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2015年5月

2015年5月31日 (日)

NHK 朝ドラ『まれ』は、どうして面白くなっていかないのか?

■NHK朝の連続テレビ小説のファンだ。

あの傑作『ちりとてちん』以降、だいたいフォローしてきた。

中でも、『カーネーション』と『あまちゃん』の2本は、名作と言ってよいと思う。脚本家と演出家そして役者さんたちのタッグが、ほんとうに上手く噛み合っていた。いや、直近の『花子とアン』と『マッサン』だって、なかなか強かに練られた脚本で、最後まで緊張感が途切れることなく毎日楽しみにしていたものだ。

ところがどうだ。今シーズンの『まれ』は。

能登編も横浜編も、渋くてイイ役者さんをたくさん使っているにも関わらず、なんだか画面がいつもワサワサと、とっ散らかっていて落ち着きがない。この人、このシーンに必要なの? って感じの人ばかりいて、その脇役の役者さんたちが、いっこうにメイン・ストーリーと噛み合ってこないのだ。

例えば、門脇麦。彼女は今週になってようやく表舞台に出てきたのだが、ぼく個人的には「こういう使われ方」をするために、彼女はキャスティングされたのかと思うと、ものすごく残念でならない。たぶん、彼女の役割は『ちりとてちん』で言えば「貫地谷しほり」の小浜での親友、ジュンちゃん(宮嶋麻衣)に相当するのだろうが、だとしたら、今週の展開はあまりにその場しのぎの場当たり的すぎて、今後の発展は何も期待できないのではないか? 予想では、来週から画面から消え去って、今後登場の機会は「三つ子」でも生んだ時しかないものと思われる。

キャストが使い捨てなんだな。初めのころ登場した田中泯と田中裕子の息子夫婦(池内博之)だって、反省して東京へ帰ったきり、その後はぜんぜん登場してこない。

つまりね、脚本家の思いつきで、その度に登場人物たちが人形のようにただ動かされているだけなので、見ていて血の通った生身の人間としてのリアリティが全く感じられないのだ。たぶん、脚本家は「それまでの朝ドラの定石」を踏襲する振りをして、ことごとくオフ・ビート的にワザと外しているのかな。

これって、『純と愛』と同じだ。『純と愛』もずっと見ていたが、あれは本当に凄かった。主人公を次々と不幸が襲うのだ。母親(森下愛子)は若年性アルツハイマーで、父親(武田鉄矢)は溺れて死ぬ。就職したホテルの同僚(黒木華)は腹黒で、兄ちゃん(速水もこみち)は根なし草のフリーター。夫である風間俊介の家族はみな病気持ち且つサイキックの持ち主。

主人公が次に務めた大阪の簡易宿屋は火事で全焼し、宮古島で新に始めるプチ・ホテルも、オープン前に台風の襲来でボロボロになってしまう。風間俊介は脳腫瘍に冒され、結局、最終回まで昏睡状態のまま目覚めることなく終わった。毎朝暗い気持ちにさせられながらも、最後まで見てしまったという、めちゃくちゃな朝ドラだった。

『まれ』を見ていて思うのは、『純と愛』を見ていた時とおんなじ。あれじゃぁ役者さんたちが可哀想だ。

(もう少し続く)

2015年5月24日 (日)

今月のこの1曲。ジェイムス・テイラー「How Sweet It Is」

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ジェイムス・テイラーのレコード『ゴリラ』を買ったのは、高校2年生の時だった。1975年だ。このレコードはほんとよく聴いたなぁ。大好きなんだ。

A面1曲目「MEXICO」4曲目「WANDERING」5曲目「GORILLA」それから、B面2曲目の「I WAS A FOOL TO CARE」と、3曲目「LIGHTHOUSE」が、特にお気に入りだった。もともと日本のフォーク少年だったから、アコースティックな楽曲がよかったのだ。

A面3曲目に収録された「HOW SWEET IT IS TO BE LOVED BY YOU」は、派手でコテコテのR&Bだったから、当時イマイチその良さがわからなかったのだが、「この曲」はシングルカットされてスマッシュ・ヒットを飛ばし、同年のビルボード・ヒット・チャートでは5位を獲得している。

