2024年11月 4日 (月)

NHK朝ドラ『虎に翼』が終わって

長野医報11月号「あとがき」(掲載版でなく、改訂前のロングバージョンです

広報委員 北原文徳

 

■NHK朝ドラ『虎に翼』が終わってしまいました。

 桂場役の松山ケンイチさんは、本篇放送中は思う所があり一度もドラマを見なかったそうですが、最終回2日後の9月29日

「沙莉ちゃんに見てくださいと言われていたのでここに見た証として感想を乗っけながら最終回まで見ます」

とX(旧ツイッター)で宣言し、第1回から視聴感想を連続ポストし始めました。これがまた面白いのです。「初見の感想からしか得られない栄養がある」というオタク界の格言があるのだそうですが、なるほど上手いことを言いますね。

■ぼくが好きな回は、5月24日(金)放送の第40回です。夫の優三(仲野太賀)に赤紙が来て、寅子(伊藤沙莉)とふたり河原で弁当を食べるシーン。

 優三が言います「寅ちゃんができるのは、寅ちゃんの好きに生きることです。また弁護士をしてもいい。違う仕事を始めてもいい。優未のいいお母さんでいてもいい。僕の大好きななにかに無我夢中で、なにかを頑張ってくれること。いや、やっぱり頑張らなくてもいい。寅ちゃんが後悔せず、心から人生をやりきってくれること。それが僕の望みです」と。

 これって、日本国憲法第13条そのものです。憲法に詳しい伊藤真弁護士は、第13条について

みんなの個性を大事にすること。みんな違っていいし、違うことが素晴らしいのだと認め合い、どうやってみんなで一緒に生きていくかを考えようということ。また、自分以外の人たちにも同じように価値があるのだから、大事にしようということ。

人は何かの役に立つから価値があるのではなく、存在するだけで価値がある。豊かな人も貧しい人も、健康な人もハンディキャップを負っている人も、人種も宗教も性別も一切関係なく、人間として生まれた以上はかけがえのない価値がある。

 と解説しています。

 生きにくいのは決して自己責任ではないのです。誰もが生きやすい社会のために必要な福祉や教育、人権を国や地方行政が保障するのは当然であり、われわれも「いつか自分も同じ立場になるかもしれない」と考え、少数派・弱い側にいる人への共感や想像力をもっと高めて行かねばならないと強く感じたドラマでした。

 次号の特集は「山に思う」です。どうぞお楽しみに!

2024年7月28日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その 141 )飯島町図書館 2024/07/28

■今日の午前中は、飯島町図書館のイベント「おはなしの森 夏休みスペシャル」に呼ばれて4人で絵本を読んで来ました。子供たちの反応も良くて楽しかったなあ。

【本日のメニュー】

1)『はじめまして』

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2)『このかみなあに? トイレットペーパーのはなし』谷内つねお(福音館書店)→伊東


YouTube: 「どうぶつしりとりえほん」 おはなし絵本237

3)『どうぶつしりとりえほん』薮内正幸(岩崎書店)→北原

4)『かごからとびだした』

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5)『うみやまがっせん』長谷川摂子 文・大島英太郎 絵(福音館書店)→坂本

6)『いっぽんばしにほんばし

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7)『オニのきもだめし』岡田よしたか(小学館)→倉科

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8)『ふうせん』

9)『世界中のこどもたちが』

2024年7月18日 (木)

『あらゆることは今起こる』柴崎友香 著(医学書院 シリーズ「ケアをひらく」)

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(写真をクリックすると、大きく拡大されます)

■濱口竜介監督が映画化した『寝ても覚めても』の原作者で、芥川賞作家の柴崎友香さんは、47歳で ADHD の診断を受け初めてコンサータを内服した後の様子をこう語りました。

「小学校6年生の修学旅行で夜更かしして翌日眠たくて、それ以来1回も目が覚めた感じがしなかったんですが、今、36年ぶりに目が覚めてます」と。

医学書院の名物編集者白石正明さんが編纂した「シリーズ ケアをひらく」には、医学書の範疇に収まらない不思議な本が多く、中でも ASD当事者でドイツ文学を研究する京都府立大学准教授 横道誠氏の『みんな水の中』には驚きました。専門家の解説書とは全く異なり、ASD当事者の感じるこの世界が鮮やかに瑞々しく言語化されていたからです。

横道氏は ASD 自助グループをいくつも立ち上げ、症状の異なる仲間たちと当事者研究を行う中で『発達障害の子の勉強・学校・心のケア』(大和書房)では、親子で当事者研究をやってその子にぴったり合った方法を独自開発することを提唱しています。

柴崎友香さんは横道誠氏が「ASDの人の自伝的な本は何冊も出ているけれど、ADHDの人のそれはあまり見かけない」と書いているのを読み、だったら自分で書いてみようと思い立って医学書院の白石さんに連絡。そして書き下ろされたのが『あらゆることは今起こる』なのです。

白石氏は「発達障害の人は、地続きだからこそ理解されない。定型発達者が私にもあるあるで終わってしまう。『量の違い』が、当事者にとっては大変な違いで、その生きづらさをわかってもらえないことが問題の核心。文筆の人である柴崎友香さんには、その体験世界をできるだけ正確に、なおかつ魅力的に書いてほしかった 」と言います。

実際たいへん面白くて読みやすく、新たな発見が多々ある本でした。ADHD に関して間違って認識していた事柄も多く反省させられました。柴崎さんは物静かで落ち着いた方で多動ではありません。ただ頭の中は常に複数の考えがランダムに流れ続け、外から刺激があるとさらに次々に思い浮かんで、頭の中が多動で混線し、ぼーっとなって逆に動けなくなってしまうのだそうです。

コンサータが作家の創作活動に悪影響を及ぼすことも懸念されましたが、それはないようです。(もう少し続く)

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■上記は『長野県小児科医会会報79号』に投稿した文章です。スペースが限られていたので一番言いたかったことまで書けませんでした。

■横道誠氏は ADHD を伴う ASD という診断を受けましたが、柴崎友香さんは ASD要素も多少ある ADHD という診断なのだそうです。二人似ているところもあるし、またぜんぜん違う感じもする。発達障害と言っても、ひとりひとり全く違って複雑で、教科書どおりの人って一人もいないということがよく分かります。

それから「文章のプロ」が書いた本は読んでいて内容がすっと入ってきます。例えば29ページ。喘息発作で夜中一人起きていて、気が付くと夜明けになって、市営住宅9階の部屋から外を眺める場面が美しくとても印象深い。

