カマシ・ワシントンの続き(その5:これでおしまい)
■前置きが長くなりすぎて、すでに飽きてしまった感はあるが、ようやく本篇です。
『THE EPIC』(CDの帯には「ザ・エピック」と書いてあるけれど、「ジ・エピック」じゃないのか?)の、音楽評論家:高橋健太郎さんの評。
こちらは、沖野修也氏のカマシ・ワシントン評。
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そうなんだよなぁ。何か革新的な音を目指しているんじゃなくて、むしろ懐かしい、1970年代のレトロな響きがする。例えば、『ブラック・ルネッサンス』みたいなレコード。ブラック・パワーに充ち満ちていて、自信にあふれ、大らかで、ソウルフル。そして何よりも、聴いている者の心の奥底まで深く到達する音楽。つまりは、スピリチュアルであるということなんだ。
それに、とにかく聴いていてカッコイイ!
個人的お気に入りは、何と言っても CD2枚目の「Volume 2」だ。特に1曲目とラストの6曲目が熱い。リズムセクションが、僕の大好きなエリック・ドルフィーの『ファイブ・スポット vol.2』A面「Aggression」での、マル・ウォルドロン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、エド・ブラックウェル(drums)みたいだからだ。
特に6曲目「The Magnificent 7(荒野の七人)」での Cameron Graves のピアノ・ソロが熱い。最初は、ジョン・ヒックスみたいな感じで始まって、そのうちにドロドロと音がうねりはじめ、あのファイブ・スポットでのマル・ウォルドロンが憑依したかのような異様な盛り上がりを見せる。
それから、サンダーキャットのベース・ソロがこれまためちゃくちゃカッコイイぞ!
3曲目「Re Run」もいい曲だ。3枚目では、アレンジを変えて「Re Run Home」としてもう一度演奏されるが、これまたカッコイイ。あと、1枚目の「Change of the Guard」「Askim」も、もちろん好きだ。
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[live video] カマシ・ワシントンによるKCRWでの30分強のライブ映像
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■それにしても不思議なのは、ロバート・グラスパーたちが推進する「今ジャズ」とは明らかに違う方向(どちらかと言えば後ろ向き)を、カマシ・ワシントンが目指していることだ。それに何よりも、ニューヨークではなくて、ロサンゼルスで録音されている、いわゆる昔でいうところの「ウエスト・コースト・ジャズ」なのだ。今までのジャズの歴史に則していうと、最先端の音を発信する場所では決してなかった。
でも案外、この「西海岸発」っていうキーワードが重要なのかもしれない。
例えば、ストラタ・イーストやインパルス・レーベルで隆盛を極めた「70年代スピリチュアル・ジャズ」を80年代初頭にリバイバル・ヒットさせたのが、ファラオ・サンダース『ジャーニー・トゥ・ジ・ワン』(Theresa)であり、このレコードは西海岸のサンフランシスコで録音された。テレサは、サンフランシスコの地元にあるマイナー・レーベルで、実はファラオ・サンダース自身がサンフランシスコの出身だったのだ。
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■カマシ・ワシントンもロサンゼルスの出身だ。父親も西海岸で活躍する、ジャズ・サックス奏者だった。しかし、ウィントン・マルサリス音楽一家とは違って、決して裕福な家庭ではなく、LAでもランクの低い地域(サウスセントラル)に居住していたらしい。そのあたりのことは、以下のインタビュー記事に詳しい。
インタビュー記事に登場する名前でポイントとなるのは、フライング・ロータスとケンドリック・ラマーだ。二人とも、ロサンゼルスの出身で、フライング・ロータスは、ジョン・コルトレーンの2番目の妻(最初の奥さんはナイーマ)であるところの、アリス・コルトレーンの妹の息子にあたる。つまりは、伯父さんがコルトレーンという出自。凄いぞ。
フライング・ロータスが「今ジャズ」に接近した『ユーアー・デッド!』と、ロバート・グラスパーやクリス・デイヴらの「リズムのとらえ方の違い」関して、『ミュージック・マガジン 2014/12月号』(特集:2010年代前半の洋楽大総括!)誌上において、高橋健太郎氏はこう書いている。