2枚あとに出た「JT」に収録された「ハンディ・マン」もそうだけど、ジェイムス・テイラーは「こういう曲」のカヴァーがほんと上手い。


YouTube: James Taylor - How sweet it is (to be loved by you)

オリジナルは、マービン・ゲイの「これ」


YouTube: Marvin Gaye - How Sweet It Is (To Be Loved by You)

■土曜日の午前中、NHKFMでゴンチチがナビゲートする「世界の快適音楽セレクション」の選曲を担当している、渡辺亨氏が出したディスク・ガイド本『音楽の架け橋』(シンコーミュージック)でも取り上げられている。(65ページ)

■音楽評論家・天辰保文氏の「ここの文章」がめちゃくちゃいい!

さとなおさんも、むかし「このレコード」を紹介していたな。

■ぼくも以前、カーリー・サイモン『イントゥ・ホワイト』の記事で取り上げたことがある。

 さらに、「ここ」を下の方へスクロールして行くと、『オクトーバー・ロード』の紹介記事もあります。

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 (写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

ノー天気でお気楽なこの曲は、聴いていて何とも気持ちいいのだが、そのもとは、ミディアム・スローのテンポと、弾むようなシャッフル・リズムにある。ドラム・ソロのところで分かるのだが、「タタタ、タタタ、タタタ、タタタ」という「三連符」で出来ているんだ。

同じく「シャッフル・ビート」で超有名な曲が「これ」だ。


YouTube: Stevie Wonder - Isn't She Lovely

■「ウン・パ、タタタ・ンパ」というリズムになると、これは「ドドンパ」です。

日本で一時期流行した謎のリズム「ドドンパ」に関しては、『踊る昭和歌謡:リズムからみる体臭音楽』輪島裕介(NHK出版新書)の中で、その成立の由来が詳しく調べられている。

■シャッフルやドドンパとはぜんぜん関係はないんだけれど、最近お気に入りで毎日聴いている曲がこれ。

ファレル・ウイリアムスと「Daft Punk」が、2014年にグラミー賞を取った「Get Lucky」を、フランスの女性歌手ハイリーン・ギルがカヴァーして歌っているのだが、この歌声、なかなかに心地よいのだ。


YouTube: Get Lucky (Bonus Track - 2014) - Hyleen Gil

本家、ファレル・ウイリアムスの歌声がこちら。リズムは、往年の1980年代ディスコ・ミュージックの感じだな。

 


YouTube: Daft Punk - Get Lucky (Full Video)



2015年5月19日 (火)

『風の歌を聴け』その3(拾遺)

■このところ、どんどん更新が遅くなっていくのは、書きたいと思ったネタはあるのだけれど、思うように書けなくて、長くなって、そのうち書くのが面倒になってほったらかし、という悪循環に陥っているからだ。

という訳で、今回でようやく『風の歌を聴け』の話題も終了です。

1)■『妊娠小説』斎藤美奈子(筑摩書房)から以下引用。

 80年代、文学業界は完全に「僕小説」の時代に入っていた。ザ・キング・オブ僕小説作家、村上春樹の登場はそれを象徴するできごとだったろう。

 ところで、その村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(79) が妊娠小説だった、ということはあまり知られていない。知られていないのは、これが一見そうとは見えない、きわめてトリッキーな妊娠小説だからである。(中略)

 玉石混淆、さまざまな批評の対象になった村上春樹『風の歌を聴け』。21歳の「僕」が夏休みに帰省した町で友人の「鼠」とビールを飲んで「小指のない女の子」と知り合ってラジオを聞いてレコードを買った、といったような話だ。(中略)

 知られているように、テキストは「1」から「40」まで四十(途中の☆印まで入れれば 53)の断片で構成されている。組み立て前のジグソーパズルみたいな小説だから、ばらばらの断片(ピース)を手にとって眺めていても見えてくる絵には限界がある。全体の解読には、40(または 53)の断片を整理し、配置しなおさなくてはならない。わたしたちなりの推理を公開しよう。

