩として大衆音楽をサンプルに」とる手法を用い、ふだん馴染みの薄い精神科の病気を一般向けに解説しようと考えた

のだそうだ。いやぁ、これは「企画」の勝利だね。

【山登敬之】

・『天才バカボンアニメ主題歌 →「発達障害」

・『少女』五輪真弓 →「摂食障害」

・『DESIRE --情熱 --』中持明菜 →「性同一性障害」

【斎藤環】

・『トランジスタラジオ』RCサクセション(忌野清志郎)→「中心気質者」

・『失恋記念日』石野真子 →「解離(離人症)」

・『友達なんていらない死ね』神聖かまってちゃん →「いじめ」

【松本俊彦】

・『ステップUP↑』岡村靖幸 →「薬物依存」

・『ま、いいや』クレイジー・ケン・バンド →「うつ病・自殺予防」

・『サヨナラ COLOR』スーパー・バター・ドック →「アルコール依存症」

【井上祐紀】

・『タンゴむりすんな!』TVドラマ「あばれはっちゃく」主題歌→「ADHD」

・『Get Wild』TM NETWORK(小室哲哉)→「乳児のこころの安全基地」

・『Something Jobim 〜光る道〜』祐生カオル →「PTSD/ネガティブ体験」

【井原裕】

・『遠野物語』あんべ光俊 →「対象喪失後も人生は続く」

・『ANAK(息子)』杉田二郎 →「マザコン:親不孝息子から母へ」

・『風』はしだのりひことシューベルツ →「北山修を定義する」

【春日武彦】

・『昆虫ロック』ゆらゆら帝国 →「統合失調症」

・『ケッペキにいさん』吉田美奈子 →「強迫症状」

・『逃ガサナイ』あざらし →「ストーカー」

■さすが「あまのじゃく」な春日武彦氏だ。氏が選んだ「3曲」は、すべて聴いたことがなかった。取り上げられた18曲のうち、聴いたことがあるのは10曲。多いのか少ないのか、よく分からないけれど。

でも、便利な時代になったもので、聴いたことのない曲も、本を読みながら「YouTube」で検索して聴くことができた。斎藤環氏オススメの「神聖かまってちゃん」。名前は知っていたが、ちゃんと聴いたのは初めて。衝撃的だった。ただし、春日武彦氏が選んだ『逃ガサナイ』あざらし だけは、どうしても見つからなかった(^^;; 「ケッペキにいさん」も、吉田美奈子のオリジナルじゃなくて、サーカスのヴァージョン。それにしても「いい曲」じゃないか! 大瀧詠一&細野晴臣の楽曲を彷彿とさせる名曲だ。


YouTube: CIRCUS Keppeki Niisan


ちょっと興味深いことは、これらの文章が「どういう順番で」連載されたのか? ということだ。

この本では、前掲の【もくじ】のように同じ著者ごとに載っているが、連載時は6人が順番で執筆していったはずだ。『こころの科学』は定期購読していないので、連載時の同誌で僕が持っているのは2冊のみ。166号「赤ちゃんの精神保健」と、170号「いじめ再考」だ。見てみると、前者(連載第3回)には松本先生の「岡村靖幸」が、後者(連載第7回)には山登先生の「少女:五輪真弓」が載っていた。

ということは、やはり本に収録された順番で執筆されたのか?

ただ、読みながら思ったことは、6人の執筆者がお互いの文章に影響されて、更なる「一篇」を編み出していることが手に取るように感じられたのだ。こういうのって、今までありそうでなかったよなぁ。

■巻頭が『天才バカボン』とは、山登先生の初球変化球攻めにほくそ笑む。五輪真弓『少女』は想定内だったけれど、新宿二丁目の「おかま」たちが、中森明菜『デザイアー』(ぼくの大好きな曲だ!)と結びつくとは思いも寄らなかった。恐れ入りました。

驚いたのは、斎藤環先生の「忌野清志郎愛」だ。いつも冷静な氏からは想像も出来ないような直球ど真ん中の熱い文章だった。そしたら、続く松本俊彦先生の「岡村靖彦愛」も、ぜんぜん負けていない熱烈な文章でほんと感動した。ところが、同じく著者自身の個人的音楽体験に根ざした昔から愛聴してきたお気に入りミュージシャンを取り上げているのに、何故かよそよそしい井上祐紀先生の「小室哲哉論」が実に対称的で興味深かった。

