『犬はあなたをこう見ている』ジョン・ブラッドショー(河出書房新社)
■ 1ヵ月以上も前のことだけれど、7月10日のツイートから以下転載。
テンプル・グランディン著『動物が幸せを感じるとき』(NHK出版)を読んでいる。著者は、オリヴァー・サックス『火星の人類学者』にも登場する高名な動物学のコロラド州立大学教授で、高機能自閉症であることをカミングアウトした女性だ。
彼女は、人間の気持ちを推察することは、ほとんどできないけれども、動物の気持ちは、直感的にごく自然と理解できるという。牛でも馬でも、犬でも猫でもね。
テンプル・グランディンで有名なのは、牛が屠殺場に入った時に、できるだけ死の恐怖を感じさせないような通路と牛を安心させつつ包み込むように押さえつける装置を開発したことだ。
わが家に犬がやってきて、なるほどと思ったのだが、うちの子犬は眠くなると人間の太腿の間に頭を突っ込んで、体を周囲から適度に圧迫されると、不思議と落ち着いて心休まるみたいなのだ。人間の赤ちゃんだって、古代から「スウォドリング」と言って、布でぐるぐる巻きにして泣き止ませてきた。
『動物が幸せを感じるとき』(NHK出版)を読んでいて驚いたことは、オオカミは実は群れをなして行動する動物ではなく、家族単位で移動するのが普通なのだという。つまり、群れのリーダー(アルファ=猿の群れで言えばボス)はいず、父母兄弟の関係があるのみだとのこと。へぇー知らなかった
だから、オオカミを祖先にもつ犬も、群れの中のヒエラルヒーを正しく認識して、自分の立ち位置を決めているとばかり信じられていたのだが、どうもぜんぜんそうじゃないみたい。あれま。
■これにはじつは承前があって、以下は 6月15日のツイートから。
本当のことをいうと、犬は苦手なのだった。トラウマがあるのだ。明瞭な記憶があるから、保育園児の頃だと思う。同じ町内の菓子屋「甘水」で飼っていた黒犬、エスの頭を撫でようとして右手親指の付け根を噛まれたのだ。痛かった。3針縫った。
それから1年もしないくらいだったか、父親が知り合いの家から柴犬の子犬(オス)をもらってきた。次郎と名付けられた柴犬は、僕をバカにしきった。わが家の序列の中では、次郎は自らの立ち位置を「下から2番目」と認識したからだ。もちろん、彼の下が僕だ。
だから、僕が次郎の散歩に連れて行くと、家を出るなりいきなし僕の足首に噛みついて「てめぇ、俺の言うことを聞けよな!」っていう態度に出た。だから、当時ぼくの足首は傷だらけだったのだ。
ただ、柴犬「次郎」は短命だった。ジステンバだったか、わが家に来て2〜3年もしないうちに死んでしまった。次にわが家に来たのも柴犬だった。僕は小学校の高学年になっていた。子犬ではなく既に成犬。なんか性格がいじけた犬で、前の飼い主が名付けた名前「コロ」を踏襲した。彼は長生きした。
柴犬コロが死んだのは、ぼくが高校生の頃だったから、わが家に来てから7〜8年は生きたのではないか。当時、次兄は高校生で忙しかったから、朝夕のコロの散歩は僕の役目だった。コロは次郎と違って、僕の足首を噛むことはなかった。彼なりに僕のことを認めてくれていたのだと思う。
■で、そのテンプル・グランディンが『動物が幸せを感じるとき』(NHK出版)の「犬」のパートで主張していたことと同じ話がこの本、『犬はあなたをこう見ている』ジョン・ブラッドショー(河出書房新社)に載っていることを中日新聞日曜版の読書欄で知って、あわてて購入したのだった。
訳文は読みやすいのだが、長くて厚くて、1ページあたりの活字も多く、最初のページから真面目に完読するのはちょっと厳しい。という訳で、少しだけ拾い読みしてみた。
■犬の祖先はオオカミだ。これは間違いない。
では、野生のオオカミを人間は何時からどうやって飼い慣らしたのだろうか?
この本の 63~64ページを見ると、こんな記載があった。
フランスのアルデンシュ県にあるショーヴェ洞窟は、先史時代の壁画で有名だが、その奥に50m ほど続く8歳から10歳くらいの少年の足跡が残されている。そしてそこには、少年と並んで歩く大型のイヌ科の動物の足跡も残っていて、少年とイヌ科の動物の親しい間柄を物語っているのだ。
イヌ科の動物の足跡は、犬とオオカミの中間の形をしている。少年が手にしていたたいまつのすすによる年代測定で、足跡が刻まれたのは26,000年前とされた。おそらくヨーロッパで最古の人間の足跡だろう。
少しだけ想像をめぐらせると、ひとりの少年が忠実な(原始の)猟犬を連れ、壁に描かれた野生動物の壮大な絵が見たい一心で、勇気をふりしぼって洞窟の奥へと進んでいく様子を思い描くことができる。(『犬はあなたをこう見ている』より引用。)
もう少し続く予定。
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