2022年3月26日 (土)

戦争反対! 待合室と自宅にあった絵本から

■3月6日:戦争反対! 手持ちの絵本も、これでおしまい。そっちもお終いにして欲しい。

『こどもたちはまっている』荒井良二の表紙は、ウクライナの国旗の色だ!

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■3月3日:戦争反対の絵本(その3)

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■2月27日:

ロシア軍のウクライナ侵攻に反対します。古い絵本が多くなってしまったけど『もっと おおきな たいほうを』二見正直・作(福音館書店)は、おすすめデス!


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■2月25日: 戦争反対!

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■以上、ツイッター上に2月25日〜3月6日にかけてアップした我が家にあった絵本たちです。

あと、『へいわってすてきだね』安里 有生/長谷川義史(ブロンズ新社)『せかいでいちばんつよい国』デビッド・マッキー(光村教育図書)を持っているはずなのだが、どうしても見つからなかったのでした。

2022年3月24日 (木)

ジャズ喫茶、渋谷「DIG」にレコード泥棒が入った!! その顛末

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■『BRUTUS 特別編集:完本 音楽と酒。』を買った。ピーター・バラカンが選んだ 96枚のレコード紹介がまずは読みどころだが、p202〜p207 には「60s - 90s 時代を象徴する music & drink な4軒」として、古い順に「新宿DIG & DUG」「渋谷ブラック・ホーク」「西麻布レッド・シューズ」「渋谷公園通り カフェ・アプレミディ」の4軒が紹介されている。

■新宿DIG & DUG に関して語るのは、オーナーの中平穂積氏だ。和歌山県新宮市出身(中上健次や児童精神科医 小倉清先生と同郷)日大芸術学部写真学科に入学後は、高校生の頃から大好きだったジャズが聴きたくて東京のジャズ喫茶巡りの日々。大学5年生の時、植草甚一氏と知り合い、彼のバックアップもあって、かねてからの夢であった自分の店「DIG」を新宿二幸ビル裏の3階にオープンする。1961年11月7日のことだった。翌年3月に挙げた結婚式では、植草甚一夫妻が仲人を務めた。

BRUTUS には「そして 1967年、紀伊國屋裏にジャズバー<DUG>をオープン。」と書かれていて、中平氏が 1963年7月10日に、渋谷百軒店にオープンさせた「DIG渋谷店」の事には一切触れられていない。

じつはこの「DIG渋谷店」が、以前にも紹介したように、そのまま「ロック喫茶ブラック・ホーク」となる。1969年のことだ。BRUTUS では<ブラック・ホーク>のことを萩原健太氏(1956年2月生まれ)が紹介している。彼が高校生の時(1973年)に初めて渋谷百軒店を訪れ、大学生になると、この界隈に入りびたることになるのだった。

中平穂積氏が、なぜ「渋谷DIG」を手放したのか? これは以前にも少し書いたが、その詳細は『新宿DIG DUG物語』高平哲郎編(三一書房)に載っていて、たしか持っていたはずなのだが探しても見つからずあきらめていたら、先だって「戦争関連の絵本」をいろいろと探して納戸の奥の方から絵本を引っ張り出したりしていて、偶然その本がいっしょに見つかったのだった。以下、その真相部分を転載する。(p60〜p62)

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 1966年秋のことでした。渋谷店のレコードが大量に盗難にあったんです。あのころ、渋谷店には2000枚のレコードを三段の棚に整理してありました。ある日、出勤した従業員の鈴木彰一が、二段目の棚の1000枚が消えていることに気づいたんです。鈴木は、現在は中野の「ジニアス」のオーナーです。そのときは、鈴木も、犯人は手の届きそうなところにあったレコードを無差別に持っていったと思っていました。

 連絡を受けて駆けつけてみると、二段目の棚にケニー・ドーハムの『マタドール』一枚だけが残っていました。このレコードは幻の名盤といわれていて、1964年にケニー・ドーハムが来日したときに、本人からサインをもらったものだったんです。売ったって高い価値のある名盤なのに、その価値が判らなかったのかあわてて残していったのかは判りませんでした。

 これはメッセージじゃないかって、ぼくは冗談半分に言いました。「『マタドール』を残したのは『また盗る』の意味じゃないのかな。怪盗ルパンみたいに」

 でも、この事件は幸いなことに解決するんです。事件から3ヵ月が過ぎたころ、「DIG」渋谷店近くの寿司屋に行ったときの話です。その店の主人がこんな話をしたんです。

 「そういえば、3ヵ月前の朝方、店の前に白い車を止めて、荷物を運んでいたのがいたよ。運転していたのは、そこの喫茶店の男だったよ」

 この目撃情報を聞いて、すぐに渋谷署に連絡して、喫茶店の男が捕まって、一挙に事件が解決しました。男は「ある人に頼まれてレコードを運んだ」と自供しました。それから間もなく犯人グループ4人が逮捕されました。「DIG」渋谷店に一時期、出入りしていた不良グループが犯人だったんです。事件の後、ぱったり来なくなったんで怪しいとにらんでいた男たちでした。1000枚のレコードも無事帰ってきました。

盗難事件の直後に、渋谷署から「盗まれたレコードのリストを作って欲しい」と言われて、鈴木彰一と二人で、アメリカのレコード・カタログの「シュワン」を見ながら、900枚以上のリストを数日かかって作ったんです。戻ってきたレコードと照合したら、二、三枚ぐらいしか違っていませんでした。警察にも凄い記憶力だと誉められましたよ(笑)。

「DIG」渋谷店が繁盛したんで。店の大家が渋谷「DIG」の二階でジャズ喫茶を開店したんです。でも木造でしょう。一階と二階の音が混じり合って、ひどい状態になった。盗難事件に音の問題で、ぼくも嫌気がさしてきました。それで1967年に、渋谷「DIG」を閉めることにしたんです。

 店を売りに出したら手元に500万円が残りました。これを新宿の日本相互銀行に預けたんですが、これが幸運の始まりになりました。そこの支店長がたまたま日大の先輩ということもあって、「事業を拡大するなら融資しますよ」って話になって、それが紀伊國屋裏のビルに「DUG」を開くきっかけになったわけです。

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 『新宿DIG DUG物語 --中平穂積読本-- 』高平哲郎編(三一書房)p60〜p62 より転載

2022年2月27日 (日)

小林信彦『日本橋に生まれて/本音を申せば 23』

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■小林信彦の小説以外の代表作『日本の喜劇人』の最新改訂版『決定版 日本の喜劇人』(新潮社)が 2021年5月20日に発刊されたが、ぼくはまだ買ってない。じつは、2015年10月に「日本の古本屋」で検索して、箱入りの『定本 日本の喜劇人(全2冊)喜劇人篇・エンタテイナー篇』を 6,000円(+送料500円)で購入していたからだ。ただ、手に入れただけで満足してしまい、まだ読んではいない。

それなのに「決定版」が出るのか! 悔しい。幸い、小林信彦氏は「決定版」用の追加原稿を新潮社のPR月刊誌『波』に連載しており、バックナンバーは伊那市立図書館で借りることができたので全てコピーした。だから買わなくてもよいのだ、と負け惜しみ。

■小林信彦氏は、1932年(昭和7年)12月12日生まれ(小津安二郎、フランク・シナトラ、E・G・ロビンソンと同じ誕生日)だから、今年90歳になる。2017年4月に脳梗塞で左半身不随となり、その後さらに2度、左大腿骨骨折を起こし度重なる入院とリハビリの日々が続いた。その間、20年近く続いている週刊文春の連載「本音を申せば」は中断された。

「週刊文春」は買ってきて最初に読むのは、決まって小林信彦「本音を申せば」だったから、連載が載っていない週刊文春は買わなくなってしまった。そしたら、知らないうちに連載は再開され、2021年7月8日号で終了してしまっていた。(まだ続く)

■小林信彦『日本橋に生まれて/本音を申せば 23』の前半は、「奔流の中での出会い」(週刊文春/ 2018年11月1日号〜2019年6月20日号収録)後半は、「最後に本音を申せば」(週刊文春/ 2021年1月14日号〜2021年7月8日号収録)

