『音楽家 村井邦彦の時代』(その2:『キャンティ』の続き)
すっかり更新が遅れてしまいました。
なんと、大晦日の夜です。石川さゆりが「天城越え」を歌っています。
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■「キャンティ」のことを、村井邦彦氏が書いた文章がある。『村井邦彦の LA日記』(Rittor Music)193~232ページに載っている。
2015年9月27日28日に渋谷 Bunkamura オーチャードホールで開催された『ALFA MUSIC LIVE』のプログラムのために、アルファの始まりから終わりまでを彼自身が書いた「この美しい星、アルファ」という文章だ。
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川添浩史・梶子夫妻もアルファの先祖だ。そもそもバークレイ・レコードへの道筋をつけてくれたのも川添さんだった。イタリアンレストラン、キャンティの創業者として知られているが、レストランは副業で、本業は国際文化交流だった。
川添さんは、1930年代のパリに遊学し、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ・ブレッソンといった写真家を始め、多くの芸術家たちとの交友を深めた。戦争後、日本が独立を取り戻すと、早くも1954年には、舞踏家・吾妻徳穂の「アヅマ・カブキ・ダンス」の団長として一行を率い、ニューヨークを始め7都市のアメリカ・ツアーを成功させた。翌年は10ヵ月かけてイタリア、イギリス、ドイツ、アメリカなどをツアーしている。
イタリアでエミリオ・グレコに師事して彫刻を学んでいた梶子さんと会い、十二単衣(ひとえ)を着て舞踏の内容を手短にイタリア語でナレーションする役を頼んだら、観客に大好評だったので、引き続きパリ、ロンドンでも頼み、結局全行程を共にした。日本に戻って結婚している。
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以前、川添さんは戦前のパリで出会ったピアニストの原智恵子さんと結婚していた。川添象郎・光郎の兄弟は原さんと結婚していた時の子だ。僕は川添兄弟と知り合って高校生の時からキャンティに出入りしていた。梶子さんは(中略)何かと相談相手になってくれた。
川添さんはその後、文楽のアメリカ公演、『ウエスト・サイド・ストーリー』のオリジナル、ブロードウェイ・キャストによる日生劇場の1ヵ月公演など、数えきれないほどのイベントをプロデュースしている。ファッション界では、クリスチャン・ディオールやディオールの後継者でのちに独立したイヴ・サン=ローランを日本に紹介し、梶子さんはサン=ローランの日本代表を務めた。
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僕や川添象郎にはそうした川添夫妻のDNAが流れているから、現代日本のコンピューター音楽、YMOを世界ツアーに出すという発想はごく自然なものだった。細野やユーミンもよくキャンティに来ていた。
梁瀬さん、古垣さん、川添さんご夫妻はそれぞれに個性があったが、共通項を挙げれば、世界中に真の友人を持っていたこと、どの国のどんな人にも等しく接し、正々堂々としていながら、偉ぶるようなことは一切なかったことだ。それで僕のような若輩の者でも、一人の友人として扱ってもらえたのだと思う。持つべきものは良き先輩たちだ。(『村井邦彦 LA日記』p226〜228)
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