小津安二郎と戦争(その1)
■映画監督、小津安二郎の死生観を決定付けたのが、1937年(昭和12年)に盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争である。同年9月に小津は招集され、以後約2年間にわたり中国大陸を従軍し、一兵卒(伍長)として実際に最前線で戦争体験をしたのだ。
その詳細を初めて明らかにしたのが、『小津安二郎周游(上)』田中眞澄(岩波現代文庫)の第8章、第9章だ。『昭和史』半藤一利(平凡社)によると、昭和11年に 2.26事件が起き、その結果、陸軍「皇軍派」は一掃され、陸軍の実権を握った「統制派」の主導により、翌昭和12年7月7日夜「一発の銃声」(本当はかなりの数の銃弾だったそうだが)が演習中の日本駐屯軍に向けて放たれたことを理由に、盧溝橋事件が起こる。
当初陸軍は、蒋介石が率いる中国国民党軍の本拠地であり、実質的な中国の「首都」であった「南京」を落とせば、簡単に日中戦争を完全勝利で終結できると高をくくっていた。ところが、イギリスやアメリカの後ろ盾があった中国軍は思いのほか強かった。
上海での激戦は、日比野士朗『呉松(ウースン)クリーク』に書かれている。日本から大軍を送り込んで、やっとこさ撃破すると、揚子江をさかのぼって、南京へ後退した中国軍を日本軍は追撃に追撃を重ねる。そこで「南京事件(南京大虐殺)」が起こる訳だ。
小津は中国上陸後、呉松(ウースン)に入る。そして南京が陥落した直後に、小津は南京に入城している。1937年12月20日のことだった。
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「小津安二郎と戦争」に関しては、同タイトルの田中眞澄氏の著書(みすず書房)が出ているが、ぼくは未読。田中眞澄氏以外で、小津と戦争との関連を取り扱った人は、ぐぐると案外多い。
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■保坂正康『太平洋戦争を考えるヒント』(PHP/ 2014/6/20)第14章「小津安二郎と『戦争の時代』」
■茂木健一郎「日常が底光りする理由」(文學界 /2004年1月号所収)
■ガディスの緑の風さん:小津安二郎における戦争の影響 - 追悼の陰膳
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