村井邦彦の友人であり、ビジネス・パートナーであった川添象郎
YouTube: YMO 40 TALK ABOUT YMO 村井邦彦×川添象郎
■この動画を見て、ぼくは「誰?これ。脳天から発せられたような、かん高い声して、脳梗塞後の古今亭志ん生みたいな喋りをしている爺さんは?」そう思った。彼が『音楽家 村井邦彦の時代』に何度も登場した「川添象郎」だったのか。いや、驚いた。初めて見た。 (じきに続きを書きます。)
YouTube: YMO 40 TALK ABOUT YMO 村井邦彦×川添象郎
■この動画を見て、ぼくは「誰?これ。脳天から発せられたような、かん高い声して、脳梗塞後の古今亭志ん生みたいな喋りをしている爺さんは?」そう思った。彼が『音楽家 村井邦彦の時代』に何度も登場した「川添象郎」だったのか。いや、驚いた。初めて見た。 (じきに続きを書きます。)
月刊誌『文藝春秋』(2016年12月号)に掲載された、脚本家・橋田壽賀子さん(92歳)のエッセイ「私は安楽死で逝きたい」は、読者の大きな反響を呼びました。
28年前にご主人を亡くし、子供もなく、親しい友人もいない天涯孤独の身で、いまも元気で熱海の田舎に独り住まいの橋田さん。仕事はすでにやり尽くし、世界一周旅行は3回、北極点にも南極へも行った。やり残したことはもう何もない。とうに断捨離は済ませ、エンディング・ノート(死んだことも公表せず、葬式や偲ぶ会もしない)も完璧です。
ただ、病気になったり、認知症になったりして、人さまに迷惑をかけながら死んでゆくことだけは耐えられないと彼女は言います。そうなる前に、合法的に安楽死が認められているスイスへ渡航して、逝かせてもらいたいと。「生まれる自由はないのだから、せめて死ぬ自由は欲しい」そう彼女は結んでいます。
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もちろん、日本では「安楽死」は認められていません。積極的延命治療は行わないが、苦痛を和らげるために十分な緩和ケアは施す「尊厳死」も日本では法制化されておらずグレーゾーンのままです。しかし安易な制度化は、家族による「姥捨て」や自殺の推奨、さらには相模原障害者施設殺傷事件の犯人の主張「役に立たない人間は死ぬべきだ」という優生思想とも結びつく恐れもあります。
経済的にも健康面でも恵まれた橋田さんはレアケースです。認知症や持病を抱え、経済的にも貧窮した高齢者が多くを占めるようになる超高齢者社会を目前にして、これからの終末期医療はどうあるべきなのか?
力のこもった投稿が多数寄せられた今月の特集「終末期医療について思うこと」は、たいへん読み応えのあるものとなりました。ご執筆頂いた皆様ありがとうございました。
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さて私事、この7月から新しく広報委員を拝命いたしました。長年広報委員を務められた春日謙一先生、そして先輩広報委員の先生方から優しくご指導いただきながらも、任務の重責に緊張しています。どうぞよろしくお願いいたします。11月号の特集は「私の好きなことば」12月号は「在宅医療と介護の先に見えるもの」です。ふるってのご寄稿をお待ちしております。
広報委員 北原文徳
すっかり更新が遅れてしまいました。
なんと、大晦日の夜です。石川さゆりが「天城越え」を歌っています。
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■「キャンティ」のことを、村井邦彦氏が書いた文章がある。『村井邦彦の LA日記』(Rittor Music)193~232ページに載っている。
2015年9月27日28日に渋谷 Bunkamura オーチャードホールで開催された『ALFA MUSIC LIVE』のプログラムのために、アルファの始まりから終わりまでを彼自身が書いた「この美しい星、アルファ」という文章だ。
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川添浩史・梶子夫妻もアルファの先祖だ。そもそもバークレイ・レコードへの道筋をつけてくれたのも川添さんだった。イタリアンレストラン、キャンティの創業者として知られているが、レストランは副業で、本業は国際文化交流だった。
川添さんは、1930年代のパリに遊学し、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ・ブレッソンといった写真家を始め、多くの芸術家たちとの交友を深めた。戦争後、日本が独立を取り戻すと、早くも1954年には、舞踏家・吾妻徳穂の「アヅマ・カブキ・ダンス」の団長として一行を率い、ニューヨークを始め7都市のアメリカ・ツアーを成功させた。翌年は10ヵ月かけてイタリア、イギリス、ドイツ、アメリカなどをツアーしている。