とはいえ、ぼくは今まで柴崎友香さんの小説を一冊も読んだことがなかった。ただ、作家の保坂和志氏が柴崎友香さんのことを熱烈にプッシュしていたことは知っていました。

保坂和志氏がプッシュして世に出た作家さんに山下澄人さんがいます。山下澄人さんの小説は僕も大好きで、デビュー作『緑のさる』からずっと読んでいて、やはり保坂氏が世に出した磯崎憲一郎さんも『日本蒙昧前史』で初めて読んで驚いたのでした。

それなら柴崎友香さんも読んでみなきゃと、最近ちくま文庫から出た『百年と一日』を手に取ったのです。

たまげました! これは傑作だ。こんな不思議な短編集は読んだことがありません。

超短編の中で、語り手が変わり、時間が経過し、場所も変化するのです。読み終わった読者は、何時しかここではない何処か遠くの知らない国、知らない時代に連れ去られて、ただただぼーっとなってしまうのです。

■そういえば、山下澄人さんの『緑のさる』『コルバトントリ』も視点や時間、場所がくるくる変わって目まぐるしい変な小説であったなあ。

柴崎友香さんのデビュー作『きょうのできごと』(河出文庫)の解説を、保坂和志氏が書いていると聞いて、今日伊那の平安堂へ行って買ってきました。なるほど、さすが保坂さん。実にスルドイ解析が行われています。

「ジャームッシュ以降の作家」と題されたこの解説で、彼女の小説を「不思議な緻密さによって小説が運動している、その緻密ぶりが面白い」と評して、217ページで細かく解説してくれるのですが、正直なんとなくしか分からないです。終盤の部分を引用します。

つまり、未来はもうかつて信じられていたみたいな”特別”なものではない。それを私たちはよく知っている。だから、『ストレンジャー〜』を境にして、フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直ぐ進まなくなってしまった。(中略)未来には希望も絶望もないけれど、今はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。(p220〜221)

■『あらゆることは今起こる』柴崎友香(医学書院)の第4章「世界は豊で濃密だ」では、保坂氏が指摘した彼女の「小説の作り方」の秘密が垣間見えてとても興味深いです。

227ページにはこう書かれています。

「時間軸」と書いてしまうとやはりそこには目盛りが発生してしまうし、堅いしっかりした一本のものというイメージになるので、今、ここにいる私が生きて感じとっている時間とは違っていく。(中略)

中国人が書いた「八岐の園」から引用している文章がある(この、何重にも引用されているところこそ、私にとっての小説という形式の根源に思える)。

「あらゆることは人間にとって、まさしく、まさしくいま起こるのだ、と考えた。数十世紀の時間があろうと、事件が起こるのは現在だけである。空に、陸に、海に、無数の人間の時間があふれているけれども、現実に起こることはいっさい、このわたしの身に起こるのだ……。」

この「無数の人間の時間」は、独立して並行しているのではなく、「このわたしの身」に含まれている。

229ページには、クロスロードで悪魔に「たましい」を売った引き換えに、素晴らしいギター奏法を手に入れたという都市伝説がある、ブルース・シンガー ロバート・ジョンソンの話も出てきて興味は尽きないです。

本のタイトル『あらゆることは今起こる』のことをずっと考えていて「あ、そうか!」と判ったことがあります。

以前読んだ『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ著、今泉みね子訳(白水社)の終盤に書かれていたことです。人間には「時間の矢」があるが、オオカミは瞬間瞬間を生きる。「いまここ」を生きているのだ。柴崎さんは、オオカミ的な時間感覚の中に生きている。そういうことなんじゃないでしょうか?

■追伸:この本の感想を読んでいて、あまり指摘する人はいませんが、「本の左下」に横断歩道を渡る人々の連続写真(最初は横から後半は縦に移動していく)が載っていて、パラパラ漫画みたいで楽しいです。

2024年7月10日 (水)

伊那のパパズ絵本ライヴ 『みのわこどもフェスタ 2024』

■7月7日(日)は、まる1年ぶりの「伊那のパパズ絵本ライヴ」。

昨年に続いて『みのわこどもフェスタ 2024』で呼んでくださったのだ。ありがたい。

【今日のメニュー】

1)『はじめまして』新沢としひこ(ひさかたチャイルド)

2)『せんのはっけん』鈴木康広(かがくのとも 2019年2月号)→伊東

3)『たぷの里』藤岡拓太郎さく・え(ナナロク社)→北原

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4)『かごからとびだした』(アリス館)→うた手遊び(全員)

5)『けっこんしき』鈴木のりたけ(ブロンズ新社)→坂本

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6)『わがはいは のっぺらぼう』富安陽子ぶん 飯野和好え(童心社)→宮脇

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7)『いっぽんばしにほんばし』(アリス館)→うた手遊び(全員)

8)『ちゃいますちゃいます』内田麟太郎ぶん、大橋重信え(教育画劇)→倉科

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9)『ふうせん』(アリス館)→うた(全員)

10)『世界中のこどもたちが』→うた(全員)

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■昨年の7月16日(日)『みのわこどもフェスタ 2023』での絵本ライヴのもようは、ブログにアップするのを忘れてしまっていました! ごめんなさい。

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1)『はじめまして』

2)『おきにいりのしろいドレスをきてレストランにいきました渡辺朋・高畠那生(童心社)→伊東

3)『あっちむいて ほい』中村征夫(こどものとも年少版 2023 7月号)→北原

4)『かごからとびだした』

5)『ぞうさんのおとしあな』高畠純(ポプラ社)→坂本

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6)『カ どこいった?』鈴木のりたけ(小学館)→宮脇

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7)『うんこしりとり』

8)『かばくん』(ひさかたチャイルド)→うた(全員)

9)『オニのサラリーマン じごくの盆やすみ』

   富安 陽子 文 / 大島 妙子 絵(福音館書店) →倉科

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10)『ふうせん』

11)『世界中のこどもたちが』

 アンコール

12)『パンツのはきかた』岸田今日子・佐野洋子(福音館書店)

2024年6月 7日 (金)

  いま再び、山上たつひこ 作画 『光る風』を読む

『長野医報』2024年6月号「特集:こんなマンガを読んできた」が発刊されました。

 6月号は県医師会広報委員のぼくが編集担当で、テーマもぼくが決めました。マンガのことならぜひ原稿を書いて頂きたいと考えていた、岡谷の小野先生、松代の池野先生、伊那の高橋先生、北原先生には僕から直接電話で執筆をお願いし、快く承諾を頂いて期待以上の力作が集まりました。感謝感謝です。充実した特集になって、ほんとよかったでした。

 じつは僕も原稿を書いたのです。それを以下に転載させていただきます。

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いま再び『光る風』を読む

上伊那医師会 北原文徳

 