井原裕先生の「北山修愛」も相当なものだぞ。ぼくも最近ウイニコットを勉強していて、北山修先生にはお世話になっているのでした。

『ANAK(息子)』は、杉田二郎ヴァージョンでなく、オリジナル「タガログ語」のシングル盤を持っている。先日テレビで中居正広クンが落ち込んだとき「この曲」を聴いて元気を出すと言っていて驚いた。『ポップスで精神医学』(日本評論社)p212を読んでいる。この本は、ほんと面白いなあ。 2015年12月19日
■この本を読みながら疑問に思ったことがある。それぞれの文章には、取り上げられた楽曲の「歌詞」がほぼ全て転載されているというのに、著作権にうるさい「JASRAC(日本音楽著作権協会)」の「あのマーク」が、参考文献の欄にも、本の巻末にも載っていないということだ。歌詞の権利関係は、いったいどうなっているのか? たいへん興味深い。

2015年11月 7日 (土)

宮沢章夫 × ケラリーノ・サンドロヴィッチ(その2)

■「小劇場ブーム」に関して検索してみたら、一番上に載っている「小劇場演劇の流れと最新動向」が、コンパクトによくまとまっていた。リンク先の劇作家インタビューも大変充実している。

それから、1988年〜1992年にかけての演劇界をリアルタイムで批評してきた『考える水、その他の石』宮沢章夫(白水社)が、とにかく読ませる。

1985年に、シティボーイズ(大竹まこと・斉木しげる・きたろう)、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこう等と共に「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成した宮沢章夫は、「モンティ・パイソン」や「スネークマンショー」のビジョンを舞台でカッコよくスタイリッシュに表現することを目指した。そのために、コントとコントの合間に映されるスライド映像や音楽にも、かなりこだわった。その舞台を客席から見ていて「ガツン」とやられたのが、ケラリーノ・サンドロヴィッチと松尾スズキだった。たまらず、この二人も舞台を始めることに。以下、『考える水、その他の石』(白水社)より抜粋。

というのも、かつて「舞台」の上でなんらかの行為をすることによる表現を選択し、それを実行するにあたって私が第一に考えたのが、「演劇」でないものをやろうということだったし、それはとりも直さず「演劇」の存在そのものが制度的だと感じていたからであって、舞台で何かする目的、そこに実現しようと私が欲したもの、ラジカル・ガジベリンバ・システムという集団を通じてやろうとしたものは、「芝居」ではなく、無論「演劇」ではないし、では何かと言えばひどく愚鈍な「制度をぐらつかす事」以外になく、そこで最も制度的なもの、もはや「新劇」なんかどうでもよく、小劇場が「新劇」へのカウンターとして登場したことなんかも知ったこっちゃなくて、私の感じ方としてはただ漠然とした印象でしかありえぬ曖昧な「演劇」の中心に位置するものこそが「アングラっぽい」であったし、制度を代表する姿だったとすれば、それを今になって、面白いと魅力を感じているとは何ごとかという疑義が、「アングラっぽい」をあらためて思考しようとする契機になったのだった。(死んだ記号の廃墟から --- 「アングラっぽい」とは何か 『考える水、その他の石』p135)

 二十代のころ、演劇をどう壊そうか、そればかりを考えていたが、「壊そう」と考えているあいだ、それはすなわち「演劇」から逃れられないと自覚したのは、おそらく、この『考える水、その他の石』に掲載された文章をいくつもの雑誌に求められ発表してから間もないころではなかっただろうか。

 だったら、「演劇」をやろうと考えた。そのことでようやく、「演劇」から私は自由になれたと思ったのだ。だから、また「演劇」についてはもっと考えを深めようと思う。

(「おわりに」264ページ 改定新版『考える水、その他の石』)

■まだ誰も「大人計画」とその主宰者である松尾スズキの名を知らなかった、1988年。宮沢章夫は、当時マガジンハウスの雑誌『TARZAN』で連載していた劇評に2つの新米劇団の劇評を載せた。「劇団健康『カラフル・メリィでオハヨ』/大人計画『手塚治虫の生涯』」(考える水、その他の石』p108〜p109)だ。奥ゆかしい宮沢氏は、この二人のことを後輩とか弟子とか言わずに、こう書き始める。

