『コルバトントリ』山下澄人(文藝春秋)を読む(その3)
■前回の「佐々木敦 × 山下澄人『鳥の会議』をめぐる対談」は、本当に面白かった。こうして、YouTube で見る山下澄人氏は、不思議と何処か懐かしい。
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誰かに似ている。
そう、同じ兵庫県出身の人。
映画監督! 大森一樹? いや、
作家でさ、そう! 中島らも だ。
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声がね、いいんだよ。声が。山下さんは役者さんだから、腹式呼吸なんだ。腹の底から声を出している。でも、ちょっとだけ遠慮がちに、小さな声で。そこがね、「中島らも」なんだと思う。
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■最近また、ラジオをよく聴くようになった。しかも、TBSラジオ。ぼくが中坊だった頃、毎晩聴いていたラジオ局だ。特に、この10月から始まった「Sound Avenue 905」に注目して聴いている。佐野元春さんも、鈴木慶一さんも小西康陽さんも、みな「声がいい」。林美雄アナもいい声だった。やっぱり、ラジオでは声は大事。
それから、同じTBSラジオで金曜深夜24時から始まる「菊地成孔 粋な夜電波」もよく聴く。ちょうどいま、最近文庫で出たばかりの『時事ネタ嫌い』菊地成孔(文庫ぎんが堂)を読んでいるのだが、文章が、ラジオから流れてくる菊地さんの「話ことば」そのままなので、目で活字を追いながらも、菊地成孔さんの声を聴いているような不思議な感じがするのだ。
『コルバトントリ』でもおんなじで、山下澄人さんが音読しているイメージで再読してみると、これがすごくいいんだ。短いセンテンスが積み重なって、独特のグルーヴ感を生み出している。視点も場所も時間さえも、次々と目まぐるしく入れ替わって、でも読者を厭きさせずに引っ張ってゆくパワーがあるのだ。
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■『コルバトントリ』を読みはじめて、何故かすっごく懐かしい感じがした。1970年代の感じ。そうだ、つげ義春の『ねじ式』を初めて読んでビックリした時の印象に近い。それから関連して思い出したのが、佐々木昭一郎の『夢の島少女』だった。
『夢の島少女』は、斬新な映像、カット割り、手持ちカメラによるドキュメンタリー感、めくるめく幻想的なイメージの連続で、40年以上も前の作品なのに、いま見てもまったく古びていない。ていうか、今じゃもう絶対に作れない。
リンクした「映★画太郎」さんと同じく、ぼくも最初から少女は死んでいて、あとに続くのは、すべて少年ケンの脳内イメージなんだと思った。少年にとって、少女は「あらかじめ失われた恋人」だったんだ。『コルバトントリ』も同じだ。フラッシュバックのように、不連続に次々とイメージが去来するさまは、年老いて死期が近い主人公の「脳内イメージ」なんじゃないか?
だから、すでに死んでしまった人たちがみな生きて登場するのだ。さらに『コルバトントリ』は視覚的イメージに富んでいて、映画的カット割りを連想させる。ラストシーン。水族館でのシャチが飛び上がるところは、たむらしげるの絵本『クジラの跳躍』だ。
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■保坂和志『未明の闘争』(講談社)は、半分まで読んだところで止まったままなのだが、保坂氏は「この小説」で挑戦しようとしたことが「2つ」あるんじゃないかと思った。
ひとつは、犬や猫の意識で小説を書いたらどうなるか? ということ。犬は「いま」だけを生きているといわれる。ただ、いまの瞬間だけではない。犬だってちゃんと記憶力はあるから、昔のことも憶えている。でもそれは、過去の出来事という意識ではなくて、犬にとっては「ずっといま」なんじゃないかって、ぼくは思うのだ。『未明の闘争』も「ずっといま」が続いている話だ。
もうひとつは、保坂氏が大好きなデレク・ベイリーのギター演奏のように小説を書くことは可能か? ということ。
フリー・インプロヴィゼイションの巨匠、デレク・ベイリーの演奏では、普通の音楽でよく出てくる音階、音列は意識的に一切排除されている。フリーといっても、もちろんデタラメではない。むしろ意味のある音楽にならないよう、瞬間瞬間を即興で音を選ぶ作業は、もの凄い高等テクニックが必要なのに違いない。
保坂和志氏の対談の様子とか聴いている(もしくは『音楽談義』を読んでいる)と、ものすごく頭の回転が速い人で、細かな記憶も確かで、インテリジェントの非常に高い人であることが直ちに分かる。しかも、ずっと小説のことを考えてきた人だ。
そんな保坂氏が、決して読者を飽きさせることなく、緊張感を維持して即興的に文章を綴っていく作業は、デレク・ベイリー以上に大変であったに違いない。だって、最終的には文学作品として完成させなければならないのだから。
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そんな保坂氏の試みを、山下澄人さんは、たぶん何も考えずにいとも簡単に成し遂げてしまったんじゃないかな。ぼくはそう思った。
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さて、とりあえず、『鳥の会議』山下澄人(河出書房新社)は読まねばなるまい。
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