師匠とその弟子の関係は連鎖して行く(その3)
■師匠に弟子入りするということは、例えば落語家の場合「弟子にして下さい」とお願いに行き、師匠から入門を許され師匠宅での弟子入り修行が始まる訳だが、松尾スズキ氏の場合、宮沢氏の劇団に所属して何年も行動を共にしてきたワケではなかった。【『茫然とする技術』宮沢章夫(ちくま文庫)解説より、前回の続き。】
果敢にも当時テレビのスタア構成作家であった宮沢さんに単身会いに行ったのは、ひとえにその才能に惚れ込んでしまったからでありました。(中略)
どこかのテレビ局の会議室で机を挟んだ状態で硬直しつつ「宮沢さんの演出を受けてセンスを盗みたいんです!」と言ったら「センスって生まれついての物じゃないか?」と返され「ん、いや、なにが『やってよいこと』でなにが『やってよくないこと』かは学ぶことができると思うのです」とつっぱると「ふうん、なるほど」と数秒間考えるふりをしていただいた、といった数分間の面接がファーストコンタクトでした。
宮沢さんは忘れているかもしれないが、私は鮮烈に覚えている。だって、東京で初めて出会ったスタアなのだから。そりゃあ、覚えていますとも。(中略)
それほどに宮沢さんはかっこよかった。まあ、二十円しか持ってないものに比べれば、たいがいの人はかっこよかろうものだが、とにかく私にとってスペシャルな存在だった。
役者として採用されたものの電車賃の工面がつかないために遅刻を繰り返すだめな問題児だった私に、「茫然」としながらも「泰然」と接してくれた宮沢さんの視野に入るよう、私は毎日演出席の隣に陣取り続けた。ほかの役者に煙たがられても知ったことではなかった。
(中略)私が台詞をいうたびに椅子からずっこける真似をされていたが、今の私でも当時の私の台詞に同じリアクションをするだろう。激しく下手だったのだ。緊張して全然輝けない状態のまま楽日を迎えた。
ああ、終わったあ。と思った。
しかし、次の私の公演を宮沢さんは観に来てくれて、あろうことか、大人計画の旗揚げ公演となるそのとてもつたない芝居の劇評を雑誌にでかでかと取り上げてくれたのだ。そっから先の長いつきあいは、いろんな雑誌に書いているので割愛させていただくが、とにかくなにかと公私にわたって世話になった大切な恩人の一人であることには間違いない。
かなりしばらくして私は岸田戯曲賞という有名な賞をいただいた。それまで演劇界からまったく無視されていただけに凄くびっくりした。
受賞会場で宮沢さんはこんな素敵なスピーチをくれた。
「僕が一番最初に松尾君を見つけたんです。ざまあみろです」
宮沢さんはマスコミで「俺が松尾を育てた」みたいなことを言うことはまずなく、そのストックな温度の低さこそ「宮沢的」なのであるが、その時少しだけ温度を感じました。(松尾スズキ『茫然とする技術』宮沢章夫(ちくま文庫)解説より)
■ 松尾スズキさんが宮沢章夫演出の舞台に立ったのはたったの1回だけだったのだ。その芝居、カジビリバンバ2号 ナベナベフェヌア第一回公演『電波とラジオ』がシアタートップスで上演されたのは、1988年7月17日〜 とある。そのすぐ後には、もう大人計画の旗揚げ公演になるのか。
そうなると、文字通りの意味での「師弟関係」とまでは言えないわけなのか。
だから、宮沢氏は松尾氏のことを「知人」といい、松尾氏は宮沢氏のことを「恩人」というのか。でも、なんか「ものすごくいい話」なので、長々と勝手に引用してしまいました。
■さて、師匠と弟子の関係は次の世代へとバトンタッチされてゆく。
松尾スズキの弟子として、いま一番に注目されているは、やっぱり星野源なんじゃないか。
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