 知人が出演、あるいは演出する舞台を同じ時期に二つ観た。ひとつがあのケラが主宰する劇団健康で、知名度も高く、一定の評価も与えられているが、もうひとつは、私の舞台にも出演してくれた松尾スズキの、そんな名前を聞いても、誰だそいつはと言われるだろうけど、まるで無名の大人計画である。

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■ケラさんは、有頂天というニューウェイヴ・バンドのリーダーで、その単なる余興から舞台を始めたように思われていたし、松尾さんにいたっては、北九州の大学で、野沢那智の劇団薔薇座に憧れて芝居を始めただけの、単なる素人の地方出身者に過ぎなかった。2人とも、東京の小劇場演劇ブームの王道からは全く関係の無い辺境の地に「ぽっ」と咲いた「あだ花」だったワケだ。

「その芽」を直ちに見つけ、当初から高く評価してきたのが宮沢章夫だった。考える水、その他の石』に載っている索引を見ると、「大人計画」は 14ページ、劇団「健康」は 3ページ、ケラが 4ページ、松尾スズキは、11ページにわたって取り上げられている。これらは「この本」でも破格の扱いだ。

 あれはたしか90年のころだったと思うが、いまはなき渋谷のシードホールを使い、まだ演劇の世界では認知されていなかった何人かと、「エンゲキ」とカタカナの言葉を使った演劇の催しに参加した。それを見ていたある批評家にある雑誌で事実誤認を含む、意味不明な批評をされた。

それに対して私は、批評家の書いた文章とまったく同じ文章を、少しずつ言葉を変えてそのまま批評家に対する反論とした。自分で書くのもなんだが、私にはそれが、ベストな文章だったと考えている。相手の言葉を使って、相手を罵倒する。こんなに小気味のいいことはない。

批評家は、催しに参加しトークした私や、松尾スズキ、ケラリーノ・サンドロヴィッチに対して、「演劇界で相手にされない者らがルサンチマンのようなものをかかえこんな場所で語りあっているのは醜悪だ」とでもいう意味の、よくわからないおかどちがいな批評をした。

演劇界に相手にされようがどうしようが、どうだってよかった私たちは、その文章の意味がほとんど理解できなかったが、なんの縁か、批評家の思惑とは裏腹に、その後、三人とも岸田國士戯曲賞を受賞してしまい、演劇界から相手にされたとき、批評家に対して私は、「ざまあみろ」と言ってやりたかった。(おわりに『考える水、その他の石』p261)

■この話は、ラジオでも宮沢さんがしていたな。よっぽど悔しかったのだろう。

ラジオでは、ケラさんが次回の舞台『消失』の紹介をしていた。ケラさん主宰の劇団「ナイロン100℃」が、2004年12月に紀伊國屋ホールで初演した芝居を、当時のオリジナル出演者のままで再演するからだ。これは観たいな。

それから、ラジオを聴いていて個人的に一番盛り上がったのは、ケラさんが(気を遣って)この12月15日から東急文化村シアターコクーンで初演される「ひょっこりひょうたん島」の脚本を宮沢章夫氏が書いている話を、「なんか大変みたいですね」と振ったところ、宮沢さんがいきなり絶句してしまったことだ。3秒間くらいの沈黙が確かにあった。

重症の肩凝りに苛まれながらも、苦労して何とか書き上げた脚本を、演出家の串田和美はなんと!いとも簡単に却下してしまったからだ。

それにしても、かなり集中して台本を書いたあと、10日間ぐらい肩から背中がガチガチになった。なんせ痛くてマウスが動かさなかったんだよ。その台本は没になったというか、役者には見せないと演出家。演出家って偉いんだなあ。ともあれ、あの痛みを返してくれ。

 

ほんと、大丈夫か? 舞台の幕が上がるまで、もうあと一月しかないぞ。ぼくも、1月の松本市民芸術館での公演チケットを既に入手しているのだぞ。

どうする 宮沢さん。エチュードだけでつなげてゆくのか?

