3.11 後のエンタメ小説(その3)『標高二八〇〇米』樋口明雄(徳間書店)
■いま読んでいる『なみだふるはな』石牟礼道子・藤原新也対談(河出書房新社)の中で、藤原新也氏が「こう」発言していてびくっとしてしまった。そうか、そうだったのか。知ったようなことを書いてしまって反省しています。
「リアリティ」(p62)藤原:震災があって一週間後に被災地に入ったんですね。いまはもう三か月経って、先日も行ってきましたが、最初に行ったときとは空気がまったくちがいます。直後というのは……
石牟礼:臭いがある?
藤原:臭いも当然ありますけれども、空気に恐怖感がまだ残っているんですね。津波が来たときに、ものすごい恐怖感が渦巻いたでしょう。人間の叫びだとか。そういうものがまだ残っているんですよね、空気の中に。それがわかるんです。その空気に充満していた恐怖の気のようなものがいまはありません。道端で座り込んで泣いている人もいたし、ほんとうに東北の気丈なおやじが、泣いているんですよ、道端に座り込んで。(後略)
石牟礼:『AERA』の写真を拝見しましたけれども。鳥がいっぱいの。「死臭が」と書いてあった。死臭というものを書いてあるのは初めて見ました。何か臭いがするはずだと思っていた。書かないですね、臭いのことは、新聞は。
藤原:基本的にはそういう悲惨な状況はなるべく隠すように隠すようにしていますから。たとえば津波の光景でも、人間が二万人死んでいるわけですから、当然いたるところで写っているんです。
写ったやつは全部排除して。写っていることがいいことかどうかは別として、そういう二次情報というのは全部選別する時代ですから。そこで死体を写すべきかどうかという議論がネットであったようですが、僕個人はあまり死体は写したくないんです。リアリティを伝えるために死体を写すべきだといういい方がありますが、じゃあ、自分がその死体だったらどうか、自分が写されたらどうか。僕が水ぶくれにになって、その辺に転がっていて、向こうから長玉(望遠レンズ)で人が撮っている光景を想像すると、これは気持ちがよくないですよね。
死体を写すべきだという人は、おまえが死体になったらどうだという、そういう観点がないんですね。
もう一つは、死体を出したからリアリティが伝わるかどうかという、それはまた別ですね。むしろ僕が撮った、カモメが陸に群れている写真のほうが、ぞっとする力がある。リアリティといいますかね。
石牟礼:感じました。とても。この下には死体があって、鳥たちは食べるわけですからね。
藤原:リアリティというのは想像力だと思うんです。そのものを見せてしまうと想像力は封印されてしまう。見ることはカタルシスにつながってそれで終わってしまう。(『なみだふるはな』p64 より)
■ところで、つい最近とくに目的があった訳でもなく、ただなんとなく『ひかりの素足』宮澤賢治・作、赤羽末吉・絵(偕成社)をたまたま読んだのだ。「この話」は今までなぜか知らなくて、今回初めて読んだ。
賢治の童話の中では、初期に書かれたもので、宮澤賢治が当時熱心に信心していた法華経の影響が全面に出た作品だ。そして、あの『銀河鉄道の夜』の原型になった童話だとされている。
まだ幼い兄弟が吹雪の峠で道に迷い遭難する話だ。凍死寸前の二人は生死の境をさまよう。カムパネルラとジョバンニのように。ただ『銀河鉄道の夜』と違う点は、「地獄めぐり」の場面がまずあることだ。剣が一面に突き出た大地を、裸足の少年たちが血をだらだら流しながら、大きな赤鬼にむち打たれ進んでゆく。
ぼくはこの場面を読みながら、あれ、どこかですでに読んだことがあるシーンだなぁ、と思った。で、思い出したのが『標高二八〇〇米』樋口明雄(徳間書店)の中の、『霧が晴れたら』だ。妻と中1の息子の家族3人で登山していた主人公は、岩場で滑落する。そして……。 この短篇は『ひかりの素足』を下敷きにしているのではないか。
■ところで、絵本『ひかりの素足』を読み終わったあとに、偶然『なのはな』萩尾望都(小学館)に収録された、マンガ「なのはな」の続編、「なのはな ---- 幻想『銀河鉄道の夜』」に『ひかりの素足』が出てくるっていう情報を得て、あわてて一昨日 TSUTAYA へ行って購入したのだ。
それは最後に載っていた。
「なあんにも こわいことは ないぞう」
っていう、お釈迦様の言葉が心に沁みる。
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