2018年11月19日 (月)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その135 ?)飯島町子育て支援センター

■昨日は、まるまる1年ぶりの「パパズ」。あ、それは僕個人的な話。僕が参加しなかった「パパズ」は、1月に山梨県石和でもあった。今年はオファーも実際少なかったのだけれど、メンバー皆が忙しく、折角オファーがあっても、ほとんど断ってきたのも事実。5人のうち3人がダメなら請けられないのだ。

今日は久々に3人だけ(伊藤パパは手良小の収穫祭で欠席、宮脇さんも市役所のお仕事で欠席)そろってのライヴと相成った。

< 本日のメニュー >

1)『はじめまして』

2)『たたんぱたたんぱ』のむらさやか・文、川本幸・製作、塩田正幸・写真(こどものとも 0.1.2. 2018年9月号) →北原

3)『もりのおふとん』(こどものとも年少版 2018年12月号)西村敏夫→坂本

4)『かごからとびだした』(アリス館)

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5)『あれこれたまご』(福音館書店) →倉科

6)『おかおみせて』ほしぶどう(福音館書店) →北原

7)『パンツのはきかた』岸田今日子(福音館書店)

8)『けっこんしき』鈴木のりたけ(ブロンズ新社) →坂本

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■なんだか、水野晴郎みたいな坂本さん。妙に似合ってるなあ。

9)『山んばあさんとむじな』山姥が登場する怖い絵本。→倉科

10)『ふうせん』(アリス館)

11)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

12)『おーいかばくん』(アンコール)

■ほんと久しぶりで、三線もギターもさわるのもメチャクチャ久しぶり。歌を歌うのも久しぶりで、歌詞も間違えてしまったよ。ダメだな。ごめんなさい。

2018年11月15日 (木)

『音楽家 村井邦彦の時代』(その1:作曲家デビューまで『キャンティ』の頃)

村井邦彦は、東京大空襲間近の 1945年3月5日、東京に生まれた。フランス系カトリック・小中高一貫高「暁星小学校・中学校・高校」(大学は慶応)の出身だ。小学校からの同級生に、歌舞伎役者の二代目中村吉右衛門がいる。

当時、都内でも有数の有名私立一貫高に通っていたということは、村井の実家は相当裕福な家であったと思われる。

■中学生の時に、ベニー・グッドマンのレコード『カーネギー・ホール・コンサート』を買って貰い、ジャズに目覚める。中学では、ブラスバンド部に入り、迷わずクラリネットを吹き始めた。

1961年(昭和36年)、村井邦彦 15歳。暁星高校1年生。浅草コマキ楽器のジャズスクールで中古を買ってもらってアルトサックスを習う中で、2歳年上の山田三郎(宮内庁御用達漆器店「日本橋・山田平安堂」の御曹司)と知り合い、「みどり色のパジリコスパゲティ」を食べに、飯倉片町にあるイタリアン・レストラン『キャンティ』へ初めて連れて行ってもらう。

山田は、『キャンティ』オーナー川添浩史の次男光郎(当時18歳)と仲が良かった。長男の川添象郎は、1960年(19歳)に父親の紹介で、ロバート・キャパのアシスタントを務めたあと渡米し、ラスベガスでシャーリー・マクレーンのステージを手伝い、ニューヨークに行ってフラメンコ・ギターを習得。その後スペインに渡って武者修行ののち1964年になって帰国するので、村井が『キャンティ』に出入りしていた当時は、まだ川添象郎とは出会っていない。

川添浩史は、後藤象二郎の孫にあたる。土佐藩参政であった後藤は、坂本龍馬が「船中八策」を示した相手。彼はその八策を持って、山内容堂に伝え、容堂から徳川慶喜に伝えられ「大政奉還」に至る。その後藤象二郎の孫なのだ。

出自は伯爵後藤猛太郎が新橋芸者のおもんとのあいだに生ませた庶子である。三菱銀行の取締役をしていた川添家の養子(川添紫郎)として育てられた。麻布の家には浩史専用の女中さんがいたほどの裕福な家庭だったようだ。(松岡正剛の千夜一冊より)

川添は早稲田大学在学中、1930年代のパリに遊学する。(つづく)

2018年11月13日 (火)

村上"ポンタ"秀一 〜山本潤子〜赤い鳥〜村井邦彦

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『村上"ポンタ"秀一 / Welcome to My Life』9曲目で歌うのは、元ハイ・ファイ・セット、元「赤い鳥」の山本潤子だ。曲は『月曜はブルーな日』。オリジナルは、シェールが1972年に出した「IT MIGHT AS WELL STAY MONDAY FROM NOW ON


YouTube: Cher It Might As Well Stay Monday (From Now On)


YouTube: 赤い鳥 月曜はブルーな日

この曲は、フォーク・グループ「赤い鳥」が、1973年に出したレコード『美しい星』4曲目に収録されている。この作品から正式に「赤い鳥」メンバーとなったのが、ギターの大村憲司と、ドラムス・村上"ポンタ"秀一だった。知らなかったな。ポンタさんのプロ・ミュージシャンとしてのキャリアの始まりが「赤い鳥」だったのか。

山本潤子は、ハイ・ファイ・セット(この命名は細野晴臣)を解散後ソロで活動を続けていたが、2014年3月29日、夫の山本俊彦が心筋梗塞で急逝。同年5月以降、無期限休業に入り現在も沈黙したままだ。

2015年9月に開催された村井邦彦の70歳(古希)を祝う『ALFA MUSIC LIVE』にも欠席した。紙ふうせんは出ていたのにね。誰よりも彼女の歌声を愛した村井は、本当に残念がっていた。

オフィシャル・ブログも、2015/01/24 から更新は止まったままだ。

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■「赤い鳥」の代表曲と言えば、『翼をください』だ。音楽の教科書に載り、老若男女をとわず誰もが知っていて、現在も世界中で愛唱されているエバーグリーン。この曲を作曲したのが、村井邦彦だ。

