2012年10月17日 (水)

『かめくん』北野勇作(河出文庫)読了

Kame


■正直に告白すると、11年前に購入した『昔、火星のあった場所』北野勇作(徳間デュアル文庫)は、当時まったく付いて行けなくて、それでも頑張って114ページまで読んだのだが、そこで挫折した。だから、同時に買った『かめくん』は、結局読むこともなくそのまま納戸の書庫に凍結保存されたのだった。ごめんなさい、作者さま。


でも、『どろんころんど』(福音館書店)と『きつねのつき』(河出書房新社)を最近になって読んで、いたく感心したのだ。北野勇作というSF作家に。


で、満を持して『かめくん』(徳間デュアル文庫)を読み始めたら、なんと、河出文庫から「新装改訂版」がこの8月に出た。表紙のイラストが素晴らしい。中州中央図書館のミワコさんが、夕日を浴びている。その向こうに通天閣と新世界界隈。それに路面電車も走っている。


読了してから、しみじみ表紙をながめてみると、この小説世界が見事に凝縮されていることに気づいて驚く。徳間デュアル文庫版では、リンゴをかじる主人公の「かめくん」をメインに描かれているのに、河出文庫版では、表紙のどこにも「かめくん」はいない。それには理由があるのだ。

このイラストのタッチは高野文子だよなぁ、と思ったら違った。オカヤイヅミさん。知らない人だ。いいじゃないか。贔屓にしよう。



■「かめくん」は無口だ。

いや、本当を言うとしゃべれない。だって、かめだから。

でも、模造亀(レプリカメ)で機械亀(メカメ)だから、高性能の人工頭脳と甲羅内に成長する高容量メモリーを装備しているので、人間の言葉は理解できるし、奥深い哲学的思考だってできるのだ。


じゃぁ、人と会話する時はどうするかというと、いつも「EXPO 70」のショルダーバッグに入れて持ち歩いている「ワープロ」を使うのだ。


【以下、主題に関する「ネタバレ」あります】


■ぼくが駒ヶ根のおばあちゃんといっしょに大阪万博に行ったのは、小学6年生の時だった。三波春夫が歌ってたっけ「こんにちは、こんにちは。世界の国から。1970年のこんにちは。」


そのもう少し前のことだったか、NHKで『プリズナー No.6』っていう不条理SF&スパイものTVドラマ(イギリス制作)をやっていた。イギリスの諜報部員パトリック・マクグーハンが上司に辞表を叩き付け自宅に帰ると、何者かに誘拐され、目が醒めると不思議な「村」に幽閉されていた。という話。


あのテレビドラマを見た影響か、小学性のぼくは、じつは父も母も友達も「みんなニセモノ」で、ぼくが生活しているこの空間も本当はスタジオの中のセットで作られていて、遠くに見える景色も作り物なんじゃないか? って妄想に取りつかれたことがあった。


だから、ぼくが消えると「この世界」もいっしょに一瞬にして全て消えてしまうのではないか?って。そんな恐怖に襲われたものだ。『かめくん』を読んで、久しぶりに「あの時」の感覚をありありと思い出した。


茂木健一郎氏の「クオリア」ではないが、人それぞれに認識している世界は異なる。当たり前のようでいて、じつは案外誰も分かっていない。


でも、「かめくん」は分かっていた。

だから哀しい。

だから切ない。


あぁ、もうすぐ冬がやって来る。

2012年10月16日 (火)

第13回 柳家喬太郎独演会 駒ヶ根・安楽寺

■昨日の10月15日(月)は、年に一度の「駒ヶ根安楽寺・柳家喬太郎独演会」。月曜日だったからね、ちょっと今回は無理だと思ってた。


でも、ラッキーなことに午後は案外患者さんが少なくて、午後6時前で診療が終了。急いで着替えて一路駒ヶ根へ。文化会館の駐車場に車を止めて走って安楽寺。18:45 着。よかった間に合った。


しかし、安楽寺本堂はすでに満杯だった。1人だったから、あわよくば前の方にすすっと出て行って隙間を見つけ座ってしまおうと考えていたのだが、とても無理。仕方なく、最後列の窓際の椅子に着席。300人以上は入ってるかな?って思ったら、安楽寺住職の話では 450人来てたんだって。もうビックリ。それにしても大変な人気じゃないか、喬太郎さん。


■開口一番は、ふつうお供で同行した師匠の弟子(前座)が務めるものだが、喬太郎師に弟子はいない。で、最初に高座に上がったのは、この6月に落語芸術協会の真打ちに昇進した春風亭愛橋師匠。


真打ちの落語家に対して「開口一番」なんて言ったら失礼なんだが、正直まだまだ喬太郎師の胸を借りている感じの愛橋師だったなぁ。もっと自信持って堂々と落語やればいいのに。演目は「かぼちゃ屋」。愛橋師得意の「与太郎もの」だ。