 手がかりのひとつは、幾重にも重なった「時間」だ。(中略)さらに…やたらと具体的な数字が頻出するのはなぜか。『風の歌を聴け』のテキストは、読者に「パズルの解読」をこそ要求している。「数字」こそ、その最大のヒントと考えるべきなのだ。(中略)

「時間」に続くふたつめの手がかりは、幾重にも交錯した「人物」である。物語には「僕」と「鼠」と「小指のない女の子」の、三人の中心人物がいる。「僕」はこのふたりと別々に交流を持つのだが、それだけだろうか。「鼠」と「小指のない女の子」の間に関係はなかったか。

 「時間」を解く鍵が「数字」であったように、「人物」を解く鍵は「人物名」にある。すなわち<ジョン・F・ケネディ>だ。(中略)

               ☆

 異彩を放っているのは②だ。<鼠は……気がした>という記述からもわかるように、一貫して「僕」の視点で進行するテキストのなかで、②を含む「6」だけが、テキストのルールを逸脱し、「鼠」の視点で記されている。(中略)

 ときに「5」と「6」とは同じ内容を綴っている。「鼠」による「海洋遭難」の物語だ。(中略)ついでにテキストにはないけれども、実在の J・F・K が、海軍時代、南太平洋での遭難から生還して英雄になった人物だという事実を知っていると、ここで<ジョン・F・ケネディ>が出てくるのがさほど唐突ではないこともわかってくるだろう。

         『妊娠小説』斎藤美奈子(筑摩書房)p75〜85

        ☆

2)■『音楽談義』保坂和志 × 湯浅学(Pヴァイン)より

保坂:最近はもう村上春樹は読まないけど、というか『ノルウェイの森』からすでに読んでないんだけど(中略)村上春樹がなぜ売れるかというと、「なぜ」で心理を書くから。心理の変化が正しく因果関係によって説明される。心理と因果関係のふたつが肯定されている。いまどき極めて珍しい。それに非常に感傷的であるということと、もうひとつ、隠し味というほど隠れていないけど、スパイスのように暴力が入っているところ。

『風の歌を聴け』で小指がないのはいいんだけど、「その小指どこいったんだろう」までいうところが村上春樹の暴力性で、そこにはみんなたいして注意がいかないんだけど、その暴力性が好きなんだよ。(p31〜32)

保坂:でもね、村上春樹はぼくは初期しか読んでいないんだけど、庄司薫の『白鳥の歌なんか聞こえない』(73年)で由美子って子のおじいさんの書架にはいっていく場面があるんだけど、本の倉庫のなかでカオルくんかなんかが考えるんだけど、そのときの文体がまんま村上春樹なんだよね。丸写しみたいなものなんだけど。

湯浅:村上春樹の庄司薫からの影響をいうひとは最近あまりいないね。庄司薫を読むひともいないのかもしれないけれど。(中略)

保坂:丸谷才一が大絶賛だったからね。丸谷さんは亡くなるまで村上春樹を絶賛しつづけた。(中略)村上春樹の不思議なのは、あらゆる分野にファンがいて、そのひとたちが本来とても辛口で斜にみるひとなのに、そういうひとでも村上春樹だけは手放しで褒める風潮があるんだよ。(p162〜164)

   ☆

3)■「デレク・ハートフィールド & 庄司薫」で検索すると一番上に出てくるサイト。これは興味深いな。とは言え、ぼくは『赤頭巾ちゃん』も『白鳥の歌なんか聞こえない』も読んでない。岡田裕介が主演した映画はテレビで見た記憶がある。NHKでドラマになったような気もするな。

      ☆

4)村上春樹氏が『風の歌を聴け』を書いた当時のことを回想した文章が2つある。ひとつは、

『村上春樹全作品 1979~1989〈1〉 風の歌を聴け;1973年のピンボール 』(講談社)の付録として添付された小冊子「自著を語る」。図書館本にはちゃんと「この別冊」が本に張り付けてあります。

もう一つは、季刊誌:柴田元幸 責任編集『MONKEY vol.5 / Spring 2015』(Switch Publishing)で連載されている、『職業としての小説家』:村上春樹私的講演録(第5回)「小説家になった頃」だ。ふたつとも、ほぼ同じ話が書かれているのだが、『MONKEY』の方が、字数も多く丁寧に振り返っている。

