ジャズ Feed

2017年11月 8日 (水)

「今月のこの1曲」:Pat Martino 『Sunny』

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■オリジナルは、Bobby Hebb(1966)だが、ぼくが「この曲」を初めて聴いて、いいなって思ったのは、オランダの歌姫:アン・バートンが『ブルー・バートン』で歌っているヴァージョン。なんかね、下町の「小股の切れ上がった姐さん」が唄ってる感じ? じつに格好良かったんだ。


YouTube: 「Sunny」 Ann Burton

次に聴いたのは、ソニー・クリスの「サニー」だ。これもよく聴いた。ソニー・クリスのサックスは、西海岸の乾いた音がしたんだよ。根っから明るいカリフォルニアかと思ったら、でも少しだけ陰りがある。そこがたまらない。何だろうなぁ。どーせ俺なんか、チャーリー・パーカーの足下にも及ばないB級サックス吹きでいいんだよって、開き直って演奏している。

ちなみに、このレコードのライナーノーツは、若かりし頃の村上春樹氏が書いている。ピアノは、村上さんが大好きなシダー・ウォルトンだ。


YouTube: Sunny - Sonny Criss

■でも、最近初めて聴いて「おっ!」と思ったのが、パット・マルティーノの『ライヴ!』3曲目に収録されたヴァージョン。これだ。


YouTube: Pat Martino - Sunny

ドラムスが「しゃかしゃか」してるけど、決して出しゃばらない。そのリズム・キーピングのテクニックが、まずは素晴らしい。それから、パット・マルティーノが同じフレーズを「これでもか!」とリフレインして場を盛り上げるのもズルい。そのプレイにつられて、キーボードも熱いソロをカマしてくれているんだ、これが。

■ YouTube 上には、2002年にパット・マルティーノが、ジョン・スコフィールドと共演したライヴ・ヴァージョン(映像)とか、こんなライヴ映像とかもあったぞ。

YouTube: Pat Martino - Sunny - LIVE at Chris' Jazz Cafe


YouTube: Pat Martino Trio with John Scofield - Sunny

■検索したら、オリジナルの Bobby Hebbの音源に加え「この曲」を洋邦問わずいろんな人たちが歌う、数々のカヴァー・ヴァージョンを集めた「まとめサイト」を見つけた。驚いたな。ラストに収録されているのは、なんと、勝新太郎が歌っている「サニー」なのだ。

2017年2月23日 (木)

浜田真理子の新譜『Town Girl Blue』がイイぞ!

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■ちょっと心配だったのは、浜田真理子さんが昨年から事務所を離れて、真理子さん自身がマネージメントするようになったと聞いたことだ。彼女の個人レーベル「美音堂」には、優秀なマネージャーさんがいて、いつも二人三脚で全国をライヴ活動に行脚し、スタジオ・レコーディングを行ってきたはずだ。それがどうして活動を辞めてしまったのだろうか? 仲違いしてしまったのか? それとも、マネージャーさんにのっぴきならない事情(例えば、親の介護とか)が生じて、仕事を辞めざろうえなかったとか……。

いやいや、事情はまったく分からない。「ここ」の、おしまいのあたりに少しだけ書かれてはいるが。

(まだまだ続く予定)


YouTube: 浜田真理子 『Town Girl Blue』 (全曲試聴)

■湯川れい子さんの弟子で、音楽評論家&お相撲評論家、コンビニのパート勤務体験手記(これが面白い!)の著者でもある、和田静香さんのツイート。

和田靜香#石ころ‏ @wadashizuka  2月16日

 ■その和田静香さん自身による「このCDの解説」より、以下抜粋。

真理子さんはレコーディング後にこう言っていた。

「久保田さんとやってイヤな思いなんて微塵もしなかった。すごく気を遣ってくださって、曲へのダメ出しも『もうちょっとこんな感じの曲ない?』って風に言う。ジェントルマンだわ。ああ、でも曲はいっぱい書いた! 普段書かないような曲も書いた。それは採用されてないけど(笑)。今回はドロドロした感情を沈殿させ、その上澄みのところを歌った感じかな。決して真水じゃないのよ。元は泥水でそれをろ過したもの」

久保田さんというのは、あの久保田麻琴さんのことだ。1970年代前半、あの細野晴臣にトロピカル・南国無国政音楽を伝授した「久保田麻琴と夕焼け楽団」の久保田さんが、今回彼女のレコーディングをプロデュースしたのだった。となると、真理子さんもトロピカルになるのか? いや、そうはならなかった。

和田静香さんの解説つづき。

驚いたのはインスト曲が2曲もあったこと。

「最初のアルバム『mariko』(2002年)の重要な魅力にピアノがあったんですよ。インストの比重があった。浜田さんは手が大きくないけど、ピアノに渋いヴォイシングと健気な響きがある。そこを意識して聴いてほしい」

久保田さんは『mariko』をとても愛してらして、真理子さんとも打ち合わせの最初の頃に「ああいう感じ」を今また違うアプローチでやろうというような話をしていたらしい。ああ、言われたみたら、『mariko』に入ってる「song never sung」なんて、ピアノが歌詞より多くを語っていたなぁと思い出す。あのピアノを聴くと、私が置いてきてしまった、無下にした、放り出した、色々大切なものが胃のあたりでモワモワと動き出してキュ~とした気持ちになるんだ。

ちなみに『mariko』を聴くと私は、真理子さんてクリスティン・ハーシュに共通するものあるなぁと思って真理子さんにそう言うと、
「いつもみんな自分の好きな誰かに私を似ているという。たぶん8割方はその人の言う誰かに似てて、それが私の親しみ易さになっているのかも。でも残り2割は似てないという自負がある。私にロールモデルはいない。アイデンティティーないのがアイデンティティー。浜田真理子という棚に置かれるのが私の音楽なの」

■長年連れ添ったマネージャーさんと離れたことが、結果的には正解だったのかもしれない。久保田麻琴さんは、彼女の原点回帰を見事に成し遂げてくれたのだった。実際、新作『Town Girl Blue』は、浜田真理子の伝説的デビューアルバム『mariko』に匹敵する(いや、いまの時代状況を考慮すれば、2cmくらい上を行っているんじゃないか。)傑作だと、ぼくは思ったぞ。

以下、ツイートより一部改変あり。

 