まだ、昔昔亭健太郎だった頃、あれは何年前だったか、伊那市駅前に酒蔵を持つ「漆戸酒造」での新酒お披露目落語会に家族4人で行ったことがあった。あの時は「牛ほめ」をやってくれた。妙になよなよした所作で、妙ちくりんな髪型、でも、独特な「フラ」があって、これはこれで面白いぞ! そう感じた。


あのまま突っ走ればよいのだよ。でも、昨日の愛橋師は、450人の聴衆を前にして、やたら肩に力が入っていた。地元だし、真打ち披露ではいろいろと世話になった人ばかりだったからね。戴いた帯とか、お祝いの後ろ幕とか。言及しとかなくちゃいけないことが多すぎた。だからか、本篇の落語が散漫になってしまったのかな。

伊那北高校の後輩だし、これからも一生懸命応援していきますよ。頑張って欲しいな。


■さて、喬太郎師はというと、貫禄の高座であった。


まくらで、こうして安楽寺のご本尊に背を向けて落語をしていると、いつかバチが当たるんじゃないかって思ってるんですよ。って話から、埼玉のお寺であった落語会の話へ。そこのお寺では本堂を使わずに、お寺の境内が客席だったんだって。で、演者は境内に面した「縁側」に座って噺した。

ところが、にわかに大雨が! って話。笑っちゃったなぁ。


そこから本篇の「蒟蒻問答」へ。


この噺、いままで正直それほど面白いと思ったことがない。ところが、喬太郎師の「こんにゃく問答」の面白いことと言ったら、あんた。もう大笑いでしたぜ。放送禁止用語もビシバシ飛び交って、いやぁ、勢いがあったなぁ。


喬太郎師の2席目は「へっつい幽霊」。

この噺、好きなんだ。ぼくが持ってる音源は、先代桂三木助のと、立川志の輔師のCD。何せ、三木助師は「ほんもの」の博打打ちだったからね。


喬太郎師は、基本的に古典落語を演じるときはあまりいじらない。先輩から教わった通りに崩さずに演じる。その態度がぼくは好きだ。最近は「いじりすぎる」落語家がやたら多いからね。本来、数百年の歴史ある噺の骨格がすでに出来上がっていて、それだけで面白いワケだから、変に崩す必要はないのだ。古典落語はね。


喬太郎師はそのことをよーく分かっている。


でも、今回はちょっとだけ「くすぐり」を入れてたな。最初に「へっつい」を買ってった客が、しゃべる度に「……道具屋!」と必ず語尾に付けるのだ。これがしつこい。


ぼくはこのくだりを聴きながら、Sさんっていう、いつも娘さんを2人連れてくるおかあさんを思い出していた。このおかあさん、必ず語尾に「……先生!」って付けるのだ。「昨日の夜に熱がでたんですよ、先生。夜中にうなされて苦しそうでした、先生。今朝はごはんを食べたんですけど、先生。そのあと吐いちゃったんです先生。」ってね。


そしたら、久しぶりに「そのSさん」が今日の午前中、娘2人を連れて受診したのだ。申し訳ないけど、ひとりで笑ってしまったよ。


450人の聴衆がみな大笑いした高座だった。大満足でした。やっぱ、ナマの落語はいいなぁ。これだけの人気落語会になったのも、すべて「駒喬会」の皆さまのご苦労あってのものだ。ほんと感謝してます。

来年は6月とのこと。今から楽しみだぞ。


以下、昨日つぶやいたツイートを転載。

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駒ヶ根「安楽寺」での第13回柳家喬太郎独演会から大満足で帰ってきたら、ブランコが逆転満塁ホームランを打っていた。びっくり。ちなみに今夜の演目は、春風亭愛嬌師が「南瓜屋」。喬太郎師は「蒟蒻問答」と「へっつい幽霊」。いやぁ、笑った笑った。


続き)まぁ、これは「ナマ」で落語を聴いた後の帰り道で毎回味わう感覚なのだが、得も言われぬ「幸福感」に満たされる訳だ。何なんだろう? この満足感。落語って、やっぱ凄いぞ。安楽寺住職の話では、今宵の本堂に450人もの人々がつめかけたという。恐るべき集客力だ、喬太郎師。


以前テレビでだったか、喬太郎師がまくらで駒ヶ根の独演会の話をしていた。会の主催者が興奮して言ったという。「喬太郎さん!300人以上入ったってことは、駒ヶ根市の人口の1%だ。東京で言うと10万人の集客ですよ!」ってね。

2012年10月11日 (木)

陸前高田『ジャズ喫茶ジョニー』のママのその後

■共同通信が配信している連載記事『新日本の幸福』は、信濃毎日新聞では夕刊で連載している。その最新シリーズ「震災1年半 今も傷痕」をこのところずっと読んでいるが、正直とても辛い。でもなぜか読まされてしまうのだ。

昨日の水曜日の記事を読んでいたら、陸前高田「ジャズ喫茶ジョニー」店主、照井由紀子さんのことが載っていた。(以下転載)

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『新日本の幸福』(97) 「震災1年半 今も傷痕」(16)
 
