映画『きみが死んだあとで』を観てきた(松本シネマセレクト)
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以下、ツイートを改変再構成したのもです。
■今日(5月23日の日曜日)は松本まで行って、3時間20分もある映画『きみが死んだあとで』を観てきた。全く退屈しなかった。面白かった。上映後の代島治彦監督と信濃むつみ高校の教頭だった竹内忍先生との1時間に及ぶ対談も聴き応えがあった。頑張って出かけて行って良かった。
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代島治彦監督は1958年の早生まれで、ぼくより1つ上の学年だ。監督はシラケ世代と言ったが、竹内先生とぼく(同じ1958年生まれ)は「遅れてきた青年」の感覚だった。映画のラスト。監督が羽田弁天橋の欄干に山崎博昭さんの肖像写真を掲げる。雨が降っている。写真のアップ。その雨粒が山崎さんの目から流れた涙に見えた。
ただ、帰宅後に先だって伊那の平安堂書店で買ってきた『映画芸術』最新号 p44〜p53 に載っている、当時バリバリの活動家だった、亀和田武、絓 秀実、小野沢稔彦、荒井晴彦の座談会「1967.10.8 以後の新左翼の変容と敗北 ---- 革命闘争の死者は聖化できるのか」を読んで「う〜む」と考え込んでしまった。だったら、あんたらちゃんと自分たちの言葉で総括してよ。そう思った。
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1967年10月8日。この日、佐藤栄作(岸信介の弟)総理大臣が南ベトナム訪問のため羽田から飛びに立つのを阻止すべく、全国各地から「ベトナム反戦」を訴える大学生たちが羽田へ通じる「橋」を目指し集結した。この映画の主人公、山崎博昭(18歳・京都大学1年生:中核派)も仲間と共に京都から深夜夜行バスに乗って駆けつけたのだった。
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ただこの日の前日に、法政大学構内において中核派による革マル派幹部への「内ゲバ」リンチが行われていたこと。それから、この日初めてデモプラカードに見せかけた角材(後のゲバ棒)とヘルメットが参加学生たちに支給され、最初の武装闘争となった事実は重要だ。
羽田弁天橋の上で機動隊に撲殺された山﨑の死後、学生たちの暴力は加速化してゆく。投石、火炎瓶。同時に、体制側の機動隊もどんどん武装化していった。内ゲバ殺人も日常化していく。
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でも、1969年東大安田講堂での敗北後、学生運動は地下へ潜り、大衆を巻き込んだ大きなうねりの活動から、爆弾テロ、ハイジャックといった、より過激な闘争活動へと突き進んでゆく。その行き尽きた果てが、連合赤軍のリンチ殺人と、浅間山荘での銃撃戦だった。
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映画を観たあとになって初めて、この大友さんへのインタビュー動画を見た。師匠「高柳昌行」に対する複雑な想いを、これほど率直に正直に語る大友さんて、初めて見た気がする。これは貴重な動画だな。
YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談①/大友良英(本作音楽)×代島治彦 監督
続けて加藤登紀子さんへのインタビュー。これまた引きつけられる。格好いいなあ。でも、どこか映画の後半、ベトナムのホーチミン市で演説する、元東大全共闘代表の山本義隆氏と重なる感じがした。僕らは決して間違ってはいなかったのだと。
YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談④/加藤登紀子(シンガーソングライター)×代島治彦 監督
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・四方田犬彦氏は、小熊英二『1968 上・下』を徹底的に批判していて可笑しい。
YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談③/四方田犬彦(映画誌・比較文学研究)×代島治彦 監督
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続き)映画を見ていて少し違和感を持ったのが、佐々木幹郎氏の笑顔だ。彼の詩は「行列」(僕も学生たちのデモ行進の詩だと思った)しか読んだことはない。所有の『やさしい現代詩』にはCDも付いていて、作者自らの朗読が収録されている。その中では彼の朗読は、聴いていてなぜか堪えられない嫌みがあった。個人的な思い込みですみません。でも、「おいらいち抜けた」ってどうよ? ヤクザの世界で「抜ける」のは至難の業だ。セクトから抜けるのって、そんなに簡単だったの? まったく説得力がない。