ハンガリー生まれの作家、アゴタ・クリストフが、母国語でないフランス語で『悪童日記』を書いた話が面白い。

      ☆

5)『村上春樹イエローページ<1>』加藤典洋・編(幻冬舎文庫) にも示唆に富んだ記載がある。ラジオDJの言葉。

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 あるものは貧しい家の灯りだ。あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。(中略)でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・君たちが・好きだ。

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『風の歌を聴け』を読むと、この最後のディスク・ジョッキーの言葉が、なにか作者の読者に向けた、無言のメッセージのように聞こえる。気がつくと、わたし達は、ほんとうは話の筋とは無関係なのに。この難病の女の子の手紙とDJの言葉を、この小説の中心からやってくる言葉として受けとめている。なぜだろう。

この言葉は、小説を横切るこのもう一つの「話」の中では、向こうの世界、鼠たちのいる異界からの返答として、ここに置かれる。この最後の返答は、この往還の構造に中に置かれると、小説の核心からの声となって、わたし達のもとにやってくるのである。

    「否定から肯定への物語」

 この小説を読んで、わたし達はこのDJの述懐、「僕は・君たちが・好きだ。」という言葉に、なぜか自分でもわたらないまま、心深く動かされることになる。しかしそれは単なる偶然でもなければ、センチメンタルなわたし達の感情移入の結果でもない。

   ☆

加藤典洋氏がスルドイところは、村上春樹の小説はみな「幽霊譚」であることを看破したことだ。『風の歌を聴け』においては、死者たちのいる「彼岸」と、主人公や読者がいる「此岸」をつなぐ「蝶番」の役割を果たしているのが「ジェイズ・バー」であり、土曜のラジオ・リクエスト番組であるということ。

ラジオのDJは、死者たちの声を代弁しているのだ。

あれっ? それって『想像ラジオ』と同じじゃない?

   ☆

共同通信の小山鉄郎氏がインタビューした「村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る(上)」(2015/4/21 中日新聞)を読むと、『アンダーグラウンド』から『約束された場所で』の仕事に関して

村上:被害者たちの話を一生懸命に聞いていると、みんな物語を持っていることがわかります。派手なものではないかもしれないが、その多くは身銭を切った自分の物語です。それらが集まるとすごい説得力を持ってくる。でもオウム真理教の人の語る物語は、本当の自分の物語というよりは、借り物っぽい、深みを欠いた物語であることが多い。

小山:その仕事で何か自分に変化がありましたか?

村上:人に対する自然な信頼感みたいなものが生まれたと思う。電車に乗っても、以前はただ人がたくさんいるなあというくらいだったが、今は一人一人に物語があって、みんな一生懸命に生きているのだなあと感じます。

今回の読者とのメールのやりとりにも同じものを感じます。だからこそ、丁寧に正直に答えたいと思うのです。

「僕は・君たちが・好きだ。」という言葉は、いまこのインタビューからも、ほら、聞こえてくるじゃないか。

この新聞記事を読んで、村上春樹氏がデビューした時から一貫してブレることなく作品を作り続けていることを、ぼくは確信したのでした。(おわり)

2015年5月14日 (木)

大森一樹監督作品:映画『風の歌を聴け』(1981)

■ずっと前に「日本映画専門チャンネル」で録画しておいて、見る機会がなかった映画『風の歌を聴け』をようやく見た。監督は、当時新進気鋭の若手映像作家だった大森一樹

京都府立医大を卒業し国試も合格した医師であり、かつ、プロの映画監督となった。メジャーデビュー作『オレンジロード急行』と2作目の『ヒポクラテスたち』を、ぼくはどちらも封切り映画館のスクリーンで見ている。特に医大生の青春群像を瑞々しいタッチで描いた『ヒポクラテスたち』は、オールタイムベストに入る大好きな映画だ。

