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2014年9月

2014年9月28日 (日)

今月のこの1曲。Booker T&The MG's 『 Time is Tight 』


YouTube: Booker T & The MG's ~ Time is Tight (HQ)

■月刊誌『小説すばる』を、毎月17日に平安堂まで買いに行く。去年の8月号からだから、もうかれこれ1年以上も続けていることになる。雑誌で連載されている『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』柳澤健を読むためだ。この「10月号」で、この連載も【第15回】となり、いよいよ終盤に入った。

■ただ、柳澤健氏は林美雄「ミドリブタ・パック」の熱心なリスナーだった訳ではない。確か宮沢章夫氏が書いていた(ラジオで言っていた?)のだが、「小説すばる」編集長の高橋秀明氏に林美雄の評伝を連載するよう強く請われてのことだったようだ。

ところが、その小説すばる編集長が今年の4月19日に脳出血(脳梗塞?)のため急逝する。享年46。
検索していたら、そのことに関して柳澤健氏自身が「FBに書いている文章」を見つけた。

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■柳澤氏は、連載を始めるにあたり、かなり時間をかけて実に多くの関係者、ファン達から丁寧な取材を行っていて、そこに書かれている内容は初めて知る驚きの事実も数多くあり、実に読み応えがあった。ただ、かつての熱烈な林美雄ファンとしては、彼の「虚像」がどんどん剥がされて「実像」があらわにされてゆく「この連載」は、読んでいて正直辛くなることも多い。

でも、宮沢章夫氏が ETV『ニッポン戦後サブカルチャー史』(第4回)で「林美雄」を大々的にフィーチャーしてくれたことは本当にうれしかったな。

番組では「林美雄パック」のオープニング・テーマ「BOOKER T. & THE MG's -- TIME IS TIGHT」も流れた。懐かしかったなぁ。

★【林美雄に関する過去記事】★


『深夜放送の黄金時代』 林美雄パック(その4)2003/03/31
『深夜放送の黄金時代』 林美雄パック(その3)2003/02/08
『深夜放送の黄金時代』 林美雄パック(その2)2003/02/06
『深夜放送の黄金時代』 林美雄パック(その1)2003/02/03

『小説すばる 8月号』林美雄とパックインミュージックの時代  2013/07/22
『林美雄 空白の3分16秒』宮沢章夫(TBSラジオ)     2013/12/31

「BOOKER T. & THE MGs」は珍しいバンドで、リーダー(オルガン)とドラマーが黒人、ギターとベースが白人の混成チームなのだ。スタックス・レコードの専属バックバンドとして、オーティス・レディングのレコーディングなどに参加しつつ、インスト・ナンバーばかりの『Green Onions』 (1962)でデビューし人気バンドとなった。「TIME IS TIGHT」は、1969年のスマッシュ・ヒット。

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■ブッカー・Tは、実はなかなかの美声の持ち主で、「フリー・ソウル」選曲者の橋本徹氏は『FREE SOUL : COLORS』のラストで、ブッカーTが 1974年に出したヴォーカル曲「ジャマイカ・ソング」を紹介し話題になった。

jamaica song
YouTube: jamaica song

その橋本徹氏による、2010年代の「フリー・ソウル」コンピ『Urban-Mellow Supreme』にも、ブッカー・Tが 2013年に出した「Watch You Sleeping」が、19曲目に入っている。橋本氏、ブッカー・Tが大好きなんだね。

< MG's の他のメンバーのその後>

ギターのスティーヴ・クロッパーは、現在も活躍中。1980年代はベースのドナルド・ダック・ダンと共に「ブルース・ブラザーズ」のバンドで再び人気を博し、忌野清志郎との共演後は来日回数も多い。
ドラムスのアル・ジャクソンは、1975年10月、自宅前で暴漢に銃で撃たれて死亡した。犯人は現在も不明。
ベースのDonald "Duck" Dunn(ドナルド・ダック・ダン)は、2012年5月、東京ブルーノート出演のため来日中にホテルで急逝。70歳だった。

 

