2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

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■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

・・・

■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2022年1月11日 (火)

ムッシュ松尾の「僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」at the『リデルコーヒーハウス』

■1月9日(日)の午後、延滞していた本をを南箕輪村図書館に返却し、代わりに最近ツイッターで話題になった『辛口サイショーの人生案内デラックス』最相葉月(ミシマ社)を借りる。

そのあと、伊那インターから中央道下り線に乗って「座光寺パーキングエリア」で下車し、左手山側へずんずん上って行って突き当たりを右折。橋を渡ってすぐ左手に、高森町の日帰り温泉「信州たかもり温泉 湯ヶ洞」があって、その北側の急な坂道をちょっと上ると、目指すジャズ喫茶『リデルコーヒーハウス』だ。

■営業時間は< 15:03 〜 21:03 >。休店の日は、ブログで確認のこと。

団体客お断り。2人連れまで。駐車場に車が3〜4台とまっていれば、ほぼ満席と、2階の店内の面積はそこそこ広いのに、コロナ対策で厳しい人数制限がなされている。

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お店の窓から南アルプス荒川岳を望む。右側に行くと赤石岳

ここでは、1月いっぱいムッシュ松尾の僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」が開催されていて、ツイッターでたまたま知ったので、コロナは心配ではあったけれど、我慢できずに見に来たのでした。

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■ところで、これらのマッチを収集した「ムッシュ松尾」氏って、誰? 何者??

僕はまったく知らなかったのだが、いろいろ検索するうちに判ってきたことは、豊丘村在住で同村内に『HAPPY DAYS』という雑貨屋さんを経営し(この1年半はコロナのため休業中)懐かしい様々な物品を収集している「サブカルおやじ」であるらしいということだ。

■むむっ? 「松尾」+「豊丘村」!? と言えば、いまの若い人たちなら即座に「GLIM SPANKY」のヴォーカル:松尾レミ を思い浮かべるだろう。ということは、もしかして、ムッシュ松尾は、松尾レミのお父さんなのか? 

ピンポーン! → 正解でした! 喫茶店のマスターにも確認しました。

この松尾レミのインタビュー記事(2018年 春)を読むと、彼女は「父親は61歳のカルチャー好きなヘンなおじさん」と発言している。ということは、現在 65歳か。僕より2つ上だな。そうなると、1975年〜1980年頃に彼が暮らしていた東京と京都? で、これらのジャズ喫茶のマッチは収集されたものと思われます。

■3つのテーブル上に並べられた個性あふれるマッチは、約300個。東京のジャズ喫茶が主で、あとは京都のジャズ喫茶。「イノダコーヒー」や、名曲喫茶(渋谷道玄坂百軒店「名曲喫茶ライオン」など)、ロック喫茶のマッチもある。長野県内のジャズ喫茶のマッチもいくつかあった。(松本「アミ」伊那「あっぷるこあ」「カフェドコア」飯田「ブルーノート」) それにしても、ホントよく集めたねえ!!

■この中で僕が行ったことがあるジャズ喫茶は、19軒しかなかった。

 新宿「DIG」「DUG」「びざーる」「木馬」「ピット・イン」 

 渋谷「ジニアス」「ジニアスII」「デュエット」「スゥイング」「音楽館」「メアリージェーン」

 自由が丘「アルフィー」 四ッ谷「いーぐる」 上野「イトウ」

 京都「しぁんくれーる」「52番街」

 伊那「あっぷるこあ」 松本「エオンタ」「アミ」

僕は茨城の田舎(茨城県新治郡桜村)の大学だったから、週末に常磐線に乗って東京へ出てきては、池袋文芸座でオールナイト映画を見て、明け方始発の山手線に乗って電車の中で熟睡。そのまま山手線を2〜3周したあと、新宿や渋谷のジャズ喫茶やレコード店めぐりをしていた。それは、1977年〜1982年の6年間のこと。

だから、東京では、中央線沿線の有名ジャズ喫茶には、一度も行く機会がなかった。ムッシュ松尾氏が通った時期と、数年微妙にずれているのかな? 

ぼくが渋谷でずっと通っていた、道玄坂百軒店「ブレイキー」のマッチは残念ながらなかったし、目蒲線西小山に住んでいた兄貴の所に泊めてもらった時には、大岡山の東工大前にあった「ガールトーク」に何度か行った。ここのマッチもなかった。

■そしたら、僕のツイートに「ムッシュ松尾」氏がリプライしてくれた。なんと! 松尾氏は東京に住んだことは一度もないんだって。もうビックリ。ずっと豊丘村で暮らしながら、休日に上京しては音楽喫茶とレコード屋めぐりをしていたんだそうだ。

もちろん、展示されたマッチの店すべてを訪れた訳ではなくて、古道具屋で見つけて集めたマッチもあると。それでも、200軒近くは直接行ったことがある店とのこと。いやあ、それにしても凄い。凄すぎる。

松尾氏も僕も、二人とも東京で一度も暮らしたことがないのに、東京のジャズ喫茶について熱い想いがあったことが、なんだか同志みたいでうれしかった。

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■京都河原町通荒神口角荒神町の2階にあった『しあんくれーる』。高野悦子『二十歳の原点』にも出てくる。一度だけ行った。ビル・エヴァンズが静かにかかっていた。『52番街』は確か同志社大学の裏手だったかな? 「アルテックA7」が鳴ってたように記憶している。

■サッチモの線画のマッチは『あっぶるこあ』。地元の伊那バスターミナルの通りの向かい2階にあった。僕が高校2年生の時にオープンした。同じクラスの小林クンは早々に入り浸っていたけど、僕が初めて中に入ったのは大学生になってからだ。実は怖くて一人では入れなかったのだ。

ここで聴いて印象に残っているレコードは、

『The Soulful Piano』ジュニア・マンス・トリオ、『BLUE CITY』鈴木勲、それから、板橋文夫『濤』A面「アリゲーターダンス」と「グッドバイ」。人気の美人ママ(竹田成子さん)が仕切っていたが、ニューヨークへ行ってしまった。

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吉祥寺の『ファンキー』もジャズ喫茶の老舗だ。ただ、僕は行ったことはない。

先だって、松本の中古CD店『ほんやらどお』で、高田馬場にあるジャズ喫茶『イントロ』(ここも行ったことない)が開店20周年記念ライヴをCDにした『Soulful "intro" Live! 』(1995) を 700円で入手した。店主の茂串邦明氏がドラムを叩き、アマチュア・ミュージシャンの常連客が次々とジャム・セッションを繰り広げるアットホームなCDだ。

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■このCDの3曲目、レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」で、見事なアルトサックス演奏を披露しているのが『ファンキー』店主の野口伊織氏だ。玄人はだしの歌心とテクニック。ちょっと、アート・ペッパーみたいでビックリした。

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「野口伊織記念館」のサイトに行くと、なんと、彼は悪性の脳腫瘍で 2001年に 58歳の若さですでに亡くなっていた。知らなかった。ここの「野口伊織の作品」の中に、この「ジョージア・オン・マイ・マインド」が mp3ファイルで載っているのだが、何故かちっともアクセスできなくて残念。


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■新宿二幸(今のアルタ)うら『DIG』へはよく行ったな。まずは1階の『アカシア』でロールキャベツ(350円くらいだったか?)を食べてから狭い階段を3階へ上って行くと、ずんずん地響きのようにスピーカーから熱いジャズが降ってきた。マッチに描かれたビュッフェの絵は、エラ・フィッツジェラルドの『ガーシュウィン・ソングブック』のレコード・ジャケットから。

ここでは、ウディ・ショウ『Stepping Stones』、エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Light House』、そして、ファラオ・サンダース『Journey To The One』の Side C「You've Got To Have Freedom」を初めて聴いた。店を出たあと直ちに西口小田急ハルク裏のレコード店「オザワ」へ走って、ファラオ・サンダースのテレサレコード2枚組を買ったのだった。それ以来、無人島に持って行くなら「このレコード」と決めている。

「さいきんおげんきですか?」のマッチの斜め左上が、同じく新宿東口にあった『びざーる』のマッチ。地下の穴蔵へ降りてゆくと、デイヴ・ベイリーの『BASH!』がご機嫌に鳴っていたっけ。

■「DIG」が閉店して、もうずいぶん経ってからだったか、家族で新宿中村屋に入ったら、中平穂積さんがひとりテーブルでインドカリーを食べていた。

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■代々木『ナル』のマッチの2つ右。松本市緑町『凡蔵』の隣にあった『アミ』のマッチ。これは知らなかった。2階があって、靴を脱いで上がった。みな横に寝そべってくつろいでいた。

ファラオ・サンダースが大好きなんです!って言ったら、マスターが「ファラオなら、コイツが最高さ!」と『Love In Us All』のレコードを初見の僕にいきなし貸してくれた。当時入手困難だったので、うれしかったなあ。

確か、隣の店舗から火が出て、延焼で燃えてしまった。

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■国分寺時代、地下にあった『ピーターキャット』のマッチ。初めて実物を見た。千駄ヶ谷に移転後の店も僕は行ってない。国分寺の店の様子は、上原隆『こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎)79ページ「彼と彼女と私」に詳しい。