・野坂昭如に関して: 永六輔に「ああいう人物とつきあわない方がいい」と言われびっくりした。(p13)

・渥美清さんには、いろいろな噂があった。まずは、かつては浅草界隈の暴力団のような所にいたのではないかということ。(p25)

・長部日出雄: なんだか分からないモヤモヤした暗雲は彼が直木賞をとったころから始まっていた。そのために、私が何重にもひがんでいたと彼が考えていたのは、おそらく正しい。(p43 小林信彦は、芥川賞も直木賞も何度も候補に上がりながら、結局どちらも取れなかった)

・大瀧詠一: 小林信彦に彼のことを教えたのは、相倉久人。大瀧詠一が小林信彦のファンになったのは、以前から彼のファンであった伊藤銀次の影響によるらしい。

・井原髙忠: 「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」の「ゲバゲバ」という言葉は、そのころ流行していた「ゲバルト」から小林信彦が「ゲバゲバ大行進」というタイトルを思いついたのを、代理店が変えた。

・江戸川乱歩: ここが一番読み応えがあった。詳細は別に本があるらしいが。

・坂本九: 彼があの日、大阪行きの日航機に乗ったのは、自民党議員の選挙応援のためであった。

・伊東四朗: <重厚さ>と<軽薄さ>のあいだに漂っている人 ---- 芸人。(p147) 市川崑監督が、伊東さんを「からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい」と評していた

・平野甲賀:「平野さんの文字は、人名だけでも<甲賀流>というぐらい、書店に常にある。それがない世の中はおかしい。一度、私が自分の名前を<正字にして>みたい、と言ったところ、平野さんは笑って言った。『小林信彦の彦を正字にすると<彥>になるんですよ。名前を途中から変えるというのはおかしいですよ』と平野さんは言った。」

とあるが、小林さんは<旧字>にしてくれと言ったのではなくて、明朝体とかの活字体にして欲しいと言いたかったのだと思う。これには笑ってしまった。

・ただ、同じ話は以前にも何度も読んだ気がするなあ。年寄りだからまあ仕方ないか。でも、彼のかつての友人知人はみな、とっくに鬼籍に入ってしまっている。淋しいいんだよ。彼は。

p196 を読むと、彼は週2回のデイサービスに通っているという。左半身マヒと2回の大腿骨骨折で、移動は車椅子と思われる。介護認定では要介護どれくらいなのだろうか?

■『決定版 日本の喜劇人』出版にあたって、小林信彦プレゼンツ これがニッポンの喜劇人だ!」という、小林信彦が太鼓判を押す日本の喜劇映画の数々が(2021/05/22 ~ 2021/06/04)に「シネマヴェーラ渋谷」で特集上映された。

・小林旭の代表作:『東京の暴れん坊』(助監督は神代辰巳!)『仁義なき戦い・頂上作戦』『縄張はもらった』(芝山さんは、あと『大草原の渡り鳥』を挙げている)

・クレイジーキャッツ:『ニッポン無責任時代』『大冒険』(「リオの男」のカバー?)

・森繁久弥: 『三等重役』『喜劇とんかつ一代』

・フランキー堺:『人も歩けば』

・伴淳三郎:『名探偵アジャパー氏』

その他いろいろ、amazon prime で見れるのは、どれくらいあるのかな?

2022年2月13日 (日)

佐々木昭一郎のラジオドラマ『都会の二つの顔』

■先週の土曜日の夕方、伊那の「黒猫 通り町店」に行ったら、犬風さんは関東演奏ツアー中で居ず、田口さんが一人店にいた。

このあいだ久々に見た、佐々木昭一郎の『さすらい』の話をしてみたら、田口さんは、そんなのもちろんご存じで、「遠藤賢司が出ているヤツね。佐々木昭一郎は、ラジオドラマで面白いものがありますよ。若い男女が出会って魚河岸に行く話。街頭録音でドキュメンタリーみたいな。何てタイトルだったかなあ? 確かレコードにもなっているんですよ」

ややっ、ぜんぜん知らない。佐々木昭一郎のラジオドラマは全くノーチェックだった! まるで赤子の手を捻るみたいに、簡単に田口さんにかわされてしまったぞ。 正直悔しい。

帰って『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)を調べてみたら、『都会の二つの顔』という題だと判った。

『都会の二つの顔』(30分ラジオドラマ)1963年12月制作。語りとピアノ:林光、脚本:福田善之+佐々木昭一郎 / 出演:宮本信子、横溝誠洸 <ある日出会った若い男女の一日の物語。魚河岸で働く若者と舞台を夢見る少女。二人は人生を語る>

YouTube にはなかった。でも、「ニコニコ動画」にあったのだね。さっそく聴いてみたよ。

主演の二人。役柄も実際にも、境遇のまったく異なる二人。若者は、佐々木昭一郎の高校時代の親友で、都内北区滝野川で魚屋を営業している。俳優ではない。ずぶの素人。少女役の宮本信子は、あの伊丹十三の妻の宮本信子で、当時まだ高校を卒業したばかりの18歳。文学座の研究生になって役者の勉強を始めたばかりの頃だ。

【ストーリー】師走の夜11時過ぎ。青山のボウリング場。初めて来た若者が、友だちを待っている女の子をナンパする。すっかり意気投合した二人。深夜の六本木、レストランに入って若者はビールとビフテキを注文する。「すげえな、このビフテキ。わらじみたいだ、チューチューいっちゃってんの」。そうすると女の子がコロコロ笑い出す。今度はナイフで切りはじめる。「この、のこぎり全然切れねえや」「のこぎりっていうんじゃないの。ナイフ」。

深夜のスナック(クラブ?)へ移動する二人。女の子の顔見知りの男女がすでにいる。男はラリっている。話が合わず、その場にまったく馴染めない若者。「おれ、ちょっと失礼して、トイレに行ってくらあ」と行って店を出てしまう。あわてて追いかけてきた女の子。「なんでそんなに怒ってるの?」「なんでえ、今のやつら」「あれはああいう人たちなの。ああいう人たちもいるのよ」。

もう午前3時近くか。二人は六本木飯倉片町の交差点から東京タワーに向かって歩いて行く。神社に寄ってお参りして、浜松町を過ぎて竹芝桟橋まで海を見に行く。東京オリンピックの前年だから、深夜でもトラックが行き交う。

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■2年後の1965年。椎名誠『哀愁の町に霧は降るのだ(上)』を読むと、この頃の椎名誠は六本木のピザ屋「ニコラス」で皿洗いのバイトをしていた。『東京アンダーワールド』に登場するマフィアのボス、ニコラ・ザペッティの店だ。仕事は夜8時から午前3時半まで。終了時には、バスも地下鉄も動いていないから、バイト仲間と連れだって歩いて浜松町まで行って、始発に乗って更に1時間かけて帰ったという。

「10月から始めたこの皿洗いのアルバイトもいつのまにか12月になって、冬の夜明けの通りはものすごく寒かった。飯倉の角から東京タワーの下を通り、長い坂道を下りながらおれたちはわりあいいつも黙りこんで歩いた。」(『哀愁の町に霧は降るのだ(上)』(情報センター出版局)166ページ

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『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)81ページで、佐々木はこう言っている。

 魚屋の青年の中を流れている意識が快活でね、非常にいいんだよ。今でも思い出すけど宮本信子と二人で寒い六本木の街を歩くんだね。そうすると向こうからバーッとダンプカーが来たりする。それから”火の用心”なんて書いてある。

寒いから「寒いなあ!」なんていうと「息がまっ白」なんて言うんだ。耳が冷たいっていうと魚屋が耳にパッとさわるんだ。「わァ、手があたたかい」って宮本信子がまた言う。そういうところ、今テープを聞き返してもいいなあと思うところなんだね。それは自然のうちに出てきた会話なんだ。ぼくは二人腕組んで歩いてくれって注文しただけ。