 『光る風』は、近未来の日本を舞台に繰り広げられる、ただただ暗いディストピア漫画です。作者は『がきデカ』で一世を風靡した山上たつひこ。「こまわり君」という破壊的ギャグ漫画キャラクターを発明した同じ作者の作品とは到底信じられない、真面目で社会風刺精神に満ちたポリティカルSF漫画なのです。

 『光る風』は 1970年の4月から11月まで「週刊少年マガジン」に連載されました。同時期に連載されていたのが『巨人の星』梶原一騎・川崎のぼる、『あしたのジョー』梶原一騎・ちばてつや、『アシュラ』ジョージ秋山、『無用ノ介』さいとうたかお、『ヤスジのメッタメタガキ道講座』谷岡ヤスジ、『リュウの道』石森章太郎です。赤塚不二夫の『天才バカボン』は当初「少年マガジン」で連載されていたのですが、この時期だけ何故か「少年サンデー」に移籍連載されています。

 

 物語は、近未来の日本。東北の寒村沖合の人工島「出島」に隔離幽閉された藻池村の奇形児たちが夜通し繰り広げる「異形祭」のシーンから始まります。漫画連載当時、水俣病やイタイイタイ病などの公害病が大問題になっていました。

 主人公の六高寺弦(17歳)は、先祖代々軍人の家系の次男で、父親は元国防隊陸将、長男はこの年国防大学を卒業した国防隊のエリート幹部防衛官。しかし弦は父兄に反発しドロップアウトします。

 日本は、国家による徹底した管理・監視社会が進み、言論統制が成され、異端・反逆分子は特務警察や憲兵隊によって徹底的に抹殺されました。また、アメリカがカンボジアへ侵攻したのに伴い、政府は「国連協力法案」を作成し

「国連が世界の平和および安全の維持または回復のために軍事力の行使を必要と認め、そのための措置を決定した場合は、政府は国防隊を含めた人員、労力の提供、飛行場、港湾その他基地の提供、物資輸送手段の提供などを行うことができる」

とし、国連軍への参加は憲法に違反せず国防隊法の一部改正で可能という判断で法案を通し、国防隊のカンボジア派兵が決定。弦の兄も出征します。

 

 ぼくはこの漫画を断片的にですがリアルタイムで読んでいます。小学6年生でした。1970年は大阪万博があった年で、夏休みに千里ニュータウンの伯母の家から万博会場へ通いました。日米安保条約は自動更新され、東大安田講堂陥落から学生運動は消退気運に転じ、赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件以降、国際的武装革命集団へと先鋭化、あるいは党派間の内ゲバ抗争・殺人へと内部に沈潜して行きました。そして、この年の11月25日に三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部にて割腹自決。1972年2月19日、連合赤軍あさま山荘事件が起こり政治の季節は終わりを迎えました。

 

 当時ぼくは兄が買ってきた「少年マガジン」を『巨人の星』目当てに読ませてもらっていて、ある時『光る風』を見つけ「何だこれは!?」とビックリしたのです。今でも鮮烈に憶えているページの「コマ」が3つあります。

 政府はカンボジアへの補充戦力として収監中の政治犯300人と「出島」の男たちを招集し戦地へ送り込みます。フリースタイル版『光る風』230ページ。出島に乗り込んで来た国防隊特務班の兵士たちが火星人みたいな容貌の異形の者「堀田」を発見した場面。堀田らは密かに武器を集め反乱を計画していました。

 堀田は主人公の弦に言います「きみたちのように“正常”な人間として生まれ“正常”な環境で育った人間と、おれたちのように奇形人としてこの世に生まれてきたものとでは平等という言葉の感覚そのものが違うんだよ」「わかるか。さっき俺が言った破滅的とさえいえる革命観をささえるものは、困窮からくる絶望感なんだよ!」と。先だって改めてこの部分を読んだ時「まるでガザ地区のパレスチナ人じゃないか!」そう思いました。

 2つ目は、同374ページ。憲兵隊に逮捕された弦は、拷問を受け収容所へ移送されます。囚人たちは米軍の機密建築工事に従事し、完成したあかつきにはみな抹殺される運命にありました。弦たち二人は便所からの脱獄を試みます。このシーンが凄まじい。脱獄といえば、映画『大脱走』か『ショーシャンクの空に』を思い浮かべますが、ぼくは『光る風』が一番です。

 3つ目が、同414ページ。衝撃的でした。弦の兄は負傷兵として戦地から生還します。ただし、映画『ジョニーは戦場へ行った』もしくは江戸川乱歩の『芋虫』状態で。この次の章「暴走列島〔12〕」は「ビッグコミックオリジナル」戦後70周年増刊号(2015年8月30日刊)に特別収録されました。

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 戦後80年を迎えようとする現在、みんなすっかり親米従属に慣れ親しんで、日本はまるでアメリカの51番目の州であるかのようです。だから逆に、六高寺弦の父親や憲兵隊の天勝大尉が示す強烈な反米感情に今の若者たちは違和感を覚えるかもしれません。でもですよ、もしもトランプが次期大統領に当選したなら、アメリカはまず間違いなく「この漫画」と同じ態度で従うことを日本に要求してくるでしょう。いまから覚悟しておいたほうがよいかもしれません。

 最後に『光る風』の巻頭扉に書かれた言葉を紹介してお終いにします。

 

   過去、現在、未来 ------

   この言葉はおもしろい

   どのように並べかえても

   その意味合いは

   少しもかわることがないのだ

2024年5月14日 (火)

カーティス・メイフィールド『new world order』を聴く(その2)

昨日の続きです。 内容は、以下の記事からまとめたものです。

 30 Years Ago: Curtis Mayfield Paralyzed During an Outdoor Concert

■民主党上院議員マルコヴィッツが、野外ステージに登壇した。

「みなさん!カーティス・メイフィールドをご紹介します。私は興奮してゾクゾクしてきました!」

その瞬間、会場に「大きな突風」が吹き荒れた。巨大なスピーカーがぐらつき始め、観客の列が散り散りになったが、マーコウィッツは続けた。「Ladies and gentlemen,  Curtis Mayfield !」

カーティスがステージに上がったその時、時速54マイルにもなる「2度目の爆風」が頭上の巨大な金属製リグを揺り動かし、スピーカーがステージから吹き飛ばされ、照明トラスが倒れた。トラスからステージ照明が外れて上から落ちてきて、そのうちのひとつがメイフィールドの首の後ろを直撃し、彼は崩れ落ちた。この日、12歳の少女を含む少なくとも6人が負傷したという。


メイフィールドは動けなかった。腕も足も使えない状態で救急車を待った。その時、ようやく雨が激しく降り始めた。少なくとも最初は、メイフィールドがいずれ回復するかもしれないという希望があった。しかし、キングス・カウンティ・メディカル・センターの医師はその後、メイフィールドが首の第3、4、5頸椎を骨折していることを伝えた。医師たちは、メイフィールドは歩くことも、ましてギターを弾くこともできないだろうと確認した。このとき彼はまだ 48歳だった。

