2016年8月26日 (金)

永六輔さんのこと

■前回の続きを書く予定でいたのだけれど、このところ、ギターの練習が忙しくて書けない。

というワケで、しばらく前のツイッターに連投した「永六輔さん」の話題をまとめておきます。

永六輔さんといえば、奥さんとの最初の結婚記念日。まだまだ貧乏だったし、めちゃくちゃ忙しかった永さんに、奥さまは「あの東京タワーを私に頂戴」と言ったのだそうだ。その真偽を検索したら、自分のHPが出てきて驚いた。2002年12月22日の日記に書いてある。clio.ne.jp/home/kita/0301… 合掌。

ぼくが中学2年生ぐらいの頃だったか、『遠くへ行きたい』の取材で、大和田伸也さんと永六輔さん、それに『話の特集』編集長だった矢崎泰久氏が高遠町にやって来た。当時、キンキン(愛川欽也)のラジオ深夜放送を聴いてすっかりファンになった僕は、永さんに会いに行って色紙にサインしてもらった。

中坊の依頼に、嫌な顔ひとつせず永さんは筆ペンで絵入りのサインをしてくれた。「僕がね、一番に尊敬している淀川長治さんの言葉です」そう言って書いてくれたのが「私はかつて嫌いな人に会ったことがない」という言葉だった。赤マジックで印字も押してくれた。

律儀な永さんは、訪れたその土地でお世話になった人に、東京へ帰ってから(もしくは次の旅先から)必ず絵葉書を出した。高遠で蕎麦をご馳走した僕の父宛にも絵葉書が届いた。感動した僕は返事の手紙を書いた。住所が判らないので、TBSラジオ宛てとした。

当時、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」火曜日の愛川欽也DJの時に、よく永六輔さんが出演していたのだ。TBSラジオでは、遠藤泰子アナウンサーと『誰かとどこかで』という番組を長年続けていた。だから、ぼくはTBS気付で永六輔さんに手紙を出したのだ。

今でもよく憶えているけれど、もえぎ色の便箋を買ってきて、冒頭「あなた様」と書こうと思って辞書を引いたら、「貴様」と載っていたので、そのまま「貴様」で書き始めて投函したら、奇蹟的に「その手紙」が永六輔さんの手に渡って、翌々週くらいの何かのラジオ番組の中で永さんが、こう言った。

「あのですね。先日、とある中学生から手紙をもらったんです。開封してみたら、巻頭いきなり『キサマは』って書いてあって、たまげてしまったんですね。世も末だなって。」忘れもしない。ぼくはそのラジオ番組を聴いていたのです。(終わり)

■40年以上前の記憶はいい加減だ。兄に訊いたら、大和田伸也が高遠に来た時と、永六輔&矢崎泰久の2人が訪れたのは別の時で、日テレ『遠くへ行きたい』収録のあと、番組ディレクターから「高遠に変な田舎医者がいるよ」と聞いて、永さんがやって来たんだそうだ。その昔、黒柳徹子の恋人だった(?)劇作家、飯沢匡の足跡を辿る旅でもあったらしい。

2016年8月15日 (月)

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一

■テルメで6km 走った後にフロント前のロビーで、8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面に載っていた、元大阪大学総長、鷲田清一氏の『閉ざした口のその向こうに』を読んだ。さすが、しみじみ深く感じ入る文章だった。

ネット上でも、日経の無料会員に登録すれば、読むことができるが、以下、一部(というか、そのほとんどを)転載する。

 お盆前後の半日、両家の墓に参る。若い頃は墓参りは両親にまかせていたが、いまはわたしたち夫婦以外にその務めをする者がないから、空いている日を見つけ墓所を訪ねるのが、この季節の習いになっている。京都では十六日に「送り火」という、街をあげての精霊送りの行事もあるから、どこからともなく線香の匂いが漂ってくる。

 若い頃は逆だった。なぜこの日に、そしてこの日にかぎって厳粛な気持ちになるのか。そこに、大人たちのうさんくささを嗅ぎつけ、あえてその日を特別な日にしないぞと、家族の墓参りには同行しなかった。できるだけ普段どおりを装うようにしていた。これが十代の頃の、わたしなりの「大人」たちへの不同意のかたちであった。

 特別な日にあらたまって何かに思いをいたす。かわりに普段は平気でそれを忘れている。普段は弔いの思いもない者がその日だけ手を合わせる、線香を焚(た)く、そんなふうに形だけ整えるのを、偽善と感じたのだろう。「あらたまる」というのは、日々の思いがあってこその、その思いの凝集であるはずだと。(中略)

 いつの頃からか(中略)ときどきふと、思いもよらないものに目を止めるようになった。長年使ってきた艶のない食器にふと目を落としたり、通りなれた道を歩きながらふとこれを見るのも最後かもとしみじみ眺め入ったり、ふと見かけた子の行く末が気になったり、そして何より、とうにいない父や母、祖父、祖母のかつての姿を思い起こしたり。(中略)

 何年くらい前のことだろう、ある日ふと、食卓にあっても家族と目を合わせることのほとんどなかった父の姿が思い浮かんだ。細かな擦り傷だらけ、ところどころかすかに鈍い輝きを放つだけのあの食器のように。

 父とこころを割って話すことはついに最後までなかった。ずっとそう思ってきた。しかしほんとうは話していたのかもしれない。口から漏れかけた言葉にただこちらが気づかなかっただけのことかもしれない。「かたり」が「語る」であるとともに「騙(かた)る」でもあるように、記憶もまた、それと気づくことなく体の奥に刻まれていることもあれば、後からキレイな話につくり変えられていることもある。

 わたしには戦争の記憶はもちろんないが、父をめぐる記憶も終戦の数年のちから始まる。父については口下手というか口が回らないという印象がずっとあった。口数の少ない父がことさら寡黙になるのは、きまって戦地の話になるときだった。何を訊(き)いてもなしのつぶて。ちらっと「何でそんなこと訊くんや」という顔をするばかりだった。かろうじて聞き出せたのは、子どもの頃の事故で片眼の視力を失っていたので、前線の後ろ、衛生兵に配属されたということだけ。祖父が空襲の話を饒舌(じょうぜつ)にくりかえすのと対照的だった。