竹芝桟橋で、夜明け前の東京湾を見つめる二人。「浜のにおいがする! 空が大きい!」と宮本信子。なんだか桂三木助の『芝浜』みたいだな。この時まで彼女は知らなかったのだが、実際に彼は勝五郎みたいな江戸っ子の魚屋なのだ。

ほんと、この若者の口調は落語の主人公みたいで、江戸前の気っぷの良さと、べらんめえだけど爽やかさがあって、彼の声は聴いていて実に気持ちがいい。裕次郎みたいに歌も上手いぞ。

それから、宮本信子もいい。飾らなくて自然で、明るくて。場面は変わって築地魚河岸。若者の仲間が大勢いる。六本木とは打って変わって、水を得た魚のように生き生きしだす若者。そうすると今度は女の子が置いてけぼり。午前11時。待ちくたびれた女の子。「わたし帰る。さよなら」って言う。また会いましょうとも言わない。

「どこだっけうち? トラック乗っていくか?」「じゃあ乗っけてもらおうか」「どこまでだよ」「どこまで?」「どこまでだっていいよ」(おしまい)

       【参考文献】『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)

「ほぼ日」の佐々木昭一郎インタビュー にもあるけれど、このラジオドラマ『都会の二つの顔』が「彼の作風の原点」になっているんだね。なるほどなあ。黒猫の田口さんに教えてもらって、ほんとよかったよ。ありがとうございました。

「ニコニコ動画」には、佐々木昭一郎のラジオドラマがあと2本アップされていた。

 ・『おはよう、インディア』(1964)

 ・『コメット・イケヤ』(1966)

こちらも聴いてみよう!

それから、「てれびのスキマの温故知新 〜テレビの偉人たちに学ぶ〜」戸部田誠(第27回)2022/01/26 で、ちょうど佐々木昭一郎が取り上げられている。そろそろまた、NHKBSP で『さすらい』をはじめ、佐々木昭一郎の作品群が再放送されないかな。

2022年2月 4日 (金)

渋谷・百軒店・『さすらい』 追補

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■百軒店にあった「ブラックホーク」には、僕は入ったことはない。店の前は何度も通りすぎたけれども。

この店に関しては『渋谷百軒店 ブラック・ホーク伝説』(音楽出版社)そして、松平維秋『SMALL TOWN TALK~ヒューマン・ソングをたどって』(VIVID BOOKS)の2冊が出版されているが、僕はどちらも未読。

以下は、『渋谷系』若杉実(シンコーミュージック)10〜11ページより。

 ブラック・ホークを開業することになる水上義憲は、大学在学中に父の知人である金融業者から「これからの時代は日銭商売がいい」と教唆されるように指南され、出物の話を持ちかけられる。それはジャズ喫茶の名店として知られていた「渋谷DIG」。

(しろくま注:新宿DIG の姉妹店としてオーナーの中平穂積氏が、1963年7月、渋谷百軒店に出店したが、1966年の秋、店に泥棒が入り一枚だけを残しレコードがすべて盗まれてしまう。残ったレコードがケニー・ドーハムの「マタドール」。犯人は捕まりレコードはすべて戻ったのだけれど、残った一枚のレコード「マタドール」が、泥棒からのメッセージ「また盗る」と不吉に思ったのか、嫌気がさしたオーナーの中平穂積氏は店を手放すことにしたのだという)

スタッフ(レコード係の松平維秋)とレコード一式を残し店を畳むことになっていたのだ。つまり、それをもとに新しい店をやれ、と。水上は姉のサポートをもと在学中にジャズ喫茶のオーナーになる。

 百軒店にはジャズ喫茶であふれ返っていた。ブラック・ホークが入るビルの2階に「SAV」。ライヴを中心としていた「オスカー」。メインストリーム系の「スイング」「ブルーノート」。そして名前どおり、こぢんまりとした「ありんこ」。百軒店のすこし手前、恋人横丁のそばにも老舗「デュエット」があった。(中略)

 だが皮肉なことに、それからほどなくして世間でのジャズ喫茶ブームに陰りが見えはじめる。こうした時勢に鑑み、水上は「DIG」から「ブラック・ホーク」と名前を変え、ロック専門の喫茶店へとリニューアルする。1969年のことだった。(中略)

 ブラック・ホークに流れるロックは一筋縄ではいかないものばかりだった。ジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンなどシンガーソングライターはもとより、ガイ・クラーク、ガストリー・トーマスのようなカントリー系、ベンタングルやフェアポート・コンヴェンションといったブリティッシュトラッドなど、まるでフォークの世界地図を目にしているようだった。

 そのフェアポート・コンヴェンションがバックを務めるニック・ジョーンズの『バラッズ&ソングス』がきっかけでトラッドに開眼したという松平維秋は、渋谷DIG 時代からレコード係としてブラック・ホークを支えてきた人物。店内に流れた音楽をみずから”ヒューマンソング”と命名する。


YouTube: Nic Jones - Ballads and Songs

■ジャズ喫茶のマッチコレクションで知った、豊丘村在住のムッシュ松尾氏の 2022/01/18 のツイートにこんなことが書いてあったぞ。勝手に転載してごめんなさい。

僕が東京のジャズ喫茶巡りをしていたのにはちょっとした訳がありますそれは渋谷にあったロック喫茶に行く為そこで聴いたレコードをレコード店で探す為。当時音楽雑誌ニューミュージックマガジンの広告に載っていた見た事も聞いたこともない音楽に出会う為。その音楽一言で言えばヒューマンソングという

その店でブリティッシュトラッドと言う音楽を覚えた。昔ながらの伝統のフォークトラッドと新しい若者たちが試みるエレクトリックトラッドと言う音楽。ペンタングルを始めフェアポートコンベンション、スティーライスパンなどのエレクトリックトラッドに心を奪われていく。そう伝説のブラックホークだ!

なるほど、この父親のもとで育ったわけなのだな。妙に納得してしまった。スタジオジブリ『アーヤと魔女』挿入歌「The House in Lime Avenue 」 by GLIM SPANKY。


YouTube: The House in Lime Avenue

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■「佐々木昭一郎」の初期の作品には、プロの役者はまったく登場しない(「はみだし劇場」と『紅い花』は除く)

カメラの前で、素人に演技をさせるのだ。しかも、手持ちカメラだから画像は揺れるし、いきなり人物に寄るし、急にパンするし、まるで「ドキュメンタリー」のような映像が映し出される。緊張感とリアリズム。それでいて、詩情あふれるシーンも随所に挿入され、そこには必ず印象的な音楽が使われるのだ。

 『夢の島少女』→ 「パッヘルベルのカノン」

 『四季・ユートピアノ』→ 「マーラー交響曲4番」

 『川の流れはバイオリンの音』→ 「チャイコフスキー弦楽セレナーデ」

 『紅い花』→ 「ドノバン:ザ・リヴァー・ソング」

 『さすらい』→「ザ・バーズ /イージー・ライダーのバラード」


YouTube: The Byrds (ザ・バーズ) / Ballad of Easy Rider 「イージー・ライダーのバラード」

■『さすらい』の主人公「ヒロシ」は、横浜の山手通りで他人のバイクを勝手にエンジンふかしてイタズラしているところを佐々木昭一郎に発見されスカウトされた。15歳だった。父はアメリカ人で母は日本人。混血孤児で、エリザベス・サンダースホームの出身。

栗田ひろみも、佐々木が発見した。佐々木の友人(池田)の知り合いで「妹っていうイメージで12,3歳の子供が要るんだけど、ちょっと色が黒くて目がクリクリしているような子いないかって言ったら、あの子連れて来た」「放送終わったらものすごい電話が鳴るんだ、今の女の子誰ですかって」「1,2年後に大島渚の『夏の妹』っていうのに出た。初出演って、まあ大島さんが見つけたみたいになってたけど、いちゃもんは全然つける気はないけど、ぼくのに最初に出した。」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

「笠井紀美子は、アメリカに出発する直前だった。彼女が演じた、さすらうシンガーのシーンは、出発3日前に撮った」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