何かで読んだのだが、佐藤泰志の奥さん(まだ結婚する前)が、同時期に国分寺の別のジャズ喫茶に勤めていたらしい。『きみの鳥はうたえる』は国分寺が舞台だ。佐藤泰志は『ピーターキャット』を訪れたことがあるんじゃないかな。

■検索したら、『移動動物園』佐藤泰志(小学館文庫)の解説で、岡崎武志氏が書いていることが分かった。さっそく納戸から文庫本を取り出してきたところ。少し長くなるが以下に引用する。

ところで、佐藤泰志と村上春樹の意外な関係について、少し触れておきたい。二人は1949年生まれの同い年という以上に、機縁がある。佐藤は函館、村上は神戸と、背後に山が迫る港町で青春時代を送った。高校はいずれもその斜面にあった。浪人時代を経て、北から、西からの上京者であり、どちらも国分寺で同時期に暮らしていた。

文壇デビューも佐藤が28、村上が30、とともに遅い。大学在学中に結婚相手を見つけ、一緒に住み始めたのが同じ1971年。アメリカ文学の影響を受け、ジャズが好きだったのも同じなら、佐藤夫人の喜美子さんは国分寺の「モダン」、村上夫人の陽子さんは神保町「響」と、どちらもジャズ喫茶でアルバイトをしていた。

村上春樹はジャズ好きが高じて、早稲田大学在学中の1972年に国分寺南口でジャズ喫茶「ピーター・キャット」(のち千駄ヶ谷へ移転)をオープンさせる。そこで考える。ジャズ好きの佐藤が、村上の「ピーター・キャット」へ行ったことはなかったろうか。と。

この妄想は、同じ国分寺在住の私を刺激する。しかし二人はおそらく言葉を交わしたこともないだろうし、やっぱりどこかが決定的に違うのだ。

小学館文庫『移動動物園』佐藤泰志 解説 281ページ:岡崎武志

■岡崎武志氏は、著書『ここが私の東京』の第一章「佐藤泰志 報われぬ東京」で、佐藤泰志についてさらに詳しく書いている。こちらは全文ウェブ上で読める。

実は、岡崎氏も指摘していない「この二人」の共通点がもう一つある。

それは、「走る人」であることだ。東出昌大主演で最近映画化された、佐藤泰志原作の『草の響き』は、ランニング小説だ。河出文庫『きみの鳥はうたえる』に収録されているこの小説に関しては、以前ブログに書きました。

■『アルフィー』は自由が丘の駅近くにあった硬派のジャズ喫茶。肩まである髪のまだ若いマスターがブイブイいわせていた。一度しか行ったことないけど、デヴィッド・マレイの『ロンドン・コンサート』が、がんがん鳴っていた。

■僕が通った1970年代後半の渋谷はすっかり変わってしまった。

ハチ公口から街へ出て、スクランブル交差点を渡って「109」を左に道玄坂を少し上ると右手が「百軒店」の入口だ。曲がって左に中華「喜楽」坂の右手に「道頓堀劇場」。突き当たり正面左側に、卵入りカレーの「ムルギー」、その左奥2階がジャズ喫茶『音楽館』。右側の細い路地を真っ直ぐ行くと、ロック喫茶『BYG』と老舗名曲喫茶『ライオン』。さらに奥へずんずん行くと、円山町のラブホテル街。

ただ驚いたことに、喜楽は小綺麗なビルに建て変わったけれど、いまも現役で営業を続けている。ムルギーに至っては、建物も外装も内装も椅子もテーブルも?当時のまま営業を続けている。

大槻ケンヂが『行きそで行かないところへ行こう』で通った頃には、会計のレジに割烹着でちょこんと正座した、永六輔みたいな角刈りの気っぷのいいおばあちゃんはいなかったのかな? リンクした島田荘司氏の文章は、残念ながらさすがにリンク切れだった。

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★【1978年ころの渋谷「百軒店」の店舗一覧:「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』だ 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。 一番下の通り右から6軒目に、ちゃんと『ブレイキー』も載っている!】

滝本淳助さんのツイート(2021年9月16日)より、1978年の「ムルギーから左奥の眺め」

「ムルギー」を左に奥へ進むと、右角の1階にロック喫茶『ブラックホーク』(2階が『音楽館』)道の左側には『スウィング』(しばらくして宇田川町へ移転)があった。右へ曲がって細い路地を入って行くと、右手1階に『ミンガス』(ここは入ったことない)。対面2階に目指す『ブレイキー』があった。遅い時間で所持金にゆとりがある時は「ムルギー卵入りカレー」で、早い時間に着いた時は『ブレイキー』(午前9時半に開店した)で、黒すぐりジャム入り紅茶とたまごサンドのモーニングセットをよく食べたなあ。遙かむかしの話だ。

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(上から3段目左端のマッチが、渋谷百軒店ロック喫茶『ブラックホーク』。最上段左から4番目が『名曲喫茶ライオン』のマッチだ)

2021年12月29日 (水)

落語『芝浜』考

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■12月26日(日曜日)の夜、伊那市通り町『旧紙庄』3階屋根裏倉庫にて、入船亭扇里師と AZUMI氏のライヴがあって聴きに行ってきた。旧市役所跡の市営駐車場に車を駐めて「さて」この冬一番の寒波にむせぶ夜に街へと繰り出したのだが「あっ!マスク忘れた!!」あわてて自宅に戻り新品マスクを持って再び駐車場へ。

7時開演なのに、5分遅刻だ。ドアはもう閉め切られている。でも開いた!「紙庄」の急な階段を上ると、まだ始まってはいなかった。よかった! 田口さんの弁によると、未だ来ない僕のことをわざわざ待ってくれていたらしい。ほんと申し訳ありませんでした。

■最初に高座に上がったのは扇里師匠。いきなし「芝浜」かあ?と焦ったら、軽い話『一目上がり』と『持参金』を演じて高座を下りる。寒い夜に、われわれ観客のエンジンをアイドリングしてくれた訳だ。

■続いて「なにわのブルースマン」AZUMI氏がアコースティックギターを抱えて登場。ちっとも歌わずに、延々とギターソロが続く。もう。めちゃくちゃ上手い! 初めて聴いたけど、もの凄いテクニックをさり気なく披露する、さすらいのギター弾き! ひょいひょいとオープンチューニングに変えたり、ボトルネック奏法もあった。しかも、歌声が渋い!!

でも、大阪のブルースマンと言えば、僕にとっては憂歌団の内田勘太郎だし、有山じゅんじ氏だ。もっともっと淀川のドブ臭さに満ちたギター弾きたち。でも、AZUMI氏のギターはちょっと違う。不思議と、コテコテのブルースではないのだな。

何だろう? うん、そう。艶歌(演歌)だ。藤圭子や、そして何故か「三上寛」を聴きながら思い浮かべていた俺だった。ただ、ラストで歌ってくれた、この12月、ちょうど10日ほど前に、十三でのライヴの打ち上げ帰りに拾って乗って、御堂筋をひたすら南へ突っ走るタクシーの運転手のことを歌った「トーキング・ブルース」。これにはちょっと驚いた。まるで上方落語を聴いているみたいだったからだ。大阪芸人の「ノリ突っ込み」の間。AZUMI氏の語りはまあ絶妙だったのだ。めちゃくちゃ面白くて、やがて寂しき哀愁ただよう余韻がたまらない。大満足でした。

でも、寄席で言えば「トリ」の演者が『芝浜』をやるのを分かっていて、言わば膝代わりの役割(そう言っちゃあ失礼だけれども)の人が、しかもミュージシャンなのに落語家が本職の「語り」を先にやって大受けしちゃって、いいんだろうか? ぼくはそう思ってしまったのです。AZUMIさんごめんなさい。

■暫し休憩のあと、扇里師匠が再び高座に上がる。演目はもちろん『芝浜』だ。この噺のことを立川談志は「年末恒例の第九みたいになっちまったなぁ」と言っていたっけ。談志は、三代目桂三木助が演じた『芝浜』を基本踏襲したが、自分が納得するためにどんどんどんどん進化(深化)させていった。でも『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房)の42ページでこんなことを書いている。

そして桂三木助、十八番中の十八番といわれる『芝浜』は嫌いだ。気障(キザ)なのだ、やりすぎなのだ。出だしいきなり「翁の句に……」、翁、つまり芭蕉である。「芭蕉の句に、明けぼのや、しら魚白きこと一寸……」てなことから入っていく。

 また、朝方の浜辺に立って、「おー、いい匂いだな。この香りは忘れらんない」とか、「おー、帆立が帰ってきやがった。早えェな。ああ、もう帰ってくるところを見るてえと、早く出かけているんだ。働いている人がいる。早い人がいるんだ。怠けちゃあいけねえなあ」。

 つまり、人情的、常識的なものを基準にして始まるこの『芝浜』に、私は嫌悪感すら覚えた。

■そうまで言った談志師匠。この噺を何故か演じ続け、晩年には談志生涯の十八番とまで言われるようになった「大ネタ」だ。不思議なもんですな。


YouTube: 桂三木助 芝浜・音声のみ

■今回、入船亭扇里師匠の『芝浜』を聴いて驚いたのは、この「桂三木助版の芝浜」を正統に受け継いでいることに気付いたからだ。

きょうび、名の売れた落語家さんは皆『芝浜』を演じる。そう思って、手持ちの落語CDを集めてきたら、あるはあるは。古いところでは、三笑亭可楽の『芝浜』。今ではトリしか演じない大ネタなのに、収録時間は何と!わずか16分33秒。シンプルにまとめてはいるが、この噺の真髄はしっかり伝わってくる。とにかくクドくない。実にすばらしい。この可楽の形を踏襲したのが、柳家小三治師だ。TBS落語研究会のDVDを買って持っているのだが、今日は探しても見つからなかった。

■続いては、古今亭志ん朝の『芝浜』。音源は2枚あった。東横落語会での「芝浜」はイマイチだったが、「新選独演会5」に収録されていた「芝浜」は素晴らしい! 本来「三遊亭」のネタであった『芝浜』がどういう訳で「古今亭」のネタになったのか?