ただ、彼の3作目である『風の歌を聴け』は映画館に見には行かなかった。

一番の理由は、原作をたぶんまだ読んでなかったし、映画の評判もあまり良くはなかったから、積極的に見たいとは思わなかったのだろう。

30年以上もたって、ようやく見た映画の感想は、正直ちょっと複雑だ。

映画のはじまりは東京。深夜バスの切符売り場。広瀬昌助(藤田敏八『八月の濡れた砂』主演)が「ドリーム号の予約ですね。えっ、神戸まで?」と言う。ここまで、手持ちカメラ目線で、主人公が誰だか、今が何時なのかは判らない。画面は急に風が吹いたようにワイプし、白くなってタイトルが映し出される。続いて、原作 村上春樹 脚本・監督 大森一樹の文字。

その後、電話ボックスの女の顔がアップになって、巻上公一が外で待ちながら I.W.HAPER を瓶でガブ飲みしている。BGMはフリー・ジャズだ。出演者のテロップと共に、酔っ払った巻上公一の視点になったカメラが、暴動のあった「あの夜の神戸まつり」の祭りのあとの残骸を深夜の路上に映し出して行く。

早朝、ドリーム号は神戸三宮に着く。主人公はその足でまだ営業中のはずのジャズ・バーへの階段を上がる。店主の中国人を坂田明(山下洋輔トリオのアルト・サックス奏者)が好演する「ジェイズ・バー」だ。床には客が食い散らかしたピーナツの殻が散らばっている。バックで流れているジャズは、鈴木勲『BLUE CITY』A面2曲目、ウディ・ショウの「Sweet Love On Mine」。

映画の配役はこうだ。

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僕:小林薫

鼠:巻上公一(ヒカシュー)

小指のない女の子:真行寺君枝

僕が3番目に寝た女の子:室井滋

ジェイズ・バーのバーテン:坂田明

鼠の彼女:蕭淑美

ラジオのDJ:阿藤海(声のみ)

少年時代の僕の緘黙症を治療する精神科医:黒木和雄(映画監督『龍馬暗殺』『日本の悪霊』ほか)

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☆とにかく、真行寺君枝がいい! ちょうど、佐々木マキがマンガで描く女の子の実写版そのままだ。特にネコみたいな「あの眼」。原作の「左手の小指がない女の子」のイメージそのまま。双子の妹のほう。

それから、まだ若かりし頃の室井滋。彼女も実にいいな。当時すでに、自主映画の女王と言われていた室井滋だけれど、メジャー・デビュー作は「この映画」だったのか?

役者ではないが、巻上公一の「鼠」がいい味だしていたな。彼も、坂田明もミュージシャンだ。ただ、主演の小林薫はちょっと原作と雰囲気が違う。そこが残念だ。でも、いまもう一度映画を見直しているところなのだが、大森一樹の映画として実によくできているし、小林薫も決してミス・キャストではなかったと思い直しているところだ。

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■映画が原作と違うところを列挙してみよう。

・原作も時系列の異なるエピソードがシャッフルされて語れているが、映画ではさらに細分化されて前後を入れ替え再構成して描かれる。例えば、

・原作では、120〜123ページに書かれている、デレク・ハートフィールド『火星の井戸』の中の文章「君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々のは生もなければ死もない。風だ。」

 という文章が、映画では冒頭でいきなり紹介される。主人公のナレーションで。「風だ。」これは、映画の方がかっこいいな。

・夜行長距離バス、ドリーム号

・ラジオ局から送られてきた特製Tシャツのデザイン。これも、映画のほうがセンスいい。

・僕が寝た最初の彼女が進学した大学は、内田樹先生が勤務していた神戸女学院なのか?