「記憶」って、ナラティブなんですよね。その時の自分の都合がいいように自由に書き換えることができる。その人の人生って、結局は「物語=ナラティブ」に変換して自分で納得するしかないんですよね。そうじゃないと、この理不尽な世界なんて生きていけないから。
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自分の「記憶」という「過去」は、いくらでも変更できる。でも「未来」は既に厳粛に決まっていて、決して自分の思い通りにはならない。というのが、カズオ・イシグロの小説の主題だと思う。『わたしを離さないで』とかね。
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また続き)逆に映画を観ていて最もシンパシーを覚えたのは黒瀬準氏と島元恵子氏だ。黒瀬氏は、大手前高校3年生の文化祭で仮装した姿が、山﨑博昭さんの左隣にモノクロ写真に残っている。あの日二人は羽田弁天橋の手前で後衛として配置されていた。しかし、山﨑は我慢しきれず前衛の橋へと走り去る。
その時黒瀬氏は、ヘルメットも被らず、ゲバ棒も持たず徒手空拳で走り去る山﨑を引き留める力はなかった。その悔いを引き摺ったまま、今日まで生きてきた顔をしていた。服装からその後苦労して決して成功者にはなれなかったことが分かった。その歌声は本物だった。
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島元恵子さんは、京大教育学部を卒業後、高校の英語教師になった。現在は退職して田舎暮らしをしている。やはり大手前高校の同級生で、10.8 羽田闘争にも参加している。10.17 に日比谷野外音楽堂で開催された「山崎博昭君追悼集会」では、友人代表として弔辞を述べた。その時の「追悼の言葉」をカメラの前で改めて朗読する。
読み終わって、うつむいたままじっと沈黙する島本さん。決して言葉にはできない様々な思いが、彼女の胸のうちに去来する。
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それからもう一人印象的だった人物。大手前高校、京都大学ともに山崎の先輩で、京大中核派リーダーだった赤松英一氏だ。イケメンで後輩の女子高生からキャーキャー言われる人気者だった彼は、高校の後輩たちをオルグして中核派に引き入れた。赤松氏は1993年まで中核派の幹部だった。当然、数々の内ゲバリンチ殺人事件の当事者でもあったはずで、そのあたりの事をインタビューで訊かれ、訥々と答えながら途中で何度も押し黙り、言葉を慎重に選んでいた。
自分の胸の裡に留めたまま、墓まで持って行くと決めた事実が、きっと沢山沢山あるのだろうと思った。
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さらに続き)あと、映画を観ていて気になった人がいる。デモでパクられた学生たちに差し入れとかして後方援護した救援連絡サンター事務局長、水戸巌の妻水戸喜世子さんだ。彼らは内ゲバ加害者にも差別なく差し入れした。
東大で核物理学の教授だった水戸巌は、生前、反原発運動の理論的先導者だった。しかし、大学生になった双子の息子たちと冬の剱岳に入山したまま吹雪の夜に3人とも谷底へ転落し死亡する。
妻の水戸喜世子さんは、インタビューに答えながら夫と息子達の遭難が事故死ではなかったのではないか?と言う。公安当局か、夫の活動を疎ましく思っていた過激派が当局の情報を得てやったのでは? と。まるで高村薫『マークスの山』じゃないか。
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■アフタートークで竹内忍先生も言っていたが、山崎博昭という 18歳で亡くなってしまった同志を、当時を懐かしく想い出しながら仲間で追悼するだけの映画ならば、全く見る気はしなかった。ただ、映画のタイトルが『きみが死んだあとで』だったので、1967年から53年が経って、生き残った彼らが「いま」どう生きているのか? 当時の自分にどう決着をつけているのか? そこにこそ興味があった。
しかし、残念ながらその回答は得られなかったな。
確かに、山崎の死を転機に人生が大きく変わった人もいた。京大を中退し、身体を生業とする舞踏家になって、現在はインドで弟子たちを指導する岡龍二氏だ。ただ他の人たちはどうだったのだろう? インタビューからは、その本心はうかがい知ることができなかった。
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