『芝浜』という噺は、明治時代の名人「三遊亭円朝」が、「酔っ払い・芝浜・皮財布」の三題噺として創作したとされているが、中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)p33〜68 を読むと、浜辺で金を拾う正直者の話は、1835年(天保6年)刊『百家琦行伝』の中に、すでに登場するという。

ところが、明治大正昭和初期の頃は、この噺はまったく人気がなかった。それが、三代目桂三木助の十八番となる経緯には諸説ある。当時絶大な影響力を誇っていた落語評論家の安藤鶴夫の助言が大きかったことは間違いないらしい。

戦前、何十回も名前を変えた古今亭志ん生。彼も「芝浜」を持ちネタにしていた。ただ、桂三木助は主人公の魚屋の名前を勝五郎(魚勝)とし、拾った財布の中身を42両(残存する音源では 82両)としているのに対し、志ん生は主人公を「魚熊」拾った金は50両としている。

それから、芝の浜で拾った財布の場面は、あわてて家へ帰ってから女房に語って聞かせる形式で、三木助の主人公が芝浜の夜明けを芸術的に独白する場面はない。志ん生は、あんな一人語りはリアル過ぎて夢にはなんねいと一蹴したという。三木助のキザな芸術肌を嫌う談志版でもなるほどこのシーンはカットされていた。

その代わり、妻が主人公に「夢だった」と信じ込ませる描写には、古今亭は手を抜かなかった。

三木助はマクラのあといきなり「ねえ、おまえさん!起きておくれよ。河岸行っておくれよ」と女房が起こす場面から話が始まるが、古今亭では、腕はいいのに酒グセが悪い魚熊の生態を先ずは語る。また、

熊公が財布を拾って帰った後、一寝入りして午後「湯屋」へ行き、長屋の後輩たちを引き連れてドンチャン騒ぎをする場面は丁寧に演じ、これぞ納得がいくリアルだ! とでもいうふうな演出だった。志ん朝版では、セリフが立て板に水で、畳みかけるように早口で次から次へと繰り出され、そのスピード感が聴いていて実に気持ちがいいのだ。

なるほど、いまこうして聞き比べてみると、三木助〜談志〜扇里の「芝浜」には少し無理がある。主人公はどうしてあんなにも稚拙な「女房の嘘」を、いとも簡単に信じてしまったのだろうか? 

■リアリティという意味では、談志が描き出す「女房」像にかなうものはない。3年後の大晦日の晩の二人のやり取りは、談志の『芝浜』が圧倒的によい。この「談志版」の良さと「志ん朝版」の良さとを、上手いこと掛け合わせて演じているのが、柳家権太楼師だ。

権太楼師の『芝浜』を収録した DVD『大師匠:第三巻』には、五街道雲助師との対談がオマケで付いていて、その中で権太楼師は「この噺は、三遊亭圓窓師匠に教わったの。圓窓さんは、先代の金原亭馬生師匠から教わっているから、古今亭(金原亭)なんだよね。」


YouTube: 柳家権太楼(三代目) - 芝浜

■寄席では、権太楼師と絶大な人気を競う、柳家さん喬師の『芝浜』は、同じ柳家なのに「勝五郎」で、でも50両。流れは三木助版だが、湯へ行ったあと仲間と大宴会する場面は丁寧に演じる。後半の大晦日の場面には、二人の子供も登場する。みな何度も演じるうちに、それぞれ工夫を凝らすのが、この『芝浜』という噺の特徴なのかもしれない。

■入船亭扇里師の師匠「入船亭扇橋」の師匠が、桂三木助。林家木久扇師も三木助の弟子だったが、三木助が亡くなった後、扇橋師は柳家小さんのもとへ、木久扇師は林家正蔵門下となった。『噺家渡世』入船亭扇橋(うなぎ書房)90ページにはこんなことが書かれている。

 亡くなる直前だから、15日だったのかなあ。おかみさんが台所に来て、「ちょいと。あんたのこと、お父さんが、泣いて頼んでるから、行ってごらん」っていうから、飛んでったの。

 師匠はあたしを見ると、「俺が死んだら、小さんのところへ行くんだ。そして、『芝浜』やってくれ」と言うんです。そして、小さん師匠に、「『芝浜』を覚えて、こいつに稽古してやってくれ」って、吐き出すように頼んでました。文楽師匠にも言ってましたよ。「稽古してやってくれ」と。あん時は、「ああ、申しわけないなァ」と思いましたね。

 師匠はあたしのことだけを頼んで、三人の子どものことも、おかみさんのことも、何も言わない。

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■それから同書の180ページ。

 三木助の十八番だった「芝浜」。あたしも弟子だから、いつかはやるぞと思っていました。だから、三木助が死んだとき、「師匠の三回忌になったら、やらしてもらいます」って、お墓に約束したんです。あたしには「芝浜」はまだ荷が重かったかど、約束通り、三回忌をすませてから挑戦しました。でも、よその弟子は、すでに「芝浜」をやってんですよね。よくやるなァと思いましたね。

ぼくは残念ながら扇橋師の「芝浜」は聴いたことがない。音源を探して Apple Music を検索してたら、落語の本篇はなかったけれど、扇橋師が師匠三木助を語るインタビューが上がっていた。

https://music.apple.com/jp/album/%E8%8A%9D%E6%B5%9C-%E3%81%AE%E5%87%84%E3%81%95%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B/312120411?i=312120428

聞き所は、三木助師は実際に朝暗いうちに浜へ足を運んで「夜明けの様子」をじっと見ていたと言うところ。そのあと実際に「あの浜の場面」を演じてみせてくれるところ。これは貴重な音源だ。

今回聴いた入船亭扇里師匠の『芝浜』でも、この「夜明けの浜」のシーンを丁寧に大事に演じていたのが、とても印象的だった。今年の夏に同会場で聴いた左甚五郎の噺「ねずみ」でも、入船亭扇橋師匠の話芸が弟子に確かに引き継がれていることを感じて、胸が熱くなったが、『芝浜』でもきっと同じに違いないと思ったのでした。(おわり)

■注1)弟子は師匠の芸を「そのまま」受け継がなければならない、と言いたい訳ではないのです。伝統芸能、古典芸能の一つである「落語」の場合は特に。そこがむずかしい。

「人間国宝」になった落語家は3人いる。柳家小さん、桂米朝、柳家小三治だ。でも、彼らの弟子たちは決して師匠のそっくりさんではない。月亭可朝は米朝の弟子だし、あの名人三遊亭圓生の弟子だったのが、先代の円楽と川柳川柳、そして三遊亭円丈だ。ぜんぜん芸風違うじゃんね。

でも、ドキュメンタリー『小三治』を見た時だったかな。その感想をブログに書いたのを以下に転載。

控え室で、サンドイッチを食べながら三遊亭歌る多を相手にしみじみ語るその背後で、三三さんが一人黙々と稽古している場面が好きだ。食べ終わった小三治師は、おもむろに「お手拭き」で目の前のテーブルを拭きはじめる。


「柳家の伝統だよ、テーブル拭くのは。」
「人に言われて気が付いたんだよ。柳家ですねぇって。」

「そう、明らかにそれは小さんの癖なんだよね。」
「うそだろう!? って、ビックリした。えっ、みんな拭くのって。で、自分が拭いていることも意識にない。」


「そういうところがつまり、背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやっていることがいっぱいあるんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だなって、いっぱいある。」


「だからねぇ、教えることなんか何もないんだよ」
「ただ見てればいいんだよ」


次のカットで、三三さんが黙々と稽古しているとこに、音声だけで小三治師の指示が入る。すごく具体的で丁寧な教え方だ。あれっ? 三三さんに師匠が教えてるじゃん! ていうのは勘違いで、カメラが引くと、なんと小三治師が「足裏マッサージ」のやり方を柳亭こみちに懇切丁寧に教えているのだった。これには笑っちゃったよ。