・2番目の女の子が1週間滞在した、東京の僕の6畳一間のアパート。ジャックス『からっぽの世界』はっぴえんど『風街ろまん』のレコード。本棚には、高橋和巳『わが解体』『日本の悪霊』『黄昏の橋』吉本隆明全集が並んでいる。

・『ヒポクラテスたち』の出演者3人が演じる、当たり屋の狂言。BGMは、浅川マキ。

・僕が小指のない女の子の務めるレコード・ショップで購入したレコード。原作では3枚だが、映画では何故か「はしだのりひことシューベルツ」のLPが追加されていた。

・僕が、室井滋とサンドイッチを食べながらテレビで見る映画。原作では『戦場に架ける橋』なのに対し、映画では、ジェーン・フォンダ『ひとりぼっちの青春』。引用されたのは、原作となった『彼らは廃馬を撃つ』のラスト・シーンからなのだそうだ(僕は原作も映画も見ていない)。日本語吹き替えは、野沢那智と小原乃梨子(ジェーン・フォンダの吹き替えと言えば、この人。タイムボカン・シリーズのドモンジョの声もね)。

・鼠の女。原作では、結局登場しない(ただし、後述するが、ずっと出ていたという解釈もある)。映画では何度か登場し、鼠はチャイナ・ドレスの彼女を新幹線・新神戸駅のホームで見送る。鼠と僕は、彼女が引っ越した後のがらんとしたマンションの部屋(鼠の父親に囲われていた?)を訪れる。

・動物園の猿と鼠の父親。息子の父親殺しの物語。原作では周到に隠されていた裏テーマを、大森一樹は「神戸まつり暴動」を介して顕在化させ、鼠が何に対してそんなに悩んでいたのかという彼なりの解答を示した。

・さらに大森一樹が凄いのは、原作では「鼠」に小説を書かせていたけど、映画では自主制作映画を撮らせたことだ。タイトルは『ホール(掘〜る)』。この映画の中で、鼠は「自分が立っているすぐ足元の土」を掘るには、どうしたらよいのか悩む。これは予言的映像とでも言ってもいいんじゃないか。と言うのも、この映画が公開されたずっと後になってから、村上春樹にとっては自分の脳味噌に穴を(井戸を)掘って無意識の領域まで下りて行くことが、彼の小説作りにおいてすごく大切なことなのだと確認されるのだから。

・「何だか不思議だね。何もかもほんとに起こったことじゃないみたい」

 「本当に起こったことさ。ただ消えてしまったんだ」

 「戻ってみたかった?」

 「戻りようもないさ。ずっと昔に死んでしまった時間の断片なんだから」

 「それでも、それは、あたたかい想いじゃないの?」

 「いくらかはね。古い光のように!」

 「古い光? ふふっ」「いつまでも、あなたのボーナス・ライトであることを祈ってるわ」

・ただ、どうしても判らないのは、原作を読んでいて、何だか分からないうちに感動してしまった「あのセリフ」。ラジオDJの「僕は・君たちが・好きだ。」(144ページ)を、映画では消去してしまった(出てこない)ことだ。小説の中では、最重要タームじゃなかったのか?

・それから、原作では、128〜129ページ。「しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった」

この小説で、ポイントとなるキーワードだが、僕がついた嘘に関しては、いろんな解釈が成り立つ。後年の解説書によると、「子供が欲しい」が「そのウソ」ではないか? とのことだが、映画では違った。

「言い忘れてたんだ。」が、嘘だったと。

その直後に挿入されるシーン。

真行寺君枝が正面のバスト・ショットで不思議な雰囲気の微笑を浮かべてこう言う。

「ウソつき!」

なんて色っぽい、素敵な表情なんだ!

 

  

・映画の中では、「いつか風向きも変わるさ」っていう台詞が、いろんな人から交わされるけど、こんなセリフ、原作にあったっけ。あったあった。140ページだ。

 「…ずっと嫌なことばかり。頭の上をね、いつも悪い風が吹いているのよ。」

 「風向きも変わるさ。」

 「本当にそう思う?」

 「いつかね。」

・映画のラスト近く。10年後の廃墟と化した「ジェイズ・バー」。床いっぱいに5センチの厚さでピーナツの殻がまち散らかしてある。そこにふと一陣の風が吹く。スローモーションで巻き上がるピーナツの殻。映画的に、ほんとうに美しいシーンだ。

・ラストシーン。主人公の独白。「神戸行きドリーム号は…… もう、ない」

ビーチ・ボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」が流れる中、エンドロール。このタイミングがめちゃくちゃカッコイイ。いやいや、やっぱり何だかんだ言って凄くいい映画だったんじゃないか?

(まだまだ続く)

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