イタリアでエミリオ・グレコに師事して彫刻を学んでいた梶子さんと会い、十二単衣(ひとえ)を着て舞踏の内容を手短にイタリア語でナレーションする役を頼んだら、観客に大好評だったので、引き続きパリ、ロンドンでも頼み、結局全行程を共にした。日本に戻って結婚している。
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以前、川添さんは戦前のパリで出会ったピアニストの原智恵子さんと結婚していた。川添象郎・光郎の兄弟は原さんと結婚していた時の子だ。僕は川添兄弟と知り合って高校生の時からキャンティに出入りしていた。梶子さんは(中略)何かと相談相手になってくれた。
川添さんはその後、文楽のアメリカ公演、『ウエスト・サイド・ストーリー』のオリジナル、ブロードウェイ・キャストによる日生劇場の1ヵ月公演など、数えきれないほどのイベントをプロデュースしている。ファッション界では、クリスチャン・ディオールやディオールの後継者でのちに独立したイヴ・サン=ローランを日本に紹介し、梶子さんはサン=ローランの日本代表を務めた。
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僕や川添象郎にはそうした川添夫妻のDNAが流れているから、現代日本のコンピューター音楽、YMOを世界ツアーに出すという発想はごく自然なものだった。細野やユーミンもよくキャンティに来ていた。
梁瀬さん、古垣さん、川添さんご夫妻はそれぞれに個性があったが、共通項を挙げれば、世界中に真の友人を持っていたこと、どの国のどんな人にも等しく接し、正々堂々としていながら、偉ぶるようなことは一切なかったことだ。それで僕のような若輩の者でも、一人の友人として扱ってもらえたのだと思う。持つべきものは良き先輩たちだ。(『村井邦彦 LA日記』p226〜228)
■昨日は、まるまる1年ぶりの「パパズ」。あ、それは僕個人的な話。僕が参加しなかった「パパズ」は、1月に山梨県石和でもあった。今年はオファーも実際少なかったのだけれど、メンバー皆が忙しく、折角オファーがあっても、ほとんど断ってきたのも事実。5人のうち3人がダメなら請けられないのだ。
今日は久々に3人だけ(伊藤パパは手良小の収穫祭で欠席、宮脇さんも市役所のお仕事で欠席)そろってのライヴと相成った。
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< 本日のメニュー >
1)『はじめまして』
2)『たたんぱたたんぱ』のむらさやか・文、川本幸・製作、塩田正幸・写真(こどものとも 0.1.2. 2018年9月号) →北原
3)『もりのおふとん』(こどものとも年少版 2018年12月号)西村敏夫→坂本
4)『かごからとびだした』(アリス館)
5)『あれこれたまご』(福音館書店) →倉科
6)『おかおみせて』ほしぶどう(福音館書店) →北原
7)『パンツのはきかた』岸田今日子(福音館書店)
8)『けっこんしき』鈴木のりたけ(ブロンズ新社) →坂本
■なんだか、水野晴郎みたいな坂本さん。妙に似合ってるなあ。
9)『山んばあさんとむじな』山姥が登場する怖い絵本。→倉科
10)『ふうせん』(アリス館)
11)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)
12)『おーいかばくん』(アンコール)
■ほんと久しぶりで、三線もギターもさわるのもメチャクチャ久しぶり。歌を歌うのも久しぶりで、歌詞も間違えてしまったよ。ダメだな。ごめんなさい。
■村井邦彦は、東京大空襲間近の 1945年3月5日、東京に生まれた。フランス系カトリック・小中高一貫高「暁星小学校・中学校・高校」(大学は、慶応大学法学部)の出身だ。小学校からの同級生に、歌舞伎役者の二代目中村吉右衛門がいる。
当時、都内でも有数の有名私立一貫高に通っていたということは、村井の実家は相当裕福な家であったと思われる。
■中学生の時に、ベニー・グッドマンのレコード『カーネギー・ホール・コンサート』を買って貰い、ジャズに目覚める。中学では、ブラスバンド部に入り、迷わずクラリネットを吹き始めた。
1961年(昭和36年)、村井邦彦 15歳。暁星高校1年生。浅草コマキ楽器のジャズスクールで中古を買ってもらってアルトサックスを習う中で、2歳年上の山田三郎(宮内庁御用達漆器店「日本橋・山田平安堂」の御曹司)と知り合い、「みどり色のパジリコスパゲティ」を食べに、飯倉片町にあるイタリアン・レストラン『キャンティ』へ初めて連れて行ってもらう。
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山田は、『キャンティ』オーナー川添浩史の次男光郎(当時18歳)と仲が良かった。長男の川添象郎は、1960年(19歳)に父親の紹介で、ロバート・キャパが作ったカメラマン集団マグナムが来日した際のアシスタントを務めたあと渡米し、ラスベガスでシャーリー・マクレーンのステージを手伝い、ニューヨークに行ってフラメンコ・ギターを習得。その後、フランス・スペインに渡って武者修行ののち1964年になって帰国するので、村井が『キャンティ』に出入りしていた当時は、まだ川添象郎とは出会っていない。