・・

■検索したら「本と奇妙な煙」というサイトに、雑誌『Cut』1994年5月 Vol.30 に載ったカーティス・メイフィールドのインタビュー記事が再録せれていた。

――あの事故が起きた夜のことで何を覚えていますか。


「あんまり話せることはないんだよ。(略)わたしは野外ステージの裏の階段を昇っていった。昇り切って、3歩か4歩歩いて、その次に気がついたときには床に転がっていた。ギターもどっかに行ってしまってて、靴も履いてない、眼鏡もない、そして体がまるっきり動かなかった。みごとに伸びてたんだよ。にっこり笑ってステージに向かっていったその次の瞬間には、まっすぐ夜空を見つめてた。雨が降り出してたなあ。


 すべてめちゃくちゃになっていた。動かせるのは首だけだった。自分がどうなってるのかと見回してみると、ぬいぐるみみたいに床の上でぶざまに寝そべっているんだよ。もちろん目は開けたままでいた、目を閉じたら死ぬんじゃないかって気がしたのさ。みんなが来てわたしを運んでくれた。病院はすぐそこにあった。どこまで深刻な状態なのか自分ではわからなかった、生きるか死ぬかもね。……どこがどうしてどうなったのかまるでわからなかった」


――いまはどんなリハビリを行っているんでしょうか。


「正直に言うと何もしていないんだよ。ただ 単に、リハビリのしようがないからだがね。わたしが完全に寝たきりにならないようにと家族が手足のストレッチをさせてくれる。できるだけ体が固くならないように。でもどこも丈夫なんだよ、麻庫してるだけで。どこかのいいお医者がいつか魔法のような方法を見つけて、麻痺した部分を生き返らせてくれるかもしれない。そういうことが起こらないかぎり、おそらくわたしはこのままで死ぬんだろうね。

・・

■頚椎損傷で四肢麻痺に陥っても、いま現在の最先端医療でなら神経細胞の再生医療によって再び歩けるようになることも可能になった。しかし、カーティス・メイフィールドは事故後もう二度と歩くことも、ギターを弾くための手を動かすことも叶わなかったのだ。ただ、自ら作詞作曲して歌うことだけは、まだできた。

■それから6年後の 1996年。『new world order』は制作されたのだった。

車椅子に座った状態では声が出ないため、カーティスはスタジオで仰向けに横になって、しかもワンフレーズずつ細切れで歌を収録したという。CDで聴くかぎり、彼の魅力的なファルセット・ボイスは健在だし、しっかり声も出ていて、とてもそんなスタジオ収録場面を想像することはできない。

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■以上のような事情を知った上で、改めて「Back To Living Agein」を聴くと、ぜんぜん違って彼の歌声が心に響いてくるのではないか。

曲の後半、バックコーラスにかつての朋友アレサ・フランクリンが参加して歌声を披露する。そして、曲が終わった最後に、アレサ・フランクリンの励ましの声が収録されているのだ。

「 Go Ahead MAYFIELD ! 」

■しかし、持病の糖尿病が悪化して足の動脈がつまり、1998年には右足を切断。翌年のクリスマスの次の日(1999年12月26日)57歳の若さで帰らぬ人となった。

・・

・・

カーティス・メイフィールドが作詞作曲したインプレッションズ時代の代表曲「People Get Ready」(1965) を、1985年に ロッド・スチュアートとジェフ・ベックがカヴァーしヒットしたおかげで、経済的に苦境にあったメイフィールドはずいぶん助かったそうだ。事故後の療養費用にも印税が役だったという。


YouTube: Jeff Beck, Rod Stewart - People Get Ready


YouTube: The Impressions - People Get Ready  1965 歌詞 対訳

2024年5月12日 (日)

カーティス・メイフィールド『new world order』を聴く

■落ち込んで心が弱っているときに聴きたくなる音楽は、ぼくの場合、決して明るく元気が出る曲ではない。そう、例えばビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』4曲目の「I get along without You very well」。最晩年の録音で彼女のからだはボロボロ、その声は老婆のようだ。でも、ビリーは乙女の気持ちで唄っている。そして優しく包み込むように、すべてを許してくれるのだ。


YouTube: I Get Along Without You Very Well

それから、ニーナ・シモン『ボルチモア』2曲目「Everything Must Change」


YouTube: Nina Simone-Everything Must Change

■彼女ら2人にはずいぶんと助けられてきた。とことん落ち込んで底の底まで沈んで行って、まっ暗やみの遙か彼方から微かな希望の光が差してくる。そういった音楽たちを、ぼくはとっても大切にしている。

 最近、新たな仲間が加わった!

安価な中古盤で入手した、カーティス・メイフィールドの『new world order』(1996年) だ。

1曲目のタイトル曲から全曲素晴らしい。アルバム全体に通底するのは深い悲しみと諦観なのだが、でも違うんだよ。彼は決して諦めてなんかいないのだ。


YouTube: Back to Living Again

■アルバム3曲目「back to living again」は、わりと明るい曲調で歌詞も前向きだ。ライナーノーツには、この曲の一節を使って、カーティス・メイフィールドのメッセージが以下のように載っている。

" Now is always the right time

  With something positive in your mind

  Whenever something pulls you down

  Just get back up and hold your ground "

        To all my old and new fans,

        thank you for caring and sharing my music.

                     - Curtis Mayfield

■ソウル界の女王 アレサ・フランクリンが、低迷した1970年代後半から見事に復活した1980年代。同じくソウル界のレジェンド、カーティス・メイフィールドはすっかり過去の人として忘れ去られようとしていた。

1990年8月13日。新作アルバムを出して再起を賭けていたカーティス・メイフィールドは、民主党上院議員のマーティン・マーコウィッツが、有権者への感謝を込めて毎年ニューヨーク・ブルックリンのウィンゲート・フィールドで開催している「野外コンサート」に招聘され、ヘッドライナーとして出演することになった。

ところが、この日は会場に嵐が近づきつつあり、でも既に1万人もの観客が会場に向かっていたので、主催者のマーコウィッツはコンサートの中止を渋り、カーティス・メイフィールドの出演時間を前倒しにしてコンサートを強行したのだった。

(まだまだ続く)

2024年2月 4日 (日)

今月のこの一曲 「貝殻節」

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■伊那市民会館に「西岡たかしコンサート」を聴きに行った時、僕はまだ中学生だったように思う。西岡さんが五つの赤い風船を解散して、ソロ活動を始めた時だから、1973年 かな。