2014年9月23日 (火)

『昔、火星のあった場所』北野勇作(徳間デュアル文庫)

■読み終わって2週間近く経っているのだが、なかなか感想が書けないでいる。

『昔、火星のあった場所』北野勇作(徳間デュアル文庫)だ。(amazon の2番目の読者レビューは、もろネタバレ!要注意。)

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いや、すごく面白かった。最後の最後で「あっ!」となって、それからじんわり切なくなった。

ただ、どうも僕はこの小説をちゃんと読めていないような気がしてならないのだ。

著者の「いつのも雰囲気」(ブリキの自発団、生田萬さんの座右の銘  “過去はいつも新しく、 未来は不思議に懐かしい” 的感覚)をただ味わえばそれでおしまいじゃなくて、もっと綿密にハードSFとしてキッチリ構成されていて、あちこちにバラまかれたパズルのピースを集めてきて、あるべき場所にはめれば、最後に納得する形で小説世界が完結する。この本は、どうもそういうふうに出来ているに違いない。直感的にそう感じるのだ。

でも、読み終わってもよく分からないところ、疑問点がいっぱいあって、ネットでいろいろと他の人の感想とか読んでみたけれど、ぜんぜん納得がいかない。いや、ほんとなかなか手強い小説だ。

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                  *

ただ、検索してみると「この小説」は著者の北野勇作氏当人が脚色してラジオドラマ化されたのだという。NHKFM「青春アドベンチャー」1994年6月27日~7月8日(全10回)

しばらく前まで「ニコ動」で聴けたらしいのだが、いまはもう削除されてしまっている。最終回だけでもぜひ聴いてみたかったぞ。

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誰か「この小説」の正しい読み方を詳細に解説してくれないだろうか? 読書会とかやってくれると有り難いのに。そんなふうに思いながら今日も検索を続けていたら、とうとう「お宝サイト」を発見した。

「ざぼんの皮トピックス:北野勇作関係」だ。こいつは凄いぞ!ホンモノだ。2001年7月9日「読書会」のファイルをよくぞ残しておいてくれました。ほんとありがたいぞ。(ただし、ほとんどのリンクはさすがに切れているが)

                  *

さらには、「完全ネタバレ詳細解説(徳間デュアル文庫版の掲載ページ付き)」(草稿)(完成版)

のファイルも発見。そうだよ、こういうのを求めていたのだ。これは本当に完璧だ。ざぼんさん、ありがとうございます。

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もちろん、ざぼんさんの解説すべてに納得した訳ではない。疑問点はまだまだ残ったままだ。

という訳で、この詳細な資料を地図にして、もう一度最初から『昔、火星のあった場所』を読み直しているところなのです。ついでに、『クラゲの海に浮かぶ舟』(出た時に買ったのだが、どうも処分してしまったらしい。見つからないのだ)も古書で見つけて発注済みなのだ。

2014年9月21日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その110)上伊那郡箕輪町松島コミュニティセンター

■今日の日曜日は、午前10時から箕輪町松島コミュニティセンターで伊那のパパズ。

箕輪町は、町を挙げて子供への絵本読み聞かせ啓蒙活動に力を入れていて、8月2日には、文化センターで大地康雄が主演した映画『じんじん』の上映会をやったり、その前の7月13日には、絵本作家サトシンさんの絵本ライブを開催している。そういえば長谷川義史さんも、毎年のように呼んでるなぁ。すごいぞ。

だからなのか? とにかくお父さんの参加率が異常に高い。今日も15,6人は来てたな。偉いなぁ。

      <本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ(ひさかたチャイルド)

2)『まるまるまるのほん』エルヴェ・テュレ作、谷川俊太郎訳(ポプラ社)→北原

3)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄・作絵(福音館書店)→坂本

4)『おめんです』いしかわこうじ(ビッグブック/偕成社)→坂本

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5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『バナナじけん』高畠那生・作絵(BL出版)→宮脇

7)『うんこしりとり』tupera tupera(白泉社)

