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2013年6月23日 (日)

その後の『あまちゃん』について考える(その2)

■このTVドラマ評論家で女性作家の山下柚実さんの「あまちゃん評」

『カーネーション』では岸和田商店街と近所の人々の暮らしぶりが丁寧に描かれていたのに、『あまちゃん』では北三陸市の街並みや生活感がないっていう。でも、何か違うんじゃない?


■基本、朝ドラはスタジオ収録される。ただ『カーネーション』の時は、同時期に松下幸之助のドラマとかも収録されていて、京都のオープンセットが例外的に贅沢に使用できたのだ。

いつもの朝ドラでは、ヒロインと周辺の登場人物たちが「常に集う場所」が必ず設定されている。『ちりとてちん』で言えば、キム兄ぃの『寝床』だし、『純情きらり』なら、あのアパートの集会室だ。

そして『あまちゃん』では、北鉄駅構内の喫茶&スナック「リアス」が正に「そこ」なワケね。東京編での「そこ」は、松尾スズキがマスターを演じる喫茶店と、『おひさま』で軍事教練担当の代用教員を熱演したピエール瀧が『ど根性ガエル』の梅さんみたいな寿司屋の大将で登場するのだが、その寿司屋が「そこ」となることは間違いない。


■そういうことなんかを思い出してたら、宮藤官九郎が「過去の朝ドラ」を研究し尽くしていることにふと気づいて驚く。

「へたれ」のヒロインが、勢いだけで家族と離れて福井の田舎から上京(上阪)し、偶然出会った師匠の元で兄弟弟子とともに落語家修業に励むのが『ちりとてちん』だった訳だが、『あまちゃん』も基本構造は同じだ。

「おかあさんみたいになりたくないの!」そう捨てゼリフを残して大阪行きの列車に乗るヒロイン。車窓からふと外を見ると、母親(和久井映見)が屋外カラオケ大会で、五木ひろしの『ふるさと』を熱唱している。

その後ろ。河の土手を、叔父さんの小次郎(京本政樹)が大きな大漁旗を振ってヒロインを見送っている。今日の『あまちゃん』を3回見た後になって、そのシーンをようやく思い出したよ。いや、パクリだとか批難したいんじゃないんだ。

じつに上手いこと、王道路線を踏襲しているなと、感心するのだった。


■能年玲奈の魅力に関しては、『東京ポッド許可局』(売れない文系芸人、マキタ・スポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオの3人が、毎週土曜日の未明4時〜5時に TBSラジオで放送している深夜トーク番組)の「5月11日放送『あまちゃん論』」が面白かった。(テキスト化したもの

なるほど、そういうことなのか、「萌えの意味」。あと、朝ドラにおける戦争と方言の必然性。


サンキュータツオが言ってるように、能年玲奈って、2次元的(アニメ的)アイドルなんだな。細田守監督作品のアニメ映画のヒロインが実写で登場したみたいな感じなんだ。性的な匂いが全くしない。


■ぼくは個人的には、橋本愛だって「2次元的アイドル」としてまずは想起した。ただ、アニメじゃなくて、つげ義春の『沼』という漫画に登場する、浴衣姿の少女だ。神秘的でセクシャルな匂いに包まれた不思議な美少女を。
能年玲奈とは正反対の印象。面白いなぁ『あまちゃん』。


先日の6月22日に放送された『東京ポッド許可局』「あまちゃん論 その後」 を、さっそく聴いてみたのだが、期待が大きすぎたためか、ちょっとイマイチな内容だったな。


追伸:『STUDIO VOICE』の成馬零一氏による「あまちゃん前半総括」は、なかなかに深い読みで感心するなあ。

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