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(前略)新世代ジャズ・ドラマー達に共通するのは、クラブ・ミュージックに強い影響を受けてきたことだ。あるいは、このクラブ・ミュージックはマシーン・ミュージックと言い換えてしまってもいい。
人間のドラマーがマシーンのドラムを真似て演奏する、という現象は、遡れば1990年代のドラムンベースに始まる。(中略)
そこでよく話題になるのが、ア・トライブ・コールド・クエストやファーサイドなどのトラックメイカーであった故J・ディラからの影響だ。端的に言えば、微妙にタイミングをズラしたドラム・マシーンとフレーズ・サンプルの組み合わせで官能的なグルーヴを生み出したディラのトラックメイキングが、ドラマー達に新しいインスピレーションを与えたということだ。(中略)
ともあれ、プログラミングされたズレのあるビートを生のドラミングに移し替えることが、新しいジャズの潮流を生み出しているのは間違いない。(中略)
ディラのようなトラックメイカーはトライ&エラーを重ねながら、絶妙なズレを生み出した。現代のスタジオ作業ではDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)上の常に「グリッド」は見えているが、そのグリッドには従わず、任意のタイミングでサンプルを重ねた時のズレこそに、粋なグルーブを見出す。(中略)
だが、人間のドラマーは、適当な塩梅でズラすのが粋、では仕事にならない。なぜなら。彼らの他のミュージシャンと合奏せねばならないからだ。ゆえに、ディラのようなビートを叩くといっても、そのズレをグリッド上で再定義して叩くことになる。
ドラムンベースは2の倍数で小節を割るだけだったが、クリス・デイヴのようなドラマーは3の倍数でも割ったポリリズミックなグリッドを持つ。(中略)
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(フライング・ロータスが)2010年の来日時に、僕は朝日新聞にこんな彼のライヴ評を書いている。
「うわものとなる生楽器等がなくても、即興的に生成されるリズムの自由度が強烈にジャズ、あるいはフリー・ミュージックの精神を感じさせる。思いがけない展開の連続ながら、一瞬の隙もなく、スムースに変異していくのにも驚かされる」
ラップトップ1台で演奏している時でも、フライング・ロータスの音楽は強烈にジャズ的であり、その根源は変異していくリズムにある、ということを言っているのだが、その論は現在でも有効だと思う。
さらに言えば、そんなフライング・ロータスは、グリッドに囚われない音楽を志向している、というのが僕の基本的な考えだ。(中略)
フライング・ロータスと「ある感覚」を共有して、演奏に参加しているのは、たぶん。盟友サンダーキャットだけではないだろうか。
その感覚とは何よりも空間に関わるもののように思える。短い曲のいずれもが、ある特異な空間をくぐり抜けていくような体験をもたらすからだ。そこに入った瞬間に目眩がするような歪んだ感覚に囚われるので、40秒でも強烈なインパクトがある。
気持ち悪くなるギリギリくらいの定位/位相/残響などのミックス処理が効いているが、その空間感覚のオリジンを考えていくと、伯母のアリス・コルトレーンの音楽に行き当たったりもする。(中略)
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話を「グリッド」に戻すならば、音楽においては、時間に関わることと空間に関わることは不可分でもある。音楽の時間軸をグリッドで考えず、非グリッド的に作っていく、ということが、空間の構成も変える。フライング・ロータスとサンダーキャットは優れて、そこに意識的なサウンドメイカーであるようにも思える。(中略)
そういう意味では、それはヒップホップからの影響を咀嚼し、グリッドを再定義して進む「新しいジャズ」への批判としても成り立っているように思う。ジャズ・ミュージシャンを多く招き入れながら、彼らの演奏を使って、違うコンセプトの音楽を聞かせる。
ジョン&アリス・コルトレーンの甥が、ジャズが持っていたスリルを備えているのはどっちだ? と問うている。(『MUSIC MAGAZINE / December 2014』p46〜49)
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