@shirokumakita
2月16日
浜田真理子さんの新譜が届いた。メチャクチャ音がいいぞ。インスト・ナンバーの『Yakumo』と、昭和歌謡調ボサノバ『愛で殺したい』が、まずはお気に入り。 pic.twitter.com/p3LeOQbYIn

@shirokumakita
3月5日
浜田真理子『Town Girl Blue』から、「明星」と「静寂(しじま)」を聴いている。このCDはホント音がいいな。また今年も、3月11日がやって来る。 「おまえは生きたか どれほど生きたのか ほんとに生きたか いのちぜんぶ生きたか」思わず背筋を伸ばして深呼吸し、襟を正さなければ、絶対に聴けない唄だ。

   
しかし、浜田真理子の『Town Girl Blue』の真価は、CDの後半にこそあるのだ。和歌山県那智勝浦に住む孤高のシンガー・ソングライター濵口祐自さんの「なにもない Love Song」から続くインスト・ナンバー「Yakumo」そうして、昔サーカスが歌っていた「愛で殺したい」。「好きなの ラヤヤ、ラヤヤ。ラヤヤ、ラヤヤ。 行かないで…」聴いててゾクゾクする。オリジナルよりずっとイイじゃないか!

続き)その後に続く曲が「Mate」。これがね、めちゃくちゃいい曲なんだよ。真理子さんのオリジナル。そしてラストに収録されているのが、あがた森魚『春の嵐の夜の手品師』のカヴァー。真理子さんはどうして、誰も知らないこんな素敵な歌を見つけて来るのだろうか?

■ツイートはしなかったが、このCDには「洋楽のカヴァー」が2曲入っている。「You don't know me」と「Since I fell for you」だ。この2曲、ジャズと言うよりは、アメリカ・ディープサウス(ミシシッピー・リヴァー河口のニューオーリンズ周辺)の、レイジーなブルースの感じがする。

正直言って、真理子さんは決定的にジャズのタイム感覚が欠落している。彼女の歌は決してスウィングしないのだ。ゴメンナサイ。でも、不思議なことにブルースを唱わすと「めちゃくちゃ黒いブルース」になるのだ。

気怠い日曜日の午後ひとり。何の予定もなくただ無為にすごす贅沢な時間を、彼女の新譜は間違いなく保証してくれている。


2017年2月 7日 (火)

ドクター・ジャズ(その2)

■ジャズ評論家ではなくて、現役医師でなおかつ、プロのジャズ・ミュージシャンという「二足のわらじ」を履く人もいる。

まず思い浮かぶのは、女性ジャズ・ヴォーカルのアン・サリーだ。旧姓は安佐里。卒業大学は不明だが(東京女子医大らしい)アメリカ・ニューオリンズに留学経験のある循環器内科の医師だ。

■「ジャズ 医者 二足のわらじ」で検索すると、結構引っかかる。これはツイッターで教えて頂いたのだが、綾野剛主演、星野源共演でドラマにもなった漫画『コウノドリ』の主人公、産婦人科医:鴻鳥サクラには、実在のモデルがいた! 香川医大卒で、大阪府りんくう総合医療センターで産婦人科医を務める荻田和秀先生だ。

■アメリカには、臨床医とジャズ・ミュージシャンの「二足のわらじ」はいるか? いる。

・Denny Zeitlin(デニー・ザイトリン)。プロのジャズ・ピアニストであり、精神科医。

・Eddie Henderson(エディー・ヘンダーソン)も、精神科医でジャズ・トランペッター。ぼくの大好きな『You've got to have freedom』で、華麗なトランペット・ソロを聴かせてくれている。


YouTube: Pharoah Sanders - You've Got To Have Freedom



2017年2月 5日 (日)

ドクター・ジャズ(その1)

■ジャズ好きの医者は多い。

持ち前の探究心が昂じて、玄人はだしの「ジャズ評論」を専門誌で展開した先生もいた。粟村政昭氏がまさにそうだ。粟村氏は、京都大学医学部卒。1933年生まれだから、ご存命であれば現在83歳。ただ、ネットを検索しても最近の消息は全く分からない。スクロールして行くと、2013年に亡くなったというツイートを見つけた。寂しいな。

「スイング・ジャーナル」で同じく古くからジャズレコード評を載せていたのが、牧芳雄氏だ。じつはペンネームで、本名は牧田清志。児童精神医学の専門医で、慶応大学医学部助教授だった。1974年に東海大学医学部精神科初代教授に就任。ジャズ評論では、ビッグ・バンドや女性ヴォーカルに造詣が深かった。彼のコレクション(3000枚以上のレコード収集)は現在、東海大学湘南校舎図書館に寄贈され保管されているそうだ。

■それから、1990年代に突如出現した気鋭の若手ジャズ評論家がいた。加藤総夫氏だ。『ジャズ最後の日』洋泉社 (1993/06)、『ジャズ・ストレート・アヘッド』講談社 (1993/07)の2冊の著書が出ているが、現在は絶版。当時ジャズから気持ちが離れてしまっていた僕は、これらの本を読んでいない。

それでも、納戸から『名演! Jazz Saxophone』(講談社)を出してきて見たら、207ページに彼が書いた文章を発見した。『アウト・オブ・ドルフィー(笑)』加藤総夫 だ。冒頭の部分を引用する。

まずは「笑う」ことからエリック。ドルフィーを聴きはじめることにしよう。その早すぎた死の重さに沈み込むのではなく、ドルフィーを聴いて不意に笑い出してしまうという経験をその入口として共有するために、たとえばオリバー・ネルソンの代表作『ブルースの真実』あたりから聴きはじめてみることにしよう。

曲は「ヤーニン」。冒頭、ビル・エバンスとしてはちょっと珍しい「ゴージャス」(笑) な2コーラスのソロが、いやが上にも「ジャジー」(笑) な雰囲気を高めたのち、きわめてネルソン的な、現代楽理によるブルース解釈ともいうべき4管のアンサンブルが、感動的にテーマを唱い上げる。

そしてその最終小節、ロイ・ヘインズの派手なスネア・ロールがズドドドーッとクレッシェンドする。さあ、アドリブ。ソロだ。その瞬間、我々の耳に凄じい速度をもって飛び込んでくるドルフィーのアルトの音に耳を傾けることからまずはまずは始めてみよう。

 さて、このような圧倒的な体験を、あるいは感覚を、いったい我々はどう受け止めたらいいのだろうか? このあまりにも突然の、あまりにもとんでもないソロへの導入を耳にしたあとでできることといったら、ただ茫然自失としてぽかんと口をあけたまま、形にならない「笑い」を浮かべることしかないのではあるまいか。(『名演! Jazz Saxophone』p207

吉田隆一/黒羊㌠ 吉田隆一/黒羊㌠
@hi_doi
12月18日
大学生のころに読んだこの本にはむちゃくちゃ影響うけたのですが、その中でも特にこの一節は印象的でした。著者の加藤総夫さんは現在、慈恵会医科大学教授(神経科学研究部)jikei.ac.jp/academic/cours…

つい最近、バリトン・サックス奏者の吉田隆一氏の「このツイート」を読んで驚いた。知らなかったな。加藤総夫氏は、慈恵医大の神経生理学教授だったのか!