■前述の「ALFA MUSIC LIVE」は、同年11月7日に WOWOW で放送され、残念ながら前もって知らなかったので途中からの録画(細野さんが小坂忠を紹介するところから)になってしまったが、素晴らしいコンサートだった。恥ずかしながら、ぼくは村井邦彦が「アルファ・ミュージック」の社長であったことを知らなかったのだ。

今年の8月16日に、松本の古書店「アガタ書房」で、たまたま『[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代』松木直也(河出書房新社)を見つけ「おっ!」と手に取り即購入した。

10月半ばになって、山本潤子の『月曜はブルーな日』を聴き、ふと「この本」のことを思い出し読み始めたのだ。読みながら、その都度ツイートしていった。以下、このブログで「まとめ」て行こうと思う。

2018年11月11日 (日)

村上ポンタ秀一 & 大貫妙子「Yesterday Yes A Day」

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■先月の10月11日。県医師会広報委員会があった、長野からの帰りに寄った塩尻のブックオフで購入。『Welcome to My Life』500円だった。これだから「ブックオフ」巡りは止められないんだ。

村上”ポンタ”秀一「芸歴25周年」を記念して20年前に製作されたこのCDは、参加ミュージシャンがとにかく豪華だ。いまなら絶対不可能な企画CDだな。

ビックリなのが1曲目。ドラマーのCDなのに、ベーシスト「ジャコ・パストリアス」の傑作『ワード・オブ・マウス』の完コピ。しかもダイジェスト版。これが完璧でじつにカッコイイのだ!

『村上"ポンタ"秀一 / Welcome to My Life』


01. Jaco Pastorius Medley(バカボン鈴木・村田 陽一ソリッドプラス)
☆Soul Intro ~ The Chicken ~ Elegant Peaple ~ Liberty City
02. I Want You Back(NOKKO・白井良明・亀渕友香)
03. Travelling(近藤房之助・Char)
04. I've Got You Under My Skin(山下達郎)
05. 青い山脈(矢野顕子・山下洋輔)
06. Oh! Darling(井上陽水・大村憲司
・岡沢 章)
07. Jane Birkin Medley(大貫妙子・森まどか・EPO)
☆Yesterday Yes A Day ~ Les Dessous Chis ~ Ballade De Johnny-Jane ~ Di Doo Dah


YouTube: Yesterday Yes A Day  大貫妙子

08. 津軽 ~ 南部俵積み唄(二代目高橋竹山・香西かおり)
09. It Might As Well Stay Monday From Now On(山本
潤子)
10. Time Is On My Side(沢田研二・大村憲司・和田アキラ)
11. We Can Talk(忌野清志郎・ジョニー吉長・仲井戸麗市)
12. Left Alone(吉田美奈子・渡辺香津美)
13. ヨイトマケの唄(泉谷しげる)
14. Mambo No.5(高中正義・小原礼・国府弘子・MALTA・高橋ゲタ夫・中島啓江)
15. (The White Room ~ Sunshine Of Your Love) ~ Knockin' On Heaven's Door(桑田佳祐)
16. Welcome To My Rhythm(こんなオイラに誰がした) ~ 嵐を呼ぶ男(菅沼孝三・森高千里・東原力也・真矢・村石雅行・森山威男・神保彰・日野元彦・仙波清彦ほか)

どの曲も力作ぞろいで、特に4曲目の山下達郎が歌う、フランク・シナトラの十八番がお気に入りなのだが、思わぬ拾いものとでも言うか「おおっ!」と思ったのが、大貫妙子さんがカヴァーしたジェーン・バーキンの「Yesterday Yes A Day(哀しみの影)」だ。日本語で歌うその「歌詞」がすごくいい。

ところが、オリジナル曲の訳詞を探してみると、ぜんぜん違うのだ。あれっ?と思って、歌詞カードを見直すと <日本語詞:サエキけんぞう>となっている。サエキけんぞう氏の訳詞は、全然原曲に忠実ではなく全くのオリジナル歌詞だったのだ。

 「あなたは 私の中 深く深く 潜って ドアを開いた それは永遠(とわ)へ続く あのブルー」

なんて歌詞は、原曲にはどこにもない。でも、大貫妙子さんが唄うと、それでしかありえない詩になっているのだ。これには驚いた。

 

 

2018年9月20日 (木)

大貫妙子がいま、来ている(その2)


YouTube: ひまわり(映画『東京日和』より)大貫妙子

■前回の更新から、また1ヶ月も経ってしまった。


YouTube: [ひまわり8号] 寒冷渦と台風12号 2018.7.30 / CEReS, Chiba University

■北海道の地震とか、関西を直撃した台風21号とかいろいろあって、もうずいぶん前のことになるが、7月末に前代未聞の迷走をした台風があった。日本上空は常に偏西風が吹いているので、自走能力のない台風は南から北上すると、西から東へ抜けて行くのが常識だ。

ところが、この台風12号は東から西へ日本列島を通り過ぎて行った。伊豆半島では高波、高潮で大きな被害が出た。北東から張り出していた高気圧と「寒冷渦」のために、こんな変なルートを辿ったという。

■前回2回目の更新から、さらに1ヶ月以上も経ってしまった。すみません。

こんなことでは、もう誰も、ブログをフォローしてはくれてないんじゃないか?