 何のために続けるのか --- 再開した店 友の姿なく ---
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 岩手県陸前高田市の中心部にかつてあった、大きな2階建ての木造家屋。津波に流される前の「ジャズ喫茶ジョニー」は、商店街でも目立つ存在だった。そこから約3キロ離れた国道沿いの高台に、四角いプレハブの仮店舗が4軒並ぶ。右から2軒目が今のジョニー。引き戸を開けると、心地よいジャズのリズムと、コーヒーの香り。

 カウンターの向こうで湯を沸かす店主の照井由紀子(59)の胸には、時折、思いがよぎる。「私は何のために、この店を続けているんだろう」
 隣で雑貨店を営む中野貴徳(42)が、震災前のジョニーを撮った大きな写真を、窓際の明るいテーブルに広げた。「昔は漫画を読むのも難しいぐらい暗かったんだ」

 ジョニーを始めたのは1975年。7千枚近いレコードや骨董品を飾った店で、夫はピアニストの秋吉敏子ら有名なアーティストを呼び、よくライブを開いた。夫ほどジャズへのこだわりがなかった照井は、もっぱら厨房での調理を担当した。客と言葉を交わすことは、ごくわずかだった。

 10年ほど前に離婚したが、1人ででも店を続けるしか生きる方法がなかった。ただ、離婚前から悪くなり始めていた耳は、ほとんど聞こえなくなっていた。診察した医師は「何でほっといたんだ」と叱った。原因は「過度のストレス」と診断された。

 それでも、毎日のように顔を出してくれる常連客の支えで営業は続いた。近くで写真館を営み、震災で亡くなった菅野有恒=当時(57)=もその1人。照井は菅野に教えられてカメラが趣味になった。


      ■             ■

 昨年3月10日夜。コーヒーを飲んでいた菅野は、照井に言った。「何があっても、由紀子さんは僕たちが守るからね」。突然の言葉に驚いたが、うれしかった。

 翌日の午後。照井は激しい揺れが収まると店の外に飛び出した。目にしたのは、海から迫る茶色の”壁”。津波はすぐそこまで来ていた。

 「ゆきちゃん、逃げて」。叫び声が聞こえ、高台に走る。「バリバリ」。背後で店が崩れる音も分かった。木にしがみつき、助かった。

 しかし、多くの友を津波は連れ去った。「私だけ仲間はずれ。置いてけぼりにされたみたい」。菅野は間もなく遺体で見つかった。照井はカメラを手にするのがおっくうになった。

 昨年6月、避難所でコーヒーを入れていた照井を、菅野の写真仲間だった中野が仮設店舗に誘った。資金や機材、ジャズのCDは知人が集めてくれた。同9月、仮店舗でジョニーを再開した。「ここで細く長く続けてやる」と誓った。生き残った自分のため、そして今も支えてくれる仲間のため。

 今ではかつてのジョニーの客も顔を出す。話題は自然と震災のことになる。補聴器を使っても、1人の声を聞き分けるのがやっと。「でも、全部聞いていたら、もたないかも。聞こえないぐらいがちょうどいいのかな」
 (敬称略)
            「信濃毎日新聞夕刊 2012/10/10 2面より転載」

2012年10月 5日 (金)

チョビ と レオン アンコール

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2012年10月 4日 (木)

ブリジット・フォンテーヌ『ヌガ』と『ラジオのように』

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成田の次兄一家といっしょにやって来た、ミニチュアダックス(雌)の「チョビ」に対して、どう接してよいのか悩んでいる、わが家のシープー「レオン」(雄)。

 

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■さて、木曜日になろうとしているのに、未だに日曜日午後の「ワサブロー コンサート」の余韻に浸りきっているのだった。本当に素晴らしかったなぁ。
 
で、アンコールに歌ってくれた「ヌガ」が気に入って、ブリジット・フォンテーヌのオリジナルを探してみたら、あったあった。YouTube。
 


YouTube: Brigitte Fontaine - Le Nougat

正直これ、あまりにぶっ飛んでて、単なるアブナイ不気味なおばさんじゃないか?。

ネットでググってみたら、「ヌガ」というのは隠語(符牒)で、本当は……

 

■ピンクの象がいる、銀座のビストロ「ヌガ」のサイトを開くと、いきなりワサブローさんが歌う「ヌガ」が流れる。

http://www.lenougat.jp/floor.html

(この「ヌガ」はCD収録のものとは違うようだ)

 


YouTube: Brigitte Fontaine - Comme à la radio 1969

で、久しぶりに聴いてみたのが「ラジオのように」

 

 il fait froid dans le monde(世界は寒い)

 il fait froid dans le monde(世界は寒い)

 il fait froid  il fait froid  il fait froid

 ca commence a se savoir(それはみんなにわかってくる)

 et il y  des incendies qui s'allument dans certains endroits

              (そしてあちこちで 火事が起きる)

 parce qu'il fait trop froid(なぜって、あまりに寒いからさ)

 traducteurs, traduisez (翻訳家よ、翻訳せよ)