「血まみれの鳩」「これが僕らの道なのか」「もしもボクの背中に羽根が生えてたら」「まぼろしの翼とともに」「遠い世界に」といった『五つの赤い風船』の代表曲と共に「ジャンジャン町ブルース」「満員の木」「大阪弁」などの新曲も歌ってくれた。

ただ、この日ぼくが一番印象に残った忘れられない曲は、鳥取県民謡を彼がアレンジし哀感を込めて唄った『貝殻節』だったのです。何て悲しくて美しいメロディだろう!そう思いました。


YouTube: 五つの赤い風船「貝殻節」

■ところが最近「民謡クルセイダーズ」が演奏する『貝殻節』のプロモーションビデオを見てたまげてしまいました。なんと! サルサじゃん。これはミスマッチなんじゃないの? って最初はちょっと否定的な感想を抱いたぼくでしたが、聴き込むうちに、これもありかな。いいじゃん!と変化した次第。

PVよりも、2022年10月15日「多摩あきがわLiveForest」でのライヴ演奏が好きです。


YouTube: 民謡クルセイダーズ「貝殻節」ライブ@多摩あきがわLiveForest自然人村「トーキョーマウンテン"森と踊る”」

■YouTubeを検索していたら、もっと凄い「貝殻節」を発見したぞ。なんと!坂田明、ジム・オルーク、山本達久のトリオによる、迫力のパンク・フリージャズだ。2015年6月29日(月) 盛岡「すぺいん倶楽部」にて収録。坂田さん、カッコイイなあ。


YouTube: sakata/O'Rourke/yamamoto / 貝殻節

■本家の民謡以外でも、いろんなヴァージョンが存在する『貝殻節』だが、そうは言ってもぼくが一番好きなのは、浜田真理子さんが唄う「貝殻節」だ。儚なさと哀愁の中に冬の日本海の荒々しさが目に浮かぶような迫力も感じる歌声。ほんと凄いです。


YouTube: 貝殻節/浜田真理子/鳥取県民謡/東京文化会館小ホール

2023年7月10日 (月)

映画『こちらあみ子』を観て思ったこと

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■ じつに8ヵ月ぶりの更新です。『長野県小児科医会会報 77号』の編集が終わりようやく校了した。フライングになってしまうけれど、「会報77号」に僕が書いた文章(一部改変あり)をこちらに転載させていただきます。会報の発行部数は220冊。一般の人は読むことができない冊子なのでどうかお許し願います。

■2023年1月18日、休診にしている水曜日の午後、伊那市東春近「赤石商店」の土蔵を改装した「映画館」で 2022年7月公開の日本映画『こちらあみ子』を観ました。すごい映画を見た! そうは思ったものの、感想をすぐに文章にすることができず、ずっと「この映画」のことを考え続けていて、ようやっと書き上げた文章です。

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映画『こちらあみ子』を観て思ったこと  北原こどもクリニック 北原文徳

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 下校のチャイムが鳴って、教室から小学生たちが一斉に外へと駆け出す。珍しい構造の校舎で、廊下はマンションのような外廊下だ。カメラは校庭から4階建ての校舎を正面に捉え、まるでマスゲームのような子供たちの動きを遠景でフレームに収める。傑作を予感させる映画『こちらあみ子』のファースト・シーンだ。外廊下へと移動したカメラは、遠ざかって行く子供たちに逆らってカメラに向かって近づいて来る1人の少女を映し出す。何か言っている。「ねえ、のり君知らん?」主人公あみ子(11歳)だ。

 芥川賞作家 今村夏子の衝撃のデビュー作『こちらあみ子』を新人監督の森井勇佑が原作をほぼ忠実に映画化したこの作品は、昨年度キネマ旬報ベストテン第4位を獲得し、映画通で知られるライムスター宇多丸氏が2022年のベストワンに挙げた評価の高い映画だ。

 瀬戸内の美しい海をバックに、ちょっと変わった小学5年生の少女が広島弁で大活躍するほのぼのとしたファミリー映画かと思ったら大まちがい。じつは自閉スペクトラム障害(ASD)に軽度知的障害(境界知能?)を伴った女の子の「当事者」目線で描かれた世界が、見事に活写された映画なのだ。(ただし、原作も映画も彼女の障害名への言及は一切ない)

 例えば過剰な音。母親の書道教室を襖のすき間から覗き見していて偶然のり君と目が合い一目惚れするあみ子。思わず手に持つトウモロコシを握り締めると、ボタボタと音を立てて大量の汁が畳を濡らす。あり得ない。でも彼女の感覚ではそうなのだ。真夏の炎天下、母親が退院してくるのを玄関先でじっと待つあみ子。顎の先から止めどなく滴り落ちる汗が、焼けた道路に落ちてジュッという。あり得ない。

 帰ってきた母親は、あみ子の顔を両手で挟んで執拗に撫でくり回す。触られることが嫌で嫌でたまらない感じがリアルに伝わってくる。あみ子がずっと気になって仕方のなかった母親の顎のホクロも、大きくなったり小さくなったりするぞ。

 自分の心と他人の心が違うことが分からないあみ子だから、良かれと思って取った行動がことごとく周囲を傷つけ、母親も父親も優しかった兄も、のり君さえも次第に壊れてゆく。「応答せよ!応答せよ!こちらあみ子」と、誕生日にもらったトランシーバーに向かって彼女が何度呼びかけても誰からもどこからも応答はない。 

 プレゼントの使い捨てカメラであみ子が家族の記念写真を撮る場面も印象的だ。小津安二郎の『麦秋』や候孝賢『悲情城市』でも、家族がバラバラになってゆくのを惜しむように記念写真を撮るシーンが映画の終盤に出てくるが、この映画ではメインタイトルが出たあと、あみ子が1人キッチンで天井に夏みかんを投げる場面からのワンショット長回しに続いて早くも登場する。しかも写真はちゃんと撮られないまま終わる。何かこの後の展開を象徴しているかのように。

 映画の中盤からあみ子を悩ませる音。「コツコツ、ぐる、ササササ、ぼぶぼぶ」2階の自室ベランダから聞こえてくるこの正体不明の奇妙な音は、次第にどこにいても聞こえてくるようになる。「霊のしわざじゃ。幽霊がおるんじゃろ」坊主頭の男子にそう言われて、あみ子は「ある歌」を大声で歌うことで頭の中から奇妙な音を消し去ることに成功する。

 歌いながら音楽室に行くと、壁に掛かった額の中からゾンビになった歴代校長先生にモーツァルトやバッハ、トイレの花子さんまで出てきてあみ子に取り憑き、行列になって行進する。現実逃避したあみこが一人ファンタジーの世界に没入するシーンだ。この何とも楽しい場面は原作にはない映画オリジナル。あとで幽霊たちは再度登場し遠く海上からあみ子に手招きする。自死への誘惑では?という感想をネットで読んだが違うと思う。空想の中だけで生きて行けばそれもいいじゃん、ということなのではないか。