 同級生に訊くと、よその家でも親父というのはそんなものだったらしく、それ以上詮索することもなく月日は過ぎた。

 その沈黙を世代として受けとめなおす必要があると、このところ思いはじめている。声高の戦争語りには、子どもなりに反撥(はんぱつ)していた。が、その勢いで、言葉が滞るというかたちでの父たちの戦争の語りにも同時に耳を塞いでいたのだと思う。けれどもとさらに思う。「わたしたち」は太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。その人たちが断ち切ろうにも断ち切れなかったもの、少なくともその残照には「わたしたち」はふれていたはずなのだ。皮膚に細かいひっかき傷として残っているそれらを語りつぐ務めがわたしたちにはあるのではないか。

□ □ □

 父は死ぬまで仏壇だけは疎(おろそ)かにしなかった。生まれてすぐに母を亡くし、それからずっと親戚の寺で預かってもらっていたというから(この話も父ではなく親戚筋から聞いた)、理由はそこにあるかもしれないが、そのときだけは戦地で逝った戦友のことを密(ひそ)かに思っていたのかもしれない。あるいは、消えるような声でたどたどしくしかお経を読めなかったのも、たとえお経であっても、走る言葉は信用しないということがあったのかもしれない。いずれもすべて霧の向こうにある。

 父(たち)は何を拒んでいたのか。何を断念したのか。何がまだ済んでいなかったのか。

 足腰が弱くなって、ついでに「じぶん」というものまで痩せ細ってきて、何を見ていてもその光景に思いもかけずこの問いが重なることが増えた。父の代から引き継いだ盆の墓参りの道すがら、服にしみつく線香の匂いも昔とはかすかに違ってきている。

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一(8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面より)

■「『わたしたちは太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。」という言葉が重要だ。『わたしたち』とは、どこまでの世代が含まれるのか?

鷲田先生は、1949年生まれだ。以前ブログに書いた「同じ年生まれの人が気になるのだ」で調べてみると、村上春樹が同じ 1949年の早生まれだ。ちなみに、後で触れる予定の、辺見庸氏は 1944年生まれだった。

■ぼくの父は、大正8年の生まれで、昭和19年、慈恵医大を卒業し陸軍軍医学校に行った。戦地へ派遣されることはなかったが、3月10日の東京大空襲の惨劇を、軍医として目の当たりにしたという。

昭和20年10月。氷川丸に乗ってラバウルへ患者さんたちを引き取りに行くべく横浜港で待機中に、故郷の高遠町で外科医院を開業していた祖父危篤の電報を受け帰郷。翌年、亡くなった祖父の跡を継ぎ、父は27歳で内科医院を開業した。本当は、大学に戻って尊敬する教授がいた産婦人科学教室に入局する希望だったのだが、叶わなかった。

ぼくの長兄も、1949年(昭和24年)の早生まれだ。だから、鷲田先生や村上春樹氏の父親も、ぼくの父と同世代に違いない。

■村上春樹氏の父親も、中国大陸に従軍している。しかも、モンゴル・ソ連国境に接する「ノモンハン」だった。村上氏は、エルサレム賞受賞のあいさつ「壁と卵」の中で、彼の父親に触れている。以下抜粋。

 私の父は昨年の夏に90歳で亡くなりました。彼は引退した教師であり、パートタイムの仏教の僧侶でもありました。大学院在学中に徴兵され、中国大陸の戦闘に参加しました。私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。

一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと。父が祈っている姿を後ろから見ていると、そこには常に死の影が漂っているように、私には感じられました。

 父は亡くなり、その記憶も ---- それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに ---- 消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです。

2016年8月 8日 (月)

『A Child is Born 赤ちゃんの誕生』と『胎児の世界』三木成夫

■『A Child is Born 赤ちゃんの誕生』(あすなろ書房)の最新版 (2016/3/30初版発行)を見ていて驚いた。143ページの写真。

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これ、三木成夫先生の『胎児の世界』(中公新書)113〜115ページに載っている、受精36日〜38日の胎児の正面像スケッチの実写写真ではないか!

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2016年7月25日 (月)

木ノ下歌舞伎『勧進帳』(その4)これでおしまい。

■木ノ下歌舞伎は本当に面白かった。ぜひ、別の演目でもう一度観てみたい! そう思った。それから「ホンモノ」の歌舞伎の『勧進帳』を是非観たい、そう思った。たぶん、ちゃんと理解できるような気がしたから。個人的に思い入れが強い「富樫左衛門」がどう描かれているか確かめてみたいから。それに、木ノ下歌舞伎では省略された「弁慶の飛び六方」を見てみたいし。

松本で初めて見た木ノ下歌舞伎。すごい。凄すぎる。向正面砂かぶり席での観劇。感激した。スタイリッシュでスピード感にあふれ、ラップの歌にダンスもあって、でも確かに歌舞伎の『勧進帳』なんだ。随所で笑わされ、汗ビッショリのリー5世さん演じる弁慶には泣かされた。若い人たちのパワーに感嘆だ

先週の土曜日に松本で観た木ノ下歌舞伎『勧進帳』に、いまだ捕らわれている。義経が弁慶に手を差し伸べる場面。指先が何とも、凛として美しかったなぁ。それから宴会場面。「皆さん楽しそうですね」という時の富樫左衛門の表情。昨日の「今日のダーリン」を読んでいて、ふと判った。そうか「あはれ」か。

■『ほぼ日刊イトイ新聞』のコンテンツの中で、何故か「今日のダーリン」だけはアーカイヴスがサイトにない。日々消えてゆくことを目的としたコンテンツだったのだ。

だから、7月18日の「今日のダーリン」を『ほぼ日』のサイトで今現在読むことはできない。仕方がないので、当日の「今日のダーリン」をここに転載して、勧進帳を観た感想の「まとめ」とさせていただきます。