検索してみたら、加藤総夫氏は慈恵医大卒ではなくて、東大薬学部卒だった。医者ではないけれど、薬学博士でかつ医学博士。1958年生まれだから、オイラと同い年じゃないか!

(まだ続く予定)

2017年1月 1日 (日)

あけましておめでとうございます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

■最近は、ベストテンを挙げるほど本を読んでないのでお恥ずかしいのですが、気になった本を思い出して、並べてみました。

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昨年に読んだ本の「マイベストの3冊」は、

  1)『1☆9☆3☆7』辺見庸(週刊金曜日→河出書房新社)

  2)『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)

  3)『ルンタ』&『しんせかい』山下澄人(講談社、新潮社)

ですかね。山下澄人さんには、今度こそ芥川賞を取って欲しいぞ! それから『ガケ書房の頃』の書影がないのは、スミマセン伊那市立図書館で借りてきて読んだ本だからです。ごめんなさい、山下賢二さん。あと、『コドモノセカイ』岸本佐知子・編訳(河出書房新社)もよかった。やはり書影はないけれど、片山杜秀『見果てぬ日本:小松左京・司馬遼太郎・小津安二郎』(新潮社)が読みごたえあった。そういえば、近未来バーチャルSFハードボイルドミステリー『ドローンランド』(河出書房新社)も読んだな。


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・文庫&新書も挙げておきますかね。じつは『エドウィン・マルハウス』。まだ第一部までしか読んでなかった。ごめんなさい。決してブレることのない小田嶋さん。信頼してます。ただ、もう少し内田樹センセイや平川克美氏と距離を置いたほうがよいのではないかな。

小田嶋さんは、決して全共闘世代ではないワケだからさ。ぼくらと同じ「シラケ世代」でしょ。

あと、載せるのを忘れたけれど、『優生学と人間社会』(講談社現代新書)。

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■写真をクリックすると、もう少し大きくなります。


■CDで一番よく聴いたのは、『Free Soul 2010s Ueban-Jam』ですかね。自分の車(CX-5)に搭載されているので、エンジンをかけると必ずかかるのだ。ドライブ中に聴くとめちゃくちゃいいぞ!

次は、ハンバートハンバートの『FOLK』かな。初めてライヴに行ったし、やっぱり好きだ。おっと、カマシ・ワシントンを載せるのをすっかり忘れてしまったぞ。あれだけよく聴いたのに。

そして、小坂忠。渋いゼ! 松任谷正隆のインタビュー本によると、マンタ氏は、忠さんのことがあまり好きではなかったみたい。ないしょだよ。

2016年11月18日 (金)

姜泰煥(カン・テーファン)つづき

■姜泰煥さんに関して詳しく書かれたサイトは、ほとんどない。「CDコレクターは止められない!」くらいか。あとは、ヨーロッパのアヴァンギャルド・ジャズに精通した横井一江さんの「JAZZ TOKYO」でのコラム

その「人となり」を表す文章を、最近CDで再発された「ちゃぷちゃぷレコード埋蔵音源発掘シリーズ」のCD『姜泰煥 KAN TAE HWAN "Solo Duo Trio"』に再録されたライナーノーツの中に見つけたので、例によって勝手に転載させていただきます。ごめんなさい。

〜 佐藤允彦 〜

 フリー・インプロヴィゼイションに欠かせない能力のひとつは、相手の呼吸を読むことである。

 応答、同調、反撃、どのような立場をとるにせよ、まず呼吸を測ればさまざまな手段が見えてくる。逆に言えば、呼吸を読めなかったらなにも成立しない。聴くに耐えない音楽になってしまうのだ。

 姜泰煥氏との最初のセッションがあやうくそうなるところだった。予備知識なしに鎖鎌と立ち会った剣術使いさながら、一瞬なすすべもなく立ちすくんでしまったのだ。しかし、心を鎮めてよく聴いていると、途方もなく長い一音のなかで連続して変化する豊かな色彩が見えてきた。その変化こそ、姜さんの音楽上の、あるいは精神の呼吸なのだと悟ったとき、今まで経験したことのない、全く別次元の対応をしている自分を発見したのである。

 以来、姜泰煥氏と演奏するたびに新しい地平が拓けるように思えるのだが、実の所は壮大な姜マジックにからめとられて白昼夢を見ているだけなのかもしれない。たとえそうであっても、私にとっては大変有意義なことである。とにかく氏の音楽と接したあとは、脳細胞が蘇生するのだから。

〜副島輝人〜

 姜泰煥 - いや、親しみを込めて姜さんと書かせてもらおう - は、ステージに座って、つまり胡座をかいた姿勢で演奏する。これが姜さん独特のスタイルで、決して立って吹くことをしない。それは5年前、ソロでツアーした時から始まった。

旭川で、ステージの床が木造りだった時、胡座をかいてリハーサルしていた姜さんが、アルトサックスの底部を床に付けたり離したりしていて、突然「今日は座って演奏してもいいだろうか?」と云いだしたのである。響き方が違うということだった。後で知ったが、自宅で練習する時は、いつも胡座をかいて吹いていたらしい。

 最近、ネッド・ローゼンバーグとのツアーの時、珍しく一曲だけ立って演奏したことがある。それは共演するネッドへの配慮と共に、広い会場の後方に座っている観客にには演奏する姜さんの姿が全く見えないことを考えたものだった。この優しさが、姜さんの音楽の底を流れている。

 姜さんは、独自のライフ・スタイルを持っている。夜中の12時頃から祈りと瞑想、明け方から3時間くらいがサックスの練習時間、それから眠るのである。練習は毎日絶対に欠かさない。寝台車の中でも、早朝ベッドに胡座をかいて、音を出さないようにしながらマウスピースをくわえ、指を動かしている。

