『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)
■今夜の『うぬぼれ刑事』は面白かったなぁ。小泉今日子が思いのほか良かったのだ。続いて『熱海の捜査官』が始まる。さて、こちらはどんな展開が待っているのか。楽しみ。
■『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)読了。面白くて一気に読んだ。
芸人さんの評伝はみな面白い。春風亭柳朝の評伝『江戸前の男』吉川潮(新潮文庫)、同じく吉川潮氏の二代広澤虎造一代記『江戸っ子だってねぇ』は読んだ。柳家三亀松の評伝『浮かれ三亀松』は未読。吉川潮氏が書く評伝は、まるで落語の人情噺みたいで、笑って泣いてまた泣いて読み終わる頃には、その芸人さんがまだ売れない昔からのファンだったような錯覚に陥ってしまうのだった。
ただ、本を読む前に広澤虎造はCDで「清水次郎長伝」を聴いていたし、春風亭柳朝は小中学生のころ、テレビやラジオで落語を聞いた覚えがある。
しかし、この「三遊亭歌笑」という人は「歌笑・純情詩集」という言葉だけは知っていたが、どんな落語家さんだったのか全く知らなかった。以下の文章を読むまでは。
十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼を患って右眼はくもがかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。(中略)戦時中、中学生のころ、神楽坂の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくりがあったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。
それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。(中略)
そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。(中略)
歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。(中略)
ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説にする気にならず、材料は山ほどあったのだが放棄した。(中略)
昭和25年5月30日、夫婦生活誌の大宅壮一氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネージャーは出演予定の映画の打合せで居らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年三十三。
『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p182〜p188「歌笑ノート」より
それからもう一冊。『現代落語論』立川談志(三一書房)82ページ。
ラジオはNHKだけなので、落語が聞けるのは日曜日夜のラジオ寄席、金曜日の第二放送の放送演芸会、時折劇場中継としての寄席中継ぐらいのものだった。さらにくわえれば、第二放送の若手演芸会ぐらい。この若手演芸会には、馬生、小金馬(腹話術)、貞鳳、人見明とスイングボーイズなどといった人たちがやっていた。中で何といっても三遊亭歌笑の全盛時代、それと楽しかったのは、当時ちょうど油の乗り切った感じの三木トリローの日曜娯楽版。ところがある朝、目がさめるとおふくろに、
”お前、歌笑が死んだョ”
と、新聞をみせてくれた。三面に小さく、”歌笑師禍死”と書いてあった。腹が立った。信じられなかった。あの歌笑が死ぬなんて、いやだった。悲しくて口惜しくてたまらなくなり、そんな馬鹿なことがこの世にあるもんかと、涙がこぼれた。
他人が死んでこんな気持ちになったのは、歌笑と和田信賢が死んだ時ぐらいで、あとにも先にもこの二つぐらいしか思いだせない。
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