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2010年10月

2010年10月27日 (水)

今月のこの一曲 「陽炎」ハンバートハンバート

■来月10日には、ニューアルバム『さすらい記』が発売になる男女デュオグループ、ハンバートハンバート。もちろん、すでに予約してあるのだが、CDが届くまで、『シングルコレクション 2002-2008』を毎日繰り返し繰り返し聴いているところだ。


YouTube: ハンバートハンバート「シングルコレクション 2002-2008」

いまは「Disc1」を集中的に聴いている。魅力的な曲が多々あるその中でも、最も印象的で不思議と心に引っ掛かってくるのが、15曲目に収録された「陽炎」という曲。ちょっとだけ試聴できます。 この曲には、中上健次かパトリシア・ハイスミスの短編小説のような雰囲気が漂う。さらには、ノワールの匂いを醸すフランス映画(ルイ・マル監督あたりの)でも見ている感じか。 いや、シンプルなメロディを淡々と歌う佐野遊歩のあっけらかんとしたヴォーカルだけをただ聞き流していると、あぁ、ハンバートハンバートの楽曲にはいつ聴いても癒されるんだよなぁなどと、とんでもなくお馬鹿な感想を抱く人もいるかもしれないけど、よーく歌詞を聴いてみると、めちゃくちゃノワールでハイスミスな物語が語られていて、ぼくは身震いしてしまうのだ。 おい、ちょっとヤバくね? 的な展開なのに、何故か不思議と透明でイノセントな気分になる。それはひとえに、佐野遊歩のヴォーカルに「悪人正機」的な救済の力があるからかもしれないな。 そうして、まず頭に浮かんだ映像があった。それは、19世紀のイギリス人画家ジョン・エヴァレット・ミレイの傑作『オフィーリア』だ。 Art03_01_big    それからもう一つ。ビル・エバンス&ジム・ホール『アンダーカレント』のレコード・ジャケット。 この写真を見る この写真を見る この写真は、まさしく『オフィーリア』を水面下から撮ったらこんな感じか?っていう写真に違いない。 ■最後にもう一つ。湖水の水面下に沈む女性の「顔」のイメージが圧倒的な短編小説がある。 『八月の暑さの中で ホラー短編集』金原瑞人編訳(岩波少年文庫)に収録された、「顔」レノックス・ロビンスン だ。 この小説も、イノセントで切なく懐かしい感じがする。オススメです。

2010年10月23日 (土)

『愛おしい骨』キャロル・オコンネル(創元推理文庫)読了

■キャロル・オコンネルの小説を初めて読んだのは、あれは何時のことだったか?

憶えているぞ。『マロリーの神託』(竹書房文庫・1994年)だ。16年も前のはなしだ。
たしか、ニフティのフォーラム「FADV」に、絶対的信頼をおくスマイリーさんと小太郎さんの好意的な感想が載ったので読んでみたのだった。

最初、すっごく読みにくかった。うねうね、くねくねした文章のリズム。それに、場面ごとにいちいち視点が変わるのが実に鬱陶しい。三人称じゃなくて、場面ごの一人称なのね。ネコの視点まであった。慣れるまで苦労したことを憶えている。でも、霊媒師とか妖しげな人々が次々と登場してきて、知らないうちに物語にのめり込んでいたな。それから、主人公のキャシー・マロリーがめちゃくちゃ格好いいのだ。いまで言えば「ミレニアム・シリーズ」のリスベット・サランデルにそっくり! ストリート・チルドレンでありながら、天才的なコンピュータ・ハッカー。しかも、氷のように冷たい絶世の美女ときている。


次に読んだのは『クリスマスに少女は還る』だった。導入部、やっぱり読みにくい。これは訳者のせいではなくて、原作者の文章が「こういう書き方」なんだね。異端、異形、フリークス。ホラー映画が大好きだった語り手。それはそのまま著者の好みでもあった。


■しばらく前から読んでいた『愛おしい骨』キャロル・オコンネル(創元推理文庫)を、一昨日の夜遅く漸く読み終わった。


読み始めて物語に入り込むまでに、やっぱり時間がかかった。その独特の語り口を思い出すのに手間取ったからだ。でも逆に、この秋の夜長を幾晩も幾晩も、少しずつ少しずつ楽しみながら読み終わった。こういう読書もいいな。面白かったし、十分に満足した。そうか、そうだったのか。ぼくの予想はすべて外されたよ。残念!

