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2012年6月

2012年6月23日 (土)

わが家に子犬がやってきた

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■先週土曜日の夕方、わが家に子犬がやってきた。生後8週のオス。体重は1.5kg。もうただひたすら可愛い。

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トイプードル(父親)と、シーズー(母親)のミックス犬。名前は、LEON と付けた。日本語、フランス語、スペイン語では「レオン」だが、アンドレア先生に聞いたら、英語よみだと「リーオン」なんだそうだ。レオン・ラッセルって言うのにね。


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■わが家で犬を飼うのは初めてなのだ。しかも室内犬。トイレトレーニングとか判らないことだらけ。あたふたしながら、あっという間に一週間が過ぎた。でも、人間が犬の生活パターンに合わせたらダメだ。お互いに譲歩しつつ、それでも人間の生活に犬の方が我慢して付き合っていってもらわないとね。


犬のほうは、すっかりわが家に慣れた。人間の側も、新たな家族の一員として認め「犬といっしょの生活」にいつの間にか馴染んできたようだ。不思議なものだな。


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■驚いたのは、息子たち(高1、中2)の可愛がりようだ。朝起きてきて犬と遊び、学校から帰ってきて犬と遊び、夕食後に犬と遊び、寝る前にまた遊ぶ。みんなから愛されて、犬も幸せだ。


でも、何よりも一番変わったのは、ぼく自身だな。毎朝6時には目ざめ、夜は午前0時には寝ている。この早朝の時間帯をもう少し有効に使いたいものだが、今のところ、犬と遊んでツイッター読んで NHKBSで火野正平が自転車こいでるのを見て、それでおしまい。それじゃあいけないぞ。



2012年6月19日 (火)

内田樹先生の講演会 at the 長野県立看護大学(駒ヶ根市)

■日曜日の午前中、駒ヶ根市の長野県立看護大学講堂であった内田樹先生の講演会を聴きに行ってきた。


言っちゃぁ何だが、ぼくは内田センセイのファンだ。

前々回にリビングの本を写真に撮った中には、センセイの本は一冊も写っていなかったが、納戸や寝室ベッド横に積み上げられた本の中から探し出してみると、すぐに20冊以上見つかった。読んではないけど、レヴィナスの訳書も2冊購入した。あと、納戸に積み上げられた段ボール箱の中には、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)『日本辺境論』(新潮新書)を含め4~5冊はあるはずだ。


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■だからと言ってはおこがましいが、この日の講演内容は大方予測していた。

 <以下、ぼくの勝手な妄想>


 ポイントは福島第一原発だ。それから、福井県にある、関西電力「大飯原発」再稼働問題。先だってからネット上で話題になっていた、長野県上伊那郡中川村村長・曽我逸郎氏の話題から、6月15日の信濃毎日新聞社説要旨が、内田センセイが『「国民生活」という語の意味について』と題してブログに載せた文章と呼応していたこと。


 そうして、内田センセイの祖先は「東北人」(山形県鶴岡出身)であること。庄内藩は、会津藩と共に戊辰戦争を戦った仲だ。そして会津藩開祖、保科正幸から信州高遠に行き着く。戊辰戦争の負け組は、明治以降ずっと虐げられてきた。そんな導入で、講演は始まるはずだと確信していたのだ。


ところが、実際の講演内容は、ぜんぜん違っていた。いやはや。


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■この日の講演内容に関して「こんな話をする予定」という文章が、内田センセイによって前日の土曜日に書かれていて、月曜日に既にアップされているので、じつはもうここに書く必要はないのだった。


■この第13回日本赤十字看護学会の「趣旨」に書かれている『エビデンスブーム』とは、EBM ( Evidence-Based Medicine ) のことを言っている。すなわち、医療は「科学的根拠」に基づいて患者に対して施されなければならないということだ。科学的な基礎実験。ダブルブラインド方式による客観的で公正な臨床研究。疫学的、統計学的にも明らかに有意に治療効果があると認められた治療法を選択すべきである。つまりは、そういうことだ。


ところが、医学や看護の現場では、長年代々と継承されてきた「エビデンスでは証明できない、経験的直感」とでもいうべきことが、じつは大切にされてきた。内田センセイは、そういう話をされたのだ。

センセイはこう言った。

「医療従事者には、この『ある種の直感力』が必要なのではないか」と。


■内田先生が、何故よく看護の学会に講師として呼ばれるのか?


