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2010年8月 7日 (土)

「まっとうな芸人、圓生」色川武大

■自分で文章を綴るパワーが相変わらずないので、今日も他人の文章を勝手にアップするご無礼、どうかお許しください。


「まっとうな芸人、圓生」色川武大


 文楽、志ん生、圓生----、昔、寄席にかよいつめていた頃、私たちにとってこの三人が落語家の代名詞であった。金馬も底力があったし、三木助や現小さんも売出し中だったけれど、私どもにとって文楽、志ん生、圓生、がすべてだったといってもよい。(中略)


 文楽、志ん生にはそれぞれ明快な華があったが、圓生はいくらか陰な感じで、それが三本指には入っても、トップ一人を選ぶとなると、圓生とはいい難い理由だったろうか。
 けれども、だからといって他の二人に毫も劣る落語家とは思わない。特に、昭和二十年代後半から三十年代にかけての圓生は、私にとって”凄い落語家”であった。

 私は、芸というものに対して、点を辛くするのが礼儀だと思う。聴いている者の心底に深く重く残るような芸でなければ拍手をしない。そのくらいに”芸”というものを尊敬したい。だからこの一文も、亡き圓生の霊にヨイショしているつもりはない。(中略)


 私にとって圓生のどこが凄かったか。


 まず、第一に映画でいう屋外シーンの巧さである。たとえば『鰍沢』の、半分しびれたようになった旅人が、こけつまろびつ、雪の中を逃げていくところ。あるいは『三十石』の淀川の夜気。『乳房榎』の落合の川辺に蛍飛びかう闇の深さ。例にあげればまだたくさんある。いかにも私たち自身がそこに居て、風の気配、空気の味まで存分に浸ることができる。

 落語は、扇子と手拭いだけで、さまざまの人物を演じわけるという概念を、圓生はもうひとまわりワイドにしてくれた。私の知る範囲では、人物の喜怒哀楽の表現にとどまらず、あたふたする人間たちと対比させるように大きな自然までを描いて生彩を発揮した落語家を他に知らない。(中略)

 
 第二に、これも大きなことだが、圓生の描く女の味わいである。圓生を聴くひとつの楽しみは、女の描出が深いことであった。

 文楽も、志ん生も、個性は違うが、男の演じ手であったと思う。主題はたとえ女の話であっても、文楽も、志ん生も、いつも我が身の命題みたいなものをひっさげていた。男の哀しさ、世間の主流からはずれた男たちの、奇態にしか生きられない哀しさ、そうしたものを落語の形を借りていつもむんむんと発散していた。それが気魄となり、濃厚な説得力をうんでも居たと思う。(中略)


 これに対して圓生は、彼等ほど自分の命題に執着していないように見受けられる。内心深く、叫びたいことはあったかもしれないが、落語に対する姿勢は微妙にちがう。
 圓生は、前二者よりもずっとまっとうに、話芸そのものに深く入りこもうとしたように思う。だから、ポイントは、何を演じるか、ではなかった。如何に演じるか、という人であった。

 当然のことながら、眼の人、描写の人になる。万象をどう眺め、感じとった物をどう演じるか。
 文楽や志ん生にとって、女は、話の中でも他人であった。いうならばオブジェで、主体は男の側にある。が、圓生にとっては、脇人物だからオブジェで方づけるというわけにはいかない。話全体が主人公なのである。だから人物のみならず、花鳥風月、樹立ちや闇や空気の揺れまでも等分に眼を配らなければならないことになる。(中略)

 その意味では圓生は辛い。自分の方に話をひっぱることをしないで、無限に完璧化していかねばならない。
 その辛い作業をよくやったと思う。圓生はよりよく演じるためにまず無限に近い気配りを持って万象を眺めなければならなかったろう。そうして掬いとったものは、それが真実であるという理由でどうしても削除するわけにはいかない。(中略)


 数多い圓生の極めつけの中で一つ選ぶとすれば、私は『包丁』をあげたいが、この不逞な男女の心情を美化など少しもせず。それでいて話芸の持つ美しさ快さに深くひきずりこまれること、おどろくばかりである。
 その他、『お若伊之助』『乳房榎』『累ヶ淵』『火事息子』など描写の要素の濃い人情噺系がどうしても主になるが、『豊竹屋』だの『一人酒盛』だの軽いものにも好ましいものがたくさんある。


 考えてみると、私は圓生と個人的面識はない。ただ寄席の隅で高座を眺めていただけで、それも烈しく聴いたのは人形町の独演の頃の前後十年ほどである。けれども子供の頃から、その声に親しみ、その所作、その話法が血肉化するほどになっていて、お新香や味噌汁と一緒に自分の一生に当然いつまでもついてまわるのだと思っていた落語家たちが、今はもう皆亡い。それが信じられない。

 眼をつぶると、清々とした圓生の出の姿が浮かんでくる。文楽も清々としていたが、練り固めて身構えているような静けさだった。小腰を折って出てくる柳好は芸人というより幇間的だし、顎を突き出してくる志ん生、ズカズカッとくる金馬、現小さんのノソノソ歩き、とこう考えてくると、圓生の出はスッキリと、しかも柔らかくあれが本当の芸人という感じがする。


 圓生はまっとうな、という点でまちがいなしに巨きな芸人であった。


(雪渓書房『六代目三遊亭圓生写真集』1981年刊) →『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ2 芸能』(ちくま文庫)p150〜p157 より。


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