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■川添浩史は、後藤象二郎の孫にあたる。土佐藩参政であった後藤は、坂本龍馬が「船中八策」を示した相手。彼はその八策を持って、山内容堂に伝え、容堂から徳川慶喜に伝えられ「大政奉還」に至る。その後藤象二郎の孫なのだ。
出自は伯爵後藤猛太郎が新橋芸者のおもんとのあいだに生ませた庶子である。三菱銀行の取締役をしていた川添家の養子(川添紫郎)として育てられた。麻布の家には浩史専用の女中さんがいたほどの裕福な家庭だったようだ。(松岡正剛の千夜一冊より)
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川添は早稲田大学在学中、1930年代のパリに遊学する。(つづく)
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■『村上"ポンタ"秀一 / Welcome to My Life』9曲目で歌うのは、元ハイ・ファイ・セット、元「赤い鳥」の山本潤子だ。曲は『月曜はブルーな日』。オリジナルは、シェールが1972年に出した「IT MIGHT AS WELL STAY MONDAY FROM NOW ON」
YouTube: Cher It Might As Well Stay Monday (From Now On)
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この曲は、フォーク・グループ「赤い鳥」が、1973年に出したレコード『美しい星』4曲目に収録されている。この作品から正式に「赤い鳥」メンバーとなったのが、ギターの大村憲司と、ドラムス・村上"ポンタ"秀一だった。知らなかったな。ポンタさんのプロ・ミュージシャンとしてのキャリアの始まりが「赤い鳥」だったのか。
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山本潤子は、ハイ・ファイ・セット(この命名は細野晴臣)を解散後ソロで活動を続けていたが、2014年3月29日、夫の山本俊彦が心筋梗塞で急逝。同年5月以降、無期限休業に入り現在も沈黙したままだ。
2015年9月に開催された村井邦彦の70歳(古希)を祝う『ALFA MUSIC LIVE』にも欠席した。紙ふうせんは出ていたのにね。誰よりも彼女の歌声を愛した村井は、本当に残念がっていた。
オフィシャル・ブログも、2015/01/24 から更新は止まったままだ。
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■「赤い鳥」の代表曲と言えば、『翼をください』だ。音楽の教科書に載り、老若男女をとわず誰もが知っていて、現在も世界中で愛唱されているエバーグリーン。この曲を作曲したのが、村井邦彦だ。
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■前述の「ALFA MUSIC LIVE」は、同年11月7日に WOWOW で放送され、残念ながら前もって知らなかったので途中からの録画(細野さんが小坂忠を紹介するところから)になってしまったが、素晴らしいコンサートだった。恥ずかしながら、ぼくは村井邦彦が「アルファ・ミュージック」の社長であったことを知らなかったのだ。
今年の8月16日に、松本の古書店「アガタ書房」で、たまたま『[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代』松木直也(河出書房新社)を見つけ「おっ!」と手に取り即購入した。
10月半ばになって、山本潤子の『月曜はブルーな日』を聴き、ふと「この本」のことを思い出し読み始めたのだ。読みながら、その都度ツイートしていった。以下、このブログで「まとめ」て行こうと思う。
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■先月の10月11日。県医師会広報委員会があった、長野からの帰りに寄った塩尻のブックオフで購入。『Welcome to My Life』500円だった。これだから「ブックオフ」巡りは止められないんだ。
村上”ポンタ”秀一「芸歴25周年」を記念して20年前に製作されたこのCDは、参加ミュージシャンがとにかく豪華だ。いまなら絶対不可能な企画CDだな。
ビックリなのが1曲目。ドラマーのCDなのに、ベーシスト「ジャコ・パストリアス」の傑作『ワード・オブ・マウス』の完コピ。しかもダイジェスト版。これが完璧でじつにカッコイイのだ!
