■数年前に、ようやくファンになった「宮沢章夫氏のエッセイ」。でも、主な作品は、もう大方読んでしまった。仕方ないので、『牛への道』を繰り返し読んでいる。で、そのたびに大笑いだ。「笑いのポイント」を憶えていないから、何度でも楽しめるのだ。これは、宮沢氏の稀有な才能だと思う。
■宮沢さんの本職は、演劇の演出家&脚本家だ。正直に告白すると、僕は遅れてきたファンなので、宮沢さんの「芝居」を1本も観たことがない。ごめんなさい。それは、平田オリザ「青年団」の芝居を(想田監督の映画以外では)1本も観てないことと同じ後ろめたさを感じる。
■先日、伊那の「ブックオフ」で『牛乳の作法』宮沢章夫(筑摩書房)が美本なのに 100円売られているのを見つけて入手した。ラッキーだった。早速トイレに置いて、毎日少しずつ読み進めている。
まず有権者に訴えたいのは……。あっ、『マツコ有吉の怒り新党』を見ながら書いているからね。ごめんなさい。
『牛乳の作法』での宮沢氏は、とことん真面目だ。決して脱力していない。こういう宮沢さんも好きだ。ふだんのツイートそのままの雰囲気じゃないか。
読んでいて「これは!」と思った部分を以下にいくつか抜粋してみます。
「ゆっくりと立ちあらわれる野蛮な力 太田省吾」(p54)
太田さんの前に出ると私は言葉を失うのだが、それはべつに、太田さんの背が高くて上から見下されるからではなく、なにか口にすればその嘘を見抜かれるように感じるかれで、できるだけ近寄らないようにし、もし偶然でも会ってしまったら沈黙したまま逃げることばかり考えてしまう。
いつも作品に圧倒される。『水の駅』を見たあの瞬間と同様のものだ。いまでも私はあの一瞬を畏怖している。あれはなんだっただろう。「畏怖」がなんであったのか考えることは、つまり、「美しい」という言葉をいまどうとらえるかを意味する。(中略)
かつて私は、『水の駅』について次のように書いた。
「客席を闇が支配していく。少女はゆっくり歩む。それは、『2mを5分で歩くほど』の速度だ。舞台の中央には栓の壊れた水道が糸のように細く水を流し続けていた。水の音とゆったりした時間のなかを、少女は水道へと進む。どれほど時間が経過したかわからない。時間の感覚も麻痺してゆく。
水道にただりついた彼女は水を飲もうと欲したのだろう、持っていたバスケットからコップを取り出す。そして、糸のように流れる水にそのコップを差し出した。水の音が消えた。サティの『ジムノペティ』がすうっと、少女と水道をめぐるあたりの空間を包んだ。
私にはこの瞬間が、この数年間に観たどんな舞台のなかでも、もっとも美しい瞬間だと感じられた。」(『牛乳の作法』p54〜55)
という文章は、ぼくがここ最近読んだ数々の文章のなかでも、最も「美しい」輝きを放つ文章だと思う。
と言うのも、宮沢氏より少し遅れて、ぼくもまた、転形劇場の『水の駅』をナマで観て、同じ場面で圧倒されたからだ。
■もう少し宮沢氏の文章を抜粋しようかと思ったのだが、気になった文章のタイトルを以下に挙げます。どれも興味の尽きない深い思索に溢れている。
「死刑囚は短歌を作る」
「荒木一郎」
「銃を持つ身体」
「新宿のサウナで中上健次を見る」
「六本木WAVEが消えた」
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