木ノ下歌舞伎『勧進帳』(その4)これでおしまい。
■木ノ下歌舞伎は本当に面白かった。ぜひ、別の演目でもう一度観てみたい! そう思った。それから「ホンモノ」の歌舞伎の『勧進帳』を是非観たい、そう思った。たぶん、ちゃんと理解できるような気がしたから。個人的に思い入れが強い「富樫左衛門」がどう描かれているか確かめてみたいから。それに、木ノ下歌舞伎では省略された「弁慶の飛び六方」を見てみたいし。
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松本で初めて見た木ノ下歌舞伎。すごい。凄すぎる。向正面砂かぶり席での観劇。感激した。スタイリッシュでスピード感にあふれ、ラップの歌にダンスもあって、でも確かに歌舞伎の『勧進帳』なんだ。随所で笑わされ、汗ビッショリのリー5世さん演じる弁慶には泣かされた。若い人たちのパワーに感嘆だ。
先週の土曜日に松本で観た木ノ下歌舞伎『勧進帳』に、いまだ捕らわれている。義経が弁慶に手を差し伸べる場面。指先が何とも、凛として美しかったなぁ。それから宴会場面。「皆さん楽しそうですね」という時の富樫左衛門の表情。昨日の「今日のダーリン」を読んでいて、ふと判った。そうか「あはれ」か。
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■『ほぼ日刊イトイ新聞』のコンテンツの中で、何故か「今日のダーリン」だけはアーカイヴスがサイトにない。日々消えてゆくことを目的としたコンテンツだったのだ。
だから、7月18日の「今日のダーリン」を『ほぼ日』のサイトで今現在読むことはできない。仕方がないので、当日の「今日のダーリン」をここに転載して、勧進帳を観た感想の「まとめ」とさせていただきます。
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昨日、海のことについてちょっと書いた。
いちばん最後のところに、しみじみ思って書いたのは、
「海って、あのさみしさが怖いんだよなぁ」だった。しばらく経ってから、これは海だけでもないなと思った。
いろんなものごとには、さみしさが隠れている。
そして、そのさみしさというやつのことを、
ぼくは嫌がっているのではなくて、おそらく、
そこに浸ってじわぁっと快感を感じているのだ。
なつかしいものや、あたたかいものについても、
これは言えるような気がしてきた。
ずっと昔に聴いた歌やら、人にやさしくされたこと、
多くの人が好きだろうとは思うけれど、
それは、どうも、なつかしさやあたたかさ
そのものを求めているのではなくて、
その奥に隠れている、
いちばん根源的なさみしさを探しているのだ。
ぼくらは、人の味覚がさまざま食べものの奥に、
「甘み」を探しているように、
あらゆる好きなもの、好きなことのなかに、
「さみしさ」を発見しては、
それに浸かってじわぁっとしている。
これが、快感というものなのかもしれない。
「さみしさ」が、いちばんの価値なのではないか。
こう言うとずいぶん被虐的に聞こえるかもしれないが、
うれしいだとか、よろこんでるだとか、たのしいだとか、
みんな、そのことそのままの状態では続かないよ。
かならず、「さみしさ」の影とともにあるものだ。この「さみしさ」というのが、
すべての生きものの生きる動機であるような気さえする。
脳細胞のさきっぽのシナプスが、
もうひとつのシナプスに向かって「手」を伸ばす。
そういう動画映像を見せてもらったことがあるのだが、
あのたがいに伸びる手と手というのは、
「さみしさ」がつなげているのではないだろうか。
それを「あはれ」と言ってもいいんだけれど。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夏は、たくさんの人が「花火」のさみしさに会いに行くね。(ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」2016年7月18日 より)
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■ところで、ウィキペディアによると「富樫左衛門」のモデルとなった「富樫泰家」は、頼朝から加賀国の守護に任命されていたのだが、義経・弁慶一行を本人と知りつつ通してしまった時に、たぶん彼はその責任を問われ頼朝から切腹を命じられるに違いないと思っていたはずだ。
ところが頼朝は、富樫泰家の加賀守護の職を剥奪しただけで、殺しはしなかった。彼は後に仏門に入り、奥州平泉を訪れ義経と再会を果たしたという。なんか、後日談としては出来すぎなんじゃないか? ホントかなぁ。
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