 原作の小説では、あみ子が10歳の誕生日から中学卒業後まで描かれるが、映画は2021年夏の1ヵ月間でクランクアップし、主演の大沢一菜(10歳)が一人で演じた。だから彼女が中学の制服を着るとちょっと不似合いで、幼さが際だってしまう。でも逆に発達障害児と定型発達児の差異が視覚的に露わになったとも言える。残酷なものだ。このあたりから後半は映画を見ていて正直辛くなってくる。

 ここで大切なことは「発達障害児だって発達する」という事実だ。もちろん障害が消失する訳ではない。努力して補うようになるのだ。中学生になったあみ子は、学校で自分だけ一人浮いていることに気付いている。学校は行きたい時だけ行き、久々に登校したら下駄箱の上履きがなくなっていて、仕方なく裸足で過ごす。守ってくれる兄もいない。唯一のアジールは保健室だ。

 雨の日に映画『フランケンシュタイン』(1931年版)をビデオで見るシーンがある。ビクトル・エリセ監督の映画『ミツバチのささやき』の冒頭、村の移動映画館で少女アナが魅せられる映画だ。異物として排除される怪物の哀しみ。

 原作は三人称一視点で書かれているため、読者はあみ子に感情移入しやすい。しかし映画だとカメラはあみ子だけの視点にならない。『鬼滅の刃』みたいに主人公が自分の気持ちをモノローグで説明することはしないから、映画の観客の中には「のり君視点」であみ子に(この映画自体に)強烈な拒絶反応を示す人もいるだろう。

 終盤に野球部で坊主頭の男子がもう一度登場する。あみ子は何故かこの男子とはコミュニケーションが成立するのだ。その証拠に二人の会話は通常のカットバック手法で撮影されている。あみ子が訊く「どこが気持ち悪かったかね」「おまえの気持ち悪いとこ? 百億個くらいあるで! いちから教えてほしいか? それとも紙に書いて表作るか?」「いちから教えてほしい。気持ち悪いんじゃろ。どこが?」 教えてやれよ!坊主頭。

 この映画の問題点を挙げるとすれば、原作者や監督が子供時代の話ならともかく、いま現在の設定(書道教室で生徒が二人Nintendo Switchを取り出す)だと、絶対にあり得ないということだ。   

 令和の日本なら、あみ子は小学校入学前に就学指導委員会で取り上げられ、その後の教育支援体制が確立されているはずだし、本人や家族への生活ケア・医療面での援助も当然すでに行われているに違いない。それを知りながら観客をミスリードした罪は大きい。このことを厳しく批判した文章を、成人になった当事者として映画を観た nohara_megumi さんが、2023年3月27日のブログに「映画『こちらあみ子』と発達障害(概要篇)」というタイトルでアップしている。これは必読。

 とは言え、ASD当事者がこの人間社会をどのように感知しているのかをリアルに示した文芸作品は今まであまりなかったから、その点は評価してよいと思う。自閉症の人が登場する映画はたくさんある。『レインマン』(1988)『ギルバート・グレイプ』(1993)『旅立つ息子へ』(2020) などなど。ただ、いずれも弟として兄として父親として当事者に接する側のストーリーだ。

 当事者自らが自分の内的世界を文章で表現した例で有名な著作は、『我、自閉症に生まれて』テンプル・グランディン(1986)、『自閉症だったわたしへ』ドナ・ウィリアムズ(1992)、日本では『自閉症の僕が跳びはねる理由』東田直樹(2007)が主たるところか。僕は、脳神経科医のオリヴァー・サックスがテンプル・グランディンにインタビューした『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫)を読んで知った。

「彼女は人間どうしの言葉にならない直感的な交流や触れあい、複雑な感情やだましあいが理解できない。そこで、何年もかけて『厖大な経験のライブラリー』をつくりあげ、それをデータベースとして、ある状況ではひとがどんなふうに行動するかを予測している。まるで火星で異種の生物を研究している学者のようなものだ」(p402)

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 テンプル・グランディンは人間が相手だと緊張と不安に苛まれるが、家畜には愛情と安らぎを覚え、その動物がなにを感じているか直感的に判るという。そして彼女は動物心理学、動物行動学のコロラド州立大学教授になった。

 「絵本」に登場するのは、たいてい擬人化された動物たちだ。二本足で立って服も着て、日本語を話している。なぜ人間ではなく、わざわざ動物に変換する必要があるのか? 『絵本論』瀬田貞二(福音館書店)にはこう書かれている。

「子どもは、なぜ動物が好きか、また動物文学が好きか。この質問に対してフランスのすぐれた児童文学者ルネ・ギョーが、明快にこう答えています。『子どもは、大人たちのなかにはいっていくよりも、ずっとずっと、動物のなかにはいっていくほうが、安心がいくんだ』まさにそうなのです。安心がいくからです」(p64) 僕はこの「安心がいく」が今ひとつ分からなかったのだが、『火星の人類学者』を読んで、なるほど!と初めて合点がいった。5b435c3a2a31419ca99b1e19081327c1__c  司馬遼太郎が昭和51年〜54年に新聞連載した小説『胡蝶の夢』の主人公、島倉伊之助(司馬凌海)が典型的なASDとして詳細にリアルに描かれていることは案外知られていない。幕末の日本で蘭方医療を先導したのは、大阪の緒方洪庵率いる適塾と東国では佐藤泰然の佐倉順天堂であった。泰然の息子、松本良順に弟子入りした伊之助には天才的な語学習得能力があり、長崎医学伝習所でオランダ人医師ポンペが行う講義を瞬時に理解し仲間に再度講義した。しかし奇行や人間関係のトラブルが相次ぎ、良順に破門されてしまう。

ASDの概念を知る由もない司馬遼太郎が伊之助をビビッドに描けたのは、彼の近くにモデルとなる人物が実際にいたからに違いない。もしかすると、司馬遼太郎自身にその傾向があったのかもしれない。「適塾」の塾頭だった村田蔵六(大村益次郎)の生涯を描いた『花神』は昭和44年〜46年に朝日新聞で連載された。僕は未読だが、村田蔵六もまさしくASDであったという。

 あみ子は左利きだ。アイザック・ニュートンもルイス・キャロルも、ベートーベン、グレン・グールドも左利き。エグニマ暗号を解読し思考型コンピュータの出現を予言したチューリング、それにビル・ゲイツも左利き。イーロン・マスクはASDであることを公言したが「自分は左利きではない」と言っている。あみ子は見事な連続側転を披露する。でもASDの子はそんなに運動神経よくないよ。