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『村上"ポンタ"秀一 / Welcome to My Life』
01. Jaco Pastorius Medley(バカボン鈴木・村田 陽一ソリッドプラス)
☆Soul Intro ~ The Chicken ~ Elegant Peaple ~ Liberty City
02. I Want You Back(NOKKO・白井良明・亀渕友香)
03. Travelling(近藤房之助・Char)
04. I've Got You Under My Skin(山下達郎)
05. 青い山脈(矢野顕子・山下洋輔)
06. Oh! Darling(井上陽水・大村憲司・岡沢 章)
07. Jane Birkin Medley(大貫妙子・森まどか・EPO)
☆Yesterday Yes A Day ~ Les Dessous Chis ~ Ballade De Johnny-Jane ~ Di Doo Dah
YouTube: Yesterday Yes A Day 大貫妙子08. 津軽 ~ 南部俵積み唄(二代目高橋竹山・香西かおり)
09. It Might As Well Stay Monday From Now On(山本潤子)
10. Time Is On My Side(沢田研二・大村憲司・和田アキラ)
11. We Can Talk(忌野清志郎・ジョニー吉長・仲井戸麗市)
12. Left Alone(吉田美奈子・渡辺香津美)
13. ヨイトマケの唄(泉谷しげる)
14. Mambo No.5(高中正義・小原礼・国府弘子・MALTA・高橋ゲタ夫・中島啓江)
15. (The White Room ~ Sunshine Of Your Love) ~ Knockin' On Heaven's Door(桑田佳祐)
16. Welcome To My Rhythm(こんなオイラに誰がした) ~ 嵐を呼ぶ男(菅沼孝三・森高千里・東原力也・真矢・村石雅行・森山威男・神保彰・日野元彦・仙波清彦ほか)
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どの曲も力作ぞろいで、特に4曲目の山下達郎が歌う、フランク・シナトラの十八番がお気に入りなのだが、思わぬ拾いものとでも言うか「おおっ!」と思ったのが、大貫妙子さんがカヴァーしたジェーン・バーキンの「Yesterday Yes A Day(哀しみの影)」だ。日本語で歌うその「歌詞」がすごくいい。
ところが、オリジナル曲の訳詞を探してみると、ぜんぜん違うのだ。あれっ?と思って、歌詞カードを見直すと <日本語詞:サエキけんぞう>となっている。サエキけんぞう氏の訳詞は、全然原曲に忠実ではなく全くのオリジナル歌詞だったのだ。
「あなたは 私の中 深く深く 潜って ドアを開いた それは永遠(とわ)へ続く あのブルー」
なんて歌詞は、原曲にはどこにもない。でも、大貫妙子さんが唄うと、それでしかありえない詩になっているのだ。これには驚いた。
■前回の更新から、また1ヶ月も経ってしまった。
YouTube: [ひまわり8号] 寒冷渦と台風12号 2018.7.30 / CEReS, Chiba University
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■北海道の地震とか、関西を直撃した台風21号とかいろいろあって、もうずいぶん前のことになるが、7月末に前代未聞の迷走をした台風があった。日本上空は常に偏西風が吹いているので、自走能力のない台風は南から北上すると、西から東へ抜けて行くのが常識だ。
ところが、この台風12号は東から西へ日本列島を通り過ぎて行った。伊豆半島では高波、高潮で大きな被害が出た。北東から張り出していた高気圧と「寒冷渦」のために、こんな変なルートを辿ったという。
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■前回2回目の更新から、さらに1ヶ月以上も経ってしまった。すみません。
こんなことでは、もう誰も、ブログをフォローしてはくれてないんじゃないか?