ただ、世間で大騒ぎするほどの傑作とまでは思わなかったな。はっきり好き・嫌いが分かれる小説だと思う。ぼくは、好きだ。


サンフランシスコからさらに北へ行った崖の上にたつスモール・タウン「コヴェントリー」。海岸から少し離れただけで、町の背後には広大な森が広がっている。住民の反対で、未だに電話局の携帯中継基地がないので、21世紀のいまでも「圏外」だ。


でも、コヴェントリーは「よそ者」を拒まない。他の土地ではとても生きていけないような、心にも体にも傷を持つ人々が集まって住み着くのだった。例えば、主人公オーレンの家の家政婦ハンナ。天才少年にして、14歳でカリフォルニア大学に入学した、左の頬に傷のあるウイリアム・スワン。黒髪の安いカツラが寂しいフリー・ライターのフェリス・モンティ。それに、隣家の住人、辣腕弁護士のアンディ・ウインストンと、アル中となって心を閉ざしてしまったその妻セアラ・ウインストン。そして母の美しさを受け継ぐ一人娘の鳥類学者イザベル・ウインストン。でも、性格はかなり激しい。


みな、それぞれに心と体を病み、20年前の事件を「それぞれが知る真実」として「秘密」を抱えたまま生きてきた人々だ。


さらには、コヴェントリーにずっと住む「変な」人々もいる。主人公オーレンの父親は、その昔ポニーテールの判事だった。息子を失ったいまは、死んだ愛犬を剝製にして残し、夜な夜な夢遊病者となって彷徨い歩く。20年前、ピンク・フラミンゴにも例えられた足長美人(かつては)のホテル支配人メイビス・ハーディ。何を考えているのかちっとも分からない凡庸な地元保安官ケイブル・バビット。コヴェントリーの住人は決して近づかない図書館の司書をしている、怪物女メイビス・ハーディ。御約束の霊媒師、アリス・フライデーと「こっくりさん」も登場する。


小説の雰囲気は、出てくる人がみな怪しくて、変な人ばかりだった、あの『熱海の捜査官』みたいな感じか。ということは「熱海」の本家であるところの『ツイン・ピークス』(ぼくは見てない)の雰囲気なワケね。


■弟のジョシアが森へ行って帰ってこなかった「あの日」から20年が経って、兄の主人公オーレンは生まれ故郷のコヴェントリーに帰ってくる。街へ来たオーレンを最初に待っていたのは、イザベル・ウインストンの強烈な膝蹴りだった!


こうしてストーリーを説明しても、何だかワケわかんないでしょ。


それでいいんです。かなり読者を選ぶミステリーだと思うけれど、
ぼくはけっこう好き!


映画になればいいな、そう思う。ぼくのイメージだと、監督はティム・バートンで、主人公のオーレンはジョニー・デップ。ということは、その弟役はレオナルド・デカプリオだな。そうして彼の父親役をピーター・フォンダ(むしろ、お父ちゃんのヘンリー・フォンダのほうが適役か?)。隣人のイザベル・ウインストン、もしくはその母セアラ・ウインストン役は、ニコール・キッドマンだ。アンディ・ウインストン役は、ジャック・ニコルソンで、ウイリアム・スワン役は『サイコ』で主演した(若かりし頃の)アンソニー・パーキンス。そんな感じかな。マッチョな怪女メイビス・ハーディは、やっぱりマツコ・デラックスか。家政婦ハンナ役は誰? 市原悦子でないことだけは間違いない(^^;;

2010年10月18日 (月)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その69)諏訪市図書館

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■昨日の日曜日は、6月以来の久々の「伊那のパパズ絵本ライブ」。
場所は、諏訪市図書館。昨年12月20日にやって好評だったみたいで、また呼んでいただいたのだ。ほんとありがたい。しかも、今回は図書館2階の視聴覚室に入りきれないほどの人が集まってくださった。120〜130人くらいになったんじゃないかな? お父さんの姿も10人近く確認できたぞ。うれしいねぇ。

<本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ(すずき出版)
2)『くだものなんだ』きうちかつ(福音館書店) → 伊東
3)『でんしゃはうたう』三宮麻由子(福音館書店) → 伊東
4)『たちねぶたくん』中川ひろたか・文、村上康成・絵(角川書店) → 北原
  『たちねぶた音頭』中川ひろたか・作詞作曲振付。 → 北原(ほかみんな)

5)『かごからとびだした』(全員)

6)『ねこガム』きむらよしお(福音館書店) → 坂本
7)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村繁雄・作絵(福音館書店) → 坂本