■その「台風12号」が関東甲信越を通過した、7月28日(土)の夕方17時から、野辺山高原「八ヶ岳高原ロッジ」にある「八ヶ岳高原音楽堂」で『大貫妙子アコースティック・コンサート』があり、聴きに行ってきた。

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■前回の「森山良子 アコースティック・コンサート」の時には「宿泊パック」で予約したのだが、今回はコンサートのみの日帰り日程。台風直下、はたして無事帰って来れるのか、かなり不安ではあったがダメなら近隣のペンションに泊まって翌日帰ればいいやと、日程を強行した。

https://twitter.com/OnukiTaeko/status/1023225440087883776

■「八ヶ岳高原音楽堂」には駐車場がないため、八ヶ岳高原ロッジの駐車場に車を駐め、午後4時以後ロッジ正面からシャトルバスが音楽堂まで何度も往復しているので、宿泊客に交じってバスに。雨のカラマツ林を抜けて5分程で会場着。

バスを降りると、スタッフが4人傘を差して縦に並び、音楽堂の入り口まで乗客が濡れないように配慮してくれた。キャパ250人の「八ヶ岳高原音楽堂」でのコンサートは、チケット予約時点では座席指定ができない。

コンサート当日の受付ロビーで「くじ」を引き、その場で初めて座席が決まるという特殊なシステムを取っている。今回はやや後ろの席だったが、通路に面した席で足は楽だった。

会場ロビーには、ウェイティング・バーみたいに、無料のサンドウィッチとワイン(赤・白)ジュースが用意されていて、皆自由にグラスを取り、コンサートの開演を待っている。

台風直下だったから、当日ドタキャンで空席が目立つかとばかり思って会場入りしたら、なんと!ほとんど空席なく観客で埋まっていた。たまげたな。観客の客層は、前回「森山良子コンサート」の時とほぼ同じ。やたら平均年齢が高いのだ。夫婦が多かったけれど、みな50〜60歳代。若者は全くいなかった。

■バックステージは、特大ガラスの窓になっていて、白樺とカラマツ林、その後ろに広がる八ヶ岳高原が借景となっているのだが、この日は台風接近のため、猛烈な風に激しく揺れる木々と、斜めに吹きすさぶ雨粒が嫌でも目に留まる。しかし、以外と場内は静かで、音楽堂の屋根に打ちつける雨音もほとんど気にならなかった。

バック・ミュージシャンは、ピアノが、フェビアン・レザ・パネさん。父親がインドネシア人で母親は日本人、藝大出身。リーダーCDは2枚持っている。『ガネーシャの夢』のタイトル作は名曲だ。ベースの吉野弘志さんも藝大卒。昔からジャズのライヴで何度も聴いてきた人だ。

さて、大貫妙子さんが登場。想像以上に小柄で華奢な女性だった。なんか、明石家さんまの娘「IMARU」の雰囲気。あ、そうか。IMARU のほうが、大貫さんのマネをしていたのか。

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■大貫妙子さんの八ヶ岳でのコンサートは、今回が3回目なのだそうだ。初回の時は、いつも通りに臨んだのに、途中で頭痛は酷くなるは、息切れはするわで、大変な思いをしたそうだ。訳も分からずコンサート終了後にロッジ担当者に訊くと、「あ、ここ標高が1500m はありますから、空気が薄いんです。出演されたみなさん『苦しい、息が続かない』そう、おっしゃいます」と、言ったとのこと。

はじめの3曲は知らない曲だったが、4曲目「若き日の望楼」から「新しいシャツ」「横顔」と聴き慣れた曲が続く。「わたしね、基本的にカヴァー曲は歌わないの。でもこの曲は、缶コーヒーのCMに使われていて、クライアントの方から『この曲』を歌って欲しいという、たってのリクエストだったの」

そう彼女が言って歌いだしたのが、次の「シェナンドウ」だった。

昨日、台風が来る中行ってきた八ヶ岳高原音楽堂。嵐を呼ぶ女、大貫妙子さん。素晴らしかった!7曲目「シェナンドウ」で、一気に持ってかれた。涙がぼろぼろ出た。

続き)ピアノのフェビアン・レザパネさん(父親がインドネシア人で母親が日本人)ベースの吉野さんは、昔からファンで、CDを持ってったけどサインしてもらう機会はなかった。終演後とにかく早く帰ろうとしたからね。それにしても清里までの国道142号が暴風雨で、木が倒れていたりしてほんと怖かった

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金延幸子『み空』を、CD棚から探していたら、ティンパン関連のパナム・レーベルのコンピCDを見つけた。3年ほど前に、たまたま中古で購入したのだが、ちゃんと聴いてなかったのか?。大貫妙子「くすりをたくさん」「都会」「Summer Connection」「Wander Lust」が入っているではないか!

19曲目「What's Going On」にはたまげたな。俳優の柄本明が歌っている。しかも、メチャクチャ上手い。

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2018年8月21日 (火)

大貫妙子が、いま来ている

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■じつは、大貫妙子さんのレコードを持ってなかったので、今回再プレスされたレコード『ミニヨン』を買った。大貫さんにとっては「遠いむかし土に埋めてしまった封印レコード」なんだそうだが、ぼくは大好きなんだ。彼女の名曲『横顔』と『突然の贈りもの』が初収録されたレコードだからね。

で、さっそくプレーヤーに乗せて聴いてみた。う〜む。CDとは、確かに「音が違う」。でも、それが本当に「いい音」なのかどうかが自信はない。 ただ、この写真のような感じではあるな。音の輪郭を強調させたCDに対して、変にイコライザーをいじってない(人工的・作為的でない)耳に心地よい音がしたことは確かだ。

これを機会に、ぼくが持っている彼女のCDを集めて写真を撮ったのだが、どうしても見つからないCDがあった。「ここのずっと下の方」「ここ」で取り上げた『Live Beutiful Songs』だ。事あるごとにCD棚から取り出して、何度も何度も聴いてきたCDなのに、こういう時に限って何故か見つからないように出来ているんだね。

■いま、大貫妙子が来ている。

それは間違いない!

きっかけは、アメリカ人スティーヴ君(32歳)だ。昨年の8月、大貫妙子の伝説の名盤レコード『SUNSHOWER』を求めて来日し、都内中古レコード店を廻っていたスティーヴ君。遂にお宝レコードを手に入れたのでした。

その彼が今年の2月に再来日し、なんと! 大貫妙子さんのコンサートを観たあと、憧れの彼女と対面したというのだ。(まだまだ続く)

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■YouTubeによって、海外の若い音楽好きに再発見され、日本でも懐メロとしてではなく、いまの若者たちのココロに響いた「ジャパニーズ・シティ・ポップ」とは、どういう音楽なのか?