昨日、海のことについてちょっと書いた。
 いちばん最後のところに、しみじみ思って書いたのは、
 「海って、あのさみしさが怖いんだよなぁ」だった。

 しばらく経ってから、これは海だけでもないなと思った。
 いろんなものごとには、さみしさが隠れている。
 そして、そのさみしさというやつのことを、
 ぼくは嫌がっているのではなくて、おそらく、
 そこに浸ってじわぁっと快感を感じているのだ。
 
 なつかしいものや、あたたかいものについても、
 これは言えるような気がしてきた。
 ずっと昔に聴いた歌やら、人にやさしくされたこと、
 多くの人が好きだろうとは思うけれど、
 それは、どうも、なつかしさやあたたかさ
 そのものを求めているのではなくて、
 その奥に隠れている、
 いちばん根源的なさみしさを探しているのだ。
 
 ぼくらは、人の味覚がさまざま食べものの奥に、
 「甘み」を探しているように、
 あらゆる好きなもの、好きなことのなかに、
 「さみしさ」を発見しては、
 それに浸かってじわぁっとしている。
 これが、快感というものなのかもしれない。
 
 「さみしさ」が、いちばんの価値なのではないか。
 こう言うとずいぶん被虐的に聞こえるかもしれないが、
 うれしいだとか、よろこんでるだとか、たのしいだとか、
 みんな、そのことそのままの状態では続かないよ。
 かならず、「さみしさ」の影とともにあるものだ。

 この「さみしさ」というのが、
 すべての生きものの生きる動機であるような気さえする。
 脳細胞のさきっぽのシナプスが、
 もうひとつのシナプスに向かって「手」を伸ばす。
 そういう動画映像を見せてもらったことがあるのだが、
 あのたがいに伸びる手と手というのは、
 「さみしさ」がつなげているのではないだろうか。
 それを「あはれ」と言ってもいいんだけれど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夏は、たくさんの人が「花火」のさみしさに会いに行くね。

(ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」2016年7月18日 より)

■ところで、ウィキペディアによると「富樫左衛門」のモデルとなった「富樫泰家」は、頼朝から加賀国の守護に任命されていたのだが、義経・弁慶一行を本人と知りつつ通してしまった時に、たぶん彼はその責任を問われ頼朝から切腹を命じられるに違いないと思っていたはずだ。

ところが頼朝は、富樫泰家の加賀守護の職を剥奪しただけで、殺しはしなかった。彼は後に仏門に入り、奥州平泉を訪れ義経と再会を果たしたという。なんか、後日談としては出来すぎなんじゃないか? ホントかなぁ。 

2016年7月23日 (土)

木ノ下歌舞伎『勧進帳』(その3)

■木ノ下歌舞伎は、この7月に31歳になったばかりの木ノ下裕一氏が、まだ京都造形芸術大学の学生だった10年前に立ち上げ、今年で10周年を迎えた。木ノ下氏は、大学博士課程で、武智鉄二の歌舞伎論で 2016年に博士号を取得した、若いのに凄い学究肌の歌舞伎研究者でもある。


YouTube: KYOTO EXPERIMENT 2013 - Kinoshita-Kabuki

今回の『勧進帳』パンフレットに記された、木ノ下裕一氏の「ごあいさつ」の文章が素晴らしので、全文転載させていただきます。

松本のみなさん、はじめまして。木ノ下歌舞伎と申します。私たちは、様々な演出家とタッグを組んで歌舞伎の演目を”現代劇”に作り直している団体です。今回、お目に掛けます『勧進帳』は、2010年に初演した作品で、このたび2度目の上演となします。初演から再演の6年間で、世の中は大きく変わりました。

それにともない作品も大きく刷新されたことは、演出の杉原邦生さんが文章で述べられている通りです。杉原さんとは、これまでに9作品を一緒に作ってきました。いわば”木ノ下歌舞伎、最多登場演出家”です。彼はとにかく<果敢な探求者>です。作品ごとに実験を繰り返し、古典を現代化するとはどういうことなのか、その楽しさと難しさの”深み”にどんどん入り込んでいきます。彼に誘われるようにして、私はいくつもの<新しい風景>を見てきました。今回の『勧進帳』も、まぎれもなく新しい景色、木ノ下歌舞伎の<最新形>です。

そのような作品を松本で上演できることを、本当にうれしく思っています。思えば14年前、当時高校生だった私は、串田さんたちが創った歌舞伎を初めて見て、衝撃を受けました。”古典”がこんなにも溌剌と現代に息づき、エネルギーを発散することができるなんて……将来自分もこんな作品をつくってみたい! と強く志したのもその時のことでした。

ですから、私の<原点>である串田さんたちの歌舞伎と、私たちの<最新形>であるこの作品が、こういうカタチでご一緒できるなんて、感慨無量です。

「古典ってこんなにも現代人の胸を抉(えぐ)るんだ」「古典って堅苦しいものなんかじゃなくて、すごくフリーダムで、たくさんの可能性を秘めているものなんだ」ということを感じ取っていただけたら、本望です。本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます!               木ノ下裕一

■そうだ、木ノ下歌舞伎こそ『越境する舞台』であるな。それは、伝統芸能としての歌舞伎を軽々しくも自由に越境し、さらには1000年も前の平安時代末期の話を時空を飛び越えて、いま現代の物語として観ている観客たちの心の奥底に響き沈殿させるパワーを持っている。

「越境する」ということでは、今回の舞台の初日、2日目は、大ホールの方で上演されていた、コクーン歌舞伎『四谷怪談』は昼公演のみだったので、7月15日の夜には出演している歌舞伎役者さんたちや、現代演劇の役者さんたち、それに歌舞伎舞台関係者たちが、こぞって「木ノ下歌舞伎」を観に来ていたという。もちろん、中村勘九郎、七之助、獅童の三人、それに串田和美さんもね。これこそ、伝統芸能と現代演劇とが「越境」した瞬間なのではないか? 『勧進帳』出演者たちの気持ちを想像しただけで、なんだか身震いするぞ。