8)『へんしんマンザイ』あきやまただし・作絵(金の星社) → 宮脇
9)『さつまのおいも』中川ひろたか・文、村上康成・絵(童心社)ミュージカル・バージョン → 倉科

10)『ふうせん』湯浅とんぼ・中川ひろたか(アリス館)
11)『世界中のこどもたちが』新沢としひこ、中川ひろたか


◆「伊那のパパズ 今後の予定」◆

・11月7日(日)午前10時半〜 宮田村図書館
・12月5日(日)午前10時〜  伊那市美篶公民館(きらめき館)
・12月12日(日)午前10時半〜 伊那市「ぶぁんて・あん」さくらサークル
・ 2月11日(金)  山梨県甲府市「山梨英和幼稚園」
・ 2月26日(土)午後 箕輪町「箕輪興亜(株)」

 

2010年10月17日 (日)

『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ著(白水社)

■最近なぜか、益田ミリの漫画『すーちゃん』シリーズにハマっている。中でも『結婚しなくていいですか / すーちゃんの明日』は傑作だと思う。

そのシリーズ第一作『すーちゃん』益田ミリ(幻冬舎文庫)の69ページを読んでいて、あれ? つい最近、同じようなこと言ってた人いたなぁって、思ったんだ。

 すーちゃんは言う。

あたし、今 幸せじゃないの?

幸せを目指して生きることが 正しいこと?
幸せって

目指すもの?

目指すということは ゴールがあること

幸せに ゴールって あんのか?


■その誰かとは、『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ著、今泉みね子訳(白水社)の著者で、1962年英国生まれの新進気鋭の哲学者マーク・ローランズ先生だ。先生は現在アメリカのマイアミ大学で哲学教授を務めている。

『哲学者とオオカミ』の原題は、"The Philosopher and the Wolf Lesson from the Wild on Love, Death and Happiness" という。その「Happiness」に関して語られているのは、「第6章:幸福とウサギを求めて」の 167ページだ。


 多くの哲学者によると、幸せには本来備わった価値があるという。幸せは他の何かのためにではなくて、それ自身として価値があるという意味だ。わたしたちが価値を認めるたいていのものは、それが他の事物をもたらしたり、他のことをしてくれたから、価値がある。たとえば、人が金に価値を認めるのは、金で何かを買うことができるからだ。食べ物、住まい、安全、おそらく一部の人は幸福まで金で買えると思っている。(中略)

金と薬は媒体としては価値があるが、本来的に価値があるわけではない。幸せだけが本来的に価値がある、と考える哲学者もいる。幸せだけが、それ自身として価値があるもの、それによって得られる他の何かのゆえに価値があるわけではないものだというのだ。(p167)

(中略)幸せがそれ以外の何かのためでではなくて、それ自身のために人が人生で求める、おそらく唯一のものであるという主張だと。すると、単純な結論に到達する。人生でもっとも大切なものは、ある一定の感情をもつことなのだということになる。人生の質、人生がうまく運ぶかうまくいかないかは、その人がどのような感情をもつかによって決まる、というわけだ。

 人間を特定なことへの依存症患者とかジャンキーにたとえると、人間の特徴がわかりやすくなる。(中略)人間は一般に薬物のジャンキーではない。けれども、人間は幸せのジャンキーだ。幸せのジャンキーは、自分にとって本当はあまり為にならないこと、どのみちそれほど重要ではないことを執拗に追い求める点で、薬物のジャンキーと共通している。だが、幸せのジャンキーの方が、ある明瞭な一点においてはたちが悪い。薬物のジャンキーは、自分の幸せがどこから来るのかを、まちがって理解したが、幸せのジャンキーは、何が幸せなのかをまちがって理解した。両方とも、何が人生で一番大切なのかを認識できない点では、一致している。(p169)

(中略)幸せがどんなものであろうとも、ある種の感情ではあるのだ。この点で人間は定義される。永遠に続く、むなしい感情の追求だ。これは人間だけに見られる特徴だ。人間だけが、感情がこうも大切だと思っているのだ。

 このように感情に執拗に集中する結果、人間はノイローゼになる傾向がある。これは、意識の集中が幸福の創出からその検討へとシフトするときに起こる。人生のあり方について、「自分は本当に幸せだろうか? パートナーは、自分の要求を適切に理解してくれているだろうか? 本当に子育てに生きがいを見出しているだろうか?」といったように。(p170)


