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2011年11月26日 (土)

中日新聞夕刊コラム『紙つぶて』金曜日「知恵熱の記憶」堀江敏幸

■そもそもの始まりは、11月23日に行われた慶応大学「三田祭」でのイベント、杉江松恋、川出正樹、永嶋俊一郎氏による「海外ミステリ鼎談」に参加した人の感想を集めた「ツイートのまとめ」に目を通したことが事の発端だった。


これら現役大学生のツイートを読んでいて、ぼくはもの凄く違和感を憶えたのだ。なに言ってんだ、てめぇ〜ら。てね。


だから、たぶんぼくと同じ居心地の悪さを感じたであろうトヨザキ社長のツイートに、思わず「うんうん」と10回くらい続けて相づちを打ってしまったのだな。それはさらに、トヨザキ社長がリツイートした千野帽子さんの「保守的な俳人とモダンジャズ愛好家をとことん批判する」連続ツイートへと連なってゆく。これはこれで、とっても面白かった。教条主義的な石頭のジャズファンは、おいらも大嫌いだからさ。


■そんな一連のツイートを読んでの、今朝の「中日新聞」だったわけで。長野県版の5面には、昨日の金曜日の名古屋版「夕刊」の記事から連載コラム「大波小波」と「紙つぶて」が載っている。金曜日の担当は、作家の堀江敏幸氏だ。関心があることは不思議とリンクするのか、先日トヨザキ社長が言ってたことと全く同じ発言を堀江敏幸氏が書いていたのでビックリした。


でもたぶん、この堀江氏の文章はネットには掲載されていないだろうから、未許可でここに転載しますね。


<知恵熱の記憶>       堀江敏幸(中日新聞夕刊 11月25日付)


 言葉をひとつ原稿用紙の桝目に書き付けてその文字の形をしばらく見つめ、しかるのちに音にしてみる。次にどんな模様の、どんな響きの言葉が来るのかを考えながら、また同じ作業を繰り返す。私の言葉とのつきあいは昔からずっとそんなふうだったので、はじめになにを書くか、内容を決めることができない。

眼の前で形になりつつあるのは、言葉が重なってできた文章の連なりにすぎないのである。したがって、できあがった一定量の言葉の堆積を特定のジャンルに分けるのは無意味であり、小説や随想や批評としてくくられてしまっては、こちらの身体感覚と合わない。


 批評や創作を志す人たちと接しながら申し訳なさでいっぱいになるのは、自分自身がなにをやろうとしているのか、まさに書きながら考えている最中だからである。それでも「なにか」を書くのは、言葉を重ねていくうちに、あるいは消し去っていくうちに少しずつ高まってくる精神的な微熱に触れることが、大きな歓びだからだ。熱があることにすら気づかずに過ぎていく時間を、貴重なものだと思うからである。


 ただし、こうした感覚の源は、まちがいなく読書にある。自分の知力を超えた本、感性の守備範囲に収まらない本、つまり永遠の幼児のまま未地の言葉に触れ、繰り返し生じる知恵熱を記憶に刻んできた身体が、その再現を望んでいるらしいのである。だから、今日も明日も、読み、書く。私にはそれしかできないから。

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