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2021年8月10日 (火)

『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』松本俊彦(みすず書房)

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■松本俊彦先生の『誰かために医師はいる』(みすず書房)を、休日一日かけて一気に読了。

これは噂に違わず凄い本だった。見よ!この付箋の数。

■その道の専門家は、案外自ら「その分野」に困難を抱えていて、何故だ?と追求し続けるうちに最先端に躍り出ることがある。例えば、海馬と記憶の専門家、東大薬学部教授の池谷裕二先生は、著書『海馬』で「九九」が出来なかった過去を告白している。『「色のふしぎ」と不思議な社会』川端裕人(筑摩書房)や『どもる体』伊藤亜紗(医学書院)も同様に、著者自身が当事者でもある。

松本俊彦先生は、著書『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)の中で、16歳から始めた喫煙を未だに止められないでいることを告白する。コーヒー嗜好がいつしか「エスタロンモカ」錠剤によるカフェイン依存症に陥った過去も正直に書かれている。

なんだ、松本先生自身が薬物依存者だったのだ。そういえば、ドラッグや高濃度(蒸留)アルコールの害を声高に警告する松本先生が、タバコ(ニコチン)の害に関して発言しているのを読んだことがなかったな。

■この本で特に印象的だった部分。32ページ。松本先生が薬物依存の自助グループのミーティングに初めて参加した場面だ。僕は不思議な既視感を味わった。あれ?この雰囲気以前から知ってるぞ。あ、あれだ!アル中探偵マット・スカダーが、ニューヨークの片隅で深夜に開かれるAAの集会に参加する場面だ。

彼が主人公の小説群のいろいろな場面に AA(アルコホリクス・アノミマス)の集会が登場するが、中でも最も印象深い場面が『八百万の死にざま』ローレンス・ブロック著、田口俊樹訳(ハヤカワ文庫)のラストだろう。

■精神科医は読ませる文章を書く先生が多い。作家になった人もいる。

北杜夫、加賀乙彦、なだいなだ、帚木蓬生、北山修。もう少し若手では、山登敬之、斎藤環(敬称略)。

松本先生もグイグイ読ませる文章の書き手だ。以下は、印象に残った(付箋を貼った)文章をランダムに書き留めておきます。

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・「彼と何の話をしていたの?」(中略)気が遠くなるような沈黙の後、彼女はようやく口を開いた。

「さっき彼に尋ねてみたの。何でまたシンナーをやったのかって。するとね、こういうのよ、「人は裏切るけど、シンナーは俺を裏切らないからさ」って。すごく悲しくなった」(中略)「それで私、「どうしたらあなたはシンナーをやめられるの? 私に何かできることがある?」(中略)「私、彼にやらせてあげたほうがいいのかな?」(中略)彼女は真剣な表情だった。(p17)

・依存症専門病院で患者を診るようになって驚いたのは、覚せい剤を使ったからといって、誰もが幻覚・妄想を体験するわけではない、という事実だった。(中略)むしろ典型的な覚せい剤依存症患者は、覚せい剤を数日間連続で使ったときだけ、一時的に「警察に尾行されている」「盗聴されている」といった妄想を体験するものの、覚せい剤をやめて一日二日経てば、それもすみやかに消えてしまう。

なかには、これまでそうした症状をまったく経験しないまま、それこそ二十年以上覚せい剤と「よいつきあい」を続けてきた者もいる。だからこそ、彼らは覚せい剤のデメリットに懲りることなく、年余にわたってくりかえし覚せい剤を使用することができたともいえる。(中略)

しかし(中略)困ったことに大半の覚せい剤依存症患者は、血液検査のデータが正常だったからだ。すでに当時(中略)経静脈的な覚せい剤摂取経路に代わって、経気道的摂取経路「アブリ」が主流になりつつあり、注射器のまわし打ちによるC型肝炎ウイルス感染は確実に減少傾向にあった。むしろ内臓がボロボロになり、病気のデパートと化しているのは決まってアルコール依存患者であり、それに比べると、覚せい剤依存症患者ははるかに健康だった。(p26-27)

■私の考えですが、自助グループには二つの効果があります。一つは、過去の自分と出会うことができるという効果です。依存症という病気は、別名「忘れる病気」ともいわれています。(中略)薬物をやめるのは簡単です。難しいのは、やめつづけることです。