■佐々木昭一郎の作品の中では、ぼくは『さすらい』が一番好きだ。

主人公ヒロシは孤児。おとうさんも、おかあさんもいない。兄弟もいない。だから、さすらいながら探し、そして出会う。

友川かずきは兄貴だ。栗田ひろみは妹。キグレサーカスの綱渡りの女は母親のイメージか。笠井紀美子は、唄をうたう「お姉さん」だ。「交流」するためにアメリカへ行こうとしている。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき。自分じゃない、他の自分……。」

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

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■渋谷に生まれ、渋谷で育ち、いま現在も渋谷に暮らす、井上順さん。彼のツイートは、このところ毎朝の楽しみになっている。進行形の渋谷の街並みに溶け込む彼の写真とお決まりのダジャレ。

そのダンディな装いとは逆に、飾らない人柄が溢れ出た笑顔がなんとも素敵な人だ。最近出たばかりの本『グッモー!』井上順(PARCO出版 2021/10/14)は、変わりゆく渋谷の写真も満載で楽しい一冊だ。

井上順は、1947年2月、渋谷区富ヶ岡1丁目にあった「井上馬場」に生まれた。少し北へ行くと代々木八幡宮がある。祖父は獣医師で、サラブレッドの輸入にも関与し、経営する馬場には宮様方も乗馬に訪れたという。

3人兄弟の末っ子だった彼がまだ幼い頃に両親は離婚。やり手の母親は自ら会社を立ち上げバリバリ働いた。今で言えばジャニーズ系のイケメンだった彼が中学1年生の時、母親は彼が将来芸能界で活躍できるかも? とでも考えたのか、彼を「六本木野獣会」に入れる。

川添浩史・梶子夫妻の評伝『キャンティ物語』野地秩嘉(幻冬舎文庫)にも、120ページに「六本木野獣会」が登場する。渡辺プロダクションの副社長、渡邊美佐が目を付け選んだタレント候補生の集まりで、ジェリー藤尾、田辺靖雄、大原麗子ら約20人のメンバーが、六本木飯倉片町の「キャンティ」近辺にたむろしていたのだった。

井上順は峰岸徹の弟分となり「キャンティ」隣の写真家の立木義浩氏の自宅にも、よく遊びに連れていってもらったという。そして、彼が16歳の時に、ザ・スパイダースの最年少メンバーとして加入することになる(少し先に加入した堺正章は、彼と同学年だが 1946年8月生まれ)。

ザ・スパイダースは、リーダーの田邊昭知のマネージメント能力とリーダーシップ、それから、かまやつひろしの新しいものを直ちに取り入れるシャープな感性と音楽センスによるところが大きかったと。メンバーの大野克夫、井上堯之は、のちに作曲家としても大きな功績を残した。

田邊昭知はいまや、タモリも所属する田邊エージェンシーの社長だ。奥さんはあの、小林麻美。

追補)井上順さんのツイートを読んでいて驚いたのは、彼が海外ミステリー、ハードボイルド、冒険小説のファンで、新刊も欠かさずしっかりフォローしていることだ。

ハヤカワの「暗殺者グレイマン」のシリーズ、講談社文庫マイクル・コナリー「ハリー・ボッシュ」シリーズ、そのほか最近の人気シリーズものや、創元推理文庫のシブいところまで、とにかくよく読んでいてビックリしてしまったぞ。すごいな!

2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

写真をクリックすると大きくなります>

■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

・・・

■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2022年1月11日 (火)

ムッシュ松尾の「僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」at the『リデルコーヒーハウス』

■1月9日(日)の午後、延滞していた本をを南箕輪村図書館に返却し、代わりに最近ツイッターで話題になった『辛口サイショーの人生案内デラックス』最相葉月(ミシマ社)を借りる。

そのあと、伊那インターから中央道下り線に乗って「座光寺パーキングエリア」で下車し、左手山側へずんずん上って行って突き当たりを右折。橋を渡ってすぐ左手に、高森町の日帰り温泉「信州たかもり温泉 湯ヶ洞」があって、その北側の急な坂道をちょっと上ると、目指すジャズ喫茶『リデルコーヒーハウス』だ。

■営業時間は< 15:03 〜 21:03 >。休店の日は、ブログで確認のこと。

団体客お断り。2人連れまで。駐車場に車が3〜4台とまっていれば、ほぼ満席と、2階の店内の面積はそこそこ広いのに、コロナ対策で厳しい人数制限がなされている。

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お店の窓から南アルプス荒川岳を望む。右側に行くと赤石岳

ここでは、1月いっぱいムッシュ松尾の僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」が開催されていて、ツイッターでたまたま知ったので、コロナは心配ではあったけれど、我慢できずに見に来たのでした。

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■ところで、これらのマッチを収集した「ムッシュ松尾」氏って、誰? 何者??

僕はまったく知らなかったのだが、いろいろ検索するうちに判ってきたことは、豊丘村在住で同村内に『HAPPY DAYS』という雑貨屋さんを経営し(この1年半はコロナのため休業中)懐かしい様々な物品を収集している「サブカルおやじ」であるらしいということだ。

■むむっ? 「松尾」+「豊丘村」!? と言えば、いまの若い人たちなら即座に「GLIM SPANKY」のヴォーカル:松尾レミ を思い浮かべるだろう。ということは、もしかして、ムッシュ松尾は、松尾レミのお父さんなのか? 

ピンポーン! → 正解でした! 喫茶店のマスターにも確認しました。

この松尾レミのインタビュー記事(2018年 春)を読むと、彼女は「父親は61歳のカルチャー好きなヘンなおじさん」と発言している。ということは、現在 65歳か。僕より2つ上だな。そうなると、1975年〜1980年頃に彼が暮らしていた東京と京都? で、これらのジャズ喫茶のマッチは収集されたものと思われます。

■3つのテーブル上に並べられた個性あふれるマッチは、約300個。東京のジャズ喫茶が主で、あとは京都のジャズ喫茶。「イノダコーヒー」や、名曲喫茶(渋谷道玄坂百軒店「名曲喫茶ライオン」など)、ロック喫茶のマッチもある。長野県内のジャズ喫茶のマッチもいくつかあった。(松本「アミ」伊那「あっぷるこあ」「カフェドコア」飯田「ブルーノート」) それにしても、ホントよく集めたねえ!!

■この中で僕が行ったことがあるジャズ喫茶は、19軒しかなかった。

 新宿「DIG」「DUG」「びざーる」「木馬」「ピット・イン」 

 渋谷「ジニアス」「ジニアスII」「デュエット」「スゥイング」「音楽館」「メアリージェーン」

 自由が丘「アルフィー」 四ッ谷「いーぐる」 上野「イトウ」

 京都「しぁんくれーる」「52番街」

 伊那「あっぷるこあ」 松本「エオンタ」「アミ」

僕は茨城の田舎(茨城県新治郡桜村)の大学だったから、週末に常磐線に乗って東京へ出てきては、池袋文芸座でオールナイト映画を見て、明け方始発の山手線に乗って電車の中で熟睡。そのまま山手線を2〜3周したあと、新宿や渋谷のジャズ喫茶やレコード店めぐりをしていた。それは、1977年〜1982年の6年間のこと。

だから、東京では、中央線沿線の有名ジャズ喫茶には、一度も行く機会がなかった。ムッシュ松尾氏が通った時期と、数年微妙にずれているのかな? 