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■その「台風12号」が関東甲信越を通過した、7月28日(土)の夕方17時から、野辺山高原「八ヶ岳高原ロッジ」にある「八ヶ岳高原音楽堂」で『大貫妙子アコースティック・コンサート』があり、聴きに行ってきた。
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■前回の「森山良子 アコースティック・コンサート」の時には「宿泊パック」で予約したのだが、今回はコンサートのみの日帰り日程。台風直下、はたして無事帰って来れるのか、かなり不安ではあったがダメなら近隣のペンションに泊まって翌日帰ればいいやと、日程を強行した。
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https://twitter.com/OnukiTaeko/status/1023225440087883776
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■「八ヶ岳高原音楽堂」には駐車場がないため、八ヶ岳高原ロッジの駐車場に車を駐め、午後4時以後ロッジ正面からシャトルバスが音楽堂まで何度も往復しているので、宿泊客に交じってバスに。雨のカラマツ林を抜けて5分程で会場着。
バスを降りると、スタッフが4人傘を差して縦に並び、音楽堂の入り口まで乗客が濡れないように配慮してくれた。キャパ250人の「八ヶ岳高原音楽堂」でのコンサートは、チケット予約時点では座席指定ができない。
コンサート当日の受付ロビーで「くじ」を引き、その場で初めて座席が決まるという特殊なシステムを取っている。今回はやや後ろの席だったが、通路に面した席で足は楽だった。
会場ロビーには、ウェイティング・バーみたいに、無料のサンドウィッチとワイン(赤・白)ジュースが用意されていて、皆自由にグラスを取り、コンサートの開演を待っている。
台風直下だったから、当日ドタキャンで空席が目立つかとばかり思って会場入りしたら、なんと!ほとんど空席なく観客で埋まっていた。たまげたな。観客の客層は、前回「森山良子コンサート」の時とほぼ同じ。やたら平均年齢が高いのだ。夫婦が多かったけれど、みな50〜60歳代。若者は全くいなかった。
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■バックステージは、特大ガラスの窓になっていて、白樺とカラマツ林、その後ろに広がる八ヶ岳高原が借景となっているのだが、この日は台風接近のため、猛烈な風に激しく揺れる木々と、斜めに吹きすさぶ雨粒が嫌でも目に留まる。しかし、以外と場内は静かで、音楽堂の屋根に打ちつける雨音もほとんど気にならなかった。
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バック・ミュージシャンは、ピアノが、フェビアン・レザ・パネさん。父親がインドネシア人で母親は日本人、藝大出身。リーダーCDは2枚持っている。『ガネーシャの夢』のタイトル作は名曲だ。ベースの吉野弘志さんも藝大卒。昔からジャズのライヴで何度も聴いてきた人だ。
さて、大貫妙子さんが登場。想像以上に小柄で華奢な女性だった。なんか、明石家さんまの娘「IMARU」の雰囲気。あ、そうか。IMARU のほうが、大貫さんのマネをしていたのか。
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■大貫妙子さんの八ヶ岳でのコンサートは、今回が3回目なのだそうだ。初回の時は、いつも通りに臨んだのに、途中で頭痛は酷くなるは、息切れはするわで、大変な思いをしたそうだ。訳も分からずコンサート終了後にロッジ担当者に訊くと、「あ、ここ標高が1500m はありますから、空気が薄いんです。出演されたみなさん『苦しい、息が続かない』そう、おっしゃいます」と、言ったとのこと。
はじめの3曲は知らない曲だったが、4曲目「若き日の望楼」から「新しいシャツ」「横顔」と聴き慣れた曲が続く。「わたしね、基本的にカヴァー曲は歌わないの。でもこの曲は、缶コーヒーのCMに使われていて、クライアントの方から『この曲』を歌って欲しいという、たってのリクエストだったの」
そう彼女が言って歌いだしたのが、次の「シェナンドウ」だった。
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昨日、台風が来る中行ってきた八ヶ岳高原音楽堂。嵐を呼ぶ女、大貫妙子さん。素晴らしかった!7曲目「シェナンドウ」で、一気に持ってかれた。涙がぼろぼろ出た。
続き)ピアノのフェビアン・レザパネさん(父親がインドネシア人で母親が日本人)ベースの吉野さんは、昔からファンで、CDを持ってったけどサインしてもらう機会はなかった。終演後とにかく早く帰ろうとしたからね。それにしても清里までの国道142号が暴風雨で、木が倒れていたりしてほんと怖かった
金延幸子『み空』を、CD棚から探していたら、ティンパン関連のパナム・レーベルのコンピCDを見つけた。3年ほど前に、たまたま中古で購入したのだが、ちゃんと聴いてなかったのか?。大貫妙子「くすりをたくさん」「都会」「Summer Connection」「Wander Lust」が入っているではないか!