 近ごろは大人のASD当事者や同伴者による書籍・マンガであふれている。それだけ世の中の認知度が上がった証拠だ。しかし、SNSで呟かれる映画『こちらあみ子』の感想を読むと、まだまだ誤解や無理解だらけなことにショックを受ける。nohara_megumi さんの悲痛な訴えは実にもっともな話だ。「ボクシングもはだしのゲンもインド人も、もうしないって約束できますか?」という、尾野真千子の説教にも正直笑えない。

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 最近出た本で、これは!と思ったのが『凸凹あるかな?わたし、発達障害と生きてきました』細川貂々(平凡社)。ベストセラー『ツレがうつになりまして。』で知られる漫画家は、子供の頃から何事も「フツウ」にできない生きづらさを感じ、まるでジャングルの中をさまよっているような人生を送ってきた。彼女は48歳になって初めて自分が発達障害だと知る。幼児期から現在まで順を追って著者の経験談が四コマ漫画で具体的に丁寧に描かれ、読者もいっしょに追体験することになる。これがいい。さらに、同じ生きづらさを抱えた仲間たちのエピソードも載っていて、みな微妙に違っていることがよく分かる。大人になった「当事者」にとっては大きな救いと安心が得られるのではないか。

 前述のテンプル・グランディンは、講演の最後をこんな言葉でしめくくっている。

「もし、ぱちりと指をならしたなら自閉症が消えるとしても、わたしはそうはしないでしょう ---- なぜなら、そうしたら、わたしがわたしでなくなってしまうからです。自閉症はわたしの一部なのです」(『火星の人類学者』p391)

 映画のラストシーン。あみ子が遠く海を見つめ浜辺に凜として立つ姿を見て、僕は同じ決意を感じた。

2022年11月 3日 (木)

クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

『長野医報』11月号「特集:一杯のコーヒーから」が発刊されました。

 11月号は県医師会広報委員のぼくが編集担当で、テーマもぼくが決めたのですが、原稿がなかなか集まらず、自分も書かなければならなくなってしまいました。

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クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

上伊那医師会 北原文徳

 

 中央自動車道を飯田方面に南へ下って座光寺SAで下車し、西の山麓へずんずん上って行くと「信州たかもり温泉」にたどり着き、その北隣にちょっと硬派なジャズ喫茶「リデルコーヒーハウス」があります。店主こだわりの自家焙煎コーヒーをメインにアルコール類の提供はなし。小学生以下、3名以上での来店お断り。おしゃべり禁止。完全禁煙。店内には、高級オーディオシステムの巨大スピーカーからジャズが大音量で鳴り響いています。

 令和4年9月16日付の読売新聞14面に、1960〜70年代に流行したジャズ喫茶が再び注目を集めているという特集記事が掲載されました。最近のレコードブームでアナログ特有の暖かい深みのある音色に魅せられた海外の音楽ファンや日本の若者たちが、イヤホンでサブスク音源を聴くのが当たり前の現代、高級オーディオで大音量の音と向き合うことに新鮮な喜びを感じたのではないかと分析していました。

 ああ懐かしのジャズ喫茶。1977年〜1983年3月まで大学生だった僕もジャズ沼にはまり全国各地のジャズ喫茶探訪の旅に出て、記事に載っている東北の名店「ベイシー」「カウント」「オクテット」も実際に訪れました。土浦から常磐線経由青森行き夜行列車に乗ると東北方面は案外アクセスが良いのです。

 僕は筑波大の4期生で、当時の研究学園都市は茨城県新治郡桜村の地籍にあり、あちらこちら工事中。一雨降れば道路に水があふれ長靴は必需品でした。東大通り(ひがしおおどおり)沿いに中華丼が美味い「珍来」はありましたが、ジャズ喫茶みたいな文化的施設は皆無でした。「つくば万博」が開催されるまであと8年、「つくばエクスプレス」の開業は28年後なので、東京へ出るにはバスに30分以上揺られて土浦に出てから常磐線で上野までさらに70分かかりました。

 ジャズと映画に飢えていた僕は、週末になると上京して、池袋文芸座の土曜オールナイト上映で「大島渚特集」や「寺山修司特集」を観ました。夜明けの映画館を出て、始発の山手線に乗り込みそのまま熟睡して2〜3周もすれば、街はすでに賑やかになっていました。

 午前9時半からやっているジャズ喫茶は渋谷百軒店の奥にあった「ブレイキー」だけで、ここにはよく通いました。日曜日でも安価なモーニング(たまごサンド付き)をやっていて、暗い座席で煙草を吸いながら2〜3時間ねばれば、レコード片面ずつ5〜6枚を聴くことができました。ビリー・ホリデイ『レディ・イン・サテン』、ワーデル・グレイ、ウディ・ショウ。ここで初めて聴いて大好きになったレコード、演奏家がなんと多いことか! まさに僕にとってのジャズ道場でした。

 所持金にゆとりがある時は、大槻ケンヂ『行きそで行かないとこへ行こう』(新潮文庫)にも登場するカレーの老舗「ムルギー」でムルギー玉子入りカリーを食べました。美食家の山本益博氏が絶賛したラーメンの「喜楽」と共に、なんと今でも現役営業中です。

 新宿ではもっぱら「DIG」です。二幸(今の新宿アルタ)裏の雑居ビル3Fにありました。和歌山県新宮市の出身で日大芸術学部写真学科卒業のオーナー中平穂積氏が、植草甚一氏と知り合い1961年に開業した老舗のジャズ喫茶です。ビルの1階はレストラン「アカシア」。ホワイトソースのロールキャベツが有名で、当時確か380円でした。「DIG」の不味いコーヒーは400円しました。

 

 そんな僕が大学3年生になった夏の終わり、1979年9月9日のこと。筑波大学平砂学生宿舎共用棟の東側に隣接する商用地の2階に、突如『クリエイティブハウス AKUAKU』は出現しました。縦長の店内には、巨大なスピーカーJBL4343が左側面に設置され、中央にはグランドピアノ、奥は一段高くステージになっていました。昼間はジャズ喫茶、夜は食事もできるカフェバーで、遅くまで多くの学生たちで賑わいました。

 オーナーの野口修さんは地元桜村の出身で、音楽に限らず演劇・映画・現代美術にも造詣が深く、オープン1年前から当時まだ筑波大3期生の学生だった吉川洋一郎さん(作曲家・編曲家)岩下徹さん(舞踏「山海塾」ダンサー)浅野幸彦さん(アート・プロデューサー)の3人と協力して、この文化不毛の地にサブカルチャーの発信基地を立ち上げたのでした。「アクアク」というのは南太平洋の孤島イースター島の言葉で「何かを創造しようとする欲求」を意味するのだそうです。野口さんは当時「個人的な自由を離れた自由な場所が欲しかった」と語っています。