それは、合気道師範である内田センセイが極めた「武道の力」と、看護の世界で必要とされている「ヒーラー(癒しの力)」は近い(似通った)関係にあるからなのではないかと先生は言う。


武道で一番大切なことは、「気配」や「殺気」「危険」を感知する、センサーやアラームを磨くこと(すなわち「気の感応」)だと。


こうした能力は、人類が原始時代から生き残る上で最も大切な技として、親は子供たちに訓練してきたに違いない。だって、左の道を行って、いきなりライオンに出会ってしまったら、その人間は食われてお終いだ。だから前もって、左の道をこれから行くと、なんかとてつもなく危険な臭いがするという直感さえあれば、あらかじめ危機を回避できるのだ。


江戸時代までは「こうした能力」を効率的に身につける訓練方法が確立されていた。それが「武道」の修行だ。

ところが、明治以降、日本人は科学と進歩のエビデンスしか信用しなくなり、人間が原始時代から培ってきた「潜在能力」を磨く手段を放棄してしまった。そのために、福島第一原発の事故は起こってしまったのだ。


カタストロフというのは、よっぽどの悪条件が何重にも重なり合わない限り起こらない。そういうものです。福島第一原発職員の中に、アラームとセンサー能力を養ってきた人が1人でもいれば、この原発事故は起こらなかったはずですよ。内田センセイは、そう言った。


2012年6月16日 (土)

長野県に住んでいながら、意外と知らない事実について

■最近、びっくりしたことがある。

ツイッターのTLを読んでいて、なんだか「中川村村長」が「すばらしいこと」を言っているという噂を聞いたのだ。


で、検索したら直ちにでた。これだ。「国旗と国歌についての村長の認識は?」

同じ「上伊那」に住みながら、この村長さんのことはほとんど知らなかった。恥ずかしい。中川村の村長さんは、農業をするためにiターンで村民になった人で、現職を破って村長に当選。現在2期目。

■それから昨日、坂本龍一氏や町山広美さんら注目したのが昨日の「信濃毎日新聞・社説」。「これが法治国家なのか」だ。信毎は取っているが、社説はめったに読まない。ダメじゃないか。

そうして、一昨日の『中日新聞』に載っていた談話は、なんだかピンとこなかった内田樹先生のコメントだが、「ここ」を読むと、なるほど「そういうこと」かと、ほんとうに良く判った。


■で、さらにビックリしたのは、その内田センセイが今日のツイッターで


「さて、これから雨の中をロングドライブで長野県は駒ヶ根というところまで走ります。何時間かかるのかな。とにかく18時ごろまでに着けばいいので、のんびり参ります。晴れていたら気分のいい初夏のドライブだったんですけどね。」


「伊吹山にて、小休止。小雨が降り続けています。駒ヶ根着は14:00過ぎくらいになりそうです。今回は看護系学会で講演なのです。さて、もうひとふんばり。」


と、つぶやいていたのだ。

え!? もしかして、駒ヶ根の長野県立看護大学で講演するのか?


早速「長野県立看護大学」のサイトを見に行くと、「第13回日本赤十字看護学会学術集会」が、この土日で開催されていて、日曜日の午前中に内田樹先生の特別講演(市民公開講座)がある。

  6月17日(日)午前 10:30〜11:50 

  長野県立看護大学講堂(教育研究棟2F)入場無料、誰でも参加可とのことなので、もちろん僕は行きます。


まさかこのタイミングで、内田センセイの講演を生で直に聴くことができるとは思いもよらなかった。ラッキーだなあ。


2012年6月12日 (火)

わが家のリビングとトイレに置いてある本をさらす。

■昨日、ツイッターで大阪府立大・現代システム科学域教授の森岡正博氏が、自宅リビングの本棚の何段目、左から何冊目にどんな本があるのかを、フォロワーからのリクエストに答えていた。意外な本が次から次へと出てきて、すっごく面白かった。


森岡正博氏は、ツイッターでこう言ったのだ。


本棚の本一冊晒すというのをやっているね。いま自宅リビングにある本棚25棚として、何番目の棚の左から何冊目に何がある?って聞いてくれたら答えましょうか? (メインの本棚は研究室にあるのでそっちは勘弁)


知り合い(同業者)の自宅に招かれると、どうしてもその人の本棚に目が行って、あれこれチェックしてしまうし、おもむろに本を取り出したりしてしまうのはなんででしょう。なんかその人の脳のストリップショーを見ているようで背徳的快感ではありませんか?