『レコードコレクターズ / 2018 3月号』(特集:シティ・ポップ 1973 - 1979 日本国内だけでなく海外でも高まる再評価熱の源泉と、その本質を探る)によると、「おおまかな意識として ”ソウルやジャズのエッセンスを取り入れた日本語ポップス” という括りはあるものの ”こうでなくてはいけない” という明確な定義はない」と、松永良平氏は書いている(31ページ) でも、なんか違うな。

同誌38ページで、渡辺亨氏はこう書いている。

70〜80年代のシティ・ポップとは、主に はっぴいえんど 〜 キャラメル・ママ 〜 ティンパン・アレー や元サディスティック・ミカ・バンド周辺のミュージシャンが、プロデュースや作曲、演奏等で関わっていたメロウで洗練されたポップ・ミュージック、さらには16ビートが取り入れられた歌謡曲。

これは正しい。ただ、坂本龍一が抜けている。特に、大貫妙子のレコードでの、坂本龍一の楽曲アレンジは、本当に素晴らしい。(まだ続く)

■萩原健太著『70年代シティポップ クロニクル』(Pヴァイン)は面白い。ぼくより2つ上で 1956年生まれの萩原健太氏自身が個人的に体験した「あの奇跡的な5年間」を一冊にまとめた本だ。「まえがき」にはこう書かれている。

 ポップ・ミュージックの歴史を振り返ってみると、やけに密度の濃い5年間というものが随所に存在する。たとえば、エルヴィス・プレスリーが地元メンフィスでローカル・デビューを飾った 54年からロックンロールという新種の若者音楽がシーンに定着した 58年まで。

あるいはボブ・ディラン、ビートルズ、ビーチ・ボーイズなどがデビューを飾った 62年から、かれらがそれぞれ『ブロンド・オン・ブロンド』『リヴォルヴァー』『ペット・サウンズ』という、デビュー時のシンプルな味から大きく成長した傑作を作り上げてしまった 66年まで。

 もちろん日本のポップシーンにもそれがあった。たぶん海外同様、時を隔てていくつか存在するのだろうが。1956年生まれのぼくがリアルタイムに体験した最強の5年間といえば 70年代前半。71〜75年という時期だ。

当時の日本のポップ・シーンは、本当に刺激的だった。すさまじいスピードで様々な形で融合し、交換し、競い合い、あるいは反発し合いながら、シーンを活性化させていた。(p7〜8)

■『70年代シティポップクロニクル』で取り上げられたアルバムは、15枚。

 『風街ろまん』はっぴえんど 『大瀧詠一』大瀧詠一 

 『摩天楼のヒロイン』南佳孝 『扉の冬』吉田美奈子 

 『Barbecue』ブレッド&バター 『サンセット・ギャング』久保田麻琴

 『MISSLIM』荒井由実 『黒船』サディスティック・ミカ・バンド 

 『HORO』小坂忠 『SONGS』シュガーベイブ 

 『バンドワゴン』鈴木茂 『センチメンタル・シティ・ロマンス』

 『火の玉ボーイ』ムーンライダーズ 『泰安旅行』細野晴臣 

 『熱い胸さわぎ』サザン・オールスターズ

■この本で大貫妙子に関する記述があるのは、『SONGS』シュガーベイブ の項だ。ただ、ほとんどは山下達郎についての話に占められている。萩原健太さんが渋谷ヤマハで店頭ライブの準備をしているまだ若かりし頃の山下達郎を目撃し、そのやたら突っ張って、神経がピリピリしている様子の描写がリアルで、なるほどそうだったのかと思わせる。

(以降「その2」へ続く)

2018年8月12日 (日)

最近読み終わった本(2)『レコードと暮らし』田口史人(夏葉社)

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「赤石商店」で、田口史人「出張レコード寄席」を聴いてきた。いやあ、面白かった。最後まで聴いてみないと判らないさまざまなドラマが、人知れず作られたシングル盤レコード、ソノシート、ラッカー盤一枚ごとに確かにあった。あと、ポータブル・レコードプレーヤーの音が案外良くって驚いた。

昨日「明石商店」で、高円寺「円盤」店主:田口史人さんのお話を聴いていて、TBSテレビ『マツコの知らない世界』に呼ばれるんじゃないかと思った。そしたら「タモリ俱楽部」に既に出演されていたのだね。

7月13日

先日「赤石商店」で聴いた、田口史人さんの「レコード寄席」の最後にかけてくれたレコード、豊中市立第五中学校校長・田渕捨夫先生が退職する時の、あの感動的な言葉が、36ページに書き起こされて載っていたよ!『レコードと暮らし』

続き)田渕捨夫校長先生のことば抜粋「いつも言う『過去』というものはみなさんの記憶にあるだけである。『将来未来』っちゅうものはみなさんの想像にだけある。実際に存在する実在は、今そこにあるみなさんそれだけなんだ」(『レコードと暮らし』田口史人著・夏葉社 37ページより)

続き)でも、田渕校長の言葉は、文字に起こした活字を目で追って読んでいても、伝わって来ないんだよなあ。ソノシートのレコードを、あの小さなポータブル・プレーヤーに乗せて、田口さんが神妙に神社の神主みたいな感じで、厳かにレコード針を落とすと、聞こえてくるのです。あの、田渕校長の声がね。

続き)先だって「赤石商店」にカレーを食いに行ったら、店主の埋橋さんが言った。「田口史人さんが帰る時、飯田線の時間がまだあったから、伊那北駅近くのレコード店『マルコー』に寄ってみたんです。そしたら、2階に案内されて、引き出しから「お宝」のレコードが次々と見つかった!」とのことです。

(以上は、ツイッターでの発言より再録)

■高円寺で、インディーズ・レコードや自作の自費出版本を扱う店「円盤」を経営する田口史人さんは、1967年の生まれだ。ぼくより9つも若いのが信じられないような、年期を重ねたこだわりのアナログ盤愛好家だった。肩まではかからない中途半端な長髪で、牛乳瓶の底のようなメガネをかける田口さんは、どことなく早川義夫の雰囲気があった。