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8)『ヤカンのおかんとフトンのおとん』サトシン作、赤川明・絵(佼成出版社)→倉科

9)『ふうせん』(アリス館)

10)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

2014年9月18日 (木)

太田省吾(その3)→ 鴻上尚史・宮沢章夫・岡田利規

■『水の希望 ドキュメント転形劇場』(弓立社/1989/8/5)86ページに、「転形劇場さんへ」と題された鴻上尚史さんの文章が載っている。その一部を抜粋。

 僕が、初めて転形劇場を見たのは、今から8年ほど前のことでした。T2スタジオは、もちろん、まだできていませんでしたから、民家を改造したスタジオで、僕は、『水の駅』を見たのです。

 ちょうど、その時、僕は、自分の劇団を作ったばかりで、まだ、早稲田の演劇研究会に在籍していました。

 観客席で、じっと舞台を見つめながら、僕は、自分がこれから作ろうとしている舞台との距離を確認していました。(中略)

 不遜な言い方をすれば、演劇という地平の中で、僕は、おそらく、ちょうど正反対の方向へ進むだろうと思っていました。つまり。それは、絶対値記号をつければ、同じ意味になるのではないかということでした。

 そぎ落とすことで、演劇の極北へと走り続けているのが、この舞台だとすれば、僕は、過剰になることで、演劇の極南(という言葉はヘンですが)、走りたいと思ったのです。

 それは、例えば、『水の駅』のラスト、歯ブラシで歯を磨く、あの異様とも感じてしまう速度からスタートしようと思ったということです。(中略)

 僕達は、スローモーションのかわりにダンスを、沈黙のかわりに饒舌を、静止のかわりに過剰な肉体を選びました。

 ですが、演技論としては、それは、リアリズムという名のナチュラリズムから真のリアリズムを目指しているという意味で、これまた不遜な言い方になりますが、転形劇場の方法と、同じだったと思っています。

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『演劇最強論』徳永京子、藤原ちから(飛鳥新社)p234〜p243 に載っている、チェルフィッチュ主宰:岡田利規氏のロング・インタビューを読むと、前掲した太田省吾氏の文章と同じことを言っていて大変興味深い。

岡田「(前略)あと、僕のどこに影響を受けるかというのがね、なんか、僕には偏っているように感じられるんですよ。ダラダラした文体とか、身体の用い方とか、反復という手法とか、そういうところに影響を受けてる人がいる感じはあるけど、例えば時間感覚については、僕のやってることはむしろ否定されてる気がします。

引き延ばすのは退屈なだけだからポップな時間感覚にすることをもってアップデート、みたいな。僕はそういうポップな時間感覚を演劇に求めることを面白がれないんですよね。」

岡田「僕が思ってる時間って、ふたつある。ひとつは時計で測れる時間。この時からこの時まで何秒でした、っていう。それとは別に、裸の時間っていうのがあるんですよ。秒数ではなくて体験としての時間。でそれは、退屈というのとニアイコールなんですよね。

退屈っていうのは、時間を直に体験しているということ、時間の裸の姿を目の当たりにしてるということ。だからそれって、ものすごく気持ちいいことなのかもしれない。苦痛が快感かもしれない。子供にとってビールって苦いだけで何が美味しいか分かんないけど、やがてそれが美味しいって分かってくる、みたいなのと似たことだと、僕は思うんですけどね。違うのかな。」

■あと、『演劇最強論』では、宮沢章夫氏へのロング・インタビューがいろいろと示唆に富んでいてとても面白い。宮沢氏はいま、毎週金曜日の夜11時からEテレで『ニッポン戦後サブカルチャー史』の講師を務めているが、その先駆けがこのインタビューの中にあるのだ。

徳永「平田(オリザ)さんに書けないものというと?」

宮沢「サブカルチャーだと思う。分かりやすい例が音楽で、平田くんが劇中でほとんど音楽を使わないのはなぜかというと、彼自身が言っていたけど、よく分からないからだと。

90年代、僕や岩松(了)さんや平田くんは、音楽について非常に慎重になったんです。前の時代の演劇の反動で。劇的な音楽を使えば、芝居は簡単に劇的になる。そういうことに疑いを持って、そうならないためにはどうしたらいいかと考えたんです。」