 寝る時は、必ず聖書を枕許に置く。ドイツのホテルに泊まった時、うっかりそれを忘れ、仁王立ちになった悪魔大王に、ベッドをギシギシと揺さぶられることがあった。

 菜食主義者の姜さんは、肉と魚は食べない。野菜も火を通したものでないといけない。しかし、竹輪や薩摩揚げのような、魚の練り物なら食べる。卵や乳製品も大丈夫。鶏の姿煮のようなサンゲタンという料理に、私が箸をつけようとした瞬間、隣に座っていた姜さんが「鶏さん、ゴメンナサイ。」と日本語で呟くのを聞いて、ガックリきたことがある。

「肉食者は瞬発力が強く、菜食者は持久力がある。」と姜さんは云う。昔、オリンピックの1500メートル自由形競泳で金メダルを取ったマレー・ローズは凄い選手だったが、当時としては数少ないベジタリアンだと聞いたことがあるから、姜さんの云う通りなのかもしれない。それに、なによりも、あの姜さんのノン・ブレスが朗々、延々と続けば、納得せざるを得ない。

 そんな姜さんも、2年前のロシア・ツアーでは、かなりこたえていた。ロシアの食事事情がひどく悪い時期で、食事は総てあてがいぶち。小売店の棚は空っぽで、欲しいものは全く手に入らない。出された肉団子を食べなければ、食事は抜きとなる。姜さんは、持参した米の粉に熱湯を注いで -- そのお湯も自由には貰えなかった。-- 何やら重湯のようなものを啜って飢えをしのいでいた。しかし、そういう状況の中で、一言のボヤキもコボシも云わずに、18日間のロング・ツアーを耐え抜いたのだから、これもまた一つの持久力なのかもしれない。

 奥さんの話によると、姜さんは映画を観ていてよく泣くそうである。あのクールな姜さんが? と思われるだろうが、人並み以上に感受性が強いのに違いない。姜泰煥芸術の隠れた一面が知られるように思うのだ。

 そういえば、いつか姜さんが云ったことがある。

「芸術家とは、心の中に<愛>を沢山持っている人々のことだ。」と。

ちゃぷちゃぷレコード埋蔵音源発掘シリーズ」CD『姜泰煥 KAN TAE HWAN "Solo Duo Trio"』ライナーノーツより

2016年11月 7日 (月)

ヒグチユウコ & 姜泰煥(カン・テーファン)

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■ワニが登場する絵本が好きだ。『わにわにのおふろ』小風さち・文、山口マオ・版画(福音館書店)『バルボンさんのおでかけ』とよたかずひこ(アリス館)『ワニぼうのこいのぼり』内田麟太郎・文、高畠純・絵(文溪堂)。中でも一番好きなのは、木葉井悦子『一まいのえ』(フレーベル館)。ところが最近、驚異のワニ絵本が登場した。『すきになったら』ヒグチユウコ(ブロンズ新社)だ。

めちゃくちゃリアルな「ワニ」に、ある日幼気な少女が恋してしまう。だって、好きになってしまったのだから、仕方ないじゃない? 恋とは、そういうものさ。

オジサンにはわかる。その気持ち。でも、今どきの少女やヤングアダルトに、この「切ない気持ち」がはたして解るのだろうか?

岡谷の「イルフ童画館」では、11/14(月)まで『ヒグチユウコ・石黒亜矢子二人展』をやっていて、『すきになったら』の原画が展示されていると知り、今日(11/6)の日曜日、あわてて見に行ってきた。ワニの原画、すばらしかった! 『せかいいちのねこ』(白泉社)に登場する「迷子のアノマロカリス」もよかったよ。

ヒグチユウコ恐るべし! だな。イルフ童画館内は、彼女のファンの若い女の子ばかりで、50歳をとうに過ぎたオジサンは、思いっきり場違いの「およびでない」状態で焦ったぞ。でも、ぼくと同じ気分であろう、彼女に無理矢理連れてこられた、なんとも居心地の悪そうな彼氏(20代前半)を見た。それから、このところずっと機嫌が悪かった奥さんのために、予定していたゴルフをキャンセルして仕方なくやって来たと思ったら、なんだ漫画かよ! とでも思っているに違いない、おもいきり機嫌が悪い雰囲気の40代男性とか、いたな。

でも、思いのほか良かったのが「石黒亜矢子さん」の展示だ。この人は絵が上手い。申し訳ないけれど、彼女の絵本は持っていなかった。京極夏彦氏と組んだ「妖怪もの」で知られた人なのか。最近では、糸井重里さんのツイートの中で「そのお名前」をよく目にした覚えがあるぞ。

売店を物色すると、サイン本は売り切れ。ポストカードもほぼ売り切れ。しまったな。もっと早く見に来るべきだった。仕方なく童画館を出て、いったん駐車場から車を出す。ここの立体駐車場は、なんと!「5時間まで無料」なのだ。じつは、これから甲府まで「あずさ」に乗って行く予定なので、車はこの駐車場に置いて行かなければならない。帰りは夜6時半過ぎの予定だから、午後1時半過ぎに再チェックインすれば、駐車料金は無料のままなのね。

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■車を市営駐車場に置いたまま、岡谷駅から午後2時発のあずさに乗って甲府へ。午後3時過ぎ着。ライヴ・ハウス「桜座」で『TON KLAMI トン・クラミ』佐藤允彦(p)高田みどり(perc)姜泰煥(as)のトリオ演奏を聴くのだ。櫻座は、ガラス工場だった建物を改装して劇場に作り直したという不思議な空間。

むかし、氷川台にあった転形劇場の「T2スタジオ」の雰囲気を、寺山修司の東北下北半島的古来日本のどろどろとしたイメージで掻き回したような、他ではちょっと見たことない空間だったな。毎年年末には「渋さ知らズ」の公演があるそうだが、なるほど、彼らにピッタシの劇場に違いない。

山下洋輔、富樫雅彦、ペーター・ブロッツマン、エヴァン・パーカーは、生で見たことがある。『AKU AKU』でだったかな。でも、佐藤允彦・高田みどり・姜泰煥(カン・テーファン)は初見。