なるほどなぁ、って思った。


で、わが家のリビングには本棚はないのだが、なぜか本が積み上げられている。既読本と未読本との割合は、半々くらいかな。(写真をクリックすると、もう少し写真が大きくなって、本の題名が認識しやすくなります)


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あとの本は、納戸の棚と2階の寝室の横、医院への渡り廊下などに本棚があって、入りきらない本が積み重なっている状態で、「どうにかしてよ!」と、毎度妻に言われ続けているのですが、どうにもならない。


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■ついでに、わが家のトイレに置かれた文庫本です。

やっぱり、宮沢章夫さんのエッセイは「鉄板」だよな。


じつは、この下の段には椎名誠本が置かれているのだ。
『哀愁の街に霧が降るのだ』三部作と、『新橋烏森口青春編』と『シベリア幻想』。

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2012年6月11日 (月)

保育園での内科健診が始まった

■保育園の内科健診の季節がまたやってきた。

例によって、健診終了後に絵本を読ませてもらう。
ただ、去年の春と秋の健診の時に読んだ絵本とかぶるのはマズイ。


そこで、ちょうど落語家さんが手帳に「いつ、何処の会場で、どんな噺をしたのか」細かく記録しておくように、ぼくの場合はTwitter に書いておいて、コピペで「このブログ」に記録を残すことにしたのでした。そういう訳なのです。

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■5月18日 「天使幼稚園」:今どき全員半袖半ズボン。毎朝のマラソンに冷水摩擦。それに静直10分間。だから、みんなとても元気でした。アネモネ組で絵本を読ませてもらう。

 1)『あーといってよ、あー』小野寺悦子・文、堀川理万子・絵(福音館書店)
 2)『くいしんぼうのあおむしくん』槇ひろし作、前川欣三画(福音館書店)

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■5月30日 「伊那保育園」:午後2時からBCG集団接種のあと、伊那保育園の内科健診。みんな元気。よしよし。健診終了後に絵本を読ませてもらったら、お礼にって、こどもたちが作った大きなメダルを首に掛けてくれた。うれしかったな。


読んだ絵本は、

 1)『あなのなか』森あさ子(岩崎書店)
 2)『でんしゃはうたう』三宮麻由子(福音館書店)
 3)『きょうはみんなでクマがりだ』(評論社)
 4)『ようちえんいやや』長谷川義史(童心社)
 5)『びっくり、しゃっくりくしゃみにおなら』長新太(福音館書店)


なんか、読むのが難しい絵本ばかり選んでしまったなぁ。
こどもたちの反応がよかったのは、最初の『あなのなか』。赤ちゃん絵本とのことだが、年長児も注目する。この日は「はさみむし」を当てた男の子がいてビックリした。それに対して『きょうはみんなでクマがりだ』は、未だに上手に読めないのだった。途中でだれるのだ。いっそ歌にしてみるか。

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■6月6日 「高遠第一保育園」:午後2時半近くと遅く着いたので、0・1・2歳児もお昼寝からからみな目覚めていた。また絵本を読ませてもらって、3時のおやつのフルーツゼリーをご馳走になる。

 読んだ絵本は

 1)『ふってきました』もとしたいづみ、石井聖岳(講談社)
 2)『サンドイッチサンドイッチ』小西英子(福音館書店)
 3)『たべてあげる』ふくべあきひろ(教育画劇)
 4)『ふしぎなおきゃく』肥田美代子・作、岡本颯子・絵(ひさかたチャイルド)


『たべてあげる』を読み終わって、
「ピーマン残さずに食べられる人? にんじん好きな人?」って訊いたら、ほぼ全員がいっせいに「は〜い!」と大きな声で答えてくれた。あはは! 


