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2014年9月14日 (日)

「演劇の時間」 太田省吾『舞台の水』(五柳書院)より

■錦織のUSオープン決勝戦が見たくて、ネットで WOWOW視聴契約をした。2日前だったが、すぐに見ることが出来た。決勝戦は残念だったけれど、準決勝のジョコビッチ戦も録画できてよかった。

それにしても、WOWOWは3チャンネルもあって、そのコンテンツの充実ぶりには驚くばかりだ。10月には、先達て PARCO劇場で観てきたばかりの芝居『母を欲す』の舞台中継を放送するらしい。さらに、同じ時に渋谷シアターコクーンで上演していた『太陽2068』も放送するそうだ。早いな。

■ただ、テレビで見る「舞台中継」ほどつまらないものはない。DVDでも同じだ。何故なんだろう?

そこに映っているものが、実際に劇場へ足を運んで、ナマで体験した舞台とは似ても似つかぬ代物になってしまっているからだ。テレビや映画のようなカメラワーク(役者のアップや、スピーディなカット割り)が過剰でおせっかいなことが原因なのか? とも思っていたのだが、正面から引きの固定画像がほとんどの「落語のDVD」も、CDで聴くのと違って、案外ちっとも面白くないから、もっと根本的な問題があるのだろう。

「臨場感」:演者と同じ場所、空間に観客として「いま・ここ」でいっしょに参加している、同じ「場」の空気を皆で同時に吸ったり吐いたりしている(同じ場面で笑うためには、その前に息を吸っておかないといけない)感覚。テレビでは「それ」が味わえないからなのではないか。

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むかし買った演劇関係の本を納戸で探したがあまり残ってなくて、転形劇場主宰・太田省吾の本が3冊と、『別冊太陽 現代演劇60's〜90's』(平凡社)が見つかっただけだ。もっと小劇場関係の本もあったように思ったのだが、みんな処分してしまったのか。

この「別冊太陽」の47ページに、「演劇の時間」と題された太田省吾氏の印象的な文章が載っていた。ネットで調べたら『舞台の水』太田省吾(五柳書院)p29〜p31 に収録されている。この本は持ってなかったので、ネットで古書を探して早速手に入れた。便利な時代になったものだ。

そこには、とても大切なことが書かれていたのだ。

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          「演劇の時間」   太田省吾

(前略)劇場に人々がやってくる。そして幕が開き、芝居が演じられ、幕が下がり、人々が散っていく。---- あれは一体なんだったのだろう。演劇にはそう思わせるものがある。舞台をつくる者と観客、その数百人の人々が劇場という一定の場所に集まり、一定の時間を共有する。これは何ごとかである。しかし、あとに残るものはなにもない。終わると同時にあとかたもなくなる。

 台本は残る。あるいは、ビデオや写真をつかって記録を残すことはできる。それらによって、作品としての構成やその性質を記録することはできる。しかし、どうしてもその記録では記録できないものがある。いわば、あれは一体なんだったのだろうと思わせるところが記録できない。終わると同時にあとかたもなくなるところがビデオには写らない。(中略)

 フィルムやビデオテープに写らないもの、それを自意識の再認識の発端とすると、演劇はその写らないところ、<今ここで>を生きる場にするものだということになる。

<今ここで>とは、生(なま)の時間ということだ。要約できないし、記録できないもののことだ。私は、演劇とはこういう時間に触れようとする望みのものだと思っている。(中略)

 しかし、表現が生(なま)の時間に触れるのは難しい。一切の要約、一切の概念化なしの表現など不可能だからだ。わたしたちの目は、あらゆるものごとをまず概念化する目だ。あるものに目をやる時、わたしたちはそれの名や意味を見、それでそのものを見たことにしている。バラを見る。ああバラだ、きれいだ、でバラを見たことにしている。

 わたしたちの生活は、だいたいこの目で生きていける。だが、それでは見たことにならないものごとにぶつかる時がある。その時、わたしたちはその前で立ち止まらなければならない。

 立ち止まり、それに近づき、時間をかける。その時、わたしたちは概念化の目によって名や意味に要約できないものと出会う。こういった時ではないだろうか、わたしたちが生(なま)の時間、<今ここで>という時間をもつことができるのは。(中略)

 概念化され、要約して生きるわたしたちは、しかし概念化し概念化され、要約し要約されることを拒みたいのだ。言いかえれば、わたしたちは時間に触れたい、時間を見てみたい。殊に、時間の最も時間たる時間、現在という生の時間、<今ここ>が欲しい。それはわたしたちが死ぬ者だからだというのは話のとばしすぎだろうか。

 生まれ、生きることは何ごとかだが、死と同時にあとかたもなくなる。あとかたもなくなるところがわたしたちの生(なま)の生だ。そのわたしたちの生を肯定したい。概念化や要約を拒まなくてはならないのは、その肯定にとって死活問題と言ってよい。演劇は、案外遠くなく、わたしたちのそんなところと血脈を通じているのかもしれない。

  『別冊太陽 現代演劇60's〜90's』p47(平凡社)1991年3月

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■劇作家の宮沢章夫氏は、ブログ「富士日記2.1」2010/07/26 の中で、太田省吾『舞台の水』の中から上記「演劇の時間」と「演劇は本当にライブか」(p32) に言及している。あと、『あるとき太田さんが「演劇は詩に近い」という意味のことを話していた。』と書いてあるのは、「演劇とイベント」(p76) の内容と呼応している。さらに、「この本」の帯にはこう書かれているのだった。

 痛み、怖れ、ためらい、はじらい、おののきから

 演劇は生まれる。 

 喜怒哀楽は表現ではない

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