 なぜ難しいのかというと、薬物による苦い失敗という最近の記憶はすぐに喉元過ぎてしまうからです。いつまでも鮮明に覚えているのは、薬物を使いはじめた時期の、はるか昔の楽しい記憶ばかりです。(中略)

もう一つは、未来の自分と出会うことができるという効果です。(中略)自助グループに行けば、何とか苦しい日々を乗り越えて一年間やめつづけた人、あるいは、三年やめつづけて気持ちにゆとりが出てきた人、さらには10年20年やめつづけ、薬物がない生活があたりまえになっている人とも出会うことができます。

そこには、近い未来の自分の姿や、遠い未来の自分の姿があります。

「この先の人生ずっとやめつづける」なんて考えると、先の長さに気が滅入ってやる気を失いそうになります。だから、私たちは薬物を使いたくなったときにはこう考えるようにしています。「今日一日だけ使わないでいよう。使うのは明日にしよう」って。で、明日になったらまた同じように自分に言い聞かせる。その積み重ねです。(p37)

「神様、私にお与えください/変えられないものを受け入れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/そして、その二つを見分ける賢さを」

 とても簡単な言葉だが、それがなぜか私の無防備な胸にもろに突き刺さったのだ。私は、自分が変えられないものを変えようとして一人で勝手に落ち込んでいたことを一瞬にして悟った。(p38)

■それは薬物使用に関連するフラッシュバックなどではなかった。どう考えても心的外傷後ストレス障害の症状、すなわち、トラウマ記憶のフラッシュバックだった。(p52)

・薬物依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛」である(中略)その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物が手放せないのだ(=負の強化)

ある女性患者は、自身が自傷行為をする理由についてこう語った。「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわかんなくて怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、「痛いのはここなんだ」って自分に言い聞かせることができるんです」(p55-56)

■少年矯正の世界から学んだことが二つある。一つは、「困った人は困っている人かもしれない」ということ、そしてもう一つは、「暴力は自然発生するものではなく、他者から学ぶものである」ということだ。(p74)

■断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力犯罪、児童虐待やドメスティックバイオレンス、交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚せい剤の比較にならない。(p122)

最近つくづく思うことがある。それは、この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけである、ということだ。(p131)

わかってない。後に薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽に溺れてしまった者などめったにいないのだ。(中略)つまり、薬物の初体験は「拍子抜け」で終わるのだ。若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。(p137)

少なくとも子どもたちに薬物を勧めるくらい元気のある乱用者は、たいてい、かっこよく、健康的に見え、「自分もあんなふうになりたい」と憧れの対象であることが多い。外見は、ゾンビよりもEXILE TRIBE のメンバーに近いだろう。(p149)

かつて私は、わが国の精神科医療をこう評したことがある。曰く、「ドリフ外来」。つまり、「夜眠れているか? 飯食べてるか? 歯磨いたか? じゃ、また来週……」(p176)

ベンゾ依存症の治療は細々と手がかかる。ちなみに、ベンゾ依存症治療を数多く手がける知人の依存症専門医は、こうした減薬治療のことを「ベンゾ掃除」と呼んでいた。(p181)

その意味で、彼女たちは「人に依存できない」人、「物にしか依存できない」人であった。(p182)

そのときようやく気づいたのは、ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は、援助希求性の乏しさ、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。彼女もまた「人に依存できない」人だったのだ。(p190)

人間は薬を使う動物だ。(p192)

作家ジョハン・ハリは、TEDトークのなかで、「アディクション(依存症)の反対語は、「しらふ」ではなく、コネクション(つながり)」と主張している。鋭い指摘だ。孤立している者ほど依存症になりやすく、依存症になるとますます孤立する。だから、まずはつながることが大切なのだ。(p211)

ラスタ用語に、「アヤナイ I & I」という表現がある。ラスタマンたちは、「あなたと私 You & I」という代わりに、この「アヤナイ =私と 私」を使うという。人はともすれば、「あなたと私」という対峙的な二者関係において、相互理解の美名のもと、相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試み、それに応じなければ、相手とのあいだに垣根を築くものだ。しかし、「アヤナイ」は違う。「相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う」という態度なのだ。(p212)

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