■ところで、ミシェル・ウエルベック『服従』(河出書房新社)のことだが、11月8日(日)付、朝日新聞朝刊「読書欄」で、なんと、宮沢章夫氏が書評を載せている。1週間後にはネット上でも読めるようになるだろうが、これは読まなきゃだな。

 

2015年10月22日 (木)

こんどは、『緑のさる』山下澄人(平凡社)を読む

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『コルバトントリ』に続いて、『緑のさる』山下澄人(平凡社)読了。結局ワケわからないんだけれど、すごく面白かった! なんだかこの人、癖になるぞ。もっと読みたい。あと、装幀が渋くて好き。 (23:19 - 2015年10月20日)

■『緑のさる』は、山下澄人さんのデビュー作だ。この本でいきなり「野間文芸新人賞」を受賞した。取った山下さんはもちろん凄いが、賞をあげた人もえらい。だって、こんな小説読んだことないもん。

ところで、作家の保坂和志氏と山下さんの関係って、なんなのか? やっぱり、師匠と弟子の関係なのかな? そのヒントは、この本が出た当時に京都で行われた、保坂和志 × 山下澄人 対談にあった。


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ここで、保坂さんが言っている「高瀬がぶん」さんのブログ「極楽ランドスケープ」の、・「山下くんのこと」それから、「やっぱり気になるので今日はこれ」「生きていたり死んでいたり」を読むと、2008年夏のとある日、「突然ですが、劇団 FICTION の芝居を、保坂和志さんにぜひ見に来ていただきたいのです」という一通のメールが、保坂氏のサイト管理人である高瀬がぶん氏のもとに届いたのがそもそもの始まりだったようだ。

がぶん氏のブログに書いてある、劇団 FICTION 公演『しんせかい』を観に行ったときのことを、保坂和志氏は『遠い触覚』(河出書房新社)の、p48〜p55 で詳細に語っている。ただ、山下澄人さんに小説を書くよう進言したのは残念ながら保坂和志氏ではない。同じ舞台を見に来ていた平凡社の編集者から「小説、書いてみませんか?」と言われて、この『緑のさる』を書いたのだという。

■ 山下澄人インタビュー「見るに値しない人なんかいない」 ■

■『プレーンソング』保坂和志(中公文庫)は、保坂さんのデビュー作だ。

保坂和志の「いちファン」であった山下澄人は、ひょんなことから『緑のさる』を執筆することに。でもやはり、保坂氏の本を読まなかったら、決して自分は小説なんて書かなかっただろうという思いと、大好きな保坂和志への感謝とリスペクトを込めて、自らのデビュー作『緑のさる』の50ページから51ページにかけて、場面のリアリティを示すためにこんなことを書いている。

 文庫本を一冊引き抜いた。表紙と頭の何ページかがどこかに引っかかっていたのか、ビリッと破けた。開いてみた。

という文章に続いて、『プレーンソング』保坂和志(中公文庫)の 32ページの初めから終わりまで、そのまま転載されているのだった。

■『緑のさる』を読んでいて、山下さんはきっと「色の付いた夢」を見る人なんだろうなぁと思った。「青いテント」「赤シャツ」「黄色いヤッケ」。ただ、総天然色カラーの夢なんじゃなくて、そう、矢沢永吉がやっているサントリー・プレミアムビールのCMみたいに、黒白ベースの画面に「その一点のみカラー」になっているイメージ。そんな気がする。

それから、『コルバトントリ』を読んだ感想として以前に書いた、

生きている人が死んでいて、死んでいる人は何故か生きているような勘違いをしている。そういう小説だった

は、『緑のさる』でも「そのまま」有効だった。


2015年10月10日 (土)

『コルバトントリ』山下澄人(文藝春秋)を読む(その3)

■前回の「佐々木敦 × 山下澄人『鳥の会議』をめぐる対談」は、本当に面白かった。こうして、YouTube で見る山下澄人氏は、不思議と何処か懐かしい。

誰かに似ている。

そう、同じ兵庫県出身の人。

映画監督! 大森一樹? いや、

作家でさ、そう! 中島らも だ。

声がね、いいんだよ。声が。山下さんは役者さんだから、腹式呼吸なんだ。腹の底から声を出している。でも、ちょっとだけ遠慮がちに、小さな声で。そこがね、「中島らも」なんだと思う。