2012年6月 9日 (土)

『なみだふるはな』石牟礼道子、藤原新也(河出書房新社)

■もうずいいぶんと前に読了した本なのだが、なかなか感想が書けないでいる。


で、無理に感想を書くのをやめて、印象に残ったフレーズを抜粋することだけにしよう。


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■その前についでに言うと、この本を読んだ後に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)を読んだのだが、これはつまらなかった。本の帯には「なんだかわからないけど めちゃめちゃおもしろい」と、文教堂書店浜松町店の大波由華子さんは書いているが、ほんとうにそう思ったのか? そうか。人はいろいろだからなあ。


ぼくが「この本」で一番面白いと思ったパートは、第13回「裏を見る眼」に書かれた塩谷瞬「二股愛」報道に関する考察。でも、それってこの本に期待した内容ではない。小田嶋氏のいつものコラムだ。


たぶん、本の企画段階では「これはいける!」と、編集者ともの凄く盛り上がったに違いない。ところが、実際に連載が始まってみて「この企画は失敗だった」と、小田嶋氏は気づいてしまったのではないか。だから筆が進まず5年以上もの歳月が過ぎ去ったのだろう。


もともと「コラム道」と『道』って書かれているからね。いわゆる文章読本ではないことは読む前から判っていたし、そういった「小手先のテクニックを伝授」みたいな記載は期待していなかった。


でも、「あとはたくさん読んでたくさん書けば、いやでも文章は練れてくる。」(p188) って、それが結論じゃぁ、あまりに淋しいのではないか。


なるほどなあと感心した部分もあった。

第4回「会話はコラムの逃げ道か」の後半部分。


 かと思うと、会話の上では、才気煥発に見える人が、文章を書かせると、どうにも散漫で支離滅裂である例も珍しくない。というよりも、もしかして、打てば響くタイプの人間の多くは、文章が苦手であるのかもしれない。

 なぜだろう。
 どうして、アタマの良い人が、良い文章を書けないというようなことが起こりうるのだろうか。

 おそらく、このことは、魅力的な会話を成立させる能力と、マトモな文章を書くための能力が、まったくかけはなれているということに由来している。(中略)


 彼らはテニスプレーヤーに似ている。
 速いサーブに対応する反射神経と、意想外のドロップショットに追いつくスピードを持った彼らは、会話という限られたコートの中では、どんなタマでも打ち返すことができる。(p53〜p55)


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 ■閑話休題■

『苦界浄土』石牟礼道子は、たしか大学生のころ講談社文庫版で買って読んだ記憶がある。いやまてよ。買っただけで、最後までちゃんと読み通さなかったかもしれない。つまり、「水俣病」がリアルタイムだった僕でさえ、その程度なのだ。


ちなみに、世界的に有名な小児科の教科書である「ネルソンの小児科学」の載っている「水俣病」の項目は、前々の信州大学小児科学教室教授であった、故・赤羽太郎先生が執筆している。(ぼくが持っている「ネルソン小児科学」はそうなのだが、現在出回っている版がどうかは知らない。)


「水俣病」なんて、数十年も前に終結した公害病っていう認識しかなかったぼくは、「この本」を読んで恥ずかしく思ったのだった。過去完了形なんてもってのほかで、2世3世4世と引き継がれて、現在進行形で今でも20代の若い人たちに「水俣病」が発症しているということを、この本を読んで初めて知った。ごめんなさい。


■それから、写真家・藤原新也氏といえば、『メメント・モリ』に載ったあの有名な写真。そう、「人間は犬に食われるほど自由だ」とキャプションが付けられ「黄昏のガンジス河畔に流れ着いた水葬死体に野犬ががつがつ食らい付いている」あの写真がまずは目に浮かぶ。


でも、「ここ」を読むと、あの写真以外には死体をカメラに撮したことはないのだそうだ。そうだったのか。


藤原:水銀というのはつまり味も臭いもないということですね。まるで放射能そっくりだ。感じられないものほど怖いものはない。

石牟礼:いまも若い人たちに発症例が見受けられるんです。

藤原:えっ、いまもですか?

石牟礼:はい、二十代の終わりぐらいの人たちが発症しているそうですけれども、国が特別措置法というものをつくって、裁判をしないこと(後略)

藤原:それで水俣の、たとえば猫が狂いはじめたというのがいつごろですか。

石牟礼:それは昭和三十年前後ですね。(『なみだふるはな』石牟礼道子・藤原新也・河出書房新社 p53~54)


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石牟礼:鹿児島と宮崎と熊本の三県の境くらいに曽木の滝というのがあるんですけれども、チッソはそこに電力会社をつくって、まず電気を引いたんですね、水俣へ。(中略)

 それを聞いた人たちが、「そんなのが来るなら、うちの山にも電信柱を通してほしい」「うちの田んぼにも通してください」と。「そっちのほうには行かれん」と会社の人たちがいうでしょう、「それなら電信柱の影なりと、うちの畑にも映るごつしてくだはりまっせ」と(笑)。なんていうか、いじらしいんですよ。(中略)そうやって電気を引いてきて、その電球が灯った晩のことは私もはっきり憶えています。(中略)


