『きつねのつき』北野勇作(河出書房新社)
■昨年から、読もう読もうと思っていながら、なかなか手が伸びなかった「この本」を、ようやく読んだ。しまった、と思った。これはたいへんな傑作なんじゃないか?
もっと早く読めばよかった。
■主人公の長女は、春先に生まれた子だから「春子」と名付けられた。その娘が満2歳を迎え、急に口数が多くなってビックリしている主人公(父親)の呟きで「この小説」は始まる。それから1年が経って再び桜咲く季節を迎え、3歳になった娘が「おー、おはなみだねえ」と言った後の、その次のシーンで終わっている。
「とお、ないてるの?」
突然、春子が言った。(中略)
「とお、わらってよ」
ぼくは最後のページで主人公といっしょに泣いてしまった。もう、ぽろぽろぼろぼろ。これは凄い小説だったなぁ。しみじみそう思ったよ。
■基本設定は、自営業の父親が2歳の娘を「子供館」へ(後半はその隣の保育園へ)送り迎えする日々の日常を、ほのぼのとした父娘の会話をベースに綴られていく、という話だ。
この父娘の会話が実にリアルなのだ。しかも、2歳の女の子は同年齢の男の子と比べて、言語能力が1年くらい早い。こまっしゃくれた生意気な大人勝りの発言をして、読者を笑かしてくれるし、何だかメチャクチャな「デタラメ歌」をよく歌う。そう、まさに宮崎駿の映画『となりのトトロ』の妹「めい」が「とうもころし」って言ってしまうアレね。
それから、2歳児の運動発達に関してもかなり正確な描写がなされていて感心してしまった。
2歳児は、階段はのぼれるが、上手には降りれないのだ。確かに。
しかしまあそんな顔を見ると、この子のためにできることは、なんでもしてやろう、という気になり、それと同時に、そんなことを思っている自分自身が不思議で仕方ない。自分に子供ができるまでは、子供などただうるさいだけだとさえ思っていたのに。(8ページ)
■この「リアルな子育て描写」を読んでいて、思い浮かべた小説があった。そう、『なずな』堀江敏幸(集英社)だ。
『なずな』は、生後2〜3ヵ月の女児を突然預かって、男手一つで育てなければならなくなった中年男の顛末が描かれていた。ぼくは『きつねのつき』を読みながら、『なずな』の後日談なんじゃないかと勘ぐってしまったほど、両者の「イクメン度」は互角の先進性がある。
ポイントは「母親の不在」だ。
いや、正確には両者ともに「確かに母親は存在している」のだが、物理的、距離的に(『なずな』)、生物学的に死生学的に(『きつねのつき』)母親は不在なんだな。そこが(父親として)不憫で切ない点だ。
何故、母親が不在なのか?
まぁ、それは、そういう設定でないと母親を出し抜いて「父親が子育ての主役になれないから」という理由ではあるのだが。
■そうは言っても、そこは「北野勇作」であるから普通のイクメン小説であるワケがない。ある日突然、不条理なカタストロフィーに襲われた親子が住む下町は、シュールでグロテスクで奇々怪々な事象に満ちているのだ。
もう少し深く掘り進んでみると、古事記にある神話「イザナギとイザナミ夫婦の話」に行き着く。
ちょうど落語『地獄八景亡者戯』に登場する「人呑鬼(じんどんき)」のくだり、『風の谷のナウシカ』に登場する「巨人兵」が未熟のまま崩れ落ちたような「人工巨大人」の体内に、主人公が深く深く下って行って、iPS細胞(多分化能胚細胞)の肉塊を取りに行く場面が「それ」だ。この場面はやるせなくて切ない。
この小説には、他にも落語の演目が巧妙に仕組まれている。まずは『らくだ』。それから『あたま山』に『七度狐』かな。
■それから、こちらのブログ「十七段雑記 2011.8.28」に書かれた感想が興味深い。
ぼくも、ツイッターで北野勇作氏をフォローしているので、去年の4月に北野氏が確かに「そうつぶやいた」のを記憶している。それを読んだ河出の編集者がコンタクトを取って「この本」は晴れて日の目を見たわけだ。
この小説は「3.11」 後に書かれたと誰もが思うだろうが、実はその2年前にすでに書き上がっていて、でも本にはならずお蔵入りしていたという。いや、ほんと信じられないことだが。(つづく)
コメント