■注2)しかし、同じ弟子でも「実の親子」となると、話はさらに複雑だ。親子で落語家って結構いる。でも、息子の師匠が父親というのは、そうは多くはない。林家木久扇と喜久藏、桂米朝と5代目桂米團治、林家三平と正蔵(二代目三平の師匠は林家こん平。三遊亭好楽の息子の王楽は、先代の円楽の弟子だから、なんと親子なのに兄弟弟子なのだった)。そうして、古今亭志ん生と金原亭馬生、古今亭志ん朝の兄弟。あ、結構いるか。

親の七光り。そう世間から必ず言われる。早くに真打ちに昇進した馬生は、戦前ずいぶんイジメられたらしい。そして言われる「いつ、おとうさんの名前を継ぐのですか?」と。でも、志ん朝は志ん生の名を継がなかった。それに対して「三木助」の名前を継いだのが四代目三木助(本名:小林盛夫。柳家小さんの本名といっしょ)。バブルの時代には、あの亀和田武といっしょに典型的な「チャラ男」を演じていたのが彼だ。

三木助の名を継ぐからには、父親譲りの『芝浜』を演じなければならない。

そのことが、彼の悲劇だったのかもしれない。慢性の持病もあったらしい。

2021年12月22日 (水)

クリスマスがやって来る気分にちっともなれないのは何故?

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■12月になると、処置室に置いてある「ラジカセ」からは、クリスマスのCDを流している。診察中ずっと、エンドレスで。

例年、院長はけっこう音楽的にこだわっているんだよ、と思ってもらうために、大好きなジェイムス・テイラーの「クリスマス・アルバム」か、山下達郎&竹内まりやの「ケンタッキー・フライドチキン」のオマケCDを流すのだが、今年はやめた。で、代わりにずっと「このクリスマスCD」をエンドレスで連日流している。

ぜんぜん飽きることがない。収録された「ジングルベル」のいろんなバージョンを聴いてると、なんかすごく懐かしくて、かつては「いい時代」があったのだなあと、しみじみしてしまうのだった。

■伊那市「黒猫」店主の田口史人さんが発刊している、週刊「日本のレコード」第30回で配布された封筒に入っていたのがこの「付録CD」で、クリスマスのレコード特集だったのだが、その選曲が絶妙で、めちゃくちゃ感心してしまった。で、を連日ずっとかけ続けているという訳だ。

■このCDの聴きどころは、前半に収録されている「渡辺プロダクション・オールスターズ&クレイジー・キャッツ」によるクリスマス・アルバムだ。これは傑作だね。スマイリー小原のジャズ・オーケストラが「クリスマスのファンファーレ」を奏でると、続いて「ザ・ピーナツ」の二人がビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を敬虔に歌う。次は、伊東ゆかり。当時は「中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり」で三姉妹だったっけ?「サンタが街にやってくる」を歌うが、彼女、歌上手いね! ジャズのリズム感とか完璧だ。

続いてお待ちかねの「クレイジーキャッツ」の登場だ。例によって、青島幸男が作詞したオリジナル曲なのかな? 笑っちゃうには、植木等が「クリスマスとは、西洋のお正月!」って歌うところ。あはは! でも、当時はぼくもそう思ってたなあ。

■以下は、ツイッターに一度アップして次の日の朝になってから、ちょっと思うところがあって消去てしまった文章です。でも実は残してあったのでした。


伊那市「黒猫」が発行している、週刊『日本のレコード』(30)は、クリスマスのレコード特集。付録のCDを診察中にずっとかけているのだが、これは聴き応えがあるな。戦後の日本という国の歩みが、このCDに完璧に集約されていたからだ。それはまた僕自身の人生の歩みとピッタリ一致していた。

1958年生まれの僕にとって、1960年代は高度経済成長の夢の時代だった。アメリカに追いつけ追い越せ。クリスマスは、まさにその憧れのアメリカの象徴だ。当時のレコード、辺プロのクレイジーキャッツや舟木一夫のジングルベルを聴くと、僕が子供だったの頃のウキウキした気分がリアルに蘇る。


松任谷由実の「恋人はサンタクロース」は、バブル前夜の楽曲だ。お父さんがクリスマスケーキを買って帰って家族で一家団欒の幸せを噛みしめる日が、娘は彼氏と出かけてしまう日になった。


また、1980年代後半はスキーが大ブームだった。新宿を深夜出発したスキーバスは、明け方の国道18号を志賀高原、斑尾、野沢温泉へと連なって走って行った。映画『私をスキーに連れてって』の影響だ。ホイチョイ・プロダクションと広告代理店&テレビ局がイケイケだった時代。


バブルが泡と弾けて、ユーミンも方向性に迷っていたころ、山下達郎はしぶとく「クリスマス・イヴ」で毎年年末に稼ぎ続けている。そしてコロナ禍の2度目の年末を迎えている訳だが、黄昏を迎えた日本のクリスマスは、全く盛り上がっていない。それは、全てを経験してきた僕らの世代の責任か。


そして、この付録CDの最後に収録されているのが「楽しいお正月」だ。そう、もういくつ寝るとお正月。思い出した。僕が小学生の頃は、クリスマスよりもお正月のほうがずっとずっと楽しみだったのだ。大学生の頃でも、まだ24時間年中無休のコンビニは近くになく、年末年始の食料調達にはホント苦労した

2021年12月 1日 (水)

映画『海辺の彼女たち』を、赤石商店で観てきた

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■日曜日に伊那市「赤石商店」で映画『海辺の彼女たち』脚本・監督:藤本明緒(2020年/日本=ベトナム 88分)を観てきた。ずっと見たかったのだ。期待以上だった。劇映画なのだが、出演者がみな自然な演技をしていて、撮影はハンディ・カメラだし、ドキュメンタリーかと見紛う出来だ。これは、佐々木昭一郎の演出手法だね。

この映画は、観客の五感をことごとく刺激する。ベトナムから3ヵ月前に技能実習生として来日した若き女性3人。超ブラックの職場を早々に脱出して、同国出身の闇ブローカーの斡旋で北の海辺の寒村へと派遣される。在留身分証明書も保険証もない不正滞在労働者となって。そんな危険な身にに陥ってまでも

彼女等は本国で貧乏な両親と弟妹たちに仕送りしなければならない責務があるのだった。もちろん、闇ブローカーの男は法外な仲介料を請求する。保険証がないから、病気になっても医者にはかかれない。

■フェーリーに乗って逃避行した彼女らは、港に到着後さらにワンボックス車で長距離移動。ようやく到着した雪深き海辺の寒村は青森か?

 彼女等は腰まで一体化された長靴(天竜川で鮎釣りしてる人が履いるヤツね)で、厚手のゴム手袋はめて漁船から水揚げされたイワシを選別する。もしくは網に取り付ける丸い大きな「浮き」にこびり付いたフジツボをノミでこぎ落とす作業。彼女らは雪降る堤防わきに座って、ただ黙々と専念する。寒いだろう、冷たいだろう。

スクリーンから、彼女等の長靴の中の足の小指が、しもやけになる冷たさと、頬に突き刺さる北風が僕の肌でも感じられた。あと、主演のホアン・フォン(彼女の演技がホント素晴らしい!)がお腹痛いのを我慢しながら、病院を探して延々と街を彷徨うシーン。

ここは見ていてほんと辛かったな。もういいよ、もういいよって、画面を見ながら思わず願っていた。

そうして、ようやく辿り着いた総合病院。はたして事務受付で偽造保険証を見破られないか? 見ていてハラハラした。よかった!大丈夫だ(でも、医療従事者としては、それほど日本の保険医療機関は甘くはないぞ!とも思うけれど。)

外来はエレベーターで5階だ。そこで診察してもらって聴く「ある音」に、彼女は涙する。ここは泣けたな。夜遅く飯場(はんば)に帰り着いた彼女は、ストーブの上の鍋で煮えたスープをカップによそって啜る。彼女の舌が感知するスープの熱さと故郷の味。判るよ!