『演劇最強論』p282〜p283)

 

2014年9月16日 (火)

太田省吾『舞台の水』(五柳書院)つづき

■昨日のつづき。『舞台の水』太田省吾(五柳書院)より、76ページ「演劇とイベント」

                  ○

 企画の時代で、演劇の世界も企画の目を意識しないとやっていけなくなっている。(中略)

 だが、と私は演劇について思う。演劇もイベントにちがいないが、所謂イベントとどこかはっきり異なるところのあるものではないかと思うのだ。演劇は、それがどこかというところを見出さなくてはならない。なんだか、イベントと演劇の区別がつきづらくなっている。

「痛み、怖れ、ためらい、はじらい、おののきの基本要素がなければ、詩は生まれない」。リルケの言葉だが、私はこの「詩」を「演劇」と置きかえ、「どこか」とは結局のところここらあたりではないかと思っている。なんだと思われるかもしれないが、このリルケの言葉は、喜怒哀楽を除外しているところを注目しなければならない。

 喜怒哀楽を除外するとは、わかりやすく通じやすいところから詩は生まれないと考えることであり、詩を生むのは自分にとっても把えにくいところだとすることである。

 企画の目では、これがまどろっこしい。こういうところを棄てて進もうとする。この「詩」を「演劇」と読みかえれば、「演劇」を棄て、もっと通じやすいところ、いわば喜怒哀楽へ行こうとする。その方向をイベントというのではないか。

■p26〜p28 「<反復>と美」より

 演劇の稽古にはくりかえしが欠かせない。ほんの小さな一つの行動や台詞を半日くりかえしているなどということもよくあることだ。

 そんなとき、何をしているかといえば、多くの場合、たとえばコップに手をのばしコップを取って水を飲むという行動があるとすると、それが最も適確だと思われるやり方をみつけるため、あるいはそれが演技で充分表現できるようにするためである。(中略)

 しかし、私はこのくりかえしをもう少し別の目で見、気づいたことがあった。私には、それは一つの発見のように思えたのだった。

 適確さとは、その人物の設定やその人物が置かれている状況とその行動との関係で見出されていくものだが、そのときには、そんな関係をなしに、ただただその行動をくりかえしてみていたのだった。

 いわば裸のくりかえしだった。コップを見、コップへ手をのばし、水を飲む。コップを見、コップへ手をのばし、水を飲む。コップを見、コップへ手をのばし、水を飲む……。

 この反復の中で浮かびあがってくるものがあった。その動作が、いわば不定詞のように、つまり「人間がコップを見るということ」であり、「コップ(物)へ手をのばすということ」であり、「水を飲むということ」といったように際だって見えてくる。そして、その主語は個別性を越えていくように見えたのだった。

ある人物という主語、つまり<役>とは、ある住所氏名年齢職業性格、といった限定ををもち個別性をもつということだが、それらを失い、それらを越えていった。

 それらの動作の主語、主体は、ある俳優の身体を通じてであるが<類>へ近づいていったように思えた。ある俳優の身体が、人類、人間と溶け合うように思い、それを、私は美しいと感じたのだった。

 人間が物(コップ)を見るということ、人間が物に手をのばすということ、人間が水を飲むということ、ある一個の身体を通じて人間の動作をそんなふうに見ることのできるということ、そんなふうに見ることができる時間をもつことができるということは、演劇の大きな望みなのではないだろうか、そんなふうに思えた。自分の演劇への望みがそういうものだとわかったように思えたのだった。

 私の劇のテンポは遅い。かなり遅い。その遅さは、言ってみればどのような動作も、この、反復を含んだものとするためであり、そうしなければ見ることのできない人間の美を見ようとしていることなのかもしれない。

■p24 「舞台の水」より

「ドラマとは、人生の退屈な部分を削除したものである」という根強い考えがあるが、私はかならずしもそう考えない。そして、それは私だけの考えではなく、現代の表現が徐々に見直している中心のところだと言ってよいのではないだろうか。