最初にステージに登場したのは、佐藤允彦さんだ。おもむろにピアノを弾き始める。左手で繰り返される基礎音に右手が自由に乱舞する。ダラー・ブランドの『アフリカン・ピアノ』を、もっと知的に研ぎ澄まされた緊張感を維持した、素晴らしいソロ・ピアノだった。それにしても、佐藤允彦さんは超ベテランなのに、繊細な指使いを駆使する一方、山下洋輔ばりの体育会系超パワフル演奏で、めちゃくちゃ若々しいかった。凄い人だ。

暫くして、舞台下手から高田みどりさんが鈴を鳴らしながら登場。マリンバとピアノのデュオが始まる。お互いに音を探り合う感じが、ビシビシと客席に伝わってくるぞ。インタープレイというのは、こういう演奏のことをいうのか。

そして満を持して姜泰煥の登場だ。音がデカイぞ! 驚いたな。アルト・サックスなのに、図太い音が朗々と劇場空間を占拠して、一瞬にして姜泰煥の世界へ引き込まれてしまったよ。とにかく、スケールの大きさが尋常ではなかった。大地の鼓動、マグマの唸り。地球そのものが僕に語りかけているような感じだった。

ぼくは、姜泰煥さんの日本で初めて出たレコードを持っている。ずっと前から、ぜひ一度、彼の演奏を生で見たかったのだ。

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■ピアノにマリンバ、太鼓に銅鑼も打楽器だから、音は断続的に短いパッセージで連なる。ところが、姜泰煥のアルト・サックスは音が途切れることがない。まるで他の二人の対極を悠々自適に大河がとうとうとと流れる如く勝手にリードしてゆく。これが「サーキュラー・ブリージング(循環奏法)」だ。圧倒された。

今回、サーキュラー・ブリージング奏法を初めて詳細に目の前で見た。ほっぺたを膨らませたり縮めたり。じつに不思議な光景だったな。

姜泰煥さん。特殊な奏法を駆使し続けるためか、アルト・サックス管内に貯まった唾液を、何度か管を外して排していたのが印象的だった。それから、頻回にリードを交換していたぞ。他のサックス奏者では見たことがない光景だった。リードを換えることで、サックスの音色が変わるのだろうか? 

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■演奏は、ソロ、デュオ、トリオと臨機応変に自由に変化し、ファースト・セットのラストでは3人が一丸となった異様な高揚感を体感した。姜泰煥さんのこの日一番の激しい演奏で、思わず身震いしてしまったよ。あぁ、来てよかった。第二部が終わって、これでおしまいかと思ったら、思いがけずアンコール演奏をしてくれた。この曲がメチャクチャよかったのだが、なんていう曲目なんだろう?

■佐藤允彦さんも是非一度ナマで見たかったピアニストだ。今日は長年の夢が叶って本当にシアワセだ。終了後、無理を言ってサインもしてもらった。佐藤さんには持参した『YATAGARASU』「珍しいの持ってるね」って言われたけど、佐藤さんのCD・LPは、『パラジウム』など古いものしかないのです。ゴメンナサイ。

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姜泰煥さんは、座ったままサックスを演奏する。そのことは以前から知っていたから、別に驚かなかったのだけれど、胡座をかいてサックス・ソロを吹く姜泰煥さんが、おもむろに左足を伸ばした。足が吊ったのか? いや、そうじゃなかった。彼はサックスの「あさがお」を伸ばした左足の太腿に押しつけ、アルトサックスを演奏しだしたのだ。まるで、トランペッターがミュート演奏するみたいにね。でも、聴いていて音がどう変化したのか、いまひとつ判らなかった。

■エリントン楽団みたいな重層的なハーモニーを、たった一人で再現しようとした盲目のジャズマンがいた。そう、ローランド・カークだ。ソロで演奏しているのに、何本ものサックスが同時に鳴っている演奏を再現するために彼が考え出したことは、一度にサックスを3本くわえて吹けばよいということだった。

それから「サーキュラー・ブリーシング」。息継ぎせずに、延々とサックスを吹き続ける手法。この奏法を確立したのが、エリントン楽団の重鎮、ハーリー・カーネイ(バリトン・サックス)だ。その後継者が前述のローランド・カーク。ただ彼の演奏は、見世物的でグロテスクなものとして聴衆には受け取られた。

そうは言っても、息継ぎせずにサックスを吹き続けることは大変な修練と体力とテクニックが必要だ。だから、この特殊技法を完璧にマスターしたミュージシャンはそうはいない。その、数少ないジャズマンが、イギリス人のエヴァン・パーカーだった。

エヴァン・パーカーのソプラノ・サックスのソロ演奏を記録したダイレクト・カッティング盤『モノセロス』を初めて聴いた時の驚きといったらなかったな。上手くは言えないのだけれど「サーキュラー・ブリーシング奏法」に加え、ソロ演奏なのに、同時に3人も4人も演奏しているように聞こえる「マルチ・フォニック奏法」を完璧にマスターして演奏しているのだ。ほんと、たまげた。だって、一度も息継ぎせずに、30分間ソプラノ・サックスを吹き続けるんだよ。信じられないよね。

■そしたら、エヴァン・パーカーと同い年の韓国のジャズ・ミュージシャンが、遙か遠く極東の地で、誰にも知られず理解されずに、まったく同じ「奏法」を開発したのだった。それが姜泰煥だ。

彼が「この奏法」を確立するまえには、エヴァン・パーカーを聴いたことがなかったんだって。信じられないよね。でも、同じ奏法でのサックス・ソロ(エヴァン・パーカーはソプラノ・サックス、姜泰煥はアルト・サックス)でも、聞こえてくる音がぜんぜん違っているのが不思議だ。

パーカーの演奏は、良い意味でも悪い意味でも、西洋のコンテンポラリー音楽の系譜に収斂される。ところが、姜泰煥の演奏は、たとえモダンなピアニスト佐藤允彦や現代音楽の打楽器奏者の高田みどりといっしょに演奏していても、不思議とジャズは感じない。ましてや現代音楽なんて感じじゃないな。

この感じを、うまくは言えないのだけれど、ジャズとも現代音楽とも違う、アジア文化圏の音が鳴っているのだよ。佐藤允彦さんのピアノ・ソロも、努めて西洋的モダンを隠して、東洋的アジアを感じさせる演奏だった。


YouTube: Kang Tae Hwan 강태환 2013/07/14 @ Yogiga, Seoul part 1


それにしても、25年前にレコードで聴いて驚いた、姜泰煥さんの演奏テクニックは、もっともっと進化(深化)していてた。サーキュラー・ブリーシングも、ポリフォニック奏法(最先端のノイズ・ミュージックみたいにも聞こえたよ)も、必然的表現方法として、孤高の頂を極めた感じだ。目を閉じて聴いていると、風景が見えてくる。大地の息吹、荘厳な宇宙の広がり。能舞台の幽玄の世界観。