■映画『海辺の彼女たち』の感想追補。 観客の「五感」を刺激する映画だと言いつつ、嗅覚については触れてなかったな。それは彼女等の作業場に漂う魚の生臭さだ。フォンは途中で耐え切れなくなって、雪の上に嘔吐する。あと、ラスト近くのスープのにおい。何故かナンプラーとパクチーの匂いがした。

■上映時間が88分しかない映画の中で、異様にむだに?長いシーンが2つあった。それが主演のフォンが弘前の町を延々とさまよう場面と、この夕食の場面だ。ここには間違いなく監督が一番言いたいメッセージが込められているのであろう。だからこそ観客はみな固唾を飲んでスクリーンを見つめるのだ。

この夕食の場面。いろいろな思いが交錯する。ベトナムから一緒にやって来た仲間二人の思い。映画をずっと観て来た観客の思い。そして当事者フォンの思い。人間どんなに辛い事があっても「おなか」はすくのだ。生きてるから。明日も生きてゆかなければならないから。そんな覚悟が彼女の瞳に表れていた。

■そのことを僕が実感するのは、自分の母親が死んだ時と、受け持ち患者さんが亡くなった日のことを思い出していたからだ。こんなに辛いのに、こんなに申し訳ないのに、それでも俺の腹は空くのか! そんな絶望的な気分に陥ってしまった「あの日」のこと。

映画のポスターに書かれているキャッチコピーにはこうある。そういうことだ。

--- 生きていく。この世界で ---

■さらに追補。

映画のロケ地が弘前だったかどうかは分かりません。ただ、弘前駅から町の中心街へはかなり遠くて、バスに乗らないと無理です。冬の弘前は学生の時に一度だけ行ったな。

ジャズ喫茶「Suga」が繁華街の近くにあった。この日は弘前市民会館でマービン・ピーターソンのライヴを何故か聴いた覚えがある。もう1軒寄ったジャズ喫茶は「オーヨー」だったかな? いや『仁夢』か。

2021年10月25日 (月)

小津安二郎と戦争


YouTube: GoutDuSake-Ozu

■『秋刀魚の味』は、小津安二郎監督の遺作となった映画だ。この映画で最も印象深いシーンが、メイン・ストーリーとは関係ない「トリス・バー」での加東大介と、湯上がりで色っぽい岸田今日子が登場する場面。小津はこのシーンに自らの「戦争観」を込めた。

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小津の映画の中では『秋刀魚の味』が一番好きだと、かねてから公言している内田樹氏は、鈴木正文氏(そう、矢作俊彦が小説にした、あのフランスの名車「ドー・シー・ボー」に乗って会津へ行ったスズキさんだ!)が編集長を務める『GQ』誌上において、小津と戦争に関して「こんなふうに」書いている。

しかし、月刊文芸誌『新潮』をたまたま読んでたら、そこに「平山周吉」の名前を見つけたのだ。この名前、小津安二郎の最高傑作『東京物語』で笠智衆が演じた主人公の名前じゃないか! 彼が連載するタイトルは、なんと!『小津安二郎(11)』。読んでみた。面白い! しかも、よーく調べている。ベースとなっているのは、田中眞澄氏が集めた文献だが、それ以外にも新たな資料を見つけてきて載せていた。

それにしても「平山周吉」なんて人を食ったようなペンネームを使う輩はいったい何者なのか? (つづく)

「平山周吉」で検索すると、笠智衆の他に見つかったのがこの人。1952年東京生まれで、慶應義塾大学文学部国文科卒業後に文藝春秋社に入社。週刊文春の編集を経て、文芸誌『文學界』の編集者となり、江藤淳を担当。あの、江藤淳が自死したその日に最後に会った人でもある。その顛末を本にした。『江藤淳は甦える』平山周吉著(新潮社)だ。

■小津は、『父ありき』(1942年)から明らかに作風が変わったように思う。曾我兄弟の墓石が突然挿入されたりとかね。いったい何があったのか?

田中眞澄『小津安二郎周游(上)』(岩波現代文庫)を読むと、映画監督小津安二郎は、一年志願兵を務めて陸軍歩兵伍長の軍籍にあった。1933年9月、彼は演習招集で三重県久居の陸軍歩兵第33聯隊に入隊した。そこで主として「毒ガス戦」の訓練を受けている。

1937年9月9日、小津に召集令状が来た。それより僅か2週間前、映画監督:山中貞雄にも召集令状が届く。それはちょうど『人情紙風船』の封切り日。この日は撮影所で「人情紙風船」の試写が行われた日でもあったから、スタッフ、出演者が集まっていた。(『新潮 2021 7月号』p229 参照)

試写が済んだあと、撮影所の芝生で山中監督をかこんで皆で雑談していた時、誰かがもってきて渡した ”赤紙” を見た山中はサッと顔色を変えた。無言の間がちょっとあって、「これがわいの最後の映画じゃ死にきれんな」とボソッといった。

 加東大介は、まさにその場に居合わせた一人だった。

「私は昭和7年(1932)に現役にいき、千葉の陸軍病院に [衛生兵として] はいりました。軍隊ではいわゆるらくな役だったのですが、その間に満州事変がおき、内地にとどまったままで、下士官要員として返されました。その後、支那事変が始まりましたが、東宝撮影所の芝生で一緒にねころんでいた監督の山中貞雄さんに赤紙がきてびっくりしました。」(加東大介談:『新潮 2021 7月号』p229

■ちょうど、日本映画専門チャンネルで、デジタル・リマスター版が続けて放映された、現存するたった3本の山中貞雄監督作品『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)『河内山宗俊』(1936年)人情紙風船』(1937年)を見たばかりで、当時まだ前進座の役者で「加東大介」の芸名ではなく「市川莚司」の名前で出演していた彼を発見したから、ちょっとウルッときてしまった。

『丹下左膳余話 百万両の壺』には、加東大介は出演していない。しかし、彼によく似た役者さんがぐうたらな旗本御大名の役で出ていた。沢村国太郎(長門裕之・津川雅彦の父)だ。なんと!彼の実の兄さんだった。ちなみに姉は沢村貞子。

その加東大介に召集令状が来たのは、それからずいぶん経って昭和18年(1943)になってからだった。彼はニューギニア戦線に投入される。詳細は彼の著書『南の島に雪が降る』(映画化もされた)をご参照ください。

■1937年10月。招集された小津は、上海に上陸する。12月?(1938年6月という説も)には陥落後の「南京」に入城している。明けて1月12日には南京近郊の句容で、一足先に出生していた山中貞雄と面会する。わずか30分の邂逅だったという。

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『小津安二郎大全』松浦莞二・宮本明子/編著(朝日新聞出版)p223 より

山中貞雄は、その後所属部隊と共に河北省へ移動。1938年9月17日、山中は戦闘中に飲み込んだ河川の濁流が原因で急性腸炎(赤痢?)を発症し、極度の脱水症と栄養失調のため開封市に設置された野戦病院で死亡する。享年28。天才の若すぎる非業の死であった。

■小津にとっての山中貞雄は、年下だけれど映画界においては、そのアメリカ的でハードボイルドな格好良くスピーディで洗練された演出センスと映像技術をもって大いに尊敬する先輩であり、しのぎを削るライバルでもあった。そして何よりも「映画」をこよなく愛する同志であり無二の親友であった。

小津は山中の死をいつ知ったのか?

1938年8月。まだ南京に駐留していた小津は、「古雛鳴寺」で現地の住職から「無」の書を受ける。この書を小津は生涯大切に保管した。9月、ほどなくして山中の死を知った小津は、突然口をつぐみ、数日間無言でいたという。悲しみに耐えている背中を戦友たちが目撃している。(『小津安二郎大全』松浦莞二・宮本明子/編著(朝日新聞出版)p223 より)

■その後、南京からさらに西進した小津の部隊(近衛歩兵第三連隊:毒ガス部隊)は、修水河での壮絶な戦闘に参加する。毒ガス弾三千発、毒ガス筒五千発が投入された激戦であった。(第一次世界大戦が終わった後、1925年に国際的に認定された「ジュネーヴ議定書」では、毒ガスの使用は禁止されていたのに、日本軍は秘密裏に使用したのだった。ちなみに、重慶空襲も日本軍が最初に行った民間人虐殺の始まり。その後、ドレスデン空襲、1945年3月10日の東京大空襲へとつながってゆく

2021年10月 1日 (金)

デンマーク映画『わたしの叔父さん』を、赤石商店で観た。

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■伊那市「赤石商店」で映画『わたしの叔父さん』を観てきた。もろ好みの映画。とってもよかった。これは、デンマーク版『晩春』だ。赤石商店のご主人が、本物の「ヌテラ」を蔵の前で売ってたよ。あと、「ナンプレ」(数独?)のコピーもくれた。

主人公が食事中にいつも読んでいる本が「ナンプレ」で、夕食後に叔父さんと遊ぶボードゲームは「スクラブル」だ。映画が始まって10分近く二人にまったく会話はなく、買い出しに出かけたスーパーで叔父さんが初めて発したセリフが「ヌテラを」だった。


YouTube: 晩春 1949


YouTube: 映画『わたしの叔父さん』予告編

■ただ、さすがに小津安二郎『晩春』の父娘をそのまま現代に移植すると近親相姦的になりすぎて、映画のリアリティがなくなる。で、叔父と姪の設定となったのだろう。この二人の演技が自然でじつにイイ雰囲気(無愛想でつっけんどんなのに、そこはかとなく愛がある)を醸し出しているのだ。実はこの二人、実際に叔父と姪の関係で、しかも叔父は役者ではなく、ロケされた農場・牛舎・自宅で本当に生活している農場主なのだった。

この映画の監督は、撮影に入る前に彼の農場に長期間寝泊まりして、実際に農作業や牛の世話、乳搾りを体験。それから脚本を書き上げたという。なんだか、傑作映画『サウダーヂ』『バンコクナイツ』を撮った富田克也監督が率いる『空族』の映画の作り方と同じじゃないか!