ぼくが渋谷でずっと通っていた、道玄坂百軒店「ブレイキー」のマッチは残念ながらなかったし、目蒲線西小山に住んでいた兄貴の所に泊めてもらった時には、大岡山の東工大前にあった「ガールトーク」に何度か行った。ここのマッチもなかった。

■そしたら、僕のツイートに「ムッシュ松尾」氏がリプライしてくれた。なんと! 松尾氏は東京に住んだことは一度もないんだって。もうビックリ。ずっと豊丘村で暮らしながら、休日に上京しては音楽喫茶とレコード屋めぐりをしていたんだそうだ。

もちろん、展示されたマッチの店すべてを訪れた訳ではなくて、古道具屋で見つけて集めたマッチもあると。それでも、200軒近くは直接行ったことがある店とのこと。いやあ、それにしても凄い。凄すぎる。

松尾氏も僕も、二人とも東京で一度も暮らしたことがないのに、東京のジャズ喫茶について熱い想いがあったことが、なんだか同志みたいでうれしかった。

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■京都河原町通荒神口角荒神町の2階にあった『しあんくれーる』。高野悦子『二十歳の原点』にも出てくる。一度だけ行った。ビル・エヴァンズが静かにかかっていた。『52番街』は確か同志社大学の裏手だったかな? 「アルテックA7」が鳴ってたように記憶している。

■サッチモの線画のマッチは『あっぶるこあ』。地元の伊那バスターミナルの通りの向かい2階にあった。僕が高校2年生の時にオープンした。同じクラスの小林クンは早々に入り浸っていたけど、僕が初めて中に入ったのは大学生になってからだ。実は怖くて一人では入れなかったのだ。

ここで聴いて印象に残っているレコードは、

『The Soulful Piano』ジュニア・マンス・トリオ、『BLUE CITY』鈴木勲、それから、板橋文夫『濤』A面「アリゲーターダンス」と「グッドバイ」。人気の美人ママ(竹田成子さん)が仕切っていたが、ニューヨークへ行ってしまった。

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吉祥寺の『ファンキー』もジャズ喫茶の老舗だ。ただ、僕は行ったことはない。

先だって、松本の中古CD店『ほんやらどお』で、高田馬場にあるジャズ喫茶『イントロ』(ここも行ったことない)が開店20周年記念ライヴをCDにした『Soulful "intro" Live! 』(1995) を 700円で入手した。店主の茂串邦明氏がドラムを叩き、アマチュア・ミュージシャンの常連客が次々とジャム・セッションを繰り広げるアットホームなCDだ。

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■このCDの3曲目、レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」で、見事なアルトサックス演奏を披露しているのが『ファンキー』店主の野口伊織氏だ。玄人はだしの歌心とテクニック。ちょっと、アート・ペッパーみたいでビックリした。

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「野口伊織記念館」のサイトに行くと、なんと、彼は悪性の脳腫瘍で 2001年に 58歳の若さですでに亡くなっていた。知らなかった。ここの「野口伊織の作品」の中に、この「ジョージア・オン・マイ・マインド」が mp3ファイルで載っているのだが、何故かちっともアクセスできなくて残念。


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■新宿二幸(今のアルタ)うら『DIG』へはよく行ったな。まずは1階の『アカシア』でロールキャベツ(350円くらいだったか?)を食べてから狭い階段を3階へ上って行くと、ずんずん地響きのようにスピーカーから熱いジャズが降ってきた。マッチに描かれたビュッフェの絵は、エラ・フィッツジェラルドの『ガーシュウィン・ソングブック』のレコード・ジャケットから。

ここでは、ウディ・ショウ『Stepping Stones』、エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Light House』、そして、ファラオ・サンダース『Journey To The One』の Side C「You've Got To Have Freedom」を初めて聴いた。店を出たあと直ちに西口小田急ハルク裏のレコード店「オザワ」へ走って、ファラオ・サンダースのテレサレコード2枚組を買ったのだった。それ以来、無人島に持って行くなら「このレコード」と決めている。

「さいきんおげんきですか?」のマッチの斜め左上が、同じく新宿東口にあった『びざーる』のマッチ。地下の穴蔵へ降りてゆくと、デイヴ・ベイリーの『BASH!』がご機嫌に鳴っていたっけ。

■「DIG」が閉店して、もうずいぶん経ってからだったか、家族で新宿中村屋に入ったら、中平穂積さんがひとりテーブルでインドカリーを食べていた。

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■代々木『ナル』のマッチの2つ右。松本市緑町『凡蔵』の隣にあった『アミ』のマッチ。これは知らなかった。2階があって、靴を脱いで上がった。みな横に寝そべってくつろいでいた。

ファラオ・サンダースが大好きなんです!って言ったら、マスターが「ファラオなら、コイツが最高さ!」と『Love In Us All』のレコードを初見の僕にいきなし貸してくれた。当時入手困難だったので、うれしかったなあ。

確か、隣の店舗から火が出て、延焼で燃えてしまった。

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■国分寺時代、地下にあった『ピーターキャット』のマッチ。初めて実物を見た。千駄ヶ谷に移転後の店も僕は行ってない。国分寺の店の様子は、上原隆『こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎)79ページ「彼と彼女と私」に詳しい。

何かで読んだのだが、佐藤泰志の奥さん(まだ結婚する前)が、同時期に国分寺の別のジャズ喫茶に勤めていたらしい。『きみの鳥はうたえる』は国分寺が舞台だ。佐藤泰志は『ピーターキャット』を訪れたことがあるんじゃないかな。

■検索したら、『移動動物園』佐藤泰志(小学館文庫)の解説で、岡崎武志氏が書いていることが分かった。さっそく納戸から文庫本を取り出してきたところ。少し長くなるが以下に引用する。

ところで、佐藤泰志と村上春樹の意外な関係について、少し触れておきたい。二人は1949年生まれの同い年という以上に、機縁がある。佐藤は函館、村上は神戸と、背後に山が迫る港町で青春時代を送った。高校はいずれもその斜面にあった。浪人時代を経て、北から、西からの上京者であり、どちらも国分寺で同時期に暮らしていた。

文壇デビューも佐藤が28、村上が30、とともに遅い。大学在学中に結婚相手を見つけ、一緒に住み始めたのが同じ1971年。アメリカ文学の影響を受け、ジャズが好きだったのも同じなら、佐藤夫人の喜美子さんは国分寺の「モダン」、村上夫人の陽子さんは神保町「響」と、どちらもジャズ喫茶でアルバイトをしていた。

村上春樹はジャズ好きが高じて、早稲田大学在学中の1972年に国分寺南口でジャズ喫茶「ピーター・キャット」(のち千駄ヶ谷へ移転)をオープンさせる。そこで考える。ジャズ好きの佐藤が、村上の「ピーター・キャット」へ行ったことはなかったろうか。と。

この妄想は、同じ国分寺在住の私を刺激する。しかし二人はおそらく言葉を交わしたこともないだろうし、やっぱりどこかが決定的に違うのだ。

小学館文庫『移動動物園』佐藤泰志 解説 281ページ:岡崎武志

■岡崎武志氏は、著書『ここが私の東京』の第一章「佐藤泰志 報われぬ東京」で、佐藤泰志についてさらに詳しく書いている。こちらは全文ウェブ上で読める。

実は、岡崎氏も指摘していない「この二人」の共通点がもう一つある。

それは、「走る人」であることだ。東出昌大主演で最近映画化された、佐藤泰志原作の『草の響き』は、ランニング小説だ。河出文庫『きみの鳥はうたえる』に収録されているこの小説に関しては、以前ブログに書きました。

■『アルフィー』は自由が丘の駅近くにあった硬派のジャズ喫茶。肩まである髪のまだ若いマスターがブイブイいわせていた。一度しか行ったことないけど、デヴィッド・マレイの『ロンドン・コンサート』が、がんがん鳴っていた。

■僕が通った1970年代後半の渋谷はすっかり変わってしまった。

ハチ公口から街へ出て、スクランブル交差点を渡って「109」を左に道玄坂を少し上ると右手が「百軒店」の入口だ。曲がって左に中華「喜楽」坂の右手に「道頓堀劇場」。突き当たり正面左側に、卵入りカレーの「ムルギー」、その左奥2階がジャズ喫茶『音楽館』。右側の細い路地を真っ直ぐ行くと、ロック喫茶『BYG』と老舗名曲喫茶『ライオン』。さらに奥へずんずん行くと、円山町のラブホテル街。

ただ驚いたことに、喜楽は小綺麗なビルに建て変わったけれど、いまも現役で営業を続けている。ムルギーに至っては、建物も外装も内装も椅子もテーブルも?当時のまま営業を続けている。

大槻ケンヂが『行きそで行かないところへ行こう』で通った頃には、会計のレジに割烹着でちょこんと正座した、永六輔みたいな角刈りの気っぷのいいおばあちゃんはいなかったのかな? リンクした島田荘司氏の文章は、残念ながらさすがにリンク切れだった。

