荻原魚雷『本と怠け者』(ちくま文庫)を読んでいる
■いま読んでいる『本と怠け者』荻原雷魚(ちくま文庫)が、とにかく面白い。
この著者の名前はずいぶん前から知ってはいたのだが、じつは「この本」で僕は初めて彼の文章を目にした。で、1ページ目からすっかり絡め取られてしまったのだった。巧いな。芸がある文章とはこういうのを言うのか。そう思ったのは、西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社文庫)以来だ。
表カバー裏の「著者近影」写真を見ると、眼力の無くなった「佐藤泰志」みたいで、思わず笑ってしまった。ごめんなさい。それにしても、荻原魚雷氏の文章は読み進むうちに知らずと僕の体を蝕んでいくのがリアルに感じられる危険な書物だ。あぶない。実にあぶない。オイラも怠け者の仲間だからか?
この人、まだ若いのに病弱なジジイみたいだ。ちょうど、つげ義春のマンガ『無能の人』に登場する古本屋店主、山井を思い出した。彼は、江戸末期に伊那谷を放浪して野垂れ死にした俳人「井上井月」の生き方に傾倒していたっけ。
希望をいえば、好きなだけ本を読んで、好きなだけ寝ていたい。
欲をいえば、酒も飲みたい。
もっと欲をいえば、なるべくやりたくないことをやらず、ぐずぐず、だらだらしていたい。「怠け者の読書癖 ---- 序にかえて」(『本と怠け者』9ページ)
そうして彼は、しょっちゅう体調を崩し「あまり調子がよくない」と言いつつ「原稿を書いている時間以外は、ひたすら横になり、体力と気力を温存する(p112)」ねたり起きたりの毎日だ。
ここだけ読むと、なんだかとんでもなく無気力でやる気のない、単なる怠惰なダメダメ男かと思うかもしれないが、いや、それは違う。彼は確固たる信念でもって、かたくなに「こういう生き方」を実践しているのであり、そのための「理論武装」として、古書をあたり自分と同じような「怠け者」を過去の文士のなかから次々と見つけ出してくるのだ。
この本『本と怠け者』を読みながら、「正しい古本の楽しみ方」を初めて教えてもらった気がする。なるほどそうか。天変地異や想定外の人災。僕らが生きる時代や環境は目まぐるしく変わっていき、どう生きていったらいいのか分からなくなってしまっているのが現状だ。そういう時、僕らはどうしても「いま」のオピニオン・リーダーの言説に期待する。例えば、中沢新一氏が「緑の党」宣言をしたとか。
でも、荻原魚雷氏は違う。文明や科学がどんなに進歩したって、その中で生きている「人間」は、何万年も前から脳味噌の構造も変わらないままなのだから、考えることは昔の人も今の人も変わらないに違いない。とすれば、案外、古書をあたって昔の人の言説の中にこそ、現代を生き抜く英知が秘められているに違いない。たぶん、彼はそう考えているのではないか。(つづく)
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