■人間の「幸せ」に関してやや悲観的な考察をする哲学者は、では、10年以上も生活を共にしたオオカミ(ブレニン)は、果たして幸せだったのか? と自問する。そうして、オオカミは狩りをしている時、あるいは、敵と闘っている時が一番幸せなのではないかと考えるのだ。


 このような狩りをしているときが幸せだったのなら、ブレニンにとって幸せとは何だったのだろう。ここには緊張の苦しみがあり、心と体は硬直が強いられ、攻撃したいという欲望とそんなことをしたら失敗するかもしれないという知識との葛藤は避けられなかった。一番したいことを自分に許さない、という作業を何度も何度もしなければならなかった。ブレニンの苦痛は、こっそりと数センチさけ前進することで部分的に緩和されただけで、足を止めればまた、同じプロセスが最初から始まるのだった。これを幸せというなら、エクスタシーよりも苦痛の方が大きいように見える。(p175)

(中略)幸せはただ楽しいだけではない。とても不快でもある。わたしにとってはそうであり、ブレニンにとってもそうだったと思う。だからといって、苦しみを経験しないと喜びを評価できないなどという、よく知られた月並みな知恵のことを言っているわけではない。そんなことは誰もが知っている。(中略)

むしろ、幸せはそれ自体が、部分的には不快だと主張したい。これは幸せの必然的な真実である。幸せはそうであるほかないのだ。(p177)

(中略)わたしたちの人生で最良のこと、よくある表現を使えば一番幸せなときは、楽しくもあり、とても不快でもある。幸せは感情ではなく、存在のあり方だ。(p181)


■この本の中では、もっと引用すべき重要な論考がいっぱいあるのだが、著者が「オオカミの野生」を見つめることで、オオカミから照射される「野生の輝き」から、人間という「生き物」のまか不思議な「生きざま」が、逆に非常にクリアカットに浮かび上がってくる、という事実が、この本の最大の読みどころであるので、その感じを、ちょっとだけ味わって欲しいなと、この「幸福論」の部分を引用してみました。

でも、この本で一番面白いのは、その後の「第8章:時間の矢」で取り上げられた「時間論」だ。人間の時間と、オオカミの「時間」の違いは何か? この章が、本書の白眉だと思うぞ。

2010年10月10日 (日)

あるクマの生活 -- 仕事編 --(白熊的生活)

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先日たまたま「こういう」ガシャポン(ガチャガチャ)があることを知った。コレクターではないのだが、「しろくま」には目がないのだ。で、さっそくネットで5種セットを購入した。


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■やっぱり、この「きぐるみバイト白熊」が一番のお気に入りかな。

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■うしろから見ると、「きぐるみ」にファスナーが付いているのは当然としても、「しろくま」の後頭部にもファスナーとチャックが付いている(写真ではよくわからないが、ちゃんと銀色で塗られている)ところに芸のきめ細かさがある。「しろくま」の「中の人」っていったい誰? なんかこう、しみじみしてしまうのだなぁ。

2010年10月 6日 (水)

島村利正『暁雲』と『仙酔島』のこと

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■高遠の実家の本棚から、島村利正『残菊抄』(三笠書房)と『奈良登大路町』(新潮社)を抜き取って持ってきてしまったのだが、自分の本として島村利正を持っていたいと思い『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)をアマゾンに注文して入手した。ところが、この文庫には、初期・中期の傑作「仙酔島(仙酔島)」「残菊抄」「奈良登大路町」は収録されているのに、初期の重要作である「暁雲」が入ってなくてがっかりした。

この「暁雲(げううん)」は『残菊抄』(三笠書房)に収録された、昭和18年作の短篇だ。堀江敏幸『いつか王子駅で』(新潮文庫)では 40〜42ページで引用し、こう紹介している。


あいまいに複雑にしてかそやかな陰影をほどこされた男女の、あるいは親子の感情の切れ端が、すこし言い足りないくらいの表現からじわりとわき出てくる。そういう印象がすべての作品に、うっすらとした靄のように覆いかぶさっていて、たとえば一宮の糸問屋の見習いに入った篠吉が、大旦那の世話で、ひそかに好意を抱いてくれているらしい奥がかりの女中、節といっしょになり、暖簾分けのようなかたちで撚屋(よりや)として独立し、着実に力をつけてゆく日々のなか、なぜ俺のような冴えない男といっしょになってくれたのだろうと自問しつづける「暁雲」などはその好例だ。

篠吉はながらく胸にくすぶっている懼れにも近い気持ちを節にぶつけてみようとするのだが、いつも最後に口をつぐんでしまう。そういう不器用で控えめな男が新しい撚糸技術の開発に成功して事業を軌道に乗せたころ、ながいあいだ帰っていなかった郷里に帰省したいと節が言う。(中略)