■カメラアングルやカット割りとかは決して「小津調」ではない。ただ「朱色」の使い方。叔父さんのTシャツ、トラクターやコンバインの色、初デートに着る勝負服。地味な色合いの画面に印象的なアクセントとなっていた。


YouTube: Aki Kaurismaki on Ozu

それから、彼氏と横並びで同じ方向に視線を向ける場面(教会、水門のレストラン傍の土手)は、『東京物語』の熱海の朝の堤防だ。

【以下、映画のラストに触れます(できるだけネタバレにならぬようには配慮したつもりですが…)】

デンマーク映画『わたしの叔父さん』の感想(つづき)。ダイニングキッチンにやや上方斜め45度で固定されたカメラ。姪と叔父はテーブルを挟んで常に90度で対峙する。カメラには映らない後方の冷蔵庫の上にあるテレビから絶えず世界の深刻なニュースが流れている。北朝鮮がミサイルを発射した、イタリアに難民が漂着したとアナウンサーが語ってる。


でも、デンマークの片田舎の厩舎に暮らす二人は、毎日朝から晩まで変わりなく平凡なルーチンをただこなすだけだ。サイモン&ガーファンクルの「7時のニュース/きよしこの夜」を思い出した。映画のラスト、初めてカメラがダイニング背面を映す。壊れたテレビを叩く叔父。でも付かない。無音のままカメラはパンする。


で、ラストシーンとなるのだが、これには参った。
そこで終わるのか!

あと独特のユーモア。回転寿司があるのだね、コペンハーゲンには。それから映画館での場面。上映されていたアメリカ映画は何? 同じような場面があった『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』でかかっていたのは「リオブラボー」


■このラストをどう考えるかは、観客に委ねられている。


いくつか映画の感想を読んだし、監督インタビューも読んだ。でもぼくは、以前から大好きだった映画『ギルバートグレイプ』を思い浮かべたな。ジョニー・デップとレオナルド・デカプリオを初めて発見した映画だ。

 アメリカのド田舎の小さな町に暮らすジョニー・デップ。息が詰まりそうな閉塞感。百貫デブでベッドから起き上がれなくなってしまった母親と、高いところが大好きな自閉症の弟を支えながら変化のない淡々とした毎日がただ過ぎてゆく。唯一の楽しみは、倦怠期の人妻との昼下がりの情事だ。

ジョニー・デップは自らの夢と希望を語らない。もうこのまま一生この町を出ることなく家族と共に暮らしてゆくのだ。仕方ないのだと、諦め切っている。監督は、やはり北欧スウェーデン出身の、ラッセ・ハルストレム監督。

■じゃあ、『わたしの叔父さん』の主人公がジョニー・デップと同じ思いでいるかというと、それは違う。彼女にとっての叔父さんは、決して彼女の人生を台無しにした厄介な存在ではないのだな。ほら、『巨人の星』で星飛雄馬がバッターボックスの左門豊作に投球しようとすると、突然ピッチャーマウンドに左門豊作の弟や妹たちが現れて、皆で星飛雄馬を羽交い締めにしてボールを投げさせないようにするじゃない?

まるで大リーグボール養成ギプスみたいになって。

ジョニー・デップにとってのデカプリオは、まさにそんな感じだった。愛しい存在ではあるけれど、どうにもならない足枷(あしかせ)。

でも、この映画の主人公にとっての叔父さんはちょっと違う。彼女がひとりぼっちになってしまった14歳の時からいっしょに暮らしてきて、もう一心同体になってしまっているのだよね。お互いに「叔父・姪」がいなければ生きてゆけない存在になってしまった。まあ、「共依存」なわけだ。

だから、新たに登場した彼氏に対して、私と付き合いたいなら(セックスしたいなら)もれなく叔父さんも付録で付いてくるけれど、それでもいい? その覚悟はある? と、彼女は無言のうちに彼に対して大胆な態度をとったのだろう。

とはいえ、彼女が自分の人生のキャリアをすべて諦め切ってしまったわけではない。

それは、この映画のラストが証明している。

■デンマーク映画は、先だって NHKBSP で『バべットの晩餐会』を見て、その鮮やかな出来映えに感心したばかり。フラレ・ピーダセン監督の次回作も、ぜひ観てみたい。

2021年8月18日 (水)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その 139 )飯島町図書館 2021/05/01

■じつは今年の5月、なんと1年半ぶりに「伊那のパパズ絵本ライヴ」があった。

アップするのをすっかりサボってしまっていました。すみません。呼んでくれたのは「飯島町図書館」。このコロナ禍の中、万全の対策を取って(家族限定15組?)開催して下さったのだ。ありがたいことだ。

われわれも十分な距離を取って、フェイスシールドを付けての読み聞かせ。

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【本日のメニュー】

 1)『はじめまして』新沢としひこ(鈴木出版)→ 全員

 2)『うえきばちです』川端誠(BL出版)→ 伊東

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 3)『これなーんだ?』のむらさやか 文、ムラタ有子 絵(福音館書店:こどものとも012 /2006/1月号)→ 北原

 4)『かごからとびだした』いぬかいせいじ文、藤本ともひこ絵(アリス館)→全員

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 5)『まわる おすしやさん』
藤重ヒカル(福音館書店こどものとも/2020/1月号)→坂本

 6)『おーい かばくん』中川ひろたか(ひさかたチャイルド)→全員


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 7)『ようようしょうてんがい』環 ROY(こどものとも2020年12月号)→倉科


YouTube: 絵本『ようようしょうてんがい』プロモーション動画

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 8)『ふうせん』湯浅とんぼ/作 森川百合香/絵(アリス館)→ 全員

 9)『世界中のこどもたちが』中川ひろたか・新沢としひこ(ポプラ社)→全員

■フェイスシールドしてると、自分の声がシールド内にこもっちゃって、ちゃんと客席まで声が届いているのかどうか、すごく不安でした。

早くこんなの付ける必要ない「絵本ライヴ」が行いたいものです。

2021年8月10日 (火)

『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』松本俊彦(みすず書房)

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(写真をクリックすると、大きくなります)

■松本俊彦先生の『誰かために医師はいる』(みすず書房)を、休日一日かけて一気に読了。

これは噂に違わず凄い本だった。見よ!この付箋の数。

■その道の専門家は、案外自ら「その分野」に困難を抱えていて、何故だ?と追求し続けるうちに最先端に躍り出ることがある。例えば、海馬と記憶の専門家、東大薬学部教授の池谷裕二先生は、著書『海馬』で「九九」が出来なかった過去を告白している。『「色のふしぎ」と不思議な社会』川端裕人(筑摩書房)や『どもる体』伊藤亜紗(医学書院)も同様に、著者自身が当事者でもある。

松本俊彦先生は、著書『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)の中で、16歳から始めた喫煙を未だに止められないでいることを告白する。コーヒー嗜好がいつしか「エスタロンモカ」錠剤によるカフェイン依存症に陥った過去も正直に書かれている。

なんだ、松本先生自身が薬物依存者だったのだ。そういえば、ドラッグや高濃度(蒸留)アルコールの害を声高に警告する松本先生が、タバコ(ニコチン)の害に関して発言しているのを読んだことがなかったな。

■この本で特に印象的だった部分。32ページ。松本先生が薬物依存の自助グループのミーティングに初めて参加した場面だ。僕は不思議な既視感を味わった。あれ?この雰囲気以前から知ってるぞ。あ、あれだ!アル中探偵マット・スカダーが、ニューヨークの片隅で深夜に開かれるAAの集会に参加する場面だ。

彼が主人公の小説群のいろいろな場面に AA(アルコホリクス・アノミマス)の集会が登場するが、中でも最も印象深い場面が『八百万の死にざま』ローレンス・ブロック著、田口俊樹訳(ハヤカワ文庫)のラストだろう。

■精神科医は読ませる文章を書く先生が多い。作家になった人もいる。

北杜夫、加賀乙彦、なだいなだ、帚木蓬生、北山修。もう少し若手では、山登敬之、斎藤環(敬称略)。

松本先生もグイグイ読ませる文章の書き手だ。以下は、印象に残った(付箋を貼った)文章をランダムに書き留めておきます。

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・「彼と何の話をしていたの?」(中略)気が遠くなるような沈黙の後、彼女はようやく口を開いた。

「さっき彼に尋ねてみたの。何でまたシンナーをやったのかって。するとね、こういうのよ、「人は裏切るけど、シンナーは俺を裏切らないからさ」って。すごく悲しくなった」(中略)「それで私、「どうしたらあなたはシンナーをやめられるの? 私に何かできることがある?」(中略)「私、彼にやらせてあげたほうがいいのかな?」(中略)彼女は真剣な表情だった。(p17)

・依存症専門病院で患者を診るようになって驚いたのは、覚せい剤を使ったからといって、誰もが幻覚・妄想を体験するわけではない、という事実だった。(中略)むしろ典型的な覚せい剤依存症患者は、覚せい剤を数日間連続で使ったときだけ、一時的に「警察に尾行されている」「盗聴されている」といった妄想を体験するものの、覚せい剤をやめて一日二日経てば、それもすみやかに消えてしまう。