 J・ケージは、サティの曲を「魅力的な退屈さ」と言い、サティに学んだことはこういうことだと述べている。

  音は音であり、人間が人間であることをそのまま受け入れて、

  秩序の観念とか感情表現とか、その他われわれが受け継いで

  きた美学上の空論に対する幻想を捨てなければならない。

2014年9月14日 (日)

「演劇の時間」 太田省吾『舞台の水』(五柳書院)より

■錦織のUSオープン決勝戦が見たくて、ネットで WOWOW視聴契約をした。2日前だったが、すぐに見ることが出来た。決勝戦は残念だったけれど、準決勝のジョコビッチ戦も録画できてよかった。

それにしても、WOWOWは3チャンネルもあって、そのコンテンツの充実ぶりには驚くばかりだ。10月には、先達て PARCO劇場で観てきたばかりの芝居『母を欲す』の舞台中継を放送するらしい。さらに、同じ時に渋谷シアターコクーンで上演していた『太陽2068』も放送するそうだ。早いな。

■ただ、テレビで見る「舞台中継」ほどつまらないものはない。DVDでも同じだ。何故なんだろう?

そこに映っているものが、実際に劇場へ足を運んで、ナマで体験した舞台とは似ても似つかぬ代物になってしまっているからだ。テレビや映画のようなカメラワーク(役者のアップや、スピーディなカット割り)が過剰でおせっかいなことが原因なのか? とも思っていたのだが、正面から引きの固定画像がほとんどの「落語のDVD」も、CDで聴くのと違って、案外ちっとも面白くないから、もっと根本的な問題があるのだろう。

「臨場感」:演者と同じ場所、空間に観客として「いま・ここ」でいっしょに参加している、同じ「場」の空気を皆で同時に吸ったり吐いたりしている(同じ場面で笑うためには、その前に息を吸っておかないといけない)感覚。テレビでは「それ」が味わえないからなのではないか。

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むかし買った演劇関係の本を納戸で探したがあまり残ってなくて、転形劇場主宰・太田省吾の本が3冊と、『別冊太陽 現代演劇60's〜90's』(平凡社)が見つかっただけだ。もっと小劇場関係の本もあったように思ったのだが、みんな処分してしまったのか。

この「別冊太陽」の47ページに、「演劇の時間」と題された太田省吾氏の印象的な文章が載っていた。ネットで調べたら『舞台の水』太田省吾(五柳書院)p29〜p31 に収録されている。この本は持ってなかったので、ネットで古書を探して早速手に入れた。便利な時代になったものだ。

そこには、とても大切なことが書かれていたのだ。

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          「演劇の時間」   太田省吾

(前略)劇場に人々がやってくる。そして幕が開き、芝居が演じられ、幕が下がり、人々が散っていく。---- あれは一体なんだったのだろう。演劇にはそう思わせるものがある。舞台をつくる者と観客、その数百人の人々が劇場という一定の場所に集まり、一定の時間を共有する。これは何ごとかである。しかし、あとに残るものはなにもない。終わると同時にあとかたもなくなる。

 台本は残る。あるいは、ビデオや写真をつかって記録を残すことはできる。それらによって、作品としての構成やその性質を記録することはできる。しかし、どうしてもその記録では記録できないものがある。いわば、あれは一体なんだったのだろうと思わせるところが記録できない。終わると同時にあとかたもなくなるところがビデオには写らない。(中略)

 フィルムやビデオテープに写らないもの、それを自意識の再認識の発端とすると、演劇はその写らないところ、<今ここで>を生きる場にするものだということになる。

<今ここで>とは、生(なま)の時間ということだ。要約できないし、記録できないもののことだ。私は、演劇とはこういう時間に触れようとする望みのものだと思っている。(中略)