 夫婦になってずいぶんな時間を過ごしてからはじめて抱いた幼い恋にも等しい感情が、なんとはない呼吸で屈折してゆく言葉の撚糸を通してこちらの胸を衝き、「ほのかな狼狽」を走らせずにおかない。ときどき外国の本を取り寄せて活字を追ったりする者として、いま篠吉の心中にひろがりつつある震えを捕まえてくれるような言葉にはなかなか出会えないと感息したくなる反面、いやそんなはずはない、新鮮な狼狽を現実に味わうのでなく言葉で伝えるにはどう生きたらいいのかを思いめぐらす文学は、国を問わずどこにだってあるのではないかとの想いもつのる。


■ダメダメ男である自分には、あまりに身分不相応な美人で出来た妻。どうしてこの女は俺の女房になったのだろうか?

こういう不安を、男は昔から抱くらしい。島村利正の「暁雲」を読んでぼくがまず思い浮かべたのは、昔話の「きつね女房」だ。「つる女房」や「雪女」似たような話か。あと、最近読んだ短編小説では「顔」がかなり近い。ぼくは Twitterでこう書いた。

昼休みに『八月の暑さの中で ホラー短編集』金原瑞人編訳(岩波少年文庫)より、「顔」レノックス・ロビンスンを読む。夕暮れどきや月明かりの夜に崖の上から腹這いになって湖面を覗くと、水面下に金髪で目を閉じた女性の白い顔がくっきりと見える。この短編はいいなあ。怖くはないが、しみじみ哀愁。(Twitter/ 6:24 PM Sep 6th webから)

島村利正の「暁雲」には、そうした遙か昔からの民話的・神話的夫婦関係の妙を描きつつ、妻と夫との力関係の均衡がドラスティックに変わる瞬間を見事に切り取ってみせるその手腕は、決して古風で時代遅れの作家にはできない、島村利正の普遍性、同時代性ではないかとぼくは思った。


■昭和19年に発表された傑作「仙醉島(仙酔島)」には3組の夫婦が登場する。1組目は、この小説の主人公である老婆「ウメ」と、その夫「亀太郎」。2組目は、遠く故郷を離れ行商の途上に信州高遠の街道筋で行き倒れで死んだ旅商人の岡野信吉と彼の故郷福山に残してきた妻。そうして3組目は、ウメが岡野の遺族を訪ねて孫である著者と共に福山へ行った際に、近くの瀬戸内海に浮かぶ仙醉島を観光することになり、島へ渡る渡し船の船頭とその妻だ。

その船頭夫婦のやり取りを見ていて、ウメは、苦労ばかりさせられた、どうしようもないダメダメ夫「亀太郎」のことを思い出す。そうして、「あれでいいのだ、あれでいいのだ」と、老船頭夫婦に声をかけたくなる気持ちになるのだった。このラストがいい。

つまりは、ウメは苦労ばかりが続いてきたに違いない己の人生を振り返って「これでよかったのだ、これでよかったのだ」と肯定しているのだ。島村利正の小説はどれも、人生の肯定感に満ちているような気がする。だから、読者は読み終わってから、おいらも明日からがんばって生きて行こうかなって、前向きな気持ちになれるのだ。

島村利正の魅力は、そこにあると思う。

2010年10月 2日 (土)

『白鍵と黒鍵の間に』南博(小学館文庫) その2

■続きを書こうと思ったのだが、肝心の文庫本が行方不明だ。困ったぞ。ま、いいか。

この本を読んで僕がシンパシーを憶えるのは、主人公の南博氏にではなくて、彼の周囲で蠢く「ダメダメ人間たち」だ。

例えば、銀座のクラブで生演奏していた彼の上司のバンマスたち。終戦直後のドサクサに紛れて、米軍キャンプでのハワイアンのクラブ演奏を足がかりに、長い下積み生活を経てバブルの銀座で確固たる地位を築いた(と本人は思っている)バンマスたち。

音楽のプロフェッショナルなのに、誰一人ぜんぜん聴いてはいないクラブの空間で何十年も毎日来る日も来る日も演奏し続けてきた。そういうバンマスを、彼(南博氏)は一応は敬いながらもどこか軽蔑している。ぼくは、そんなくだりをを読みながら、しみじみ悲しくなるのだった。

