■年内に読了予定の『音もなく少女は』ボストン・テラン(文春文庫)と『原節子 あるがままに生きて』貴田庄(朝日文庫)だが、明日一日で読めるだろうか?
■とりあえず、最近読み終わった本のご紹介。
『脳天気にもホドがある。』大矢博子・著(東洋経済)
大矢さんと言えば、ミステリ愛好家や中日ドラゴンズファン、それに自転車ロードレースファンには昔から有名な人だ。かく言うぼくも、ミステリ好き、ドラゴンズ好き、ツールドフランス好きなので、大矢さんの「旧なまもの日記」の愛読者だった。その日記が、2008年11月28日(金)以降、まったく更新されなくなってしまったのだ。いったいどうしたんだ? 何かあったのか?
そう言えば、つい最近も「パソコントラブル出張修理・サポート日記」が突如更新停止となり、Twitter 上でさまざまな憶測が飛び交ったなぁ。
で、実際 2008年11月28日に、大矢さんは大変な事態に直面していたのだった。その顛末が書かれているのが、この『脳天気にもホドがある。』だ。事の次第は、2009年5月に再開された「なまもの日記」を読んで知ってはいたのだが、そうか、ほんとうに大変だったんだねぇ。
でもそこは大矢さん。闘病記につきものの、暗く辛い「お涙頂戴」的記述を一切排除して、ハウツー実務最優先で、なおかつ「お笑い・ボケ・つっ込み」満載の本に仕立てている。ぼくはそこに感動してしまった。さすがだ。
さらに、中日ドラゴンズ・ファンとしては、2009年のドラゴンズ、ペナントレースの様子がありありと思い出されてうれしかった(少し辛かった。浅尾先発失敗とか、立浪引退とか)なぁ。でも、大矢さん。けっこう遠慮してたんじゃないかな、ドラゴンズに関する記述。もっと弾けてもよかったのにと思うのはぼくだけか。それに、今年までサクソバンク所属だった、タイムトライアル・スペシャリストのカンチェラーラの話は全くないぞ。大矢さん、あんなに大好きなのに >カンチェラーラと自転車ロードレース。
この本は、1年後の 2009年11月28日で終わっているが、その5ヵ月後、大矢夫婦にさらなる試練が待ち受けていようとは、いったい誰が予想しただろう。
なんと「なまもの日記」が再開した束の間の喜びをよそに、再び更新が中断されたのだ。えぇっ! 今度は何が起こったの?
たぶん、『脳天気にもホドがある。』の「続編」に書かれるだろうから、詳細は省くが「ここ」を読んだぼくは、またまたたまげてしまったのだった。転んでもタダでは起きない大矢さん。凄い! すごすぎる。
■『もぎりよ今夜も有難う』片桐はいり(キネマ旬報社)
これは傑作! 今年読んだ本の中では「5本の指」に入る本だ。読みながら、なんとも幸福な気分に包まれる。読み終わるのがもったいない。ゆっくりゆっくり味わいたい。
『わたしのマトカ』を読んでいたので、片桐はいりさんが一人旅好き、マッサージ好きであることは知っていたが、廃墟好き、古い映画館好きとは知らなかった。しかも、「シネスイッチ銀座」の前身「銀座文化」で18歳の時から7年間も、”もぎり嬢”として働いていたとは知らなかったなぁ。
片桐はいりさんは 1963年生まれだから、ぼくより5つ下だが「映画は映画館で観るもの」という感覚はいっしょだ。暗闇の中、スプリングの硬い椅子に座って、隣りの見ず知らずの観客とともに正面のスクリーンを凝視する。あの不思議な一体感はまさに、芝居や落語、コンサートの客席といっしょだった。
映画館が呼吸するのを見たことがある。
二十数年前の銀座文化では、盆暮れ正月は映画館のかきいれ時だった。(中略)もぎりたちは、お盆と正月が近づいてくると「また寅さんの季節かあ」とため息をつきながら、でもほんのりはなやいでいたものだ。
全席指定、定員入替制がゆきわたった近頃では見られない光景だが、この時ばかりは劇場が信じられないくらいの立ち見の客であふれかえった。ほんとうに、文字どおり、あふれかえるのだ。わたしたちは劇場に入りきれないお客さんを、満員電車の駅員よろしく、扉を肩でぐいぐい押して詰め込んだ。
やっとのことで本編が始まり、入れ替え中コーラの栓を抜きまくった売店のおばちゃんたちとひと息いれていると、劇場からあの音が聞こえてくる。
どーん。ずーん。どよよよよ。
地響きのようなくぐもった音。劇場の鼓動? いや黒山のお客さんの笑い声である。このどよめきが度を越すと、爆風となって映画館の重い扉を押し開けた。人いきれで沸騰した場内に笑いが起こるたび、扉が、ばふん、ばふん、と開いては閉じる。まるで生き物のようだった。(17〜21ページ)
■片桐はいりさんは、ほんとうに文章がうまい。成瀬巳喜男監督の「流れる」に関する章の〆のフレーズがこれだ。
懐かしさとせつなさが交互に来て、幸福のような、絶望のような。やるせない、とはこういう気持ちを言うものか、と思った。(89ページ)
前半の懐かしいむかし話も味わい深いが、後半の紀行文がまた、文章がじつに生き生きしていていい。山形県酒田市の伝説の映画館。北兵庫、但馬地方の豊岡市にある豊岡劇場や、出石永楽館。それから舞鶴八千代。
八千代座でも八千代劇場でもなく、八千代。呼び捨てだ。中学時代数学の補習クラスでわたしと最下位を争った女子と同じ名前である。数学はびりでも彼女はなぜか大物感を漂わせる不思議な生徒だった。(p160)
お芝居や映画が始まる前の暗闇ほど、ぞくぞくするものもない。目の前でこれから何が起こるのか。わたしたちはどこへさらわれてしまうのか。期待と不安と、ちょっとの恐怖。そんな気分を、わたしはずいぶん忘れていた。(p192)
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