藤原:やっぱり電気ですか、はじまりは。電気にはじまり電気に終わる。(中略)


石牟礼:水俣にとっては会社は恩人と思っていたのです。それはいまでも根強いですよ。
(『なみだふるはな』「光」 p83~86)

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藤原:憎しみとか憎悪というのは人間が他者に持つネガティブな感情の中では最も重篤なものだと思うのです。その「憎い」という言葉を聞いて僕の頭に思い浮かんだのは旅したアラブやイスラム世界でした。パレスティナがいい例ですが、あの世界ではいたるところで憎しみの連鎖がいつまでもつづき、いまに至っている。


 その憎しみの根源には何があるかというと、土地の略奪と喪失なんです。イスラム世界というのは、たとえばイランは住める土地が少ない。だから人間の住める沃土はすごく貴重です。


 僕が今回の強制避難区域で聞いた「憎い」という言葉の根源には、そのイスラムの憎悪の根源にある、自分が住んでいる「土地を失う」に似た意味があると思うんですね。つまりある日、代々伝わり子どものころから住み慣れた土地や家を強制的に略奪されたわけです。この悲しみや怒りは、放射能を浴びるよりずっと大きい。(中略)


だけど、原発の強制避難区域というのは事実上帰れない。庭先の除染は可能ですが、広大な野山までの除染は不可能です。そういう仕打ちを自然がやったとするならあきらめもつくだろうが、人がやったんですね。


 日本というのは確かに異民族も同居はしていますが、世界の国に比べると圧倒的に一国家一民族的色合いが濃い。そういうものの中で、和の精神とか空気を読んで他人に合わせるという曖昧な他者との処方が機能してきたわけですが、思うにこのイスラム世界のように、同民族を同民族が憎悪するという心の版図は日本にはなかったように思うのです。そういう意味では神代の昔以来初めてここで小さな民族分裂が起こっていると、現場を踏んでそのように感じるんです。(中略)


石牟礼:(前略)世間の人たちもわかってくれなかった。なんでこう苦しまなければならないんだと考えて、「あんたたちは誰も病まんけん、代わって俺たちが病んでいるんだ」という気持ちになられるのです。(中略)


それで、「知らんということは罪ばい。この世に罪というのがあるのなら、知らんということがいちばんの罪。それで、知らん人たちのためにも、自分のためにも祈ります」と。(中略)


「あんたたちのおかげでこういうふうになった」とはおっしゃらない。代わって病むとおっしゃる。これは現代の聖書ですよね。だけど、聖者といったって、その人たちの苦しみを和らげることはできないんですね。近代というのは罪に満ちていると思います。


「道子さん。私は全部許すことにしました、チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうしてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのたっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。

病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。」
(『なみだふるはな』「憎しみと許し」 p129~135)

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石牟礼:(前略)不知火海百年を語ってください、という会をしたんですよ。怪我をするまで、わが家でしてました。限られた漁師さんに来てもらって。ともかく海のことをお聞きしたいと思って来てもらっておりましたけれども、いろいろ教えてくださって。ほんとうかお話かは知りませんが、


「あんな、道子さん、知らんと? タチウオは頭が三角になっとるでしょうが」
「はい」
「あの三角頭が縦になって立ち泳ぎすっとばい。そしてお日さまが出なはるころになると、さーっとお日さまが山の端から出なさると、いっせいに三角の頭を波の上に出してな、合掌しよっとばい。知らんじゃったろ?」

(『なみだふるはな』「光明」 p152)


■チッソが来る前の水俣も、原発が来る前の福島も、それはそれは風光明媚で、「自然」とその土地に暮らす「人間」とがお互いに畏怖・尊敬しながら生きていた場所だ。それが、水俣では60年経っても未だに新たな患者さんが発症していて、福島第一原発はたぶん100年経っても収束しないのではないか。


怖ろしいことだ。悲しいことだ。

2012年6月 3日 (日)

「marry you」聴いて、ブルーノ・マーズのCDをポチッテしまった

■前回の続きです。

例のアメリカはオレゴン州、ポートランド在住で「ちょいと冴えない肥満体型の劇団員30代男性」の画像は、YouTubeにアップされてから10日も経たないうちに世界中で1000万回以上再生されたという。凄いな!