19曲目「What's Going On」にはたまげたな。俳優の柄本明が歌っている。しかも、メチャクチャ上手い。
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■じつは、大貫妙子さんのレコードを持ってなかったので、今回再プレスされたレコード『ミニヨン』を買った。大貫さんにとっては「遠いむかし土に埋めてしまった封印レコード」なんだそうだが、ぼくは大好きなんだ。彼女の名曲『横顔』と『突然の贈りもの』が初収録されたレコードだからね。
で、さっそくプレーヤーに乗せて聴いてみた。う〜む。CDとは、確かに「音が違う」。でも、それが本当に「いい音」なのかどうかが自信はない。 ただ、この写真のような感じではあるな。音の輪郭を強調させたCDに対して、変にイコライザーをいじってない(人工的・作為的でない)耳に心地よい音がしたことは確かだ。
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これを機会に、ぼくが持っている彼女のCDを集めて写真を撮ったのだが、どうしても見つからないCDがあった。「ここのずっと下の方」や「ここ」で取り上げた『Live Beutiful Songs』だ。事あるごとにCD棚から取り出して、何度も何度も聴いてきたCDなのに、こういう時に限って何故か見つからないように出来ているんだね。
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■いま、大貫妙子が来ている。
それは間違いない!
きっかけは、アメリカ人スティーヴ君(32歳)だ。昨年の8月、大貫妙子の伝説の名盤レコード『SUNSHOWER』を求めて来日し、都内中古レコード店を廻っていたスティーヴ君。遂にお宝レコードを手に入れたのでした。
その彼が今年の2月に再来日し、なんと! 大貫妙子さんのコンサートを観たあと、憧れの彼女と対面したというのだ。(まだまだ続く)
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■YouTubeによって、海外の若い音楽好きに再発見され、日本でも懐メロとしてではなく、いまの若者たちのココロに響いた「ジャパニーズ・シティ・ポップ」とは、どういう音楽なのか?
『レコードコレクターズ / 2018 3月号』(特集:シティ・ポップ 1973 - 1979 日本国内だけでなく海外でも高まる再評価熱の源泉と、その本質を探る)によると、「おおまかな意識として ”ソウルやジャズのエッセンスを取り入れた日本語ポップス” という括りはあるものの ”こうでなくてはいけない” という明確な定義はない」と、松永良平氏は書いている(31ページ) でも、なんか違うな。
同誌38ページで、渡辺亨氏はこう書いている。
70〜80年代のシティ・ポップとは、主に はっぴいえんど 〜 キャラメル・ママ 〜 ティンパン・アレー や元サディスティック・ミカ・バンド周辺のミュージシャンが、プロデュースや作曲、演奏等で関わっていたメロウで洗練されたポップ・ミュージック、さらには16ビートが取り入れられた歌謡曲。
これは正しい。ただ、坂本龍一が抜けている。特に、大貫妙子のレコードでの、坂本龍一の楽曲アレンジは、本当に素晴らしい。(まだ続く)
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■萩原健太著『70年代シティポップ クロニクル』(Pヴァイン)は面白い。ぼくより2つ上で 1956年生まれの萩原健太氏自身が個人的に体験した「あの奇跡的な5年間」を一冊にまとめた本だ。「まえがき」にはこう書かれている。
ポップ・ミュージックの歴史を振り返ってみると、やけに密度の濃い5年間というものが随所に存在する。たとえば、エルヴィス・プレスリーが地元メンフィスでローカル・デビューを飾った 54年からロックンロールという新種の若者音楽がシーンに定着した 58年まで。
あるいはボブ・ディラン、ビートルズ、ビーチ・ボーイズなどがデビューを飾った 62年から、かれらがそれぞれ『ブロンド・オン・ブロンド』『リヴォルヴァー』『ペット・サウンズ』という、デビュー時のシンプルな味から大きく成長した傑作を作り上げてしまった 66年まで。