また、観に来た観客にとっても「越境」は必要であった。今回の『勧進帳』の公演は、東京での上演はないのだ。だから、芝居好きで「木ノ下歌舞伎」に注目する都内在住の人々は、新宿から「あずさ」に乗って、もしくは中央道を車で飛ばして3時間もかけて、東京都→山梨県→長野県と「越境」して松本までわざわざ来る必要があったのだ。

■そもそも、中村勘三郎と串田和美が始めた「コクーン歌舞伎」自体が、伝統芸能の上に胡座をかいて形式化・マンネリ化してしまった歌舞伎界を「越境」した試みであった。

先達て入手した『勘三郎伝説』関容子(文藝春秋)を読むと、227ページにこう書いてある。

 串田和美さんに出会って親交を結んだことは、中村屋にとって本当によかったと思う。演出家としての串田さんの詩的な表現に感激して、うっとりと語るのを何度か聞いた。

「この間、監督がね『三五大切』の三五郎はイタリア人で、源五兵衛はロシア人で演じてほしいって。これってすごくわかるよね。三五郎は、女好きでそそっかしくて軽いところがある。源五兵衛は陰気で得体が知れなくて重っ苦しい。」(中略)

 歌舞伎には新作を除いて演出家は存在しない。その演目の主役(座頭役者)が演出を兼ねるので、余程でない限り脇役が注文をつけられることはないに等しい。

 歌舞伎は個人芸を持ち寄って成り立つ物が多いので、あれだけの短期間の総合稽古で初日の幕が開くわけで、だから舞台稽古でも一人舞台のところは客席では誰も見ていない、ということもあり得る。

■ところで、主宰者の木ノ下裕一氏自体が「越境」してしまった人なのではないか? と感じているのだ。ネット上には木ノ下氏のインタビュー記事がいっぱい載っているが、読むとどれもみな、ほんと面白い。

特に、<これ>

読んで驚くのは、彼が小学生だった頃に「上方落語」にはまって、学校で休み時間にクラスで落語を披露していたところ「ぼくにも落語を教えて!」と弟子入り志願者のクラスメイトが殺到し、一時は10数人の弟子を抱えていたというのだ。小学生の分際で。たまげたな。

彼は、小学校を卒業したらプロの落語家になるべく、桂米朝一門の中でも特に大好きだった「桂吉朝」に弟子入りしようと本気で考えていたのだそうだ。

木ノ下:「桂吉朝師匠のところに行くつもりでした。当時はほぼ追っかけでしたから(笑)。実は大学に入ってからも迷っていて、何度か本気で噺家になろうかと考えました。しかし桂吉朝さんのお弟子さんで、ほぼ同世代の桂吉坊さんという方がおられることを知り、何だか勝手に自分の分身のような気がして「落語界は吉坊さんに任せた!!」と思い未練が切れました。

これを読んで「あっ!」と思ったのだ。そうか、桂吉坊か! と。木ノ下裕一氏のインタビュー動画を YouTUbe で見てみると、どうしても男性に見えない。「桂吉坊」と同じく、中性的な雰囲気が濃厚なのだった。本当のところは、どうなのだろうか?

2016年7月20日 (水)

木ノ下歌舞伎『勧進帳』(その2)

■「越境する物語」とは、どういうことか?

もちろん、国境(くにざかい)を越えるということが第一義。しかし、弁慶にとっては義経との「主従の関係」を逆転してしまうことであり、義経自身は「もはやこれまで」と死を覚悟したこの関所で「生死の境」を越えたということ。また、富樫左衛門は自らに課せられた任務を放棄して「その一線を越えてしまう」ことに相当する。

斯様に重層的意味合いが込められている訳だが、木ノ下歌舞伎ではさらに「ミルフィーユ」の如く、パイ生地とクリームが重層的に積み重ねられているのだった。

だって、弁慶役のリー5世は、20年近く日本に住むアメリカ人で、役者さんではなく吉本興行所属のお笑い芸人だよ。しかも、セリフは関西弁だ。でも、勧進帳を読み上げる場面や、畳みかけるような緊張感あふれる富樫左衛門との「山伏問答」の場面など、よどみなく流れるようにすらすらとセリフが出てきて、聴いていてとても気持ちが良かったな。あと、義経に小さな声で「ゴメンナサイ」というところ。泣けたよ。

なんでも、初演時の弁慶役だったアメリカ人は帰国してしまって『勧進帳』を再演したくてもできなくて困っていたら、演出の杉原邦生氏がたまたま NHK朝ドラ『マッサン』を見ていて、英語教師役で出ていた「リー5世」を見て、「あ、弁慶見つけた!」となったのだそうだ。面白いなあ。

■それから、初演時の義経役は、女優の清水久美子さんが、幅広の麦わら帽子を被って演じていたという。今回は出演者全員の衣装は「黒」だ。そう、映画『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の、トム・クルーズの感じ。でも、あんなにガンダム的ハードでメカニカルではないが真っ黒な戦闘服。少なくとも、山伏や強力の衣装ではなかった。

今回「義経役」を演じたのは、ニュー・ハーフの女優、高山のえみさんだ。ぼくは初めて見る女優さんで、その凜とした佇まいにビックリしてしまった。しかも、舞台が終わって「パンフレット」を読むまで、彼女が「もと男」であるという事実に、まったく気がつかなかったのだ。

とにかく、彼女の所作が美しい。スローモーションの「すり足」で登場する場面は、太田省吾の『水の駅』を彷彿とさせられたし、大きな体をめちゃくちゃ小さくして「ゴメンナサイ」する弁慶に「差し伸べる手」の指先が得も言われぬ色気と妖気と哀愁にあふれていて、ため息がでてしまった。ほんと、すばらしかった。

■岡野康弘、亀島一徳、重岡漠、大柿友哉の4人は、最初、富樫左衛門の番卒として登場したかと思ったら、義経・弁慶一行が下手から登場すると、瞬時に「一行側」の四天王役に早変わりする。これが場面毎に目まぐるしく入れ替わって、とにかく退屈しない。

生死を賭けた弁慶と富樫との、ぴーんと張り詰めた緊張の糸を、彼ら4人がいい感じで緩めてくれ(桂枝雀がいう「緊張の緩和」ですね)場内に笑いがあふれる。また、彼らは「口三味線」「口鼓」をアカペラで伴奏しながら長唄を歌い出したかと思ったら、いつしか曲はヒップホップ調となり、4人が交代でラップを始めるのだった。たまげたな。

場面転換で流れるクラブ・ミュージックの「ずんずん」お腹の底に響いてくる、モノトーンの高速ビートもカッコよかったなぁ。それから驚いたのは、ラスト近くで皆が踊り狂う場面。音楽がいつしか「ディズニーランド」の音楽になっていたぞ!