 オープニングライヴには山下洋輔トリオが呼ばれました。以後9月9日の山下トリオ公演は毎年の恒例となります。週末にはジャズに限らずロック、フォーク、ブルース、パンクの有名ミュージシャンたちが東京から海外からもライヴに訪れました。またギャラリーとして幾多のアーティストが個展を開き、スズキコージ氏や森川幸人氏はライヴペインティングのイベントを開催したりしました。さらに、演劇、舞踏、ダンス公演やワークショップ、詩の朗読会、各種講演会、映画上映など、その活動は実に多岐にわたります。

 

 当然のごとく、僕は「アクアク」に入り浸ることになります。いつしかスタッフの末席に加えてもらって、ライヴの手伝いをしながらタダで演奏を聴かせてもらい、打ち上げの宴会にもちゃっかり参加して、持参のレコードにサインしてもらいました。写真は、武田和命、森山威男、山下洋輔のサインが入った僕の大切なレコードたちです。

Img_2904(写真をクリニックすると、大きく拡大されます)

 マスターの野口さんは「アクアク」という空間を使って新たに何かやってみたい学生が持ち込む企画を寛大に積極的に受け入れました。僕が提案した「日活ロマンポルノ上映会」も、映写技術がある野口さんが16ミリフィルムと映写機を借りてきて難なく実現しました。特設スクリーンに映し出されたのは、僕が大好きな映画『㊙色情めす市場』(1974年/監督:田中登 キャスト:芹明香、花柳幻舟、宮下順子)です。客席も満員になり嬉しかったなあ。

 演劇では「転形劇場」を主宰する太田省吾氏が劇団員の佐藤和代、大杉漣と共に訪れて、無言劇『小町風伝』の一部を上演してくれました。能舞台をさらに超スローモーションにした役者さんの緊張感溢れる身体の動きは驚異的でした。

 僕が一番忘れられないのは、若松孝二監督をゲストに迎え彼が監督した映画『性賊 /セックスジャック』(1970年)を上映した時のことです。たしか野口さん自身のセレクトで「いまの学生たちにぜひ見てもらいたい映画」と言っていました。「あさま山荘事件」の2年前に作られた映画です。赤軍派の学生たちを模した武装革命グループが敗走して潜伏した先は、川向こうの貧民窟に住むまだ十代の青年の木造アパート。彼らは「薔薇色の連帯」と称してセックスに明け暮れる日々。青年は決して加わらず夜な夜な一人どこかへ出かけて行きます。彼はなんと孤独なテロリストだったのです。青年は河原でグループの男に呟きます。「天誅って、いい言葉ですよね」と。ラストで画面はモノクロからカラーに変わり、青年が真っ赤なジャンパーを着て颯爽と橋を渡って行くシーンで終わります。

 この赤いジャンパーは若松孝二監督が撮影時に着ていたもので、頭でっかちで何も出来ない学生たちを嘲笑うかの如く去って行く青年は、若松監督自身であり野口さんの分身であったに違いありません。僕は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えました。

 

 卒業すると直ちに信州大学小児科学教室へ入局させていただいたので、僕はその後の「アクアク」の様子は分かりません。マスターの野口さんは、学生だけでなく地元地域住民との交流を深める中で、文化的活動をさらに広範囲に展開するためには直接政治にコミットする必要があると思い立ち、1992年につくば市議会議員選挙に初当選。以後8年にわたり市議会議員を務めつつ店を経営しました。ただ彼は、当初から「アクアク」は20世紀のうちにお終いにすると決めていて、2000年12月に数々の伝説を生んだ名店「アクアク」は、出演者からも観客からも惜しまれつつ閉店しました。

 

 今年の2月末のことです。ツイッターのDMに野口さんから連絡が入りました。「アクアクのスタッフだった横沢紅太郎が、串田和美『キング・リア』の舞台監督を務めるから、松本まで観に行こうと思っている。おい北原、折角だから会えないかな?」そうして茨城から奥さんと軽自動車に乗って、はるばる松本まで野口さんはやって来ました。

 お会いするのは実に40年ぶり!でも、気さくで飄々とした佇まいは昔とぜんぜん変わらない。同期生の山登敬之君と以前アクアクの話をしていて、彼が「野口さんて、1955年生まれだから僕らと年そんなに違わないんだよ」と教えてくれて驚いたのを思い出しました。

 観劇のあとロビーにいたピアニストの谷川賢作さんとヒカシューの巻上公一さんを見つけると、野口さんは「よう」と気軽に声をかけ、彼らも「あれ、野口さん!」と旧知の親しい間柄であることが知れました。暫し話し込んだあと彼らとは別れて「しづか」に場所を移し、郷土料理を食べながら昔話に花が咲きます。じつに楽しい一夜でした。

(『長野医報』11月号 p14〜18 より転載。一部改変あり)

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長野医報11月号用 医師会会員にFAXで送った「原稿募集のための招請文」


YouTube: 一杯のコーヒーから 霧島昇・ミスコロムビア

 

特集「一杯のコーヒーから」

 

 「一杯のコーヒーから、夢の花咲くこともある〜」ミス・コロンビアと霧島昇が昭和14年に歌ってヒットしたこの曲は、服部良一が作った明るく爽やかな曲調が今聴いてもモダンで新鮮に感じます。日中戦争は泥沼化し、日本が太平洋戦争へ突き進もうとしていた当時の流行歌とは、とても信じられないです。

 現在に目を向ければ、新型コロナウイルスの流行は一向に収まらず、ロシアのウクライナ侵攻は長期化、国内情勢も円安と統一教会問題で揺れていて、ますます不安で暗い気分の毎日です。

 さて皆さん。ここはひとつ美味しいコーヒーでも飲みながら「ほっ」とひと息入れませんか? 毎朝ぼくは、ケニアかエチオピアの豆を碾いて実験用のフラスコみたいなケメックスのコーヒーメーカーで入れた一杯を飲み干してから「よし」と診察室に向かいます。

 コーヒー関連の楽曲には他にも「コーヒールンバ」ザ・ピーナッツ、「学生街の喫茶店」ガロ、高田渡が京都イノダコーヒーのことを唄った「珈琲不演唱」、海外では「Black Coffee」ペギー・リーがありますね。

 

 という訳で、コーヒーにまつわる投稿を募集します。お気に入りのコーヒー豆について。スタバでスマートに注文する方法。隠れ家にしている喫茶店。むかし通った名曲喫茶。文筆家の平川克美氏は荏原中延で『隣町珈琲』を営みながら新たな「共有地」の可能性を模索しています。

 いろんな切り口があるかと思います。皆様のご投稿を切にお待ちしております。

 

広報委員 北原文徳

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