実際、ぼくはこのビデオを見るまでブルーノ・マーズも「marry you」も知らなかったのだが、何ともキャッチーな「この曲」にすっかりハマってしまい、サッカー・ワールドカップ最終予選「対オマーン戦」のハーフタイム中に伊那の TSUTAYA へ長男と急いで行って、marry you のカヴァーが収録された『glee season two vol.4』を借りてきたところだ。


で、早速聴いてみたのだが、やっぱりオリジナルのほうが断然ノリがいい。


じゃぁ、と iTunes Store へ行って検索するとあったあった。この曲だけで200円。CD「Doo-Wops & Hooligans」全曲購入だと 1000円。早速ポチろうかと思って、待てよ? と、アマゾンをチェックしたら、輸入盤で購入すると 991円。ダウンロードよりも9円安いじゃないか! もちろん、こちらをポチりましたよ。


ぼくと同じような行動に走った人が世界中に相当いるのではないか?


とすれば、ブルーノ・マーズにとっては一切カネをかけずに思いもかけず最高のプロモーション・ビデオが作成されて、しかも世界中の人たちが 1000万回以上も自分の曲を聴いてくれた。しかも、そのうちの何割かは、iTunes Store や amazon で実際に曲やCDを購入してくれている。だからもちろん「著作権侵害」なんて絶対に言わないよね。


ところが、これが日本で作成されたビデオとなると状況は全く異なる。


一応、JASRAC と YouTube との協定で、素人が「自分で歌ってみました画像」は JASRAC は認めている。でも、オリジナル曲を勝手にBGMとして使用することは「絶対にダメ!」なのだ。そのあたりは徹底している。


■ぼくもよくやるブログへの「YouTube 埋め込み画像」に関して、JASRAC は「このように」公式見解している。「個人が広告収入を得ずに運営するホームページ、ブログ」ならば黙認すると。


でも、この「しろくま通信」が、北原こどもクリニックの広告媒体であると主張される可能性もあるわけで、そうなると、この記事は「やぶへび」になってしまうな。これはマズいぞ。


たぶん、JASRAC は毎日「エゴサーチ」して危険分子をチェックしているだろうから、敵にまわすとホント怖い相手なのだ。


■全国十数カ所に支部があり、例えば長野県の場合は「大宮支部」がチェックしている。そこの長野県担当者は、信濃毎日新聞をはじめ、長野日報などのローカル紙、さらには「週刊いな」や「中日ホームニュース」といったフリーペーパーに載った「コンサート告知情報」を、くまなくチェックして、その日演奏された楽曲の使用料を請求してくる。それはもう、徹底しているそうだ。


彼らのもう一つの重要な任務は、カラオケ店やスナックでのカラオケ楽曲使用料の徴収と、喫茶店などでBGMとして使用されている楽曲使用料の徴収がある。実際に流れた楽曲を1曲ごとにチェックするのはお互いに大変なので、店舗の床面積から割り出した「年間一括契約」で支払われることが多いようだ。


■何が言いたいかというと、もちろん、作詞家、作曲家やミュージシャンたちの著作権を守ることは絶対的に必要だが、旧態依然としたJASRAC の何十年も変わらぬアナクロニズムに関して、さすがにいま現在では問題があるぞ! ということだ。


BGMとして、床面積の小さな喫茶店で 音楽を流すなら、年間 6000円支払えば許す。しかし、BGMとしてではなく、客に音楽を積極的に聴かせる「ジャズ喫茶」の場合は、一曲ごとにしっかり課金しますよ! ライヴの生演奏もあるなら、さらに課金させていただきますよ! てところが問題なんだ。


いまやシーラカンスのようになってしまった天然記念物の「ジャズ喫茶」から、冷酷なJASRAC は反論の余地のない実務的計算式から割り出した課金を赤字であえぐ「ジャズ喫茶」から無情にも搾取しているのだ。


有名なのは、新潟市で古くからジャズ喫茶を営む(ぼくも学生の頃、一度訪れたことがあるぞ)『スワン』店主の果敢な攻防だ。


「このブログ」での記載がよくまとまっている。

■意固地な「sony」が、自社所有の楽曲を未だに「iTunes Store」に解放していないことと似ているバカを、JASRAC は懲りもせずにくり返しているのではないかな。悲しいことだ。ほんと。


■あと「この記事」が示唆に富んでいて読ませる。

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