もちろん日本のポップシーンにもそれがあった。たぶん海外同様、時を隔てていくつか存在するのだろうが。1956年生まれのぼくがリアルタイムに体験した最強の5年間といえば 70年代前半。71〜75年という時期だ。
当時の日本のポップ・シーンは、本当に刺激的だった。すさまじいスピードで様々な形で融合し、交換し、競い合い、あるいは反発し合いながら、シーンを活性化させていた。(p7〜8)
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■『70年代シティポップクロニクル』で取り上げられたアルバムは、15枚。
『風街ろまん』はっぴえんど 『大瀧詠一』大瀧詠一
『摩天楼のヒロイン』南佳孝 『扉の冬』吉田美奈子
『Barbecue』ブレッド&バター 『サンセット・ギャング』久保田麻琴
『MISSLIM』荒井由実 『黒船』サディスティック・ミカ・バンド
『HORO』小坂忠 『SONGS』シュガーベイブ
『バンドワゴン』鈴木茂 『センチメンタル・シティ・ロマンス』
『火の玉ボーイ』ムーンライダーズ 『泰安旅行』細野晴臣
『熱い胸さわぎ』サザン・オールスターズ
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■この本で大貫妙子に関する記述があるのは、『SONGS』シュガーベイブ の項だ。ただ、ほとんどは山下達郎についての話に占められている。萩原健太さんが渋谷ヤマハで店頭ライブの準備をしているまだ若かりし頃の山下達郎を目撃し、そのやたら突っ張って、神経がピリピリしている様子の描写がリアルで、なるほどそうだったのかと思わせる。
(以降「その2」へ続く)
「赤石商店」で、田口史人「出張レコード寄席」を聴いてきた。いやあ、面白かった。最後まで聴いてみないと判らないさまざまなドラマが、人知れず作られたシングル盤レコード、ソノシート、ラッカー盤一枚ごとに確かにあった。あと、ポータブル・レコードプレーヤーの音が案外良くって驚いた。
昨日「明石商店」で、高円寺「円盤」店主:田口史人さんのお話を聴いていて、TBSテレビ『マツコの知らない世界』に呼ばれるんじゃないかと思った。そしたら「タモリ俱楽部」に既に出演されていたのだね。
先日「赤石商店」で聴いた、田口史人さんの「レコード寄席」の最後にかけてくれたレコード、豊中市立第五中学校校長・田渕捨夫先生が退職する時の、あの感動的な言葉が、36ページに書き起こされて載っていたよ!『レコードと暮らし』。
続き)田渕捨夫校長先生のことば抜粋「いつも言う『過去』というものはみなさんの記憶にあるだけである。『将来未来』っちゅうものはみなさんの想像にだけある。実際に存在する実在は、今そこにあるみなさんそれだけなんだ」(『レコードと暮らし』田口史人著・夏葉社 37ページより)
続き)でも、田渕校長の言葉は、文字に起こした活字を目で追って読んでいても、伝わって来ないんだよなあ。ソノシートのレコードを、あの小さなポータブル・プレーヤーに乗せて、田口さんが神妙に神社の神主みたいな感じで、厳かにレコード針を落とすと、聞こえてくるのです。あの、田渕校長の声がね。
続き)先だって「赤石商店」にカレーを食いに行ったら、店主の埋橋さんが言った。「田口史人さんが帰る時、飯田線の時間がまだあったから、伊那北駅近くのレコード店『マルコー』に寄ってみたんです。そしたら、2階に案内されて、引き出しから「お宝」のレコードが次々と見つかった!」とのことです。
(以上は、ツイッターでの発言より再録)
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■高円寺で、インディーズ・レコードや自作の自費出版本を扱う店「円盤」を経営する田口史人さんは、1967年の生まれだ。ぼくより9つも若いのが信じられないような、年期を重ねたこだわりのアナログ盤愛好家だった。肩まではかからない中途半端な長髪で、牛乳瓶の底のようなメガネをかける田口さんは、どことなく早川義夫の雰囲気があった。