■最近また、ラジオをよく聴くようになった。しかも、TBSラジオ。ぼくが中坊だった頃、毎晩聴いていたラジオ局だ。特に、この10月から始まった「Sound Avenue 905」に注目して聴いている。佐野元春さんも、鈴木慶一さんも小西康陽さんも、みな「声がいい」。林美雄アナもいい声だった。やっぱり、ラジオでは声は大事。

それから、同じTBSラジオで金曜深夜24時から始まる「菊地成孔 粋な夜電波」もよく聴く。ちょうどいま、最近文庫で出たばかりの『時事ネタ嫌い』菊地成孔(文庫ぎんが堂)を読んでいるのだが、文章が、ラジオから流れてくる菊地さんの「話ことば」そのままなので、目で活字を追いながらも、菊地成孔さんの声を聴いているような不思議な感じがするのだ。

『コルバトントリ』でもおんなじで、山下澄人さんが音読しているイメージで再読してみると、これがすごくいいんだ。短いセンテンスが積み重なって、独特のグルーヴ感を生み出している。視点も場所も時間さえも、次々と目まぐるしく入れ替わって、でも読者を厭きさせずに引っ張ってゆくパワーがあるのだ。

『コルバトントリ』を読みはじめて、何故かすっごく懐かしい感じがした。1970年代の感じ。そうだ、つげ義春の『ねじ式』を初めて読んでビックリした時の印象に近い。それから関連して思い出したのが、佐々木昭一郎の『夢の島少女』だった。

『夢の島少女』は、斬新な映像、カット割り、手持ちカメラによるドキュメンタリー感、めくるめく幻想的なイメージの連続で、40年以上も前の作品なのに、いま見てもまったく古びていない。ていうか、今じゃもう絶対に作れない。

リンクした「映★画太郎」さんと同じく、ぼくも最初から少女は死んでいて、あとに続くのは、すべて少年ケンの脳内イメージなんだと思った。少年にとって、少女は「あらかじめ失われた恋人」だったんだ。『コルバトントリ』も同じだ。フラッシュバックのように、不連続に次々とイメージが去来するさまは、年老いて死期が近い主人公の「脳内イメージ」なんじゃないか?

だから、すでに死んでしまった人たちがみな生きて登場するのだ。さらに『コルバトントリ』は視覚的イメージに富んでいて、映画的カット割りを連想させる。ラストシーン。水族館でのシャチが飛び上がるところは、たむらしげるの絵本『クジラの跳躍』だ。

■保坂和志『未明の闘争』(講談社)は、半分まで読んだところで止まったままなのだが、保坂氏は「この小説」で挑戦しようとしたことが「2つ」あるんじゃないかと思った。

ひとつは、犬や猫の意識で小説を書いたらどうなるか? ということ。犬は「いま」だけを生きているといわれる。ただ、いまの瞬間だけではない。犬だってちゃんと記憶力はあるから、昔のことも憶えている。でもそれは、過去の出来事という意識ではなくて、犬にとっては「ずっといま」なんじゃないかって、ぼくは思うのだ。『未明の闘争』も「ずっといま」が続いている話だ。

もうひとつは、保坂氏が大好きなデレク・ベイリーのギター演奏のように小説を書くことは可能か? ということ。

フリー・インプロヴィゼイションの巨匠、デレク・ベイリーの演奏では、普通の音楽でよく出てくる音階、音列は意識的に一切排除されている。フリーといっても、もちろんデタラメではない。むしろ意味のある音楽にならないよう、瞬間瞬間を即興で音を選ぶ作業は、もの凄い高等テクニックが必要なのに違いない。

保坂和志氏の対談の様子とか聴いている(もしくは『音楽談義』を読んでいる)と、ものすごく頭の回転が速い人で、細かな記憶も確かで、インテリジェントの非常に高い人であることが直ちに分かる。しかも、ずっと小説のことを考えてきた人だ。

そんな保坂氏が、決して読者を飽きさせることなく、緊張感を維持して即興的に文章を綴っていく作業は、デレク・ベイリー以上に大変であったに違いない。だって、最終的には文学作品として完成させなければならないのだから。

そんな保坂氏の試みを、山下澄人さんは、たぶん何も考えずにいとも簡単に成し遂げてしまったんじゃないかな。ぼくはそう思った。

さて、とりあえず、『鳥の会議』山下澄人(河出書房新社)は読まねばなるまい。

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