■リー5世演じる弁慶も、高山のえみ演じる義経も、キャスティングされた時点で「異形」であることが確約されていた。じゃぁ、富樫左衛門を演じる坂口涼太郎はどうか?

最初のシーン。登場するなり小さな椅子の上に体育坐りし、不敵な薄笑いを浮かべてじっと正面を見据える富樫。おぉ、充分すぎるほど不気味で、妖怪みたいで、まさしく彼も「異形」であった。

木ノ下歌舞伎のサイト「こちら」から、坂口涼太郎くんのインタビュー記事を読んでみると、興味深い発言があった。以下の部分だ。

坂口:「今回演じる<富樫>という人物について、まず完コピで掴んだことは、他者に絶望していて、周りに希望を持っていない、すごく生きづらい人なんだということです。人間関係も、裏切られるのが当然だと思っている。仕事として関を守っているだけで、感情は一切ない。

 でも弁慶と義経一行との出会いによって初めて、富樫の心は揺らいだんだと思います。でも今、邦生さんの演出がついて、また変わってきています。他者に絶望しているというのは今も同じなんですけど、山伏の詮議も「頼朝様のために」という意識ではなく、ただ上司の命令だからやっている。関にやってくる人を自分より下にみていて、それで仕分けしているし、人が困っていることに快感さえ覚えている気がします。」

■まだまだ続く予定。

2016年7月18日 (月)

木ノ下歌舞伎『勧進帳』 まつもと市民芸術館小ホール

■先週の土曜日の夕方、松本まで行ってお芝居を観てきた。

まつもと市民芸術館では、2年に1度の「信州まつもと大歌舞伎」として、今年の演目は『四谷怪談』をやっている。チケットはあっという間に売り切れて取れなかった。前回の『三人吉三』の時は、最上階一番奥の4等席(2000円)で観た。この日は「主ホール」で昼夜2公演。ロビーは大賑わい。芸術館裏の駐車場も満杯で駐められず、駅方面に戻って何とか駐めてから大急ぎで芸術館へ。

「小ホール」のほうで同時に上演されている、木ノ下歌舞伎『勧進帳』を観るのだ。ぼくは歌舞伎座で歌舞伎を見たことがない。その昔、市民劇場で来た前進座の『俊寛』を見たくらいだ。あとは、串田さんの『三人吉三』。そんなぼくでも、賴朝に追われて奥州平泉の藤原氏のもとへ山伏に変装して逃げようとする、義経・弁慶一行と、安宅の関所で待ち受ける富樫左衛門との、生死を賭した丁々発止の攻防を描いた『勧進帳』の「あらすじ」は何となく知っている、歌舞伎では最も人気のある演目の一つだ。

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その『勧進帳』を、「古き皮袋に新しき酒を」入れるように、歌舞伎という古典芸能を「木ノ下歌舞伎」として現代劇に再構築することで、いまの観客に「その魅力」を分かってもらおうと、まだ若いのに京都を拠点にここ10年精力的に活動を続けている木ノ下裕一氏(1985年生まれ)と演出家の杉原邦生氏(1982年生まれ。共に京都造形芸術大学卒)が見せてくれると聞いて、正直ぼくは『四谷怪談』よりも「こっち」を絶対観たい! そう思ったのだった。で、観れて本当によかった。大正解だった。

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■ステージは、写真(「こちらのサイト」から勝手に拝借ごめんなさい)にあるように、舞台上にさらに一段高く、ちょうどフェンシングの試合会場みたいな長細い「まな板状のステージ」が作られていて、バックステージにも観客席が設けられていた。ぼくは、お相撲で言うところの「向こう正面」中央の最前列(いわゆる砂かぶり席)での観劇。じつは全席自由だったので、悩んだ末に係員の薦められるままに「この席」を選んだのでした。その結果、今までに経験のない「かぶりつき席」で見上げる役者さんの一挙手一投足に、ただただ圧倒された80分間だった。ほんと、凄かったな。面白かった! 期待10倍以上だった。

■木ノ下歌舞伎『勧進帳』は、2010年に横浜で初演されている。しかし、今回松本での再演では、役者さんは亀島一徳(ロロ)重岡漠(青年団)の2人を除いて5人が刷新された(初演時は全部で5人だったのが、今回、四天王役が2人増員され、7人になったのだ)。

弁慶役には、吉本所属のお笑い芸人で巨漢のアメリカ人、リー5世。義経役は、ニュー・ハーフの女優、高山のえみ。さらに、四天王役&番卒として、岡野康弘と大柿友哉が招集された。最も重要となる「富樫左衛門」役には、個性派若手俳優:坂口涼太郎が抜擢された。

この、坂口涼太郎くんがよかった。難しい役だ。頼朝配下のしがない地方役人にすぎない富樫左衛門(調べてみたら、石川県知事ぐらいの役職だった!)。

富樫は、ここで是非とも手柄を上げ、主君に褒めてもらおうと思っている。しかも、前日まで人違いの山伏たちを関所で何人も無駄に切り捨てているのだった。しかし、役職の前に理知的な教養人としての矜持があった。変装しているとはいえ、部下の番卒に助言されるまでもなく、山伏たちが義経・弁慶一行であることは一目瞭然であったはずだ。なのに何故、彼は関所を通したのか?

