『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)の、どこが面白いのか。
■とにかく、このところのインフルエンザ大流行のせいで、物理的に自由になる時間が極端に減ったことに加え、昼休みも取れず午前からほぼ連チャンの午後の診療がようやく終わって、夜8時過ぎに遅い夕食を取れば、もうテルメに走りに行く元気もなく、血糖値が上がったところで睡魔に襲われ、午後9時半前にはベッドで朝まで寝てしまうという有様。
昨夜がまさにそんな一日であった。
だから、ブログなど更新している間がないのだ。 スミマセン。
■あと、もう一つ更新を怠った理由がじつはある。
『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)の、いったいどこが面白いのか、納得がいく説明ができるのかどうかずっと考えていたのだ。
■例えば、伊丹十三『女たちよ!』の場合、以前に読んだのは何十年も前なのに、それでもタイトルを見れば所々少しは記憶に留めていた。ところが『牛への道』の場合、エッセイのタイトルを見ても「どんな話」だったのか、全く記憶に残っていないのだ。あの有名な「崖下のイラン人」ですら、もう4〜5回は読んで、その度に笑っているはずなのに、いまこうして書きながらも何だったのかよく思い出せない。
伊丹十三の場合、男のダンディズムとか「こだわり」とか「うんちく」とか、こうでなければいけないという主義主張に満ちていた。それが、単なるキザとか、鼻持ちならぬ嫌らしさにならないところが伊丹十三の伊丹十三たる所以なワケで。
ところが、宮沢章夫氏はアプローチがぜんぜん違う。「だからなんだ?」という「どうでもいいこと」に一人こだわって、こだわって、考えて考えて文章にしている、その過程の文章が「そこはかとなく」面白いので、どんな話だったのかうまく要約できないのだ。だからたぶん僕の記憶に定着しないのだと思う。
逆に言うと、何度読んでもその度に初めて読んだ感覚で新鮮に大笑いすることができる、という全くもって稀有な本なワケです。こんな本ないぜ! あと、いろんな人が忠告しているけど、「この本」を通勤電車の中で読んではいけない。トイレでこそ読むのが正しいのデス。
■この本の「第三章」までは以前にも何度か読んでいたのだが、第四章「読むという病」は今回初めて読んだ。いや、面白いじゃないか!
宮沢氏が読んで面白かった本を紹介しているのだが、不思議なことに「その本」を読んでみたいとは決して思わないのだ。面白いのは「その本」に興味を持った宮沢氏の文章なのであって「その本」ではないのだな。
それと正反対なのが、『第二図書係補佐』又吉直樹(幻冬舎よしもと文庫)だ。読書好き芸人の又吉が読んで好きな本を紹介しているのだが、「その本」のことはラスト3行になってようやく言及されるだけなのに、それなのに、読んでいて「その本」がどうにも読みたくてしかたなくなっているのだった。不思議だ。
又吉は凄いぞ!
ぼくが好きなのは、古井由吉『杳子』を紹介しているページ。
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