まだ若い南氏が、ただただ日常を流しているだけにしか見えないバンマスを見る目は、ぼくが医者になって2年目に感じた、当時勤務していた総合病院の小児科部長に感じていた「不満」そのものだ。なんだ、この人は偉そうなこと言ったって、所詮は何の実
力もない「風邪しか診れない医者」じゃないか! ってね。

しばらくして、それはとんでもない間違いだったと未熟な僕は気付くことになるのだが、それはまた別のはなし。


で、あれから30年が経って、当時の小児科部長の年齢を超えた僕はしみじみ思うのだった。当時、偉そうにあぁ言ってた自分が「風邪しか診れない医者」そのものであるという現実を。それはそのまま、例の銀座のバンマスたちに重なるじゃないか。(ここで、白衣のポケットに入ったままになっていた文庫本を発見!)


当時の南博氏は、CMで急に有名になったハンク・モブレイの「リカード・ボサ・ノヴァ」を、連日何度もリクエストされて辟易したという。






YouTube: Hank Mobley - Recado Bossa Nova


YouTube: Eydie Gorme The Gift!(Recado Bossa Nova)


でも、それを嫌な顔ひとつせずに、その都度新鮮な気持ちで同じ曲を演奏するのが本当のプロなんじゃないか? ぼくはそう思うぞ。だって、開業小児科医の日常は、まさに「それ」だからだ。

下痢した子が来れば、どんな食べ物を与えたらいいか丁寧に話し、赤ちゃんが初めて高熱を出してあたふたしている若いお母さんに「心配しなくていいよ、おかあさん。最初の試練だけれど、これを乗り越えると、子育てのランクが一つ上がるからね、がんばって」と、昨日とまったく同じことを言っているぼくがいるのだよ。


南氏は「厭きる」と言った。でも、ぼくは厭きることはない。たぶん、彼の上司のバンマスも、そう思っているに違いない。ぼくはそう思うぞ。それを、アーティストとしての自らの誇りや向上心を放棄して、生ぬるいバブルの銀座で日々惰性だけで演奏しているから「厭きる」ことがないのだと南氏は考える。

だから彼は、このまま銀座でピアノを弾いていたら、ただただ腐って朽ちていくに違いないと感じたのだろう。


彼は、菊地成孔氏が盛んに引用する「バークリー・メソッド」で有名なジャズ・アカデミーの最高峰、ボストンにあるバークリー音楽大学への留学を決意するのだった。ボブ・マーリィの歌のタイトル通りの、まさにバブルの銀座ぬるま湯ダメダメ人生からの「エクソダス」だったワケだ。その圧倒的な決断力と実行力には素直に感服するしかないや。いや、凄い。


そういったリスペクトでもって、当時の銀座で蠢いていた人たちがちゃんと南氏の渡米を祝福するシーンが泣かせる。バンマス曽根さんの義理の兄で「そのスジ」の中堅格、このあたりのシマを取り仕切っている「兄貴」に、「やめさせてください。アメリカにいって勉強してみたいのです。僕にチャンスをください。」と、南氏は正直に告白する。それに対する「兄貴」の対応が泣かせるじゃないか!(p315〜317)


この場面は好きだな、いいなぁ。


なんだ、あーだこーだ文句を言いつつも、結局は著者の生き方にすっかり魅せられてしまったんじゃないか、ダメダメ人間の俺。


■ところで、ぼくは南博氏のピアノ演奏を生で一度だけ聴いたことがある。「ここ」の下の方にスクロールしていくと「森山威男カルテット・ハッシャバイ」の項目があるが、その終わりのあたりに、1996年の夏の終わりに、長野県富士見高原スキー場で行われたジャズ・フェスティバルのことが書いてある。南博さんの「プロフィール」を見ると、1996年、南博QUARTET にて、八ヶ岳 THE PARTY PARTY に出演。とあるのがそれだ。

新宿ピットインのマネジャーを長く務めた龍野さんが、故郷の山梨県に帰ってから始めたジャズ・フェスの、富士見町に場所を変えての一回目だったと思う。当時ぼくは、富士見高原病院小児科の一人医長だった。

ただ思い返すに、ゲスト・ヴォーカルで登場した「綾戸智絵」のパフォーマンスがあまりに凄すぎて、南博氏のピアノがオーソドックスで端正なピアノだったことしか印象に残っていないのだ。ごめんなさいね。CDでは、菊地成孔氏とのデュオ演奏が納められた『花と水』を持ってて、深夜しみじみ落ち着きたい時なんかに、時々聴いてるよ。


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