わたしが一番きれいだったとき(その2)
■(前々回のつづき)ところで、「わたしが一番きれいだったとき」は、詩人・茨木のり子が1950年代末に発表した有名な詩だ。ぼくが持っている彼女の詩集は『おんなのことば』(童話屋)と『椅りかからず』(筑摩書房)の2冊だけだが、その中でぼくが一番好きな詩が「わたしが一番きれいだったとき」だ。もちろん、「ばかものよ!」と、茨木のり子さんに叱ってもらいたい時には『自分の感受性くらい』を繰り返し読むが……。
■茨木のり子さんは、1926年大阪に生まれた。一昨年の秋に他界したぼくの母が、1928年(昭和3年)生まれだから、ほとんど同じ世代だ。だからぼくは「この詩」を読むたびに母のことを想う。
ぼくの母は、伊那高等女学校(現・伊那弥生ヶ丘高校)を昭和20年3月27日に卒業している。母はまだ16歳で、昭和19年から学徒動員で名古屋の軍需工場でずっと働かされていた。卒業式は、伊那から卒業証書を抱えてやって来た校長先生を迎えて名古屋の寮の修養室の畳の上で行われたという。その間に東南海大地震が昭和19年12年7日に名古屋を襲い、連日連夜のB29の空襲で学友の飯島さんの命が奪われた。
母は名古屋の軍需工場で「ゼロ戦」を作っていた。
昭和十九年、サイパン島玉砕の悲しい知らせが本土に届くころ私達四年生にもいよいよ学徒動員命令が下りました。今の高校一年生と同じ年頃だった私達は、まるで出兵兵士のような見送りを受けて何か悲壮な思いで動員の地名古屋へと向かいました。ものすごい暑さの中で二週間の訓練を受けた後、私達270人は、三つの小隊に分かれて、三菱航空機製作所の翼、胴体、総組立の三工場に配属されました。ジュラルミンの板に電気ドリルで穴をあけそれにエアハンマーで鋲を打ち込んだり、ドライバー片手に計器の取り付け等々、中々むずかしい仕事でした。中でも翼工場の人達は、方向舵を自分達だけの手で作り、伊那高女報国隊とネーム入りで機体に取り付けられているのを見るのは、他の工場の者には羨ましい限りでした。
今でこそ戦闘機などと聞いただけで身震いする程いやな思いですが、当時の私達は、毎日対岸の飛行場へと舟で運ばれる「零戦」や「爆撃機」を、まのあたりに見て、すっかり感激し、ずい分張りあいのある毎日でした。然し一日一生懸命働いて寮に帰りホッとしたとたん襲ってきたホームシックには、皆々すっかり参ってしまいました。毎晩先生方が夜回りにいらっしゃる頃を見はからっては、寝床の中から一、二の三で声を張りあげて「家へ帰してー」と叫んだこともありました。
『いのちありて 学徒勤労動員の記録 第二集』p186「戦争の中に過ごした女学生時代」北原妙子(加納)より。
■生前の母は、つらい当時のことをそれほど詳しくはぼくに語ってはくれなかったが、ぼくが未だ小学校1年生くらいの時だったか、母が話してくれたことが何故か印象に残っていて忘れられないのだった。
まだ残暑が厳しい昼休みに、母たちが働く工場に一人の将校がやって来た。
女学生全員を集めて整列させ、その将校は敬礼したあと、悲壮な顔でこう云ったという。
「あなた方が作った零戦が、飛ばないのであります!」
小学性のぼくは大笑いしてしまった。
だってそうでしょう。女学生が作った零戦で、日本は戦争に勝てるわけがないもの。
でも、実際は、母たちが作ったゼロ戦に乗って、学徒動員で志願した優秀な大学生が多数、鹿児島の知覧基地から片道だけの燃料を積んで飛び立って行ったのだった。
ほんとうに、なんていう話だ。いまから、たかだか65年前のことだ。
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