公演の終了後、姜泰煥さんの出を待って、購入したCDにサインをしてもらった。ステージ上では異様な神秘のオーラに溢れた姜泰煥さんだが、オフの場では、大阪の新世界にでもいそうな、単なる老齢の地味なオッサンだった。ミュージシャンとしての自信と自負を持っているに違いないのに、そのオーラを消し去る術を知っている人なのだな。

あらためて、その真摯で木訥とした人柄と演奏に感化されてしまったよ。

■帰りは、甲府発18:05分の普通列車松本行きに乗車。19:25分岡谷着。めちゃくちゃ寒い。走って駐車場まで。6時間経つから、さすがに有料だった。ただし、250円。偉いぞ!岡谷市。

2016年3月11日 (金)

カマシ・ワシントン(その6)追補:KENDRICK LAMAR『TO PIMP A BUTTETRFLY』

■カマシ・ワシントンも、6曲目「U」と、ラストに収録された「Motal Man」のバックで(まるでコルトレーンみたいに)演奏するテナー・サックスで参加し、その他の曲でもストリングス・パートのアレンジをいくつも手がけた、ケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』。やっぱり聴いてみるしかないなと思い、先だってようやく日本盤を入手した。

恥ずかしながら初めて聴いたが、こいつ、凄いな。

画面中央の星条旗じいさんの向かって右奥にいるモジャモジャ頭の人が、カマシ・ワシントンだ!


YouTube: Kendrick Lamar - For Free? (Interlude)

「俺のチンポはタダじゃねぇ!」 って、かなりヤバい歌詞だぞ。


YouTube: Kendrick Lamar - Alright


YouTube: Kendrick Lamar - King Kunta

■言うまでもなく「クンタ・キンテ」は、小説&テレビドラマ『ルーツ』の、アフリカから奴隷船の船底に乗せられて新大陸まで強制的に連れてこられた主人公の名前だ。

このCDは、アメリカ在住の黒人に関する一大叙事詩、絵巻なんだと思った。

「ここの解説」は、かなり詳しいぞ。あと、

ケンドリックラマー『To Pimp A butterfly』の怪物性とは? 」。

■ケンドリック・ラマー(1987年生まれ)は、ロサンゼルスでも一番ヤバい地区(コンプトン)の出身。「King Kunta」のPV撮影現場が「そこ」だ。「For Free?」のPVの巻頭でアルトサックス・ソロを吹いているのが、このCDのプロデューサーでもあるテラス・マーティン。

カマシ・ワシントン(1981年生まれ)と同じく、LAのサウスセントラル出身で、1978年生まれのロバート・グラスパー(テキサス州ヒューストンの出身)とは、15歳の時に、全国から選ばれた才能のある高校生プレーヤーがコロラド州で開催されたジャズ・キャンプに集まって、その時に出会っている。だから、このCDにはグラスパーが参加しているのだ。

『Jazz The New Chapter 3』p23 では、インタビューに答えて、テラス・マーティンはこんなことを言っている。

---- ロバート・グラスパーにインタビューした際にこの曲「For Free ?」について「あなたの演奏はマッコイ・タイナーみたいでしたね」と伝えたら、「テラス・マーティンにマッコイ・タイナーみたいに弾いてくれって言われたから」と言ってました。

Terrace Martin:「ほんとうは、彼にはケニー・カークランドみたいに演奏してほしいと言ったんだよ。ケニー・カークランドはもう亡くなってしまったけれど、俺が一番大好きなミュージシャンの一人なんだ。ウィントン・マルサリスとブランフォード・マルサリス周辺のミュージシャンは、俺の音楽に多大な影響を与えてくれたのさ。」

テラス・マーティンは、グラスパーと同い年くらいだと思うが、ウィントン兄弟をdisることなく、心からリスペクトしていることが分かる発言だ。

ウィントン・マルサリスが1961年10月生まれだから、かつての神童も今年で55歳になる。ジャズ界の最前線でまだまだ活躍している、ハービー・ハンコックは 1940年4月生まれだから75歳、ウェイン・ショーターは 1933年8月生まれの82歳。ファラオ・サンダースだって75歳の今やご老体だ。

ぼくらは、いつまでも「彼ら」にすがっていてはいけないのではないか? 若い彼等に、これからのジャズを任せてみてもいいんじゃないか? そう思った。

今年の夏には、ロバート・グラスパーもカマシ・ワシントンも自分のグループで再来日し「フジロック」に出演することが決まった。会場を訪れた、ジャズなんて牛角か小洒落たラーメン店のBGMで流れてる音楽っていう認識しかない若者たちが「彼等の熱い音」を初めて聴いて「カッコイイ!!」って思ってもらえればしめたものさ。

■話はループして、最初の「村上発言」に戻る。続きの部分を以下に引用すると……

 どちらの言い分が正しいのかというというのは、言うまでもないことだが、どちらの立場に立ってものを見るかによって変わってくる。僕個人の意見を言わせていただくなら、どちらの見方もそれなりに正しい。

こういう結論の下し方はいささか優等生的すぎるかもしれないが、僕ら日本人はもしジャズを真剣に聴こうとするなら(あるいはブルーズやラップ・ミュージックを真剣に聴こうとするなら)「音楽は音楽として優れていればそれでいいんだ」という以上のリスペクトを、アメリカにおける黒人の歴史や文化全体に対してもう少し払ってもいいんじゃないかと思うし、今日随所で見られる「こっちには金があるんだから、札束を積んでジャズ(に限らず他の何かなり)をオーガナイズしてやろう」という風潮はできることなら改めた方がいいと思う ---- 少なくとももうちょっと控え目になった方がいいと思う、たとえ悪意はないにせよ。

またそれと同時にマルサリス兄弟をはじめとする若い黒人ミュージシャンたちも、文化的独占権を声高に言い立てるよりは、自分たちの音楽をもっと世界に拡げていくことによってより幅広い民族的アイデンティティーを確立するというパースペクティヴを持った方がいいのではないかという気もする。