なかには、これまでそうした症状をまったく経験しないまま、それこそ二十年以上覚せい剤と「よいつきあい」を続けてきた者もいる。だからこそ、彼らは覚せい剤のデメリットに懲りることなく、年余にわたってくりかえし覚せい剤を使用することができたともいえる。(中略)

しかし(中略)困ったことに大半の覚せい剤依存症患者は、血液検査のデータが正常だったからだ。すでに当時(中略)経静脈的な覚せい剤摂取経路に代わって、経気道的摂取経路「アブリ」が主流になりつつあり、注射器のまわし打ちによるC型肝炎ウイルス感染は確実に減少傾向にあった。むしろ内臓がボロボロになり、病気のデパートと化しているのは決まってアルコール依存患者であり、それに比べると、覚せい剤依存症患者ははるかに健康だった。(p26-27)

■私の考えですが、自助グループには二つの効果があります。一つは、過去の自分と出会うことができるという効果です。依存症という病気は、別名「忘れる病気」ともいわれています。(中略)薬物をやめるのは簡単です。難しいのは、やめつづけることです。

 なぜ難しいのかというと、薬物による苦い失敗という最近の記憶はすぐに喉元過ぎてしまうからです。いつまでも鮮明に覚えているのは、薬物を使いはじめた時期の、はるか昔の楽しい記憶ばかりです。(中略)

もう一つは、未来の自分と出会うことができるという効果です。(中略)自助グループに行けば、何とか苦しい日々を乗り越えて一年間やめつづけた人、あるいは、三年やめつづけて気持ちにゆとりが出てきた人、さらには10年20年やめつづけ、薬物がない生活があたりまえになっている人とも出会うことができます。

そこには、近い未来の自分の姿や、遠い未来の自分の姿があります。

「この先の人生ずっとやめつづける」なんて考えると、先の長さに気が滅入ってやる気を失いそうになります。だから、私たちは薬物を使いたくなったときにはこう考えるようにしています。「今日一日だけ使わないでいよう。使うのは明日にしよう」って。で、明日になったらまた同じように自分に言い聞かせる。その積み重ねです。(p37)

「神様、私にお与えください/変えられないものを受け入れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/そして、その二つを見分ける賢さを」

 とても簡単な言葉だが、それがなぜか私の無防備な胸にもろに突き刺さったのだ。私は、自分が変えられないものを変えようとして一人で勝手に落ち込んでいたことを一瞬にして悟った。(p38)

■それは薬物使用に関連するフラッシュバックなどではなかった。どう考えても心的外傷後ストレス障害の症状、すなわち、トラウマ記憶のフラッシュバックだった。(p52)

・薬物依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛」である(中略)その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物が手放せないのだ(=負の強化)

ある女性患者は、自身が自傷行為をする理由についてこう語った。「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわかんなくて怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、「痛いのはここなんだ」って自分に言い聞かせることができるんです」(p55-56)

■少年矯正の世界から学んだことが二つある。一つは、「困った人は困っている人かもしれない」ということ、そしてもう一つは、「暴力は自然発生するものではなく、他者から学ぶものである」ということだ。(p74)

■断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力犯罪、児童虐待やドメスティックバイオレンス、交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚せい剤の比較にならない。(p122)

最近つくづく思うことがある。それは、この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけである、ということだ。(p131)

わかってない。後に薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽に溺れてしまった者などめったにいないのだ。(中略)つまり、薬物の初体験は「拍子抜け」で終わるのだ。若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。(p137)

少なくとも子どもたちに薬物を勧めるくらい元気のある乱用者は、たいてい、かっこよく、健康的に見え、「自分もあんなふうになりたい」と憧れの対象であることが多い。外見は、ゾンビよりもEXILE TRIBE のメンバーに近いだろう。(p149)

かつて私は、わが国の精神科医療をこう評したことがある。曰く、「ドリフ外来」。つまり、「夜眠れているか? 飯食べてるか? 歯磨いたか? じゃ、また来週……」(p176)

ベンゾ依存症の治療は細々と手がかかる。ちなみに、ベンゾ依存症治療を数多く手がける知人の依存症専門医は、こうした減薬治療のことを「ベンゾ掃除」と呼んでいた。(p181)

その意味で、彼女たちは「人に依存できない」人、「物にしか依存できない」人であった。(p182)

そのときようやく気づいたのは、ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は、援助希求性の乏しさ、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。彼女もまた「人に依存できない」人だったのだ。(p190)

人間は薬を使う動物だ。(p192)

作家ジョハン・ハリは、TEDトークのなかで、「アディクション(依存症)の反対語は、「しらふ」ではなく、コネクション(つながり)」と主張している。鋭い指摘だ。孤立している者ほど依存症になりやすく、依存症になるとますます孤立する。だから、まずはつながることが大切なのだ。(p211)

ラスタ用語に、「アヤナイ I & I」という表現がある。ラスタマンたちは、「あなたと私 You & I」という代わりに、この「アヤナイ =私と 私」を使うという。人はともすれば、「あなたと私」という対峙的な二者関係において、相互理解の美名のもと、相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試み、それに応じなければ、相手とのあいだに垣根を築くものだ。しかし、「アヤナイ」は違う。「相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う」という態度なのだ。(p212)

2021年8月 4日 (水)

「おもいでの夏〜 The Summer Knows」と、アート・ペッパーのこと

以下は、長野県医師会の月刊誌『長野医報 2021年8月号』に投稿した原稿です。

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  今回の特集テーマを聞いてまず思い浮かべたのが、映画『おもいでの夏』(1971年アメリカ映画)でした。1942年の夏。思春期の少年が、海辺に住む戦争未亡人の年上の女性から性の手ほどきを受けるひと夏の経験を描いたほろ苦いセンチメンタルな映画で、実を言うと僕はまだこの映画をちゃんと見たことがないのです。ただ、ミシェル・ルグランが作曲したこの映画音楽は大好きなのでした。

 ミシェル・ルグランと言えば「シェルブールの雨傘」や「ロシュフォールの恋人たち」で有名なフランスの作曲家。自身もジャズピアニストとして自作曲を演奏したレコードを数多く出していて、ジャズファンとしてはビル・エヴァンスの演奏で知られる「You Must Believe In Spring」が忘れられない1曲ですが、残念ながら一昨年の冬に86歳で亡くなってしまいました。

 「おもいでの夏」は哀愁を帯びたメロディが格別印象的なバラードで、ジャズメンが好んで取り上げる楽曲です。ジャズ・ハーモニカの名手トゥーツ・シールマンスの十八番で、ミシェル・ルグランとの共演盤もあります。ビル・エヴァンスもライヴ盤『モントルー III』でアンコールに応えてこの曲を弾いています。渋いところでは、アン・バートンの歌伴ピアニストだったルイス・ヴァン・ダイクのトリオ演奏や、アート・ファーマーがフリューゲル・ホーンで切々と奏でる『The Summer Knows』がお薦め。バックのリズムセクションは、村上春樹氏お気に入りのシダー・ウォルトン・トリオが務めています。

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 でも、僕が一番好きな「おもいでの夏」は、アルトサックス奏者のアート・ペッパーが 1976年9月にロサンゼルスで録音した『THE TRIP』(Contemporary)のB面2曲目に収録された演奏です。

 このレコードは、1977年の春に日本でも国内盤が発売されました。この年大学に入学した僕は、加川良や友部正人のフォークからはもう卒業してジャズでも聴いてやろう、生意気にもそう思っていました。で、東京は目蒲線沿線の西小山に住む兄貴からジャズのレコードを10枚借りてきたのです。一番最初にターンテーブルに乗せたのは、ハービー・ハンコックの『処女航海』。タイトルとジャケットが格好良かったからね。でも、まったく分からなかった。聴き続けるのがただただ苦痛でした。チック・コリアの『リターン・トゥー・フォーエヴァー』でさえ、当時の僕には不快で難解でした。

 そんなある日、FMラジオから哀愁あふれる苦渋と悲哀に満ちたサックスの音が流れてきたのです。僕は瞬時に「この演奏者の気持ちが分かる!」そう感じました。ラジオのDJが油井正一氏だったかどうかは忘れてしまったけれど、アート・ペッパーという名前と「おもいでの夏」という曲名だけは心に刻みました。

その翌日、バスに乗って町まで出て商店街外れのレコード店へ。ありました。アート・ペッパー『ザ・トリップ』¥2,500。僕が生まれて初めて買ったジャズのレコードでした。

 帰って早速聴いてみました。A面分からない。レコードを裏返して続けてB面2曲目。あったあった!これこれ。梅雨の頃だったか、もう夏だったか。寮の部屋の壁には黒カビが生えていました。その年の夏は確か猛暑で、もちろん寮に冷房はありません。僕は汗だくになりながら、このレコードを毎日毎日繰り返し繰り返し聴きました。せっかく買ったのに分からないことが悔しかったし、第一もったいないでしょ。

 