 しかし、表現が生(なま)の時間に触れるのは難しい。一切の要約、一切の概念化なしの表現など不可能だからだ。わたしたちの目は、あらゆるものごとをまず概念化する目だ。あるものに目をやる時、わたしたちはそれの名や意味を見、それでそのものを見たことにしている。バラを見る。ああバラだ、きれいだ、でバラを見たことにしている。

 わたしたちの生活は、だいたいこの目で生きていける。だが、それでは見たことにならないものごとにぶつかる時がある。その時、わたしたちはその前で立ち止まらなければならない。

 立ち止まり、それに近づき、時間をかける。その時、わたしたちは概念化の目によって名や意味に要約できないものと出会う。こういった時ではないだろうか、わたしたちが生(なま)の時間、<今ここで>という時間をもつことができるのは。(中略)

 概念化され、要約して生きるわたしたちは、しかし概念化し概念化され、要約し要約されることを拒みたいのだ。言いかえれば、わたしたちは時間に触れたい、時間を見てみたい。殊に、時間の最も時間たる時間、現在という生の時間、<今ここ>が欲しい。それはわたしたちが死ぬ者だからだというのは話のとばしすぎだろうか。

 生まれ、生きることは何ごとかだが、死と同時にあとかたもなくなる。あとかたもなくなるところがわたしたちの生(なま)の生だ。そのわたしたちの生を肯定したい。概念化や要約を拒まなくてはならないのは、その肯定にとって死活問題と言ってよい。演劇は、案外遠くなく、わたしたちのそんなところと血脈を通じているのかもしれない。

  『別冊太陽 現代演劇60's〜90's』p47(平凡社)1991年3月

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■劇作家の宮沢章夫氏は、ブログ「富士日記2.1」2010/07/26 の中で、太田省吾『舞台の水』の中から上記「演劇の時間」と「演劇は本当にライブか」(p32) に言及している。あと、『あるとき太田さんが「演劇は詩に近い」という意味のことを話していた。』と書いてあるのは、「演劇とイベント」(p76) の内容と呼応している。さらに、「この本」の帯にはこう書かれているのだった。

 痛み、怖れ、ためらい、はじらい、おののきから

 演劇は生まれる。 

 喜怒哀楽は表現ではない

2014年9月 7日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その109)飯田市立上郷図書館

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■本日、午前10時半から飯田市立上郷図書館でパパズ。

下伊那は、阿智村・松川町・高森町・豊丘村・喬木村など、それぞれ複数回訪れているのだが、この10年間なぜか「飯田市」からは一度もお声がかからなかったのだ。そして今回、晴れて「飯田市初見参」と相成ったのでした。

しかも、上郷図書館といえば、絵本の読み聞かせ業界(?)の総本山のようなところだ。

われわれのように「いいかげん」な読み聞かせを、はたして許してくれるのだろうか? 緊張したなあ。とは言え、メニューはいつもと変わらぬ普段どおり(笑)の僕らでした。

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     <本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ(ひさかたチャイルド)

2)『やいたやいた』宮西達也(鈴木出版) →伊東

3)『でんしゃはうたう』三宮麻由子(福音館書店)→伊東

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4)『どうぶつしんちょうそくてい』聞かせ屋。けいたろう・文、高畠純・絵(アリス館)→北原

5)『かごからとびだした』(アリス館)→全員

6)『おっきょちゃんとかっぱ』長谷川摂子・文、降矢なな・絵(福音館書店)→坂本

7)『うんこしりとり』tupera tupera (白泉社)→全員

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8)『バナナじけん』高畠那生・作(BL出版) →宮脇

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9)『ようちえんいやや』〜『ようちえんのブルース』長谷川義史(童心社)

  倉科(ギター&ヴォーカル)そして、スペシャルゲストは、なんと!! 

  飯野和好さん(ブルースハープ)

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たまたま昨日、上伊那郡飯島町で絵本作家:飯野和好さんの絵本講演会があって、飯野さんは宿泊先の飯島町から坂本さんの車に乗ってわれわれの絵本ライヴを見に来てくださっていたのだ。

本番直前に、控え室でちょっと練習しただけの、ほとんど即興のセッションだったのだが、もうメチャクチャよかったでした。倉科さんの歌とギターはもちろん、本物のブルースマンだな、飯野さんは。ハーモニカ、初めて聞いたが、もうプロフェッショナルの腕前だ。すごい!