2012年10月 1日 (月)

昨日の「ワサブロー コンサート」は本当に素晴らしかった

■あぁ、それにしても本当に素晴らしいステージだった。


家に帰ってから、なんか、めちゃくちゃ美味しいフルコースを食べ終わって、幸せで満腹して、満足しきった気分とでも言ったらいいのか、何度も何度も「はぁ〜」って、言葉にならない溜息しか出なかった。凄かったな、ワサブローさん。


月並みだけど、やっぱり「ライヴ」ってのは、CDで聴くのと、ましてや YouTube で見るのとは違う。もう、ぜんぜん違う。


一人の歌い手がいて、聴きに来た聴衆がいる。そこに「場の力」が生まれるのだ。強力な磁石のような互いに引き合う磁場がね。


美しい日本語の文章、作品を残してくれた島村利正さんに対して、高遠で歌を歌うことで何とか恩返しがしたいという、ワサブローさんの「思いのたけ」が、聴いていてこれほどまでに、ずんずんびしびし突き刺さってくるとは。いやはや、ほんと凄かった。


そしてなによりも、ぼくは「シャンソン」という音楽を根本的に間違って理解していたことを思い知らされた。


僕が初めてシャンソンっていいなと思ったのは、ジョルジュ・ムスタキ「私の孤独」だった。たしか、TBSのテレビドラマ「木下啓介アワー・バラ色の人生」の主題歌だったと思う。

ごにょごにょ、ぼそぼそと、ちょうど、ジョアン・ジルベルトがボサノバを囁くように歌うものなのかと。その後も、フランソワ・アルディ「もう森へなんか行かない」とか、クレモンティーヌとか。


ああいうのがフランスが生み出した音楽なのだと思っていたのだ。そして、さらにその後に買ったLPが「金子由香里・銀巴里ライヴ」だったわけで。何十年もフランスで歌い継がれてきた「シャンソン」を、彼女は「字余りの日本語」で平気で歌っていた。それを聴いたぼくも、それがシャンソンなんだって、思っていた。


ところが、ワサブローさんがフランス語で歌った「本物のシャンソン」て、ぜんぜん違うんだよ。「フレンチシャンソンとは音とリズムの万華鏡(カレードスコープ)である」って、ワサブローさんは言っているけれど、なるほど、「フランス語」という言語だけが、シャンソンの音とリズムに合致した「ことば」だったんだね。


それと、「劇的」ということ。英語で言うと「ドラマティック」となってしまうのだが、それでは安っぽいな。ワサブローさんのシャンソンは、日本語で言うところの「劇的」なのだった。


ダイナミックで、めちゃくちゃエネルギッシュで、全身全霊を込めて、心の底から身体の極限を尽くして歌う。そういう姿勢が、ほんと凛として気高くて、これぞ「ホンモノ」なのだと思い知れされたのだった。

「セ・シ・ボン」「さくらんぼの実る頃」「そして今は」、それから「パタム」。そうして、ラストで歌ってくれた「愛の賛歌」。ほんと素晴らしかったなぁ。


あと、驚いたのが「百万本のバラ」。これは日本語で歌われたのだが、ワサブローさんオリジナルの歌詞で、笑いと皮肉とエスプリに満ちた、加藤登紀子も真っ青のぜんぜん違う曲になっていた。


それから、新曲の「俳句。」と「椅子。」伊藤アキラさんが作詞した日本語のオリジナル曲だ。「くっくっく、くっくっく、はいく。くっくっく、くっくっく、はいく。」の部分が印象的で耳に残る。これはいい曲だな。


じつはこの日、ぼくがワサブローさんにどうしても歌ってもらいたい曲があった。YouTube で見つけた「ヌガ」という、不条理でナンセンスな曲。でも、この曲はプログラムには記載されていなかった。う〜む残念。って思ってたら、なんと! アンコールに応えてワサブローさんが歌ってくれたのだ「ヌガ」を。へんてこダンスを踊りながら。うれしかったなぁ、ほんとうれしかった。



YouTube: ワサブロー 『ヌガ』

実はぜんぜん知らなかったのだが、この曲の詩は、あの、アメリカのアバンギャルド、ジャズ集団「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」といっしょに『ラジオのように』っていうレコードを作った、ブリジッド・フォンテーヌ・作、だったんだね。もうビックリ。だってこの『ラジオのように』は大好きで、レコードでも、CDになってからも、何度も何度も、30年来聴いてきたレコードだったから。


当日は、会場の信州高遠美術館に 150人近くの人が聴きに来てくださった。遠くは京都や東京からも。椅子が足りなくなって追加していたし、2階席にも人がいっぱいだった。


聴衆はみな、ワサブローさんの熱唱に圧倒され、京都弁での軽妙なトークに大笑いし、茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」に涙した。この掛け替えのない時間をいっしょに共有できたことが、ほんとうにうれしい。

ああ、感無量だ。


ワサブローさん、ほんとうにありがとうございました!