レコード店に勤務したあと、音楽ライターとして活躍されていただけあって、とにかく文章が読ませる。淡々と書いているようでいて、対象物への限りない愛と慈しみが溢れ、内に秘めた熱情がメラメラと燃え出すような、読者のココロを鷲づかみする文章を書く人だったのだ。
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■田口さんは車の運転免許を持っていない。だから、全国津々浦々、フーテンの寅さんみたいに、売り物のCDと本を詰め込んだトランクをぶら下げ、肩にはポータブル・レコードプレーヤーやレコードがたくさん入ったショルダーバッグという大変な出で立ちで、電車で移動巡業販売の旅を続けている。
営業の旅でありながら、レコードの仕入れ買取の旅でもある。その地方ならではの貴重な「出物」があるからだ。でも、彼が探しているレコードは、駅から遠く離れた郊外の「古道具屋」でしか扱っていない。古物商は、売れない在庫をたくさん抱えているから、その保管場所が必要だ。当然、地代の高い市街中心地に倉庫は持てない。へんぴな郊外にバラック仕立ての店を構えることになる。
伊那でいえば「グリーンファーム」であり、西春近広域農道沿いの古道具屋がそれだ。車を運転できない田口さんが、いったいどうやって「そんな店」を見つけ実際に訪れているのか、謎だ。そのあたりのヒントが、当日購入した「ホチキスでとめただけの簡易自主製作本:店の名はイズコ」に書かれています。この冊子も実に面白かった!
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■前日の松本から飯田線に乗って伊那を訪れた田口さんは、赤石商店の埋橋さんに駅まで迎えに来てもらって、そのまま「グリーンファーム」へ。田口さんは以前にも訪れて中古レコードを多数見つけたのだそうで、今回も一枚 100円で購入したシングル盤を、当日の「レコード寄席」の始まりでまずはかけてくれた。
でも、激レア盤はそうは見つからない。田舎でも全国的に膨大な量が流通したソノシートがあふれている。中でもよく見かけるのが「佐渡交通」が製作して配った、佐渡観光記念ソノシートだ。全国各地から佐渡旅行に来た人たちが、地元へ帰って想い出にはじゃまなレコードだけ処分する。レコードの内容はほぼ同じなのだが、レコードジャケットは何故か100種類以上存在するという。
『レコードと暮らし』41ページには6枚だけカラーで載っている。切手収集みたいな感じなのか。田口氏は「全ジャケット」収集を目指していて、今回帰りに寄った「イチコー」で持っていなかった「佐渡交通レコード」を1枚見つけたのだそうだ。
田口さんの探究心は凄まじい。実際に佐渡まで行って佐渡交通本社を訪れ、いったいどんな人たちが「このレコード」を作っていたのか訊きに行ったのだそうだ。ところが、本社にはすでに担当者は勤務しておらず、分かる人が誰もいなくて「なんだか変な人が東京からやって来て困ったぞ」というドン引きの冷たい空気に包まれた田口さんは、結局「佐渡交通」では何も情報を得ることができず、淋しく会社を後にしたのだそうだ。せっかくはるばる佐渡までやって来たのにね。
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そんな『レコードと暮らし』には載っていないエピソードの数々を、田口さんの「出張レコード寄席」で聴くことができます。瀬戸内海の直島で、村木謙吉の「おやじの海」が生まれた裏話も傑作だった。本には p106〜p114 まで大々的にフィーチャーされているけれど、当日の話では、それらのレコードにまつわる、さらに不思議なエピソードを披露してくれた。
という訳で、この本を読む前に田口史人さんの『出張レコード寄席』を実際に聴いてみると、本が10倍楽しめると思うワケです。
■いずれにしても、今年読んだ本の中では一番印象に残った「傑作本」です。(おわり)
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■追伸)本の表紙絵は、加藤休ミさんだ。彼女の細密クレヨン画はほんとうに凄い。絵本『きょうのごはん』(偕成社)以来のファンだ。
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