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2010年10月17日 (日)

『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ著(白水社)

■最近なぜか、益田ミリの漫画『すーちゃん』シリーズにハマっている。中でも『結婚しなくていいですか / すーちゃんの明日』は傑作だと思う。

そのシリーズ第一作『すーちゃん』益田ミリ(幻冬舎文庫)の69ページを読んでいて、あれ? つい最近、同じようなこと言ってた人いたなぁって、思ったんだ。

 すーちゃんは言う。

あたし、今 幸せじゃないの?

幸せを目指して生きることが 正しいこと?
幸せって

目指すもの?

目指すということは ゴールがあること

幸せに ゴールって あんのか?


■その誰かとは、『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ著、今泉みね子訳(白水社)の著者で、1962年英国生まれの新進気鋭の哲学者マーク・ローランズ先生だ。先生は現在アメリカのマイアミ大学で哲学教授を務めている。

『哲学者とオオカミ』の原題は、"The Philosopher and the Wolf Lesson from the Wild on Love, Death and Happiness" という。その「Happiness」に関して語られているのは、「第6章:幸福とウサギを求めて」の 167ページだ。


 多くの哲学者によると、幸せには本来備わった価値があるという。幸せは他の何かのためにではなくて、それ自身として価値があるという意味だ。わたしたちが価値を認めるたいていのものは、それが他の事物をもたらしたり、他のことをしてくれたから、価値がある。たとえば、人が金に価値を認めるのは、金で何かを買うことができるからだ。食べ物、住まい、安全、おそらく一部の人は幸福まで金で買えると思っている。(中略)

金と薬は媒体としては価値があるが、本来的に価値があるわけではない。幸せだけが本来的に価値がある、と考える哲学者もいる。幸せだけが、それ自身として価値があるもの、それによって得られる他の何かのゆえに価値があるわけではないものだというのだ。(p167)

(中略)幸せがそれ以外の何かのためでではなくて、それ自身のために人が人生で求める、おそらく唯一のものであるという主張だと。すると、単純な結論に到達する。人生でもっとも大切なものは、ある一定の感情をもつことなのだということになる。人生の質、人生がうまく運ぶかうまくいかないかは、その人がどのような感情をもつかによって決まる、というわけだ。

 人間を特定なことへの依存症患者とかジャンキーにたとえると、人間の特徴がわかりやすくなる。(中略)人間は一般に薬物のジャンキーではない。けれども、人間は幸せのジャンキーだ。幸せのジャンキーは、自分にとって本当はあまり為にならないこと、どのみちそれほど重要ではないことを執拗に追い求める点で、薬物のジャンキーと共通している。だが、幸せのジャンキーの方が、ある明瞭な一点においてはたちが悪い。薬物のジャンキーは、自分の幸せがどこから来るのかを、まちがって理解したが、幸せのジャンキーは、何が幸せなのかをまちがって理解した。両方とも、何が人生で一番大切なのかを認識できない点では、一致している。(p169)

(中略)幸せがどんなものであろうとも、ある種の感情ではあるのだ。この点で人間は定義される。永遠に続く、むなしい感情の追求だ。これは人間だけに見られる特徴だ。人間だけが、感情がこうも大切だと思っているのだ。

 このように感情に執拗に集中する結果、人間はノイローゼになる傾向がある。これは、意識の集中が幸福の創出からその検討へとシフトするときに起こる。人生のあり方について、「自分は本当に幸せだろうか? パートナーは、自分の要求を適切に理解してくれているだろうか? 本当に子育てに生きがいを見出しているだろうか?」といったように。(p170)


■人間の「幸せ」に関してやや悲観的な考察をする哲学者は、では、10年以上も生活を共にしたオオカミ(ブレニン)は、果たして幸せだったのか? と自問する。そうして、オオカミは狩りをしている時、あるいは、敵と闘っている時が一番幸せなのではないかと考えるのだ。


 このような狩りをしているときが幸せだったのなら、ブレニンにとって幸せとは何だったのだろう。ここには緊張の苦しみがあり、心と体は硬直が強いられ、攻撃したいという欲望とそんなことをしたら失敗するかもしれないという知識との葛藤は避けられなかった。一番したいことを自分に許さない、という作業を何度も何度もしなければならなかった。ブレニンの苦痛は、こっそりと数センチさけ前進することで部分的に緩和されただけで、足を止めればまた、同じプロセスが最初から始まるのだった。これを幸せというなら、エクスタシーよりも苦痛の方が大きいように見える。(p175)

(中略)幸せはただ楽しいだけではない。とても不快でもある。わたしにとってはそうであり、ブレニンにとってもそうだったと思う。だからといって、苦しみを経験しないと喜びを評価できないなどという、よく知られた月並みな知恵のことを言っているわけではない。そんなことは誰もが知っている。(中略)

むしろ、幸せはそれ自体が、部分的には不快だと主張したい。これは幸せの必然的な真実である。幸せはそうであるほかないのだ。(p177)

(中略)わたしたちの人生で最良のこと、よくある表現を使えば一番幸せなときは、楽しくもあり、とても不快でもある。幸せは感情ではなく、存在のあり方だ。(p181)


■この本の中では、もっと引用すべき重要な論考がいっぱいあるのだが、著者が「オオカミの野生」を見つめることで、オオカミから照射される「野生の輝き」から、人間という「生き物」のまか不思議な「生きざま」が、逆に非常にクリアカットに浮かび上がってくる、という事実が、この本の最大の読みどころであるので、その感じを、ちょっとだけ味わって欲しいなと、この「幸福論」の部分を引用してみました。

でも、この本で一番面白いのは、その後の「第8章:時間の矢」で取り上げられた「時間論」だ。人間の時間と、オオカミの「時間」の違いは何か? この章が、本書の白眉だと思うぞ。

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