2012年9月29日 (土)

今日、土曜日の午後3時「ワサブロー島村利正を語る」トークイベントがあります

■ほとんどアナウンスされていないので、たぶん誰も知らないと思うのですが……、


今日、9月29日(土)午後3時から「信州高遠美術館喫茶室」にて、シャンソン歌手ワサブローさんと作家・島村利正のご子息である嶋村正博氏と、その妹さんによる「島村利正の魅力を語る」というトーク・イベントが開かれます。

主催は高遠町図書館で、先週開催された「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントです。興味のあるかたはぜひご来場ください。ただし、美術館入館料500円が必要です。ぼくも行きます。


■このところ、少しずつ読み続けてきた島村利正。感想をツイートしているので以下に転載しておきます。

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高遠町で生まれた作家、島村利正氏に関する文章を拾遺している。やっぱり、詩人の荒川洋治氏の文章が沁みるなぁ。『忘れられた過去』(朝日文庫)P123「『島村利正全集』を読む」と、『いつか王子駅で』堀江敏幸(新潮文庫)解説。


今夜は、伊那中央病院夜間小児一次救急の当番だったのだが、子供は少なかった。すみません、持って行った『青い沼』島村利正(新潮社)より「北山十八間戸」を読了。この邦枝という女性と、鎌倉時代に僧侶忍性が癩病患者のために建てた施設「北山十八間戸」とがミステリアスにリンクして不思議な余韻。


こういう施設が存在したことを、今日まで全く知らなかったのだよなぁ。「北山十八間戸」。島村利正の小説では、ここからの奈良東大寺大仏殿の眺めが重要なポイントとなっていた。


「おんなは狡いんです。結婚して、その幸福に浸りながらも、そのなかでひそかに、自分だけが感じた別のひとの眼のひかりが忘れられない……北京へゆく前に、どうしてもあなたに、さようならだけ云っておきたかったんです」って、何という女の身勝手さ。島村利正氏はこういう女が好みだったのか。


『秩父愁色』島村利正(新潮社)より「板谷峠」を読む。変な小説だな。中央省庁のノンキャリ主人公がキャリア上司の汚職事件の責任を被って冬の山形山中に自殺しに行く話なのだが、思いもよらない方向に展開する。落語「死神」の逆バージョンとでも言うか。不思議と印象に残る小説。


『秩父愁色』島村利正(新潮社)で最も印象的なのは、やっぱり「鮎鷹連想」と、あの3月10日東京大空襲の直後に、島村氏が本所深川で見た壮絶な焦土の風景を綴った「隅田川」の2篇だと思う。


島村利正『秩父愁色』(新潮社)から、表題作を読む。う〜む。暗い! ラストで微かに救われるが。続けて『妙高の秋』島村利正(中央公論社)より「暗い銀河」を読む。う〜む。もっと暗い。救いもないぞ。それにしても、この2作に登場するヒロインに絡む男は、ほんと最低な奴だな。いじいじねちねち。


そこいくと『妙高の秋』収録の「みどりの風」や『青い沼』収録の「乳首山の見える場所」はいい。結構気に入っている。童貞青年をいたぶる中年年増の女の身勝手な残虐性、ヰタ・セクスアリス。


島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)より「神田連雀町」「佃島薄暮」の連作を読む。これはよかった。妹に婚約者を奪われたヒロインは、叔母が嫁いだ犬吠埼の旅館、北島館に身を置かせて貰う。既に叔母は亡く、60半ば過ぎで脳卒中後のリハビリ中の義理の叔父の介護をさせられる。


叔父と姪の関係とはいえ、血は繋がっていない。ヒロインは34歳だった。そして…… それから……。というような話だ。この連作の発端となった短篇が『清流譜』(中央公論社)に収録された「潮来」なのだが、これは未読。読まなきゃな。


最近になって初めて、向田邦子の『父の詫び状』(文春文庫)を読んだ。正直たまげた。こういうエッセイがあったのだ。上手い、巧すぎる。続いて『向田邦子の恋文』向田和子(新潮社)を読む。向田邦子は生涯独身であったが、それには深い訳があったのだ。


昭和25年、向田邦子が実践女子専門学校を卒業して最初に就職した先が教育映画を作る「財政文化社」だった。そこで、カメラマンのN氏と出会う。彼には妻子があった。


以来、向田邦子とN氏との不倫関係は足かけ14年にも及ぶことになる。N氏は既に妻子とは別居していた。が、東京オリンピックの2年ほど前、N氏は脳卒中で倒れる。邦子は献身的に介護した。しかし、N氏は昭和39年2月自死。邦子34歳。この話を読むと、島村利正のヒロインと重なるのだった


明日、土曜日午後3時からの「島村利正トークイベント」に備えて『妙高の秋』を再読した。やっぱりいいなぁ、これはいい。この短篇は川端康成文学賞の候補作になった。取れなかったけど。さて、次は『暁雲』を読もうか。



2012年9月20日 (木)