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( 信濃毎日新聞朝刊/ 7月14日付:新聞記事をクリックすると、写真が大きくなり、記事が読めます。

あと、こちらは「東京新聞」での紹介記事です。)

■『勧進帳』というお芝居を「ひとこと」で表現するとすれば、それは「越境する物語」ということになるな。もしくは、登場人物がそれぞれの「結界を破る」はなし。(さらに続く予定)

2016年7月 9日 (土)

ロックて、何だ?(その3)『ガケ書房の頃』→ 小田嶋隆

■『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)の追補。 <ロックという概念> が載っている部分「ライブはじまる」p139〜145 の前後を含めて、もう少し抜粋する。

 今考えると、とても恥ずかしくなるのだが、ガケ書房のオープン時のキャッチフレーズは、ジャパニーズ・サブカルチャー・ショップというのと、ロックの倉庫というものだった(ああ、恥ずかしい)。カテゴリーイメージとしてはサブカルチャーもロックも、今の時代、微妙になってしまった言葉だ。しかし、店のイメージを限定されそうなサブカルチャーはともかく、ロックという言葉に関しては、そこに僕の明確な価値基準があって、ぜひ使いたかった。

 そのころの僕は、物事の判断基準に<ロックかどうか>を用いていた。僕にとって、ロックという概念は、音楽のジャンル以上に、あり方や考え方を指す言葉だった。それは、存在としての異物感、衝動からくる行動、既存とは違う価値の提示、といういくつかの要素を、どれか一つでも兼ね備えているものを指した。僕は、そういう本や音楽や雑貨をオープニング在庫として集めた。そして、それに追随してくれる人たちを待った。

 しかし、すでに使い古されていたロックは、たくさんのゆるい解釈を飲み込んでしまっており、僕と似たような概念でロックを捉えている人は少数のようだった。むしろ、そうではないのに、という誤解のイメージにさいなまれることの方が多かった。なので、すぐにそのフレーズは封印した。(『ガケ書房の頃』139,140ページより)

■生き方そのものが「ロック」な人と言えば、内田裕也さんだ。裕也さんは、舛添元東京都知事騒動にコメントして「舛添はロックじゃねぇ。フォークソングだ!」と言ったそうだが、そんな裕也さん自身が「すでに使い古された、ゆるい解釈を飲み込んだ」ロックのイメージを作り上げてしまったのではないか。

それで思い出したのが、少し前に話題になった「フジロックに政治を持ち込むな」論争だ。最近、毎日新聞に「特集記事」が載ったが、小田嶋隆氏が「日経ビジネスオンライン」で連載している『ア・ピース・オブ・警句』2016年6月24日(金)の記事「音楽は政治と分離できるか」 が、最もしっくりくる内容だった。そのとおり、彼らは奥田愛基とSEALDs が単に嫌いなだけなのだ。

ただ、ひとつ気になったことは以下の部分だ。

具体的には、「音楽」なり「ロック」なりが、もはや往年の影響力を失っているという、今回の議論を通じて私が到達した感慨が、たぶん、若い人たちには了解不能なのだろうな、ということが私の伝えたいことの大部分だということだ。

 私の世代のロックファンにとって、「ロック」ないし「音楽」は、人生の一大テーマであり、それなしには生きていくことさえ不可能だと考えられるところのものだった。

 大げさに聞こえるかもしれないが、私はある時期まで本気でそう思っていた。
 いまにして思えば、その考え(No music no lifeとか)は、半ば以上錯覚であり、それ以上に思い上がりだった。

 どういうところが思い上がりだったのかというと、私の世代の若者は(あるいは「少なくとも私は」と言った方が良いのならそう言うが)、音楽に惑溺している自分を、人並み外れてセンシティブだからこそ音楽無しには生きられないのだというふうに考えていたのである。

 現時点から見れば、どうにも手に負えない自家中毒だと思う。現実逃避でもある。
 バカみたいだと思う若い人たちは、笑ってもかまわない。

 が、ともあれ、そういうふうに「こじらせて」いるというまさにそのことが、当時は、ロックファンがロックファンであるための条件であると信じられていたのだ。

『ア・ピース・オブ・警句』2016年6月24日(金)小田嶋隆

■小田嶋さんは、これを書く少し前のツイートでこう言っている。

 

小田嶋隆 小田嶋隆
@tako_ashi
6月20日
個人的には、滑稽であれ、空回りしているのであれ、大真面目にロックを語っている人間に好感を抱いている。ほかの誰かがロックについて真剣に語る様子を嘲笑するタイプの人間は好きになれない。

基本、ぼくもまったくそのとおりだと思っている。青春時代に「音楽」が唯一の信じ得る「生きる糧」であった人間にしか言えない言葉だ。だから、ぼくは小田嶋さんの言葉を信じる。

2016年7月 4日 (月)

ロックて、何だ?(その2)『奇跡の人』→『ガケ書房の頃』

■5月中旬から読んでいる『項羽と劉邦』司馬遼太郎(新潮文庫)が、なかなか進まない。一昨日ようやく「上巻」を読み終わった。まだ(中)(下)の2冊が残っている。さらには、ケン・リュウ『蒲公英王朝記(1)』も続く。

それにしても「この本」は勉強になる。「バカ」の語源が書いてあったのだ。446ページ。秦の始皇帝が死んだあと、暗躍した宦官の「趙高」が実質的な権力の頂点に今はいる。

咸陽の宮廷で趙高がやっていることというのは、恐怖人事である。(中略)趙高は人々から心服されることを望むほど人間を愛してもおらず、信じてもいなかった。(中略)

あるとき趙高はこれら臣官と女官を試しておかねばならないと思い、二世皇帝胡亥の前へ鹿を一頭曳いて来させた。

「なんだ」

胡亥は、趙高の意図をはかりかねた。

「これは馬でございます」

 と、趙高が二世皇帝に言上したときから、かれの実験がはじまった。二世皇帝は苦笑して、趙高、なにを言う、これは鹿ではないか、といったが、左右は沈黙している。なかには「上よ」と声をあげて、