レコード店に勤務したあと、音楽ライターとして活躍されていただけあって、とにかく文章が読ませる。淡々と書いているようでいて、対象物への限りない愛と慈しみが溢れ、内に秘めた熱情がメラメラと燃え出すような、読者のココロを鷲づかみする文章を書く人だったのだ。

■田口さんは車の運転免許を持っていない。だから、全国津々浦々、フーテンの寅さんみたいに、売り物のCDと本を詰め込んだトランクをぶら下げ、肩にはポータブル・レコードプレーヤーやレコードがたくさん入ったショルダーバッグという大変な出で立ちで、電車で移動巡業販売の旅を続けている。

営業の旅でありながら、レコードの仕入れ買取の旅でもある。その地方ならではの貴重な「出物」があるからだ。でも、彼が探しているレコードは、駅から遠く離れた郊外の「古道具屋」でしか扱っていない。古物商は、売れない在庫をたくさん抱えているから、その保管場所が必要だ。当然、地代の高い市街中心地に倉庫は持てない。へんぴな郊外にバラック仕立ての店を構えることになる。

伊那でいえば「グリーンファーム」であり、西春近広域農道沿いの古道具屋がそれだ。車を運転できない田口さんが、いったいどうやって「そんな店」を見つけ実際に訪れているのか、謎だ。そのあたりのヒントが、当日購入した「ホチキスでとめただけの簡易自主製作本:店の名はイズコ」に書かれています。この冊子も実に面白かった!

■前日の松本から飯田線に乗って伊那を訪れた田口さんは、赤石商店の埋橋さんに駅まで迎えに来てもらって、そのまま「グリーンファーム」へ。田口さんは以前にも訪れて中古レコードを多数見つけたのだそうで、今回も一枚 100円で購入したシングル盤を、当日の「レコード寄席」の始まりでまずはかけてくれた。

でも、激レア盤はそうは見つからない。田舎でも全国的に膨大な量が流通したソノシートがあふれている。中でもよく見かけるのが「佐渡交通」が製作して配った、佐渡観光記念ソノシートだ。全国各地から佐渡旅行に来た人たちが、地元へ帰って想い出にはじゃまなレコードだけ処分する。レコードの内容はほぼ同じなのだが、レコードジャケットは何故か100種類以上存在するという。

『レコードと暮らし』41ページには6枚だけカラーで載っている。切手収集みたいな感じなのか。田口氏は「全ジャケット」収集を目指していて、今回帰りに寄った「イチコー」で持っていなかった「佐渡交通レコード」を1枚見つけたのだそうだ。

田口さんの探究心は凄まじい。実際に佐渡まで行って佐渡交通本社を訪れ、いったいどんな人たちが「このレコード」を作っていたのか訊きに行ったのだそうだ。ところが、本社にはすでに担当者は勤務しておらず、分かる人が誰もいなくて「なんだか変な人が東京からやって来て困ったぞ」というドン引きの冷たい空気に包まれた田口さんは、結局「佐渡交通」では何も情報を得ることができず、淋しく会社を後にしたのだそうだ。せっかくはるばる佐渡までやって来たのにね。

そんな『レコードと暮らし』には載っていないエピソードの数々を、田口さんの「出張レコード寄席」で聴くことができます。瀬戸内海の直島で、村木謙吉の「おやじの海」が生まれた裏話も傑作だった。本には p106〜p114 まで大々的にフィーチャーされているけれど、当日の話では、それらのレコードにまつわる、さらに不思議なエピソードを披露してくれた。

という訳で、この本を読む前に田口史人さんの『出張レコード寄席』を実際に聴いてみると、本が10倍楽しめると思うワケです。

■いずれにしても、今年読んだ本の中では一番印象に残った「傑作本」です。(おわり)

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■追伸)本の表紙絵は、加藤休ミさんだ。彼女の細密クレヨン画はほんとうに凄い。絵本『きょうのごはん』(偕成社)以来のファンだ。

2018年8月 4日 (土)

最近読み終わった本。『幸福書房の四十年』『レコードと暮らし』

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■『幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!』岩楯幸雄(左右社)を読んだ。

今年の2月に代々木上原駅南口店を閉店した、街の本屋さんの語りおろし本。『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)もよかったけど、この本もしみじみよいなあ。

「小田急線代々木上原駅前で、20坪の小さな書店「幸福書房」を、この2月で閉店することにしました。約40年前、私と弟の2人ではじめた店を閉める直接のキッカケは、店舗の賃貸契約の終了なのですが、やはり売上不振が決断した一番の理由です。

「本が売れない」。専門家がいろいろいっていますが、全部当たっていると、店番でお客様の様子などを見ているとそう感じます。

 閉店のお知らせのポスターを店舗に貼りだしたところ、思っていた以上の反響がありました。驚いた。残念だ。続けてくれ。何とかならないか。少しならお金は出す。これらの言葉がこれからの人生にどれほどのはげましになるでしょう。」(p6〜7)

■「幸福書店」の営業時間は、午前8時から夜23時まで。お休みは正月元旦のみ。あとの364日は休まず営業。店主の岩楯幸雄さんと奥さん、それに岩楯さんの弟夫婦の4人で家族経営を続けてきました。北口店と南口店を営んでいた時は、正社員2人とアルバイトを雇っていた時期もありました。

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「昔も今も小さい書店へは本があまり入って来ません。書店の要望が通らないということです。そのため私たちは、最初の仕入れの段階からトーハンの店売というものに行きました。」(p17)

「書棚の一番下は引き出しになっています。店が元気な頃は在庫でぎゅうぎゅうになっていました。現在は、返品がはばかれるような『しょれた本』が入っています。もう時間が経ちすぎて返品が不能の本を『しょれた本』と呼んでいます。」(p28)

「仕入れについては、店の傾向、お客様の好み、自分の好みなど、結局は全てさじ加減です。お客様の顔を思い浮かべながら仕入れたからといって、『○○さん! この本入れておきましたよ!』なんてことはやりません。そんなのは嫌ですよね。行く度に声をかけられたり、定期購読を提案されたりしたらたまったものではありません。私がお客様ならそれは嫌です。」(p31)