作家・島村利正と、シャンソン歌手ワサブローさん

■長野日報に電話とメールして、信州高遠美術館での 9月30日(日)の「ワサブロー・コンサート」を是非記事にしてください! って、先週初めにお願いしたのに、いまだ梨の礫(つぶて)だ。返信のメールもなければ、記者からの携帯もかかってこない。


昨日の水曜日の午後は休診にしているのだが、もしかして長野日報の記者さんから電話が入るかもしれないからと、診察室で事務仕事をしながら電話番をしていたのだが、次々とかかってくる電話はみな別要件ばかりで、疲れてしまったよ。


こうなったら、頼みの綱は「中日新聞」か。


ところで、今朝の「信濃毎日新聞」飯田・伊那版(23面)に、今週末の「高遠ブックフェスティバル」の記事が載っていて、その関連イベントに、高遠出身の作家、島村利正 生誕100年記念コンサートとして、信州高遠美術館が9月30日に「ワサブロー・コンサート」を企画していることが紹介されている。

「本の町プロジェクト」代表で、高遠観光タクシーの春日裕くん、信毎さん、本当にありがとうございました。

Wasaburo2


■ワサブローさんは、20代前半に単身フランスに渡り、プロのシャンソン歌手として本場で認められ、以後30年間、フランスに留まり歌手活動を続けてきました。ここ数年は、出身地の京都に戻り、国内と海外とを行ったり来たりの歌手生活をされています。


そんなワサブローさんが、一昨年、友人から「読んでみたら」と薦められた文庫本が、高遠町出身の作家、
島村利正の『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)でした。ワサブローさんは、この本を読んで、作家・島村利正に惚れ込んでしまったのです。


http://wasaburo.cocolog-nifty.com/paris/2011/01/post-dc0a.html


ちょうどその頃、僕も自分のブログで「島村利正」の本をはじめて読んだ感想を書いていて、それをワサブローさんが検索で見つけ、

「あなたは高遠町の出身なら、島村利正のお墓が高遠の何処にあるかご存じないですか? ぜひ高遠へ行って、島村利正の墓参りがしたいのです。」

と、僕のブログにコメントをくれたのです。

それが、東日本大震災が起こる前、昨年1月のことでした。



それから暫くして、フランスでの仕事を終えて帰国したワサブローさんは、11月11日(金)NHK総合テレビのお昼の番組「金曜バラエティー」に生出演を終えると、中央本線を「あずさ」で松本に移動。松本在住の友人財津氏とともに、
11月13日(日)ついに高遠を訪問しました。


当日は、島村利正氏の実家「カネニ嶋村商店」と菩提寺「蓮華寺」を訪れ、念願の墓参りができたのでした。嶋村商店のご主人は、多忙にもかかわらずワサブローさんを歓待してくださり、ワサブローさんはいたく感激したそうです。



この時、2012年(平成24年)がちょうど「島村利正生誕100年」に当たることがわかり、それなら、これも不思議なご縁だから、ぜひ生誕100年を記念して、高遠でシャンソンを歌いたい、そうワサブローさんが仰ったのでした。


島村利正は、古本愛好家の間でも、知る人ぞ知る渋い地味な小説家ですが、ワサブローさんのように、気にいると入れ込んでしまう読者が多いようです。
嶋村商店のご主人の話では、そうした熱烈な愛読者が、年に2〜3人高遠の嶋村商店を訪ねてくるそうです。


島村利正は、戦前戦後にわたって芥川賞候補に4回なり(結局、賞は取れなかったですが)、『青い沼』で平林たい子賞を、『妙高の秋』で読売文学賞を受賞している、神田神保町界隈では非常に有名な作家ですが、残念ながら地元の高遠ではほとんど忘れられた存在となってしまいました。


同い年生まれの新田次郎は、諏訪市で今年さかんに生誕100年関連事業が行われていますが、残念ながら、島村利正に関しては、伊那市では一切記念行事は企画されませんでした。



今回の「ワサブロー。コンサート」は、その唯一の行事です。

本の町プロジェクトの皆様のご好意で、「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントとして認めていただきました。


そんなような経緯(いきさつ)があったのです。

2012年9月10日 (月)

NO NUKES JAZZ ORCHESTRA を聴いた。凄いぞ!

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■今から30年以上も前の話だが、当時のジャズ専門誌には、老舗雑誌「スィング・ジャーナル」「ジャズ批評」の他に、新興雑誌「ジャズ・ライフ」が頑張っていた。

その読者投稿欄に「ジャズの同時代性について」と題して投稿したのだ。力入ってたし結構自信もあったのだが、あっさりボツにされた。もちろん、未熟で稚拙な文章だったからだが、いまどきコンテンポラリー(同時代性)だなんて「ケッ」と、はなで笑われた感じだった。確かに、時代はバブルで浮かれていたな。

 

■以下、9月2日夜の、ぼくのツイートより転載。

 

NO NUKES JAZZ ORCHESTRA のCDを買った。これ凄いんじゃないか。「いまここ」を表現するのが、JAZZの使命さ。特に3曲目が好き。ミンガスかモンクみたいな2曲目もいいな。スティーヴ・ライヒ的な現代音楽も入ってるし、「ショーロクラブ」の人だから、ブラジリアン・ミュージックもね。

