師匠とその弟子の関係は連鎖して行く(その2)
■宮沢章夫『彼岸からの言葉』(新潮文庫)と同様、初めての著書となった『大人失格』松尾スズキ(知恵の森文庫)は過剰な意気込みに溢れている。それでいて、妙に醒めた自虐的視点が同居していて、すでに「松尾スズキのすべて」という内容になっているから驚く。
■まずはその「松尾スズキ」という、名字が2つ連なったような変な名前の由来。『大人失格』の「あとがき」(p246)にちゃんと書かれていました。
1)スズキは本名ではありません。
2)魚の「スズキ」が、人の名前みたいで面白いなーと思っていたので、なんとなく。まあ、本名が「勝幸」なんて、凄く意味のある名前なんで、人前に出る時は、なんかなるべく意味薄い名前がいいなと思って、パッとつけた訳で。特にウケを狙っているとかではないのですよ全く。極力その、「いきごみ」を感じさせたくないなと。名前ごときで。
ということはだ。「北尾トロ」氏と同じようなネーミングな訳ね。不思議だなぁ。2人とも福岡県の出身で、1988年頃から「その名前」が世間で知られるようになる。どっちが先に命名したのだろうか? ちょっと気になる。
■松尾氏は、1970年代の学生時代から東京でサブカルを満喫してきたとばかり思っていたのだが、そうではなかった。松尾氏は大学時代を故郷の北九州で過ごしていたのだ。当時は漫画研究会と演劇研究会に所属していたという。
聞いた話によると、大学時代の松尾氏はTBSラジオの深夜放送「那智チャコパック」の常連投稿者だったという。「北九州の黒タイツ」と名乗ってたんだって。スゴイな。関係ないけど、ぼくも一度だけ「那智チャコパック」の「お題拝借」で読まれたことがあるぞ。えへへ。
松尾氏は 1962年生まれだから、ぼくより4つ下だ。彼は大学を卒業した後、生涯2度目の上京をする。入居したアパートの両隣の入居者だけでなく、1階2階すべての住人に引っ越しの挨拶として 1000円の辛子明太子を配って廻ったという。なんか、泣ける話だ。田舎者まるだしじゃないか。「23歳で上京してしまったあなたへ」「会社の辞め方」「距離のテロリズム」(p193)より。
■上京して就職した印刷会社を辞めたあと、松尾氏は女のヒモとなってプータロー生活を続ける。
25歳から27歳までの三年間、私の生活どうひいき目に見ても、立場としてはヒモだった。立場って、ヒモに立場なんかない訳ですけどね。
就職した会社を10ヵ月で辞め、乏しいイラストの仕事と失業保険で一年はなんとかなっていた。それが24の時。
保険も切れ、貯金もなくなり、持病の肩こりに負け手抜きが始まったため、イラストの仕事もパッタリ途絶えた25歳。大抵の人が「何者かになっている歳」で、私は何もかも失っていた。
あの3年間、私はいったい何をしていたのだろう。
それでも26、27の時は「芝居に専念していた」と言い訳はできる。そこからラジオやシナリオの仕事がポツポツ入り始め、なんとか自分の食いぶちくらいは稼げるようになったのだ。
問題は25の頃だよ。何だったんだろうなあ、あの一年は、と今でも思い出そうするのだが、殆ど記憶が定かでない。(『大人失格』p230〜231)
■松尾スズキ氏が宮沢章夫氏に会いに行ったのは、この頃(26歳)だったんじゃないか? 当時のことが『彼岸からの言葉』宮沢章夫(新潮文庫)の「解説」に載っている。
さらに、松尾氏が「解説」を書いた『茫然とする技術』宮沢章夫(ちくま文庫)を読むと、こんなふうに書かれていて、思わず笑ってしまった。
「解説 ポケットに 20円」 松尾スズキ
かつてポケットに 20円しか入ってなかった男。
として、たまに宮沢さんのエッセイに登場させてもらっている松尾というものです。と、胸を張らせていただきます。ほんとに私はその頃、20円しか持っていなかったのだから。(中略)
20円しか持っていなかったばかりか、まだ上京したてで、東京そのものにびくついていた(地下鉄の長いエスカレーターとか、凄く怖かった)頃の私がである。鞄もなく東急ハンズの袋に物を入れて持ち歩いていた私がである。
果敢にも当時テレビのスタア構成作家であった宮沢さんに単身会いに行ったのは、ひとえにその才能に惚れ込んでしまったからでありました。当時宮沢さんはシティ。ボーイズや竹中直人らを擁する『ラジカル・ガジベリンバ・システム』というユニットの座付き作家であり、そりゃあもう、そおりゃああもう、狂ったようにおもしろい舞台を矢継ぎ早に発表していた時期だった。(『茫然とする技術』p320〜321)
■宮沢章夫氏は「200円」って書いているのに、20円しか持ってなかったと告白する松尾氏が可笑しい。師匠はたぶんちょっとだけ松尾スズキの自尊心に遠慮して「200円」と書いたのに、当時芝居の稽古に通う電車賃が工面できず、遅刻ばかりしていた松尾氏のポケットには、たぶん本当に「20円」しか入ってなかったのだろう。
ところで、宮沢章夫氏が「最も嫌う」のが「紙袋をぶらさげている人」(p114「バナナが一本」『牛への道』宮沢章夫・新潮文庫)だってことを、知っていたのだろうか? 当時「東急ハンズ」の紙袋を下げて宮沢氏に会いに行った松尾スズキ氏は。
たぶん、宮沢氏の松尾氏に対する第1印象は最悪だったんじゃないか?
だって、具現化した「貧乏」と「紙袋」だったワケだから。(もう少しだけ続く)
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