「それと、当たりが良いのはやはり鉄道ファンの方々です。幸福書房のお客様で鉄道ファンの方は現在26人か27人です。顔もすぐ思い浮かびます。そして、雑誌が軒並み部数を減らしている中で、鉄道ファンの方々は絶対といっていいほど買ってくださる。とてもありがたいですね。」(p32)

「約40年の時代の時代の中で、出版業界は盛り上がり、そして苦しくなってきました。それは、私たち書店にも同じ事がいえます。ピカピカでなくなってしまったのは、本や雑誌が売れず仕入れのお金がないからです。ただ、それだけです。

 ここ10年で、雑誌の売上部数は驚くほど減り、様々な雑誌が廃刊となりました。」(p40)

「10年前まではとても文庫がよく売れました、いや、5年前までは文庫は売れました。そのよく売れた文庫本のスリップを正直に出版社に送ると、がんばりましたと文庫がたくさん送られてきます。しかし、最近では文庫が売れません。逆に、送られてくると困ります。どうしても欲しい本なら良いのですが、いらない本まで送られてきて、売れるかどうかも分かりません。なので、スリップは送らないのです。

 過去に送ったスリップの数によって、出版社からの本の入りやすさが決まります。幻冬舎には1回も送ったことがないので、入ってきにくいです。」(p53)

「本屋にもよりますが、毎日坪1万円売ることができたなら優秀な本屋といわれます。

この基準で幸福書房を考えるとどうなるか。幸福書房(20坪)の家賃は35万円です。2017年での1日あたりの平均売上は15万円なので、2日分の売り上げでは家賃を支払うことができません。これが今の幸福書房の現実です。とにかく苦しいのです。」(p55)

「幸福書房ではみすず書房、白水社、青土社の書籍をよく置いています。けれども、その置き場所は最初あった場所から徐々に移動して現在のレジ前の位置になりました。なぜ、場所が変わったのかといいますと、プロがいるのです。万引きのプロが。」(p71)

「大型書店でも(万引きが)結構頻発しているという事をいわれました。しかも、みすず書房の棚の担当の人がお休みの時を狙って万引きをされるそうです。(中略)

「万引きされて困るのは書店です。幸福書房で万引きが起こったら、幸福書房が売上として計上するだけです。それが出版社の売上になるので、損をするのは書店。」(p73)

2018年7月16日 (月)

「相澤徹カルテット」のこと (長野医報8月号:ボツになった「あとがき」より)

■長野県医師会の広報委員を拝命して1年になろうとしている。先輩広報委員の先生方のご支援のもと、今までなんとか務めることができた。本当にありがとうございます。

■次号「8月号」は3度目の担当号で、ぼくが「あとがき」を書く順番だった。珍しく締め切り1ヶ月前から力を入れて原稿を書いた。しかし、如何せん長すぎた。「あとがき」は1ページに収まらなくてはならない。という訳で、ボツ原稿になってしまいました。内容的にも少し問題があったのかもしれないな。仕方ないので、ブログにアップすることにしました。

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「長野医報8月号:あとがき」(ボツ原稿)

 山下達郎や大貫妙子の1970年代シティポップが、YouTubeによって海外で再発見され、いま注目を浴びています。しかし、日本国外ではネット配信されていない音源が多いため、熱烈なマニアはオリジナルレコードを求めてわざわざ来日し、都内の中古レコード店を物色して廻っているのだそうです。

 昨年の8月『Youは何しに日本へ?』(テレビ東京)に登場し、一躍注目を浴びた大貫妙子ファンのアメリカ人スティーヴ君(32歳)は、今年2月に再来日して遂に御本人との対面を果たし、再び大きな話題となりました。


YouTube: Youは何しに日本へ🗾🎌8月7日(月)18時55分~20時まで放送中です。✈

 1970年代に日本人が演奏したジャズレコードの希少盤も、いま海外の好事家の間では大変なブームで、一枚数十万円で取引されるレコードもあるのだそうです。その中でも最も入手困難な「激レア盤」として有名なレコードが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』です。

 イギリス人のジャズコレクター、トニー・ヒギンズ氏は、このレコードが日本人ジャズの中では一番好きだと断言します。彼が最近ネットに挙げた文章によると、当時、群馬県沼田市の赤谷湖畔でドライブインを経営していた地元の名士「橘一族」の御曹司、橘郁二郎氏が大のジャズフリークで、彼が注目していた地元のアマチュア学生バンドを、私邸に呼んで演奏させ録音したレコードが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』なのでした。橘氏は、このレコードを名刺代わりに数百枚ただで配りました。もちろん自主製作盤なので市販されていません。

 リーダーの相澤徹氏は、群馬大学医学部ジャズ研のピアニストで、レコードが収録された1975年3月に大学を首席で卒業し、信州大学医学部順応内科大学院への進学が決まっていました。他のメンバー3人は医学部ではなく、音大や法学部の大学生でした。


YouTube: Tohru Aizawa Quartet - Philosopher's Stone

 学生アマチュアバンドとはいえ、真摯で若さがほとばしるその熱烈な演奏は、絶頂期のジョン・コルトレーン・カルテットを彷彿とさせる鬼気迫るジャズを響かせます。バンドはこのレコードを収録後に解散してしまい、メジャーデビューすることはありませんでした。従って彼らの音源はこの1枚しか残されていません。

 一時はプロへの道も考えた相澤徹氏は演奏活動を止め、その後は医学の分野で名声を博します。大学院修了後にアメリカへ留学。帰国後は大学へ戻り、糖尿病を専門に研究。信州大学医学部医学教育センター教授を経て、現在は相澤病院糖尿病センター顧問を務めていらっしゃいます。このレコードをプロデュースした橘郁二郎氏もその後は数奇な運命を辿り、最後は田宮二郎と同じく猟銃で自らの命を絶ったとのことです。

Photo

(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

 この6月20日、なんと『TACHIBANA』は世界初でCD化され入手可能となりました。伝説の演奏は、43年経ったいまでも決して色褪せることはありません。

 さて、来月号の特集は「私の好きな作家・思想家」です。元国税庁長官の佐川宣寿氏が学生時代の愛読書として公言したのが『孤立無援の思想』高橋和巳(河出書房新社)でした。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

「どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。だが人の夢や志は、誰に身替りしてもらうわけにもいかない。他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。さて歩まねばならぬ」

 この本のことを唄った森田童子も、先ごろ亡くなってしまいましたね。

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注1)相澤徹氏は、松本の「相澤病院」理事長とは兄弟ではない。従兄弟かもしれないが、親類でも何でもないと、本人が発言しているという話もある。出身も、長野県松本市ではなく、茨城県水戸市だ。ただ、ぼくは相澤先生とは面識がないので本当のところは不明です。

注2)橘郁二郎氏の消息も不明な点が多い。猟銃自殺を遂げたという情報は、相澤氏の群馬大学医学部ジャズ研の後輩で、ピアニスト兼、脳外科医の「甲賀英明氏のブログ」 によります。

6月20日に出たCDのライナーノーツ(尾川雄介)の最後にも「橘は残念ながら後年自殺している。」と書かれています。

・この尾川雄介氏の解説、冒頭の文章がすばらしい。

「相澤徹カルテットの演奏には聴く者を真っ直ぐに貫く勢いと鋭さがある。それはただ鳴って中空に消えてゆく音ではなく、必至とも言える切実さでこちらに迫ってくる。しかも、さながら内圧に耐え切れずに噴出したマグマのように熱く滾っている。」

注3)佐川宣寿氏は 1957年生まれで、ぼくより1つ年上だ。連合赤軍、あさま山荘事件を経て、内ゲバ事件に辟易していた僕らの年代は「シラケ世代」と呼ばれた。だがしかし、2年後輩の「共通一次試験世代」とは決定的に違う。そのことは、ぼくと同い年の坪内祐三氏が『昭和の子供だ君たちも』(新潮社)の中で、詳細に語っている。

それにしても、佐川氏がなぜ「高橋和巳」だったのか? 謎だ。高橋和巳が草場の陰で泣いてるぞ!

注4)相澤徹カルテットに関して、ぼくがツイートしたのを、以下にあげておきますね。

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ついに入手。相澤徹カルテット『 TACHIBANA』1曲目「賢者の石」めちゃくちゃカッコイイ! (6月24日)

イギリスから、またまた超ディープな「和ジャズ」コンピが届いた『SPIRITUAL JAZZ vol.8 / JAPAN: Parts 1+2』だ。選曲は JAZZMANレコードのオーナー、ジェラルド・ショートと尾川雄介。先発の『J-JAZZ: Deep Modern Jazz From Japan』とは一曲もダブらない。凄いぞ!日本語訳ライナーノーツ付き。

 

続き)このコンピで出色なのは、高柳昌行(g)が2曲、森山威男が2曲ちゃんと選曲されていることだ。高柳が「SUN IN THE EAST」と、TEE & COMPANY「SPANISH FLOWER」。森山は「EAST PLANTS」と「WATARASE」だ。森山さんは松風鉱一「UNDER CONSTRUCTION」でもタイコを叩いている。

 
続き)この2枚組CD『SPIRITUAL JAZZ vol.8 / JAPAN: Parts 1+2』にも『J-JAZZ: Deep Modern Jazz From Japan』にも収録されているのが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』だ。まったく知らないグループだった。ライナーによると、群馬のアマチュア学生バンドの自主製作版とのこと。ところが、演奏が凄い
 
続き)まるで、1964年〜65年頃の後期コルトレーン・カルテットみたいな、強烈に熱い演奏を聴かせてくれる。特に『スピリチュアルジャズ8:日本編』CD2の2曲目に収録された「サクラメント」がいい。3拍子だからね。ピアノを弾く相澤徹は、板橋文夫みたいだ。モロぼくの好みじゃないか!
 
続き)で、検索してみたら、RTした記事を見つけた。ビックリだ。相澤徹は群馬大学医学部を主席で卒業後、信州大学医学部内分泌学教室大学院に進学。ちょうどその頃、このレコード盤はプロモーション目的でわずか数百枚プレスされた。もちろん販売はされなかった。それが今や世界中から垂涎の激レア盤
 
続き)主席→首席の間違い。相澤は演奏活動をやめ、本業の医学の道を邁進する。1975年群馬大学医学部卒業。1982年信州大学大学院修了。オレゴン大学研究員、ロチェスター大学研究員、信州大学健康安全センター教授、信州大学医学部医学教育センター教授を経て、2010年から相澤病院糖尿病センター顧問。
 

なな、なんと! 噂の激レア盤『TACHIBANA』相澤徹カルテットが、6月20日にCDで再発されるとのこと。ほんとビックリ!

 
 
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「長野医報8月号:あとがき」(書き直して採用されたもの)

 

 サッカー・ワールドカップ日本代表チームの快進撃には心底驚きました。ドーハの悲劇から約25年。日本サッカーはいま、遂に世界と対等に戦えるレベルに達したのですね。

 先日、恵俊彰の「ひるおび」(TBS)を見ていたら、スポーツライターの二宮清純氏が面白いコメントをしました。サッカー日本代表の歴代外国人監督を、学校の先生に例えたのです。ハンス・オフトは小学校の先生で、平仮名から九九まで基礎の基礎を教え、トルシエは中学部活のスパルタ指導者。ジーコは大学の名誉教授で、オシムは高校の物理の先生。ザッケローニとハリルホジッチへの言及はありませんでした。もちろん、西野監督の采配振りは賞賛に値するが、歴代監督の地道な指導があってこその大躍進であると。

 江戸時代末期、西洋近代医学が日本に導入された過程においても、外国人医師の献身的な指導がありました。シーボルトが長崎を去って30年後の安政四年(1857)、オランダ人軍医ポンペは軍艦ヤパン号(のちの咸臨丸)に乗って日本にやって来ました。彼を迎えたのは、御典医の松本良順。順天堂の創始者、佐藤泰然の次男で、勝海舟が長崎海軍伝習所を開いたその隣に、医学伝習所を開設します。ポンペはユトレヒト医科大学で受講したノートを元に、物理学、化学、繃帯学、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学、公衆衛生学に到るまで、たった一人ですべて講義しました。