 

 
 
 
 
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あとヴォーカルでは、アン・サリーの『満月の夕』(池本本門寺でのライブ版は、YouTubeで以前にさんざん聴いた)がいいのは勿論のこと、おおたか静流の2曲『3月のうた』谷川俊太郎・作詞、武満徹・作曲『スマイル』チャップリン作曲、が素晴らしい。泣ける。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8曲目『夜のラッシュアワー』も実に美しい印象的な曲だ。パット・メセニーのCDみたいな感じで始まって、後半はギル・エヴァンズかエリント
ン・オーケストラのブラス・アンサンブルが聴かせる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10曲目「Gray-zone(妄想と現実の狭間)」の緊張感も尋常じゃないぞ。Gray-Zone っていうユニット、要注目だ。是非ライヴで聴いてみたい。ギターの人いい。パット・メセニーかと思ったら、デレク・ベイリーじゃん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■以下、追補。
 
 
11曲目「Circle Line」。いきなり始まる弦楽が奏でるテーマに驚愕する曲。ふつう、ジャズを弦楽が表現しようとすると、どうしても「もっさり、どんより」してしまうのだ。例えば「クロノス・カルテット」がそう。
 
ところが、このオーケストラに参加している弦楽四重奏団は違うな。キレがいい。リズム感がいい。音が、とがっている。これは特筆すべき点だ。
 
何度も聴いてみて、すごく好きな曲だと感じた。ぼくの大好きな、エリック・ドルフィーのアルト・ソロを連想させる、音が極端に高低するスピードの快感にあるからだと思う。
 
 
12曲目「Blue March(宛名のない未来への手紙)」
 
弦が爪弾かれる音の感じは、海の底だ。大量の水と共に放出され続ける(もしくは地下の土壌から海へ染み出て行く)放射性物質が拡散してゆく様がイメージされる。その海には、魚が泳いでいて、海藻もプランクトンもいて、黒潮に乗って回遊魚もやってくるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
・政治的プロパガンダを、ジャズを演奏することで表現し、強く大衆に訴えてきた人といえば、まずはチャールズ・ミンガスが上げられる。「直立猿人」「ハイチアン・ファイトソング」「フォーバス知事の寓話」など、ミンガスは何時でも世の中に怒っていた。
 
 
 
 
 
・それから、チャーリー・ヘイデンの「リベレーション・ミュージック・オーケストラ」。それに、沢田穣治氏率いる、この「ノー・ニュークス・ジャズ・オーケストラ」。興味深いことは、3人とも「ベーシスト」であること。
 
 
 
らに共通する、もう一つの大切な事柄は、まず何よりも「音楽性に優れている」「音で聴かせる」ということだ。
 
 
 
 
 
 
 
・この『NO NUKES JAZZ OCHESTRAでは、短いピアノソロ(デュオ?)に始まって、最後もまたピアノソロでクローズされる。
 
 
 
中にサンドイッチされる楽曲は、弦楽器も加えた大きな編成のジャズバンド。続いて、菊地成孔的モーダル・コーダルなスリリングでかっこいい曲。グレー・ゾーンによる先鋭的フリージャズに、弦楽四重奏を主役とした現代音楽と、ショーロクラブのブラジル音楽。それから、それぞれに個性的で心に沁みるヴォーカルが4曲。
 
 
これらが全く違和感なく、見事な統一感でもって、曲と曲とが密接に関連しあいながら、全15曲を構成している。
 
 
 
 
その事がとにかく素晴らしい。壮大な叙事詩となっているのだ。これは、コンポーザー沢田穣治の力量の成せる技だと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
・あと、このCDは「音がいい」。これも重要。
 
 
 
・おおたか静流が歌う「三月のうた」は英語の歌詞で歌われているが、日本語で歌われたものを『アルフォンシーナと海』波多野睦美&つのだたかし のCDで以前に聴いた。
 
 
 
 
 
 
   『三月のうた』   谷川俊太郎
 
 
 
 
   JASRAC からの通告のため、歌詞を削除しました(2019/08/06)
 
 
 
 
 
 
・ブラジル人のヘナート・モタとパトリシア・ロバートが歌う「プロミス」は静かで子守歌みたいに優しい曲だけれど、「われわれが何とかします」っていう、責任と意志と決意の表れのような曲だ。
 
 
 
誰に対しての「約束」かって? それはもちろん、ぼくらが死んだあとの未来を生きてゆく、いまの子供たちに対してだ。

2012年9月 3日 (月)

ところで、島村利正って誰?

■高遠町在住ならば、たぶん一度は聞いたことのある名前だと思う。いや、60代以上ならそうかもしれないが、50代以下だとどうかなぁ。

作家、島村利正。


でも、その本を読んだことのある高遠町住民は数えるほどしかいないんじゃないか。偉そうなこと言う僕でさえ、2年前に初めて読んだという体たらく。ごめんなさい。
ところで、前回リンクした、ウィキペディアの島村利正の記載は淋しい。もっとちゃんと故郷の作家を紹介してもらいたいぞ!