そういう一般論で締めくくるには現今の社会状況はあまりに閉鎖的で重すぎるかもしれないけれど、少なくともレーシズムに対する逆レーシズムといった構図からは、真に創造的なものはうまれてこないのではないか。(『村上春樹 雑文集』より「日本人にジャズは理解できているんだろうか」p125,126)

■村上春樹さんが、20年以上も前に書いたこの文章は、ケンドリック・ラマーの『TO PIMP A BUTTERFLY』によって、まさに実現されていることに、今更ながら驚く。

(おわり)



2016年3月 8日 (火)

カマシ・ワシントンの続き(その5:これでおしまい)

■前置きが長くなりすぎて、すでに飽きてしまった感はあるが、ようやく本篇です。

『THE EPIC』(CDの帯には「ザ・エピック」と書いてあるけれど、「ジ・エピック」じゃないのか?)の、音楽評論家:高橋健太郎さんの評

こちらは、沖野修也氏のカマシ・ワシントン評

そうなんだよなぁ。何か革新的な音を目指しているんじゃなくて、むしろ懐かしい、1970年代のレトロな響きがする。例えば、『ブラック・ルネッサンス』みたいなレコード。ブラック・パワーに充ち満ちていて、自信にあふれ、大らかで、ソウルフル。そして何よりも、聴いている者の心の奥底まで深く到達する音楽。つまりは、スピリチュアルであるということなんだ。

それに、とにかく聴いていてカッコイイ!

個人的お気に入りは、何と言っても CD2枚目の「Volume 2」だ。特に1曲目とラストの6曲目が熱い。リズムセクションが、僕の大好きなエリック・ドルフィーの『ファイブ・スポット vol.2』A面「Aggression」での、マル・ウォルドロン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、エド・ブラックウェル(drums)みたいだからだ。

特に6曲目「The Magnificent 7(荒野の七人)」での Cameron Graves のピアノ・ソロが熱い。最初は、ジョン・ヒックスみたいな感じで始まって、そのうちにドロドロと音がうねりはじめ、あのファイブ・スポットでのマル・ウォルドロンが憑依したかのような異様な盛り上がりを見せる。

それから、サンダーキャットのベース・ソロがこれまためちゃくちゃカッコイイぞ!

3曲目「Re Run」もいい曲だ。3枚目では、アレンジを変えて「Re Run Home」としてもう一度演奏されるが、これまたカッコイイ。あと、1枚目の「Change of the Guard」「Askim」も、もちろん好きだ。

[live video] カマシ・ワシントンによるKCRWでの30分強のライブ映像

■それにしても不思議なのは、ロバート・グラスパーたちが推進する「今ジャズ」とは明らかに違う方向(どちらかと言えば後ろ向き)を、カマシ・ワシントンが目指していることだ。それに何よりも、ニューヨークではなくて、ロサンゼルスで録音されている、いわゆる昔でいうところの「ウエスト・コースト・ジャズ」なのだ。今までのジャズの歴史に則していうと、最先端の音を発信する場所では決してなかった。

でも案外、この「西海岸発」っていうキーワードが重要なのかもしれない。

例えば、ストラタ・イーストやインパルス・レーベルで隆盛を極めた「70年代スピリチュアル・ジャズ」を80年代初頭にリバイバル・ヒットさせたのが、ファラオ・サンダース『ジャーニー・トゥ・ジ・ワン』(Theresa)であり、このレコードは西海岸のサンフランシスコで録音された。テレサは、サンフランシスコの地元にあるマイナー・レーベルで、実はファラオ・サンダース自身がサンフランシスコの出身だったのだ。

■カマシ・ワシントンもロサンゼルスの出身だ。父親も西海岸で活躍する、ジャズ・サックス奏者だった。しかし、ウィントン・マルサリス音楽一家とは違って、決して裕福な家庭ではなく、LAでもランクの低い地域(サウスセントラル)に居住していたらしい。そのあたりのことは、以下のインタビュー記事に詳しい。

  ・「取材・文:バルーチャ・ハシム、原雅明」

  ・「取材・文:柳楽光隆

インタビュー記事に登場する名前でポイントとなるのは、フライング・ロータスとケンドリック・ラマーだ。二人とも、ロサンゼルスの出身で、フライング・ロータスは、ジョン・コルトレーンの2番目の妻(最初の奥さんはナイーマ)であるところの、アリス・コルトレーンの妹の息子にあたる。つまりは、伯父さんがコルトレーンという出自。凄いぞ。

フライング・ロータスが「今ジャズ」に接近した『ユーアー・デッド!』と、ロバート・グラスパーやクリス・デイヴらの「リズムのとらえ方の違い」関して、『ミュージック・マガジン 2014/12月号』(特集:2010年代前半の洋楽大総括!)誌上において、高橋健太郎氏はこう書いている。

(前略)新世代ジャズ・ドラマー達に共通するのは、クラブ・ミュージックに強い影響を受けてきたことだ。あるいは、このクラブ・ミュージックはマシーン・ミュージックと言い換えてしまってもいい。

 人間のドラマーがマシーンのドラムを真似て演奏する、という現象は、遡れば1990年代のドラムンベースに始まる。(中略)

そこでよく話題になるのが、ア・トライブ・コールド・クエストやファーサイドなどのトラックメイカーであった故J・ディラからの影響だ。端的に言えば、微妙にタイミングをズラしたドラム・マシーンとフレーズ・サンプルの組み合わせで官能的なグルーヴを生み出したディラのトラックメイキングが、ドラマー達に新しいインスピレーションを与えたということだ。(中略)

ともあれ、プログラミングされたズレのあるビートを生のドラミングに移し替えることが、新しいジャズの潮流を生み出しているのは間違いない。(中略)

ディラのようなトラックメイカーはトライ&エラーを重ねながら、絶妙なズレを生み出した。現代のスタジオ作業ではDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)上の常に「グリッド」は見えているが、そのグリッドには従わず、任意のタイミングでサンプルを重ねた時のズレこそに、粋なグルーブを見出す。(中略)

だが、人間のドラマーは、適当な塩梅でズラすのが粋、では仕事にならない。なぜなら。彼らの他のミュージシャンと合奏せねばならないからだ。ゆえに、ディラのようなビートを叩くといっても、そのズレをグリッド上で再定義して叩くことになる。

ドラムンベースは2の倍数で小節を割るだけだったが、クリス・デイヴのようなドラマーは3の倍数でも割ったポリリズミックなグリッドを持つ。(中略)