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★【1978年ころの渋谷「百軒店」の店舗一覧:「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』だ 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。 一番下の通り右から6軒目に、ちゃんと『ブレイキー』も載っている!】

滝本淳助さんのツイート(2021年9月16日)より、1978年の「ムルギーから左奥の眺め」

「ムルギー」を左に奥へ進むと、右角の1階にロック喫茶『ブラックホーク』(2階が『音楽館』)道の左側には『スウィング』(しばらくして宇田川町へ移転)があった。右へ曲がって細い路地を入って行くと、右手1階に『ミンガス』(ここは入ったことない)。対面2階に目指す『ブレイキー』があった。遅い時間で所持金にゆとりがある時は「ムルギー卵入りカレー」で、早い時間に着いた時は『ブレイキー』(午前9時半に開店した)で、黒すぐりジャム入り紅茶とたまごサンドのモーニングセットをよく食べたなあ。遙かむかしの話だ。

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(上から3段目左端のマッチが、渋谷百軒店ロック喫茶『ブラックホーク』。最上段左から4番目が『名曲喫茶ライオン』のマッチだ)

2021年12月29日 (水)

落語『芝浜』考

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■12月26日(日曜日)の夜、伊那市通り町『旧紙庄』3階屋根裏倉庫にて、入船亭扇里師と AZUMI氏のライヴがあって聴きに行ってきた。旧市役所跡の市営駐車場に車を駐めて「さて」この冬一番の寒波にむせぶ夜に街へと繰り出したのだが「あっ!マスク忘れた!!」あわてて自宅に戻り新品マスクを持って再び駐車場へ。

7時開演なのに、5分遅刻だ。ドアはもう閉め切られている。でも開いた!「紙庄」の急な階段を上ると、まだ始まってはいなかった。よかった! 田口さんの弁によると、未だ来ない僕のことをわざわざ待ってくれていたらしい。ほんと申し訳ありませんでした。

■最初に高座に上がったのは扇里師匠。いきなし「芝浜」かあ?と焦ったら、軽い話『一目上がり』と『持参金』を演じて高座を下りる。寒い夜に、われわれ観客のエンジンをアイドリングしてくれた訳だ。

■続いて「なにわのブルースマン」AZUMI氏がアコースティックギターを抱えて登場。ちっとも歌わずに、延々とギターソロが続く。もう。めちゃくちゃ上手い! 初めて聴いたけど、もの凄いテクニックをさり気なく披露する、さすらいのギター弾き! ひょいひょいとオープンチューニングに変えたり、ボトルネック奏法もあった。しかも、歌声が渋い!!

でも、大阪のブルースマンと言えば、僕にとっては憂歌団の内田勘太郎だし、有山じゅんじ氏だ。もっともっと淀川のドブ臭さに満ちたギター弾きたち。でも、AZUMI氏のギターはちょっと違う。不思議と、コテコテのブルースではないのだな。

何だろう? うん、そう。艶歌(演歌)だ。藤圭子や、そして何故か「三上寛」を聴きながら思い浮かべていた俺だった。ただ、ラストで歌ってくれた、この12月、ちょうど10日ほど前に、十三でのライヴの打ち上げ帰りに拾って乗って、御堂筋をひたすら南へ突っ走るタクシーの運転手のことを歌った「トーキング・ブルース」。これにはちょっと驚いた。まるで上方落語を聴いているみたいだったからだ。大阪芸人の「ノリ突っ込み」の間。AZUMI氏の語りはまあ絶妙だったのだ。めちゃくちゃ面白くて、やがて寂しき哀愁ただよう余韻がたまらない。大満足でした。

でも、寄席で言えば「トリ」の演者が『芝浜』をやるのを分かっていて、言わば膝代わりの役割(そう言っちゃあ失礼だけれども)の人が、しかもミュージシャンなのに落語家が本職の「語り」を先にやって大受けしちゃって、いいんだろうか? ぼくはそう思ってしまったのです。AZUMIさんごめんなさい。

■暫し休憩のあと、扇里師匠が再び高座に上がる。演目はもちろん『芝浜』だ。この噺のことを立川談志は「年末恒例の第九みたいになっちまったなぁ」と言っていたっけ。談志は、三代目桂三木助が演じた『芝浜』を基本踏襲したが、自分が納得するためにどんどんどんどん進化(深化)させていった。でも『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房)の42ページでこんなことを書いている。

そして桂三木助、十八番中の十八番といわれる『芝浜』は嫌いだ。気障(キザ)なのだ、やりすぎなのだ。出だしいきなり「翁の句に……」、翁、つまり芭蕉である。「芭蕉の句に、明けぼのや、しら魚白きこと一寸……」てなことから入っていく。

 また、朝方の浜辺に立って、「おー、いい匂いだな。この香りは忘れらんない」とか、「おー、帆立が帰ってきやがった。早えェな。ああ、もう帰ってくるところを見るてえと、早く出かけているんだ。働いている人がいる。早い人がいるんだ。怠けちゃあいけねえなあ」。

 つまり、人情的、常識的なものを基準にして始まるこの『芝浜』に、私は嫌悪感すら覚えた。

■そうまで言った談志師匠。この噺を何故か演じ続け、晩年には談志生涯の十八番とまで言われるようになった「大ネタ」だ。不思議なもんですな。


YouTube: 桂三木助 芝浜・音声のみ

■今回、入船亭扇里師匠の『芝浜』を聴いて驚いたのは、この「桂三木助版の芝浜」を正統に受け継いでいることに気付いたからだ。

きょうび、名の売れた落語家さんは皆『芝浜』を演じる。そう思って、手持ちの落語CDを集めてきたら、あるはあるは。古いところでは、三笑亭可楽の『芝浜』。今ではトリしか演じない大ネタなのに、収録時間は何と!わずか16分33秒。シンプルにまとめてはいるが、この噺の真髄はしっかり伝わってくる。とにかくクドくない。実にすばらしい。この可楽の形を踏襲したのが、柳家小三治師だ。TBS落語研究会のDVDを買って持っているのだが、今日は探しても見つからなかった。

■続いては、古今亭志ん朝の『芝浜』。音源は2枚あった。東横落語会での「芝浜」はイマイチだったが、「新選独演会5」に収録されていた「芝浜」は素晴らしい! 本来「三遊亭」のネタであった『芝浜』がどういう訳で「古今亭」のネタになったのか?

『芝浜』という噺は、明治時代の名人「三遊亭円朝」が、「酔っ払い・芝浜・皮財布」の三題噺として創作したとされているが、中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)p33〜68 を読むと、浜辺で金を拾う正直者の話は、1835年(天保6年)刊『百家琦行伝』の中に、すでに登場するという。

ところが、明治大正昭和初期の頃は、この噺はまったく人気がなかった。それが、三代目桂三木助の十八番となる経緯には諸説ある。当時絶大な影響力を誇っていた落語評論家の安藤鶴夫の助言が大きかったことは間違いないらしい。

戦前、何十回も名前を変えた古今亭志ん生。彼も「芝浜」を持ちネタにしていた。ただ、桂三木助は主人公の魚屋の名前を勝五郎(魚勝)とし、拾った財布の中身を42両(残存する音源では 82両)としているのに対し、志ん生は主人公を「魚熊」拾った金は50両としている。

それから、芝の浜で拾った財布の場面は、あわてて家へ帰ってから女房に語って聞かせる形式で、三木助の主人公が芝浜の夜明けを芸術的に独白する場面はない。志ん生は、あんな一人語りはリアル過ぎて夢にはなんねいと一蹴したという。三木助のキザな芸術肌を嫌う談志版でもなるほどこのシーンはカットされていた。

その代わり、妻が主人公に「夢だった」と信じ込ませる描写には、古今亭は手を抜かなかった。

三木助はマクラのあといきなり「ねえ、おまえさん!起きておくれよ。河岸行っておくれよ」と女房が起こす場面から話が始まるが、古今亭では、腕はいいのに酒グセが悪い魚熊の生態を先ずは語る。また、

熊公が財布を拾って帰った後、一寝入りして午後「湯屋」へ行き、長屋の後輩たちを引き連れてドンチャン騒ぎをする場面は丁寧に演じ、これぞ納得がいくリアルだ! とでもいうふうな演出だった。志ん朝版では、セリフが立て板に水で、畳みかけるように早口で次から次へと繰り出され、そのスピード感が聴いていて実に気持ちがいいのだ。

なるほど、いまこうして聞き比べてみると、三木助〜談志〜扇里の「芝浜」には少し無理がある。主人公はどうしてあんなにも稚拙な「女房の嘘」を、いとも簡単に信じてしまったのだろうか? 