「あれが馬であることがおわかりなりませぬか」

 と、言い、趙高にむかってそっと微笑を送る者もいた。愚直な何人かは、不審な顔つきで、上のおおせのとおり、たしかに鹿でございます、といった。この者たちは、あとで趙高によって、萱でも刈りとるように告発され、刑殺された。群臣の趙高に対する恐怖が極度につよくなったのはこのときからである。

権力が人々の恐怖を食い物にして成長してゆくとき、生起る(おこる)事がらというのは、みな似たような、いわば信じがたいほどのお伽話ふうであることが多い。

『項羽と劉邦』(上)司馬遼太郎(新潮文庫)より

この話、リアルすぎてめちゃくちゃ怖いぞ。今から2300年も前の中国の話なのに、誰かさんに言われて、鹿を「馬でございます」と白々しくも言っている人たちが、いま現在如何に多いことか……。

■NHKBSプレミアムドラマ『奇跡の人』の脚本は岡田惠和氏で、登場人物にやたら「アホ」「バカ!」言わせているが、もう一つ出演者の口から頻発する単語がある。それが「ロック」だ。

■『奇跡の人』(第6話)。一択(峯田和伸)にとって、東京でたった一人の友人である馬場ちゃん(勝地涼)が、いつもの居酒屋で一択の愚痴を聞いてやっている。そこへ大家の風子さん(宮本信子)がやって来て、「訊きたいことがあるんだけど…」って、2人に切り出す。そのあと、

「ロックて、何?」って訊くのだ。

で、馬場ちゃんはこう答えるんだな。

「俺、じつは、ロックの原点てのは、アイツだと思ってんだ。外人は外人なんだけど、少年?『裸の王様』に出てくるさ、『あれっ? 王様はだかじゃね? 何やってんの笑っちゃうんだけど。じゃ、俺も脱ごうかな』。

みんながさ、分かってるのに『それ言う?』みたいなさ。軽くぽーんと言うワケよ。

(ビクビクした感じで)『みんな平気なんですか? 王様はだかじゃないんですか?』みたいな言い方するとさ、『うるせーな黙ってろよ』みたいな感じになっちゃって、世界は動かない。王様ははだかのまま。

でもさ、『あれっ? 王様はだかじゃね? はだかはだか! 裸の王様ヌード・キングじゃね?』みたいな言い方するとさ、みんなが『だよな。そうだよな!』みたいなふうにして世界は動く。それがロックでしょうよ。

ロックが空気読んじゃダメ。空気を切り裂くのがロックでしょうよ。ロックはうるせぇって言われ続けないと。だからみんなが、大きな音に慣れている感じだったら、さらに爆音出すワケでしょ。『どうだ、うるせーだろ、ざまー見ろ』みたいなね。」

「でもぉ、男と女のロックはこれが違うんですよねぇ。これがまた。

女のロックはね、すぱーっと行くのよ。前ぶれもなく、いきなり行く感じ。でも男は違う。男のロックはね、もう、うじうじうじうじグジャグジャグジャグジャして、ためてためて最後の最後にドカンと行くワケですよ。」

■まぁ、ぼくは中学高校生の頃はフォーク、大学生になってジャズに没頭したから、じつは「ロック」がよく分からないんだ。つい最近読んだ本に、その「ロック」の定義が書いてあって、「なるほどな」と思った。それが、『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)だ。以下は、ツイッターに載せたもの。

行ったことはないけれど、僕でも名前は知っている、京都にあった有名な本屋さん店主の半生記『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)を読み始める。面白い! 淡々とした筆致なのに不思議とぐいぐい引き込まれる。最初の「こま書房」「初めて人前で話したこと」で「つかみ」は完璧だ。(2016/06/16)
 
『ガケ書房の頃』つづき。家出して横浜に出て来た18歳〜29歳までの、様々な職業を転々としていた頃の話が凄まじい。つげ義春の漫画みたいな印刷工の話「むなしい仕事」。学習教材の訪問販売員だった「かなしい仕事」。
「僕は、その場所でしか通用しない悪しき暗黙のルールというものが世の中にはたくさんあるということを学んだ」(70ページ)
引き続き『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)を読んでいる。いいなぁ。実にいい。この人の文章が好きだ。淡々と醒めているようでいて、情にほだされる描写もする。「ライブはじめる」p142。友部正人さんに飛び込みの直談判で、PAなしの生音ストア・ライヴをオファーする場面。すっごくイイぞ。(2016/06/22)
店主の山下さんは、高校時代に大好きだったんだそうだ。友部正人。145ページに、最初の「友部正人・ガケ書房ライブ」フライヤー写真が載っている。アパートの汚いキッチン流し台の写真に、店主の手書き文字で「にんじん」の歌詞。「ダーティー・ハリーの唄うのは/石の背中の重たさだ……」
 懐かしいなぁ。ぼくも「この曲」が大好きなんだ。中学三年生の時、この曲が収録されたレコード『にんじん』(URC)を買って、高校時代もずっと何度も何度も聴いた。レコードを聴く環境がなくなって、すっかり忘れてしまっていたら、昨年思いがけなくナマで「この曲」を聴くことができた。
南箕輪村の酒店「叶屋」のご主人が友部正人の長年のファンで、毎年店で「友部正人ライブ」を行っていて、去年初めて僕も参加したのだ。知らない歌のほうが多かったけれど、突然あの「ダーティー・ハリーの唄うのは」で始まる『にんじん』のフレーズに僕はゾクゾクしたのだった。
 じつは、今度の日曜日。午後4時から、その酒屋「叶屋」で「友部正人ライヴ」があるのです。上田で小児科学会地方会があるので、行けないなと諦めていたのだけれど、地方会サボってライヴの方に行こうかな。(2016/06/22)
南箕輪村の酒店『叶屋』へ友部正人のライヴを聴きに行ってきた。パワフルでエネルギッシュで、若いなぁ、ロックだなぁって、感嘆した。『はじめぼくはひとりだった』(レコード持ってるぞ)に始まって、1st セット最後の曲『歌は歌えば詩になって行く』は初めて聴いたがいい曲だなぁ。最新CDのか。(2016/06/26)