(フライング・ロータスが)2010年の来日時に、僕は朝日新聞にこんな彼のライヴ評を書いている。

「うわものとなる生楽器等がなくても、即興的に生成されるリズムの自由度が強烈にジャズ、あるいはフリー・ミュージックの精神を感じさせる。思いがけない展開の連続ながら、一瞬の隙もなく、スムースに変異していくのにも驚かされる」

 ラップトップ1台で演奏している時でも、フライング・ロータスの音楽は強烈にジャズ的であり、その根源は変異していくリズムにある、ということを言っているのだが、その論は現在でも有効だと思う。

さらに言えば、そんなフライング・ロータスは、グリッドに囚われない音楽を志向している、というのが僕の基本的な考えだ。(中略)

フライング・ロータスと「ある感覚」を共有して、演奏に参加しているのは、たぶん。盟友サンダーキャットだけではないだろうか。

 その感覚とは何よりも空間に関わるもののように思える。短い曲のいずれもが、ある特異な空間をくぐり抜けていくような体験をもたらすからだ。そこに入った瞬間に目眩がするような歪んだ感覚に囚われるので、40秒でも強烈なインパクトがある。

気持ち悪くなるギリギリくらいの定位/位相/残響などのミックス処理が効いているが、その空間感覚のオリジンを考えていくと、伯母のアリス・コルトレーンの音楽に行き当たったりもする。(中略)

 話を「グリッド」に戻すならば、音楽においては、時間に関わることと空間に関わることは不可分でもある。音楽の時間軸をグリッドで考えず、非グリッド的に作っていく、ということが、空間の構成も変える。フライング・ロータスとサンダーキャットは優れて、そこに意識的なサウンドメイカーであるようにも思える。(中略)

 そういう意味では、それはヒップホップからの影響を咀嚼し、グリッドを再定義して進む「新しいジャズ」への批判としても成り立っているように思う。ジャズ・ミュージシャンを多く招き入れながら、彼らの演奏を使って、違うコンセプトの音楽を聞かせる。

ジョン&アリス・コルトレーンの甥が、ジャズが持っていたスリルを備えているのはどっちだ? と問うている。(『MUSIC MAGAZINE / December 2014』p46〜49)

2016年3月 3日 (木)

カマシ・ワシントンの続き(その4:菊地成孔さんの話)

■ロバート・グラスパーが『ブラック・レディオ』で登用した新世代ジャズ・ドラマー、クリス・デイヴやマーク・コレンバーグ、グレッチェン・パーラト(vo)の旦那さんでもあるマーク・ジュリアナなどが叩き出す「リズム」の革新性について、最新号の『ミュージック・マガジン3月号』62ページから柳樂光隆氏が僕なんかにも分かり易く総説を載せている。

同じ話を、菊地成孔氏が、村松正人監修『プログレッシヴ・ジャズ 進化するソウル フライング・ロータスとジャズの現在地』(別冊ele-king /Pヴァイン/2014/10/14)の「菊地成孔『今ジャズ』講義」の中で、インタビューに答えて語っているのだが、これまた大変分かり易い。

これに関しては、菊地さんのラジオ番組『粋な夜電波』の中でも何度も語られている。最近では 2015/11/06「アフリカからディアンジェロまで ブラックミュージックを語るにはクラブの中にいるだけでは不十分だ」が詳しい。

ここでは、その「リズム」の話ではなくて、以下の発言を取り上げたい。

菊地:「今ジャズ」がフュージョンであることの第二の理由は、拝外思想が復活したこと。スター・プレーヤーはアメリカにいて、日本人はぜんぜんダメというものすごい懐かしい拝外思想が蘇生している。(中略)

随分長い間、いくらウィントンが、ハイブな出自に懺悔するがごとく、実直すぎるほど地道な活動をニューヨークで続けようと、あらゆる過去のジャズジャイアントの存命者や、ブラッド・メルドーなんかが夜中から安く聴けるという状況があろうと、ジャズにおけるニューヨークのありがたみは、観光客相手のレベルまで含め、価値が下落していた。

「今ジャズ」の最大の功績に「やっぱニューヨークって本場だよな」って再び思わせたってこと。世界中にいるDJや全米のラッパーは憶えられなくても、ニューヨークに3人の有名なドラマーがいるとなると憶えられる。(『プログレッシヴ・ジャズ』p65)

■つまりは、最先端のジャズ(今ジャズ)の発信地が、アメリカ・ニューヨーク限定であること。そして、その発信者が「黒人」の若手ミュージシャンであることが重要だ。

しかも彼らの音楽体験のベースは、1990年代のヒップホップであり、R&B もしくは、マイケル・ジャクソンやプリンスといった、ブラック・コンテンポラリー・ミュージックなのだから、ジャズだけを一生懸命聴いてお勉強してきました! って感じのウィントン・マルサリスとはぜんぜん違う。

だからこそ、菊地成孔氏は「第二次フュージョン期」として、マイルスの『ビッチズ・ブリュー』と、チック・コリア『リターン・トゥ・フォーエバー』に始まる、1970年代の「第一次フュージョン・ブーム」を彷彿とさせる、ジャズ界の大変革期と捉えているのだな。

■そのブームを一人で牽引するロバート・グラスパー(p)のアイドルは、ハービー・ハンコックとクインシー・ジョーンズだ。

彼が目指すものは、だから「プロデューサー」的な役割、つまりは自らを「ハブ」として、彼の多彩な人脈を駆使し、一見無関係にも思えるミュージシャンたちを出会わせ、刺激的でまったく新しい音楽を一般大衆に提示してみせることなんじゃないか。

だから、彼の中では「ジャズやってます」なんて意識はこれっぽっちもないから、ウィントン・マルサリスが一人で「ジャズの未来」を背負ってしまった(村上さんも「そこ」をたぶん期待しているからこそ、愛の鞭を振るったのだと思う)不幸から、根本的に自由でいられた。そこがよかった。

さらに彼が幸運だったことは、ウィントン・マルサリスの懐古的・博物館的・学術的ジャズには、到底ついて行けなかった、ニューヨークの同胞アフリカン・アメリカンが諸手を挙げて彼の『ブラック・レディオ』を絶賛したこと。それに、アメリカの人口の多数を占める白人も、ヒスパニックも、最先端のヒット・チャートからグラスパーの音楽を好んで聴いてくれたことがやはり大きい。

黒人(アメリカの人口の12%にすぎない!)だけのマーケットでは、音楽は売れないのだ。

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