■リアリティという意味では、談志が描き出す「女房」像にかなうものはない。3年後の大晦日の晩の二人のやり取りは、談志の『芝浜』が圧倒的によい。この「談志版」の良さと「志ん朝版」の良さとを、上手いこと掛け合わせて演じているのが、柳家権太楼師だ。

権太楼師の『芝浜』を収録した DVD『大師匠:第三巻』には、五街道雲助師との対談がオマケで付いていて、その中で権太楼師は「この噺は、三遊亭圓窓師匠に教わったの。圓窓さんは、先代の金原亭馬生師匠から教わっているから、古今亭(金原亭)なんだよね。」


YouTube: 柳家権太楼(三代目) - 芝浜

■寄席では、権太楼師と絶大な人気を競う、柳家さん喬師の『芝浜』は、同じ柳家なのに「勝五郎」で、でも50両。流れは三木助版だが、湯へ行ったあと仲間と大宴会する場面は丁寧に演じる。後半の大晦日の場面には、二人の子供も登場する。みな何度も演じるうちに、それぞれ工夫を凝らすのが、この『芝浜』という噺の特徴なのかもしれない。

■入船亭扇里師の師匠「入船亭扇橋」の師匠が、桂三木助。林家木久扇師も三木助の弟子だったが、三木助が亡くなった後、扇橋師は柳家小さんのもとへ、木久扇師は林家正蔵門下となった。『噺家渡世』入船亭扇橋(うなぎ書房)90ページにはこんなことが書かれている。

 亡くなる直前だから、15日だったのかなあ。おかみさんが台所に来て、「ちょいと。あんたのこと、お父さんが、泣いて頼んでるから、行ってごらん」っていうから、飛んでったの。

 師匠はあたしを見ると、「俺が死んだら、小さんのところへ行くんだ。そして、『芝浜』やってくれ」と言うんです。そして、小さん師匠に、「『芝浜』を覚えて、こいつに稽古してやってくれ」って、吐き出すように頼んでました。文楽師匠にも言ってましたよ。「稽古してやってくれ」と。あん時は、「ああ、申しわけないなァ」と思いましたね。

 師匠はあたしのことだけを頼んで、三人の子どものことも、おかみさんのことも、何も言わない。

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■それから同書の180ページ。

 三木助の十八番だった「芝浜」。あたしも弟子だから、いつかはやるぞと思っていました。だから、三木助が死んだとき、「師匠の三回忌になったら、やらしてもらいます」って、お墓に約束したんです。あたしには「芝浜」はまだ荷が重かったかど、約束通り、三回忌をすませてから挑戦しました。でも、よその弟子は、すでに「芝浜」をやってんですよね。よくやるなァと思いましたね。

ぼくは残念ながら扇橋師の「芝浜」は聴いたことがない。音源を探して Apple Music を検索してたら、落語の本篇はなかったけれど、扇橋師が師匠三木助を語るインタビューが上がっていた。

https://music.apple.com/jp/album/%E8%8A%9D%E6%B5%9C-%E3%81%AE%E5%87%84%E3%81%95%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B/312120411?i=312120428

聞き所は、三木助師は実際に朝暗いうちに浜へ足を運んで「夜明けの様子」をじっと見ていたと言うところ。そのあと実際に「あの浜の場面」を演じてみせてくれるところ。これは貴重な音源だ。

今回聴いた入船亭扇里師匠の『芝浜』でも、この「夜明けの浜」のシーンを丁寧に大事に演じていたのが、とても印象的だった。今年の夏に同会場で聴いた左甚五郎の噺「ねずみ」でも、入船亭扇橋師匠の話芸が弟子に確かに引き継がれていることを感じて、胸が熱くなったが、『芝浜』でもきっと同じに違いないと思ったのでした。(おわり)

■注1)弟子は師匠の芸を「そのまま」受け継がなければならない、と言いたい訳ではないのです。伝統芸能、古典芸能の一つである「落語」の場合は特に。そこがむずかしい。

「人間国宝」になった落語家は3人いる。柳家小さん、桂米朝、柳家小三治だ。でも、彼らの弟子たちは決して師匠のそっくりさんではない。月亭可朝は米朝の弟子だし、あの名人三遊亭圓生の弟子だったのが、先代の円楽と川柳川柳、そして三遊亭円丈だ。ぜんぜん芸風違うじゃんね。

でも、ドキュメンタリー『小三治』を見た時だったかな。その感想をブログに書いたのを以下に転載。

控え室で、サンドイッチを食べながら三遊亭歌る多を相手にしみじみ語るその背後で、三三さんが一人黙々と稽古している場面が好きだ。食べ終わった小三治師は、おもむろに「お手拭き」で目の前のテーブルを拭きはじめる。


「柳家の伝統だよ、テーブル拭くのは。」
「人に言われて気が付いたんだよ。柳家ですねぇって。」

「そう、明らかにそれは小さんの癖なんだよね。」
「うそだろう!? って、ビックリした。えっ、みんな拭くのって。で、自分が拭いていることも意識にない。」


「そういうところがつまり、背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやっていることがいっぱいあるんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だなって、いっぱいある。」


「だからねぇ、教えることなんか何もないんだよ」
「ただ見てればいいんだよ」


次のカットで、三三さんが黙々と稽古しているとこに、音声だけで小三治師の指示が入る。すごく具体的で丁寧な教え方だ。あれっ? 三三さんに師匠が教えてるじゃん! ていうのは勘違いで、カメラが引くと、なんと小三治師が「足裏マッサージ」のやり方を柳亭こみちに懇切丁寧に教えているのだった。これには笑っちゃったよ。

■注2)しかし、同じ弟子でも「実の親子」となると、話はさらに複雑だ。親子で落語家って結構いる。でも、息子の師匠が父親というのは、そうは多くはない。林家木久扇と喜久藏、桂米朝と5代目桂米團治、林家三平と正蔵(二代目三平の師匠は林家こん平。三遊亭好楽の息子の王楽は、先代の円楽の弟子だから、なんと親子なのに兄弟弟子なのだった)。そうして、古今亭志ん生と金原亭馬生、古今亭志ん朝の兄弟。あ、結構いるか。

親の七光り。そう世間から必ず言われる。早くに真打ちに昇進した馬生は、戦前ずいぶんイジメられたらしい。そして言われる「いつ、おとうさんの名前を継ぐのですか?」と。でも、志ん朝は志ん生の名を継がなかった。それに対して「三木助」の名前を継いだのが四代目三木助(本名:小林盛夫。柳家小さんの本名といっしょ)。バブルの時代には、あの亀和田武といっしょに典型的な「チャラ男」を演じていたのが彼だ。

三木助の名を継ぐからには、父親譲りの『芝浜』を演じなければならない。

そのことが、彼の悲劇だったのかもしれない。慢性の持病もあったらしい。

2021年12月22日 (水)

クリスマスがやって来る気分にちっともなれないのは何故?