で調べたら、ポプラ社から出た「百年文庫」第10巻、『季・円地文子、島村利正、井上靖』に載っている「人と作品」での紹介文がいいみたいだ。早速購入したので、以下に転載させていただきます。


 島村利正(1912〜1981年)は長野県生まれ。小学校時代に教師の影響で文学に目覚め、学校の図書館で夏目漱石、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などの作品を愛読した。

1926年、高遠実業学校に入学。実家は海産物商で、長男だった利正は実家を継ぐことを求められたが、それに反発。家を出て、尋常高等小学校の修学旅行で知った奈良の飛鳥園へ行く。小川晴暘が主宰する飛鳥園は古美術写真や美術雑誌の出版をおこなっており、利正はここで小川の薫陶を受けた。また、小川の使いで、このころ奈良に住んでいた志賀直哉邸や瀧井孝作邸を訪ねることもあった。

1929年、東京へ出て正則英語専門学校に入学。1936年に結婚すると、多摩川砂利掘事業を営む妻の実家に住み、その仕事に従事していた朝鮮人との親交から題材を得て、1940年に『高麗人』を「文学者」に発表、芥川賞候補となる(その後、1943年の『暁雲』、1957年の『残菊抄』、1975年の『青い沼』が芥川賞候補に挙がっているが、いずれも受賞は逸している)。

 作品執筆のかたわら、戦中から撚糸業に従事しており、1955年に日本撚糸株式会社を設立して経営者となった。1957年に作品集『残菊抄』を刊行。しかし、1962年に会社が倒産してからは作家業に専念した。

 師の瀧井孝作は文壇の釣り好きとして知られるが、利正も小さいころから釣りに親しみ、釣りに関する文章を数多く残した。作品集『残菊抄』の序文を寄せた志賀直哉はその中で、「戦後、度強い小説の多い中に島村君のしんみりした静かな作品は、また、その特徴ゆえに読者から喜ばれるのではないかと思っている」と書いている。

『仙醉島』は1944年に「新潮」に発表された作品で、郷里の伊那・高遠の祖母の話を小説にしたものといわれている。



あと、『忘れられる過去』荒川洋治(朝日文庫)p123 に載っている「『島村利正全集』を読む」と題された文章が素晴らしい。(以下抜粋)

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『島村利正全集』を読む     荒川洋治


 戦争のはじまる前に、一見地味ながら、たしかな文章をもって登場し、人や周囲の自然を描いた人。それからはあまり作品を書かない時期があったけれど、1970年代はじめからのほぼ10年間に私小説の世界をひろげる清心な作品を書いて、読む人の心をとらえた人。その人たちにはいまも忘れられない人。それが島村利正である。(中略)


 島村利正は戦前の日本人の庶民の暮らしをいつまでもたいせつに心にしまっていた人で、時代の変化でそれらが曲げられていっても、ときどき思い出したり、取り出して、自分を育てた人たちや時間を振り返った。長く静かな旅をするように、文章を書いた人だ。戦前の人たちのよき姿、つらい姿は、戦後の時間がかさむにつれ次第にかすんでいったが、それでも忘れられないものがある。


 コアジサシは、水辺の小鳥。

「私はそのころ、コアジサシの白い姿を見ていると、思いがけず、少年時代に生れ故郷の山ふかい峠で見た、栗鼠の大群を思い出すことがあった。そして、それにつづいて、奈良の鹿と春日山のこと、若狭の海で見かけた奇妙な動物? と、そのときの旅行などを思い出した。それは私の、風変りな小動物誌でもあったが、私自身をふくめた人間の姿も、戦前の時代色のなかで、それらの動物と共に点滅していた。」(「鮎鷹連想」)


 このあと、それぞれの小さな動物を「点滅」させて文章がつづく。ここにある「私自身をふくめた人間の姿」をとらえることは、島村氏の作品世界の基点であり基調だった。

「私自身」と「人間の姿」は同じものながら。微妙に消息を分かつものである。島村氏はその文学が「私自身」に傾くことを警戒し、ひろく「人間の姿」を知るための視覚を注意深く見定めようとした。「私」という人間が、他のもの、見知らぬもの、遠くのものと、どのようにかかわるのか。またそれをつづる文章が、どうしたら、人間のための文章になっていくのか。それを「私自身」の生活者の感性を台座にして、みきわめようとしたのだ。


「私自身をふくめた人間の姿」という「観念」は、1970年代という最後の「文学の時代」においても、そのあとも、多くの作者たちの作品から(あるいは発想から)失われたもののひとつである。


 島村利正は、文学と生活の両面をみがきながら小説を書きついだ。それはそばにいる人の目にもつかないほどの変化と動揺をかさねる営みだった。「人間の姿」をもつ文学の姿は、この全集の刊行で鮮明になる。(「図書新聞」2001年12月15日号)



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