正直ジャズは難しいです。今どきの蕎麦屋のBGMが何故ジャズなのか分かりますか? それは、理解できないけれど耳障りではない「雑音」だからです(糸井重里氏がそう言ってました)。でも、ジャズファンがそんな蕎麦屋へ行くと大変です。「うむ?このピアノはキース・ジャレットじゃないな。ベースは誰だ?」と、BGMが気になって蕎麦を食べている気分ではなくなってしまうのですね。

ジャズの何が難しいのでしょう? それは、素人がちょっと聴きかじっただけでは絶対に理解できない音楽だからです。細かく規定された複雑なコード進行の縛りがあるのに、演奏者はあたかも勝手気まま、自由自在にソロで即興演奏をしつつ、共演者たちが発する音とリズムに瞬時に耳で反応し、全者一丸となって醸し出すグルーブ感と高揚感が、リアルタイムでダイレクトに聴き手にも届く音楽。それがジャズです。

『ビッグコミック』誌上で連載が続いているジャズ漫画『BLUE GIANT』石塚真一(小学館)を読むと、ジャズが分かった気になりますが、残念ながら漫画からは実際の音は聞こえてきません。結局、ジャズの快感を聴き手が感知できるようになるには、どうしても「ジャズを聴く」訓練が必要なのです。

 そんな訳で、僕はこのレコードを繰り返し繰り返し聴きました。今でもCDでよく聴ので、この44年間で数百回は聴いたと思います。アルトサックスが切ないフレーズを絞り出す場面、感極まったピアニストの右手が跳ねる瞬間、そしてエルヴィン・ジョーンズがシンバルを叩く絶妙のタイミング。もう全て諳んじています。こうして僕はジャズの底なし沼にはまって行ったのでした。

ジャズの楽しみ方のコツをお教えしましょう。同じ曲を様々なミュージシャンで聴き比べてみること。それから、好きになったミュージシャン、楽器をとことん聴き込むことです。僕は、アート・ペッパーを徹底的に聴きました。

 

 彼は 1925年9月1日アメリカ西海岸生まれのドイツ系白人ミュージシャン。幼くして両親は離婚し、音楽好きの父方祖母の元で育てられました。9歳の時にクラリネット、12歳でアルトサックスを独学で吹き始め、高校時代にロスの黒人街に入りびったてはプロのジャズメンとのジャムセッションで腕を磨いてみるみる頭角を現し、若くして名門ビッグバンド「スタン・ケントン楽団」の花形プレイヤーになります。

しかし、ガラス細工のように脆く不安定で繊細な彼の精神は、手練れで曲者ぞろいのミュージシャンがひしめくライヴ演奏の現場では、とても太刀打ちできませんでした。極度の緊張と劣等感から逃れるために、彼は麻薬(ヘロイン)に手を染めます。

当時のジャズメンはみな当たり前にジャンキーでした。麻薬をやれば誰でも、チャーリー・パーカーみたいに天才的なアドリブフレーズを湯水のごとく吹き続けることが出来ると信じていたからです。

実際『Journal of Neuroscience』(2021年3月29日付)に掲載された最新の研究結果によると、音楽を聴いて「気持ちイイ!」と感じる脳内部位は、やはりあの「ドーパミン報酬系」で、薬物・アルコール・ギャンブルで快感が得られる経路と結局一緒なのだそうです。つまり、ミュージシャンは皆ドラッグ依存症に陥り易い訳ですね。ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、尾崎豊、ASUKA、槇原敬之、岡村靖幸。みな同じです。

 ご多分に漏れず麻薬に溺れ爛れ切った破滅型ミュージシャンのアート・ペッパーは、人生の半分近くを刑務所と麻薬更生施設で過ごすことになります。皮肉なことに、素面に戻ってシャバに出た年にレコーディングされた演奏が彼の名演となりました。1952年、1956年、そして1976年がそれです。マイルス・デイヴィスは麻薬の悪癖を強靱な精神力で断ち切ることができましたが、アート・ペッパーはダメでした。2年もしないうちに再びジャンキーに逆戻りし刑務所へ。生涯その繰り返しでした。

 

 中でも、1956年〜1957年は彼生涯の絶頂期になりました。白人ジャズメンのレジェンドと言えば、スタン・ゲッツかジェリー・マリガンですが、彼らが活躍したウエスト・コースト・ジャズの全盛期を、アート・ペッパーは刑務所の中で過ごし、ようやく出所した時にはそのブームはとっくに過ぎ去っていたのです。クールでスマートな格好いい白人ジャズ。

でも彼は白人なのに黒人特有のタイム感覚とブルース・フィーリングを持ち味にして、刑務所で過ごした苦渋、心の翳りや憂い、別れた妻たちへの未練や色気をも漂わせる演奏をしました。また逆に、心の底に秘めた熱いエモーションも随所に押し出し、明るくスウィンギーに歌心溢れるメロディを次々と繰り出す陰陽兼ね備えた唯一無二のサックス・プレイヤーとして見事に復活したのです。『モダン・アート』『ミーツ・ザ・リズムセクション』『リターン・オブ・アート・ペッパー』の3作はそんな彼の代表作です。

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 どん底から立ち直ったアート・ペッパーの演奏に熱狂し、応援したのは日本のジャズファンでした。

1977年4月5日。アート・ペッパーは初来日します。しかし招聘元は麻薬禍の彼が入国審査にパスする自信がなかったので、彼のことを事前に公表宣伝することなく、カル・ジェイダー(ヴィブラフォン奏者)楽団+スペシャルゲストとだけ記載しました。でも、嗅覚鋭い日本のジャズファンは、どこからか噂を聞きつけ、東京芝の郵便貯金ホールに駆けつけたのです。

 カル・ジェイダーは日本で人気がなく、当日の客席はガラガラでした。リーダーもバンド・メンバーも、ゲストの彼のことを無下に扱い、彼は自作曲の楽譜を配ってリハーサルに臨んだのに、時間がないからと8分間で終わりにされたそうです。

アート・ペッパーの出番は、ライヴの第二部冒頭からでした。ステージ下手からアルトサックスを手に彼が登場すると、突如万雷の拍手が沸き起こりいつまでも鳴りやみません。彼が中央のマイクに近づくにつれ、それはますます大きくなり、マイクの前でそれが静まるまでの約5分間、何度もお辞儀を繰り返しながら立ちつくさなければなりませんでした。彼は自伝『ストレートライフ』の中で「生涯でこれ以上感激した瞬間はなかった。生きていてよかった」と書いています。

 幸い、この時の演奏をTBSラジオが録音していて、1989年に『ART PEPPER  First Live In Japan』として日の目を見ました。あの感動的な拍手がちゃんと収録されていて泣けてしまいます。

 翌1978年の3月、今度はゲストではなく自分のバンドを率いて再来日します。ところが、最悪の体調に加え、21日間で九州から北海道まで日本全国19公演をこなすタイトでハードなスケジュール。アート・ペッパーは心身ともにもうボロボロでした。でも巡業先の会場はどこも満員で聴衆の熱狂的な歓迎を受け、ただ気力だけで公演を続けた彼は、山形市で千穐楽を迎えます。

この最終公演を収録した国内盤CDは現在廃盤ですが、デンマークの老舗 Storyville Records から2枚組で出ていて、その2枚目に「おもいでの夏」が収録されています。この日の演奏は、聴衆の熱気にメンバー全員が一丸となって応え、バンドとしても最高のパフォーマンスを聴かせてくれました。

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 アート・ペッパーは1979年、1981年にも来日してすっかり親日家となりましたが、1982年6月15日、脳溢血のため急逝します。享年56。まだまだ早すぎる死でした。

彼のベストプレイは間違いなく1950年代ですが、僕は1970年代の演奏をこよなく愛しています。麻薬でボロボロになった身体から、小手先だけのテクニックでは決して発せられない、彼の人生が全て詰まった音が確かに聞こえてくるからです。

 これはタモリが言ったことですが「ジャズ = 俺の話を聴け!」なのです。ぜひ一度アート・ペッパーの「おもいでの夏」そして「Ballad of the Sad Young Men」を聴いてみて下さい。

  『長野医報』2021年8月号「特集:夏の思いで」(p10〜14)より再録。

注)1978年の山形市でのライヴ録音は、今年の7月に「ウルトラ・ヴァイブ」から国内盤が、税込み1100円で再発されました。


YouTube: The Summer Knows ART PEPPER


YouTube: Radka Toneff - Ballad of the Sad Young Men (live, 1977)

アート・ペッパーの「Ballad of the Sad Young Men」が、この間まで YouTube に上がっていたのに消されてしまったので、ノルウェーのジャズ歌手「ラドカ・トネフ」のヴォーカルで。

■あと、アート・ペッパー『ザ・トリップ』のレコードで、ぼくが一番好きな演奏は、A面2曲目に収録されている「A SONG FOR RICHARD」です。この曲では、伴奏のピアニスト、ジョージ・ケイブルスのソロがとにかく素晴らしい! まるで、1950年代に録音された幾多のジャズ名盤で必ずピアノを弾いていた、トミー・フラナガンの演奏を彷彿とさせるからです。

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