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10)『ふうせん』湯浅とんぼ・作(アリス館) →全員

11)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)  →全員


2014年9月 3日 (水)

近ごろ観たもの聴いたもの

■このところ更新がとどこおっていたので、何時、どこで、何を観たか、まとめてメモしておきます。

・7月22日(火)アントワン・デュフォール ギター・ソロ 飯田市「Canvas

7月23日(水)『三人吉三』まつもと大歌舞伎 松本市民芸術館

水曜日の夜、まつもと大歌舞伎『三人吉三』を見に行ってきた。いい席が取れなくて、四等席(3階最後列)2000円。いやぁ面白かった!因果応報の陰々滅々とした話なのだが、三幕目の若い歌舞伎役者3人がエネルギッシュに大立ち回りで魅せる外連と様式美に圧倒された。3階から俯瞰したのが案外正解

7月26日(土)伊那保育園夏祭り

午後4時から伊那保育園の夏祭りで絵本を読む。ワンマンで『ふしぎなナイフ』福音館書店『もくもくやかん』かがくいひろし『はなびがあがりますよ』のむらさやか(こどものとも年少版8月号)『まるまるまるのほん』ポプラ社『こわくないこわくない』内田麟太郎、大島妙子(童心社)つづく…

『うんこしりとり』tupera tupera(白泉社)『おどります』高畠純(絵本館)『ふうせん』湯浅とんぼ(アリス館)『へいわってすてきだね』長谷川義史(ブロンズ新社)『世界中のこどもたちが』篠木眞・写真、新沢としひこ・詞(ポプラ社)で終了。声が枯れてしまったよ。

・7月28日(月)伊那市医師会納涼会「三浦雄一郎講演会」セミナーハウス

・8月9日(土)日本小児科学会中部ブロック連絡協議会 松本市・松本館

・8月10日(日)伊那のパパズ 下伊那郡喬木村「椋鳩十記念館図書館」

・8月16日(土)映画『STAND BY ME ドラえもん 』アイシティ・シネマ 山形村

・8月29日(金)諸星大二郎原画展 阪神百貨店梅田本店8階

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・8月29日(金)落語会「ハナシをノベル!! vol.45」大阪市中央公会堂

宿泊が APAホテル大阪肥後橋駅前だったので、中之島の中央公会堂へは歩いてもすぐ。何とも趣のある歴史的建造物だった。会場は、地下一階の大会議室。

・月亭文都師、今回の新作落語は、

『あるいはマンボウでいっぱいの海』 田中啓文・作

『ランババ』 北野勇作・作

あ、ランバダじゃなくて、ランババだったんだね。いやぁ、ビックリした。こんな落語初めて。笑った笑った。文都師、これ十八番の持ちネタにするといいよ絶対。ただ、会場によっては体力持たないかも。

あと、中入り前の「トーク de ノベル」。田中啓文氏と北野勇作氏が浴衣姿で高座に並んで座りしゃべったのだが、何だか二人ともボケの不思議な漫才を見ているみたいで、これがまためちゃくちゃ面白かった。

会場には、我孫子武丸氏に牧野修氏、それからぼくは気がつかなかったが、あの傑作SF『皆勤の徒』の著者、酉島伝法氏もいらしたようだ。ものすごく作家さんの人口密度の高い希有な落語会だった。『聴いたら危険!ジャズ入門』(アスキー新書)と『昔、火星のあった場所』(徳間デュアル文庫)は持って行ったので、終演後にがんばってサインして頂いた。

うれしかったなあ。ほんと、お二人ともずっと前からファンだったんです。『こなもん屋うま子』も持っていたから、こっちにもサインしてもらえばよかったなあ。残念。

○ 

・8月30日(土)芝居『朝日のような夕日をつれて 2014』森ノ宮ピロティホール

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■ゴドーを待ちながらヒマつぶしに遊んでいたら、ゴドー1とゴドー2の「ゴドーがふたり」もやって来て、でも「みよ子」は来なくて、舞台がすごい傾斜の斜面になっても、それでも彼らは踏ん張って立ち続ける。そういうお芝居だった。