Tomobe

それにしても、中学高校時代に大好きだったミュージシャンは、一生涯大好きなまま続いてゆくのだなぁ。しみじみそう思った。今日もサインしてもらおうとレコードとCDを持参したのだけれど、やめてしまった。来年は10回目とのこと。次回こそ!(2016/06/27)
 ちょっと追加。『ガケ書房の頃』140ページより引用。「そのころの僕は、物事の判断基準に<ロックかどうか>を用いていた。僕にとって、ロックという概念は、音楽のジャンル以上に、あり方や考え方を指す言葉だったからだ。それは、存在としての異物感、衝動からくる行動、既存とは違う価値の提示、といういくつかの要素を、どれか一つでも兼ね備えているものを指した。」(2016/06/22)
     この<ロックの定義>はいいんじゃないか。
p141「案の定、今かかっているのは誰ですか? とよく聞かれた。一番よく聞かれたのは、デビュー間もないハンバートハンバートだった。」(2016/06/22)
すごく久しぶりに『10年前のハンバートハンバート』を聴いている。2枚目のCD『道はつづく 特別篇』の15曲目『gone』。曲が始まる前のMCで、遊穂さんが、京都の本屋さん「ガケ書房」でライブやったねって、言ってた。2006年の録音だな。(2016/06/25)
「嘘みたいな話だが、ずっと動きが悪い本を棚から一度抜き出して、また元の位置に戻すだけで、その日に売れていくこともある。僕は何度もこれを経験している。人が触った痕跡というものが、そこに残るのだと思う。」『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)224ページ。
(2016/07/09)
わが家には、小沢健二のCDも本も全くないが、おとうさん「小澤俊夫」の昔話関連本と、おかあさん「小沢牧子」さんの児童心理学関連本は何冊もあるぞ。(『ガケ書房の頃』229ページ) (2016/07/09)
『ガケ書房の頃』(夏葉社)読了。圧倒的な満足感と共に深い余韻が残る稀有な読書体験だった。248ページの、いしいしんじさんとの対話を読んで泣けた。オザケンとのやり取りとか、人との出会いの大切さをしみじみ感じる。経営難にあがいてもがいて、めちゃくちゃ格好悪いところが逆にカッコイイぞ!
 特に、ラストの3行。まさに、「ロック」じゃないか! 『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)(2016/06/23)
       「めちゃくちゃ格好悪いところが逆にカッコイイぞ!」

 というのは、もちろん「早川義夫さんのレコードタイトル」にかけている。著者の山下さんは、辞めてしまった本屋の大先輩として絶大なリスペクトを早川さんに送っているワケだが、ぼくの感じでは、加島祥造さんのイメージに重なるのだ、早川義夫氏。よく言えば「老子」。悪く言うと「エロじじい」ごめんなさい。

■この本には、「著者あとがき」がない。まぁ、こうもカッコイイ最後の文章の後には、たしかに「あとがき」は書けなかったのだろう。でも、『ホホホ座』のサイトに「あとがきにかえて」という文章を見つけた。「バンス」のはなし。泣ける。

2016年6月24日 (金)

ロックって何だ?

■毎週すっごく楽しみにしていたテレビドラマ『重版出来』(TBS)と『奇跡の人』(NHKBSプレミアム)と『トットてれび』(NHK総合)が、相次いで終わってしまった。生き甲斐をなくしてしまったみたいで、ほんと空しい。あとは『真田丸』だけか……。

『奇跡の人』(第7話)で、光石研さんが演じる「八袋さん」が、「いい夜だぁ。生きててよかった」と、しみじみ言うシーンがある。このセリフは『泣くな、はらちゃん』で彼が演じた課長さんにかけた呟きでもあり、映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』で、松田龍平と決闘する峯田和伸に、ボクシングの決め技を伝授する小林薫と同じ役割(光石さんはレスリングだが)を果たしたからでもある。

『重版出来』(第9話)。デビューの決まった新人漫画家:中田伯(永山絢斗)も言う。「生きててよかった! 生まれてきてよかった」と。

『奇跡の人』(第8話)。山形から上京してきた ばあちゃん(白石加代子)が、一択(峯田和伸)にこう言うのだ。

「どうやって生きていったらいいか、そんなもんに答えはねえんだ。生きてくしかねんだ。人間は。あとは上等に生きるかどうかだ。わかっか?」

『奇跡の人』ラストシーン。一択は、海に向かって叫ぶ。

「生ぎででよがっだ! これからも、生ぎでぐぞぉ〜!」

「LOVE & PEACE & ROCK & SMILE だぁ〜!」

■以前にも書いたが、毎週日曜日の夜、このドラマを泣いて笑ってまたボロボロ大泣きして見終わると、何とも言えない「シアワセ」な気分になって、こんなバカが堂々と一直線に突っ走って生きてるんだから、どうしようもなくダメでクズな俺でも生きてていいんだって、カミサマに許してもらえたような気がしてきて、翌日のブルーな月曜日もなんとか頑張って乗り切ってこれたのだった。

この感じ、何かに似てる。そうだ、寄席とか落語会に行って、大笑いして、ちょっとだけ泣いて、満足して家路につく時にいつも感じる「シアワセ」な気分といっしょなのだ。落語の世界には、与太郎をはじめとして、とにかく「どうしようもないバカ」しか登場しない。

みんなに「バカ」「バカ」って言われながらも、じつは心底心配され、支えられ、愛されている存在。ドラマでは、峯田和伸が演じる亀持一択がまさに「それ」だ。映画でいえば、柴又帝釈天「とらや」の、おいちゃんが「寅はほんとにバカだねぇ」って言うセリフも同じだな。

映画『男はつらいよ』も、観客は見終わって映画館をあとにするとき、何とも言えない「シアワセ」な気分に浸っていたはずだ。でなければ、盆と正月は必ず「寅さん」を観に行こうなんて思わないもの。(まだまだ続く)

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