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■12月になると、処置室に置いてある「ラジカセ」からは、クリスマスのCDを流している。診察中ずっと、エンドレスで。

例年、院長はけっこう音楽的にこだわっているんだよ、と思ってもらうために、大好きなジェイムス・テイラーの「クリスマス・アルバム」か、山下達郎&竹内まりやの「ケンタッキー・フライドチキン」のオマケCDを流すのだが、今年はやめた。で、代わりにずっと「このクリスマスCD」をエンドレスで連日流している。

ぜんぜん飽きることがない。収録された「ジングルベル」のいろんなバージョンを聴いてると、なんかすごく懐かしくて、かつては「いい時代」があったのだなあと、しみじみしてしまうのだった。

■伊那市「黒猫」店主の田口史人さんが発刊している、週刊「日本のレコード」第30回で配布された封筒に入っていたのがこの「付録CD」で、クリスマスのレコード特集だったのだが、その選曲が絶妙で、めちゃくちゃ感心してしまった。で、を連日ずっとかけ続けているという訳だ。

■このCDの聴きどころは、前半に収録されている「渡辺プロダクション・オールスターズ&クレイジー・キャッツ」によるクリスマス・アルバムだ。これは傑作だね。スマイリー小原のジャズ・オーケストラが「クリスマスのファンファーレ」を奏でると、続いて「ザ・ピーナツ」の二人がビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を敬虔に歌う。次は、伊東ゆかり。当時は「中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり」で三姉妹だったっけ?「サンタが街にやってくる」を歌うが、彼女、歌上手いね! ジャズのリズム感とか完璧だ。

続いてお待ちかねの「クレイジーキャッツ」の登場だ。例によって、青島幸男が作詞したオリジナル曲なのかな? 笑っちゃうには、植木等が「クリスマスとは、西洋のお正月!」って歌うところ。あはは! でも、当時はぼくもそう思ってたなあ。

■以下は、ツイッターに一度アップして次の日の朝になってから、ちょっと思うところがあって消去てしまった文章です。でも実は残してあったのでした。


伊那市「黒猫」が発行している、週刊『日本のレコード』(30)は、クリスマスのレコード特集。付録のCDを診察中にずっとかけているのだが、これは聴き応えがあるな。戦後の日本という国の歩みが、このCDに完璧に集約されていたからだ。それはまた僕自身の人生の歩みとピッタリ一致していた。

1958年生まれの僕にとって、1960年代は高度経済成長の夢の時代だった。アメリカに追いつけ追い越せ。クリスマスは、まさにその憧れのアメリカの象徴だ。当時のレコード、辺プロのクレイジーキャッツや舟木一夫のジングルベルを聴くと、僕が子供だったの頃のウキウキした気分がリアルに蘇る。


松任谷由実の「恋人はサンタクロース」は、バブル前夜の楽曲だ。お父さんがクリスマスケーキを買って帰って家族で一家団欒の幸せを噛みしめる日が、娘は彼氏と出かけてしまう日になった。


また、1980年代後半はスキーが大ブームだった。新宿を深夜出発したスキーバスは、明け方の国道18号を志賀高原、斑尾、野沢温泉へと連なって走って行った。映画『私をスキーに連れてって』の影響だ。ホイチョイ・プロダクションと広告代理店&テレビ局がイケイケだった時代。


バブルが泡と弾けて、ユーミンも方向性に迷っていたころ、山下達郎はしぶとく「クリスマス・イヴ」で毎年年末に稼ぎ続けている。そしてコロナ禍の2度目の年末を迎えている訳だが、黄昏を迎えた日本のクリスマスは、全く盛り上がっていない。それは、全てを経験してきた僕らの世代の責任か。


そして、この付録CDの最後に収録されているのが「楽しいお正月」だ。そう、もういくつ寝るとお正月。思い出した。僕が小学生の頃は、クリスマスよりもお正月のほうがずっとずっと楽しみだったのだ。大学生の頃でも、まだ24時間年中無休のコンビニは近くになく、年末年始の食料調達にはホント苦労した

2021年12月 1日 (水)

映画『海辺の彼女たち』を、赤石商店で観てきた

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■日曜日に伊那市「赤石商店」で映画『海辺の彼女たち』脚本・監督:藤本明緒(2020年/日本=ベトナム 88分)を観てきた。ずっと見たかったのだ。期待以上だった。劇映画なのだが、出演者がみな自然な演技をしていて、撮影はハンディ・カメラだし、ドキュメンタリーかと見紛う出来だ。これは、佐々木昭一郎の演出手法だね。

この映画は、観客の五感をことごとく刺激する。ベトナムから3ヵ月前に技能実習生として来日した若き女性3人。超ブラックの職場を早々に脱出して、同国出身の闇ブローカーの斡旋で北の海辺の寒村へと派遣される。在留身分証明書も保険証もない不正滞在労働者となって。そんな危険な身にに陥ってまでも

彼女等は本国で貧乏な両親と弟妹たちに仕送りしなければならない責務があるのだった。もちろん、闇ブローカーの男は法外な仲介料を請求する。保険証がないから、病気になっても医者にはかかれない。

■フェーリーに乗って逃避行した彼女らは、港に到着後さらにワンボックス車で長距離移動。ようやく到着した雪深き海辺の寒村は青森か?

 彼女等は腰まで一体化された長靴(天竜川で鮎釣りしてる人が履いるヤツね)で、厚手のゴム手袋はめて漁船から水揚げされたイワシを選別する。もしくは網に取り付ける丸い大きな「浮き」にこびり付いたフジツボをノミでこぎ落とす作業。彼女らは雪降る堤防わきに座って、ただ黙々と専念する。寒いだろう、冷たいだろう。

スクリーンから、彼女等の長靴の中の足の小指が、しもやけになる冷たさと、頬に突き刺さる北風が僕の肌でも感じられた。あと、主演のホアン・フォン(彼女の演技がホント素晴らしい!)がお腹痛いのを我慢しながら、病院を探して延々と街を彷徨うシーン。

ここは見ていてほんと辛かったな。もういいよ、もういいよって、画面を見ながら思わず願っていた。

そうして、ようやく辿り着いた総合病院。はたして事務受付で偽造保険証を見破られないか? 見ていてハラハラした。よかった!大丈夫だ(でも、医療従事者としては、それほど日本の保険医療機関は甘くはないぞ!とも思うけれど。)

外来はエレベーターで5階だ。そこで診察してもらって聴く「ある音」に、彼女は涙する。ここは泣けたな。夜遅く飯場(はんば)に帰り着いた彼女は、ストーブの上の鍋で煮えたスープをカップによそって啜る。彼女の舌が感知するスープの熱さと故郷の味。判るよ!

■映画『海辺の彼女たち』の感想追補。 観客の「五感」を刺激する映画だと言いつつ、嗅覚については触れてなかったな。それは彼女等の作業場に漂う魚の生臭さだ。フォンは途中で耐え切れなくなって、雪の上に嘔吐する。あと、ラスト近くのスープのにおい。何故かナンプラーとパクチーの匂いがした。

■上映時間が88分しかない映画の中で、異様にむだに?長いシーンが2つあった。それが主演のフォンが弘前の町を延々とさまよう場面と、この夕食の場面だ。ここには間違いなく監督が一番言いたいメッセージが込められているのであろう。だからこそ観客はみな固唾を飲んでスクリーンを見つめるのだ。

この夕食の場面。いろいろな思いが交錯する。ベトナムから一緒にやって来た仲間二人の思い。映画をずっと観て来た観客の思い。そして当事者フォンの思い。人間どんなに辛い事があっても「おなか」はすくのだ。生きてるから。明日も生きてゆかなければならないから。そんな覚悟が彼女の瞳に表れていた。

■そのことを僕が実感するのは、自分の母親が死んだ時と、受け持ち患者さんが亡くなった日のことを思い出していたからだ。こんなに辛いのに、こんなに申し訳ないのに、それでも俺の腹は空くのか! そんな絶望的な気分に陥ってしまった「あの日」のこと。

映画のポスターに書かれているキャッチコピーにはこうある。そういうことだ。

--- 生きていく。この世界で ---

■さらに追補。

映画のロケ地が弘前だったかどうかは分かりません。ただ、弘前駅から町の中心街へはかなり遠くて、バスに乗らないと無理です。冬の弘前は学生の時に一度だけ行ったな。

ジャズ喫茶「Suga」が繁華街の近くにあった。この日は弘前市民会館でマービン・ピーターソンのライヴを何故か聴いた覚えがある。もう1軒寄ったジャズ喫茶は「オーヨー」だったかな? いや『仁夢』か。

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