う〜む。何だかよくわからんうちに、颯爽と終わってしまった。凄いな。昔から憧れていて、でも観ることができなくて、今回たまたま大阪で初めてナマで観た。観れてよかった。第三舞台の『朝日のような夕日をつれて』。

5人の役者さんたちは2時間連続で目まぐるしく動き、機関銃のようなセリフの応酬で、背広の背中が汗でぐっしょり濡れているのがはっきり見える熱演だった。この日は昼夜2公演だったが、55歳の大高さん、52歳の小須田さん、2人とも年齢を全く感じさせないクールで余裕の(顔はぜんぜん汗をかいていない)舞台に、同世代のぼくは感動した。ほんど凄いな。

2014年版の戯曲も売ってたが、パンフしか買わなかったのだけれど、後になって、あの時のセリフが気になって仕方がない。特に終盤。この戯曲集を図書館で探して読んでみようと思った。

■ 9月2日(火)の夜、テルメに行ったら会社創立記念日の臨時休業。あちゃぁと落ち込んで、近くの「ブックオフ」に寄ったら、100円単行本コーナーの「演劇・宝塚」のところに、なんと!「83年版」と「91年版」の戯曲集があった。もうビックリ。買って帰って読んでみると、2014版でも「まったく同じセリフ」のところが結構あるぞ。

「83年版」を読んでいると、そこに載っているギャグや歌(キングトーンズ「グンナイベイビー」とか)が、鴻上さんと同じ昭和33年生まれの僕には逆にリアルで、不思議な感覚に陥った。過去じゃなくて「いま・ここ」の感じ。面白い! ほんとよくできた脚本だなあ。

2014年9月 2日 (火)

日本外来小児科学会で大阪に行ってきた

■8月30日(土)・31日(日)と大阪国際会議場で日本外来小児科学会があったので行ってきた。

毎年いろいろと新しいTIPSを教えていただけるのが大変ありがたいし、そして何よりも、講演される先生方の小児科医としての「こころざしの高さ」に感銘を受けるのだった。すごい先生がいるなぁ。俺もがんばらんとダメだぞと、毎回「喝!」を入れてもらって帰ってくるのでした。

今回特に印象に残ったのは、

1)シンポジウム「私がおこなってきたこと」で、岐阜県恵那市で小児科を開業している蜂谷先生のおはなし。タトゥーや付け爪、おへそピアスのある若いおかあさんたちを決して咎めることなく、そのまま受け入れて認めてあげていると仰ったこと。

2)「子供の貧困問題」に関して、飯田市健和会病院の和田浩先生の講演。優しい淡々とした語り口だからこそ、逆にその言葉が沁み入ってきた。

3)田中先生のランチョンセミナー「これでいいのか! インフルエンザ診療」

4)崎山浩先生のランチョンセミナー「予防接種事故防止ガイド」

5)SF作家・瀬名秀明氏の特別講演。新作の構想と生命倫理のはなし。サンデル先生の本、ぼくも読んでみよう。最後に小松左京氏の写真が映された。瀬名氏は本当に尊敬しているのだね。

■ぼくが担当したワークショップも、ホワイトボードをお願いするのを忘れていたり、いろいろと会場準備で不備があって、サブリーダーの住谷先生やWS担当の岡藤先生に多大なご迷惑をおかけしてしまったが、それでも何とか時間内に無事終了することができた。よかったよかった。

とにかく、参加してくださった皆さんそれぞれの個性がよくでた素晴らしいプレゼンの連続で驚いた。皆さんの「絵本」に対する熱い想いがじんじん伝わってきましたよ。司会進行がアタフタでダメでしたが、参加者の皆さまのおかげで、予想以上に充実した時間が共有できたのではないかと思います。

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