『音楽家 村井邦彦の時代』(その1:作曲家デビューまで『キャンティ』の頃)
■村井邦彦は、東京大空襲間近の 1945年3月5日、東京に生まれた。フランス系カトリック・小中高一貫高「暁星小学校・中学校・高校」(大学は、慶応大学法学部)の出身だ。小学校からの同級生に、歌舞伎役者の二代目中村吉右衛門がいる。
当時、都内でも有数の有名私立一貫高に通っていたということは、村井の実家は相当裕福な家であったと思われる。
■中学生の時に、ベニー・グッドマンのレコード『カーネギー・ホール・コンサート』を買って貰い、ジャズに目覚める。中学では、ブラスバンド部に入り、迷わずクラリネットを吹き始めた。
1961年(昭和36年)、村井邦彦 15歳。暁星高校1年生。浅草コマキ楽器のジャズスクールで中古を買ってもらってアルトサックスを習う中で、2歳年上の山田三郎(宮内庁御用達漆器店「日本橋・山田平安堂」の御曹司)と知り合い、「みどり色のパジリコスパゲティ」を食べに、飯倉片町にあるイタリアン・レストラン『キャンティ』へ初めて連れて行ってもらう。
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山田は、『キャンティ』オーナー川添浩史の次男光郎(当時18歳)と仲が良かった。長男の川添象郎は、1960年(19歳)に父親の紹介で、ロバート・キャパが作ったカメラマン集団マグナムが来日した際のアシスタントを務めたあと渡米し、ラスベガスでシャーリー・マクレーンのステージを手伝い、ニューヨークに行ってフラメンコ・ギターを習得。その後、フランス・スペインに渡って武者修行ののち1964年になって帰国するので、村井が『キャンティ』に出入りしていた当時は、まだ川添象郎とは出会っていない。
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■川添浩史は、後藤象二郎の孫にあたる。土佐藩参政であった後藤は、坂本龍馬が「船中八策」を示した相手。彼はその八策を持って、山内容堂に伝え、容堂から徳川慶喜に伝えられ「大政奉還」に至る。その後藤象二郎の孫なのだ。
出自は伯爵後藤猛太郎が新橋芸者のおもんとのあいだに生ませた庶子である。三菱銀行の取締役をしていた川添家の養子(川添紫郎)として育てられた。麻布の家には浩史専用の女中さんがいたほどの裕福な家庭だったようだ。(松岡正剛の千夜一冊より)
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川添は早稲田大学在学中、1930年代のパリに遊学する。(つづく)
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