 噂を聞いて全国から蘭方医が集まりました。佐倉順天堂から佐藤舜海と関寛斎、緒方洪庵の適塾からは長与専斎と洪庵の嫡子平三。福井藩からは橋本左内の弟他多数。しかし蘭学に精通した彼らも、オランダ語を聞いたのは初めてで、ポンペの授業を全く理解できませんでした。仕方なく、松本良順と彼の弟子、島倉伊之助(司馬凌海)が漢文に翻訳し補習授業を行いました。

 ポンペは「医者にとって患者は平等である。医者はよるべなき病者の友である」と説きました。身分差別が当たり前の受講生には、雷鳴をきく思いがしました。5年後、ポンペは帰国します。しかし、日本で精魂使い果たした彼は、ほとんど抜け殻のような余生を送ったとのことです。(司馬遼太郎『胡蝶の夢』より)

 さて、9月号の特集は「私の好きな作家・思想家」です。どうぞご期待下さい。
 
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2018年6月28日 (木)

今月のこの一曲『ユニコーン』作詞:友部正人、作曲:原田郁子


YouTube: 原田郁子fujirock08

■3年くらい前の6月(2015/06/13)に、クラムボンの「Folklore(フォークロア)」を取り上げた。6月に台風がやって来る歌だったからね。

以前から、6月は鬼門で、いろいろと厄介なことが起きてきた。確か、そのちょうど1年前(2014年の6月7日)体調を崩し伊那中央病院に2週間入院することになるのだった。慢性硬膜下血腫だった。転倒を繰り返す、老人の病気じゃん。ほんと恥ずかしい。どこで転んだか、よく覚えていないのだ。

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■クラムボン「フォークロア」に関して書いた、その約1ヵ月後の 2015年の7月5日、このとき初めて、2007年から毎年この時期に南箕輪村の酒店「叶屋」で開催されている「友部正人ライブ」に参加したんだ。そのとき、彼が歌ってくれたのが、この「ユニコーン」だった。なんていい曲なんだ。なんていい歌詞なんだ。マジで泣いてしまったよ。

 友部正人を知ったのは、ぼくが中学2年生の時だ。1972年のことだ。フォークソングがブームだった。吉田拓郎のレコードは無視したが、泉谷しげる『春夏秋冬』、加川良『親愛なるQに捧ぐ』と買って、特に加川良はそれこそ毎日毎日レコードがすり切れるほど聴いた。フォークギターも買ってもらって、フィンガー・ピッキング奏法とか一生懸命練習した。

そして、1973年に入ってから新宿のレコード店「アカネヤ」で入手したレコードが、友部正人『にんじん』(URC) だ。加川良とはぜんぜん違う友部の歌声は衝撃的だった。特に『乾杯』って曲。1972年2月に、日本国民全員がテレビの前に釘付けとなった、あの「あさま山荘事件」を唄ったトーキング・ブルース(加川良「下宿屋」や、海援隊「母に捧げるバラード」みたいに、唄わない歌のこと)だ。キーが外れた彼の歌声は正直下手だ。だけど、14歳の中2男子のココロには真っ直ぐ突き刺さったのだ。そう、一本道の「中央線」みたいにね。

■最近読んだネット記事によると、人間は14歳の時に聴いた音楽が、その人の一生に、ずっと強い影響を与え続けるのだそうだ。ほんとその通りだと思う。あの頃信じたものは、みんな「ほんもの」なんだよ。絶対にそうさ!

なにも音楽だけに限らないぞ。ぼくの場合、TBSラジオ・アナウンサー林美雄の深夜放送「パックイン・ミュージック」の影響は絶大だった。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■そうさ! 60歳になろうとしているというのに、未だに中坊だった14歳の自分を抱えているのさ。それが「ユニコーン」なんじゃないかな? 

君から生まれた ぼくは

ユニコーンだよ

若い涙は

強い角になったよ

君から生まれて

孤独を知ったよ

音のない世界で

■Twitter より。

南箕輪村の叶屋酒店での友部正人ライヴ。今年で11年目だって。毎年6月末にこうして目の前で友部さんに歌ってもらえる贅沢を噛みしめている。ラス前の「一本道」「反復」そしてアンコールで「遠来」と「夕日は昇る」を歌ってくれたよ。来年もまた来てくれるって。

続き)叶屋店主の倉田さんが、開演前にリクエスト曲を募って回っていたので、ぼくは「ユニコーン」をリクエストした。友部正人さんの詩にクラムボンの原田郁子さんが曲を付け彼女がソロで歌っている。大好きなんだこの曲。CDも買った。ただ、初めて聴いたのは3年前のここ叶屋で、友部さんが歌ってくれたんだよ。

続き)前半で友部さんが歌ってくれたのは「ぼくは君を探しに来たんだ」「ある日ぼくらはおいしそうなお菓子を見つけた」「いっぱい飲み屋の唄」「歯車とスモークド・サーモン」「夜よ、明けるな」「朝は詩人」「ダチョウのダック」「地獄のレストラン」あとは忘れちゃった。

続き)後半で友部さんが歌ってくれたのは「誰もぼくの絵を描けないだろう」「マオリの女」「老人の時間 若者の時間」「小林ケンタロウの回鍋肉」そして、歌ってくれましたよ「ユニコーン」。泣いちゃったな。

続き)あ、いま思い出した。最初の頃に「待ちあわせ」と「けらいのひとりもいない王様」も歌ってくれたな、友部正人さん。

メモしていたワケじゃないから、ものすごく不正確なのだけれど、あと「日暮の子供たちの手を引いて」「船長坂」「ブルース」も歌ってくれた。「ブルックリンからの帰り道」もだっけ?

友部正人に関して書いた過去の記事(2016)

友部正人に関して書いた過去の記事(2017)その1

友部正人に関して書いた過去の記事(2017)その2

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