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2022年1月

2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

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■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

・・・

■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2022年1月11日 (火)

ムッシュ松尾の「僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」at the『リデルコーヒーハウス』

■1月9日(日)の午後、延滞していた本をを南箕輪村図書館に返却し、代わりに最近ツイッターで話題になった『辛口サイショーの人生案内デラックス』最相葉月(ミシマ社)を借りる。

そのあと、伊那インターから中央道下り線に乗って「座光寺パーキングエリア」で下車し、左手山側へずんずん上って行って突き当たりを右折。橋を渡ってすぐ左手に、高森町の日帰り温泉「信州たかもり温泉 湯ヶ洞」があって、その北側の急な坂道をちょっと上ると、目指すジャズ喫茶『リデルコーヒーハウス』だ。

■営業時間は< 15:03 〜 21:03 >。休店の日は、ブログで確認のこと。

団体客お断り。2人連れまで。駐車場に車が3〜4台とまっていれば、ほぼ満席と、2階の店内の面積はそこそこ広いのに、コロナ対策で厳しい人数制限がなされている。

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お店の窓から南アルプス荒川岳を望む。右側に行くと赤石岳

ここでは、1月いっぱいムッシュ松尾の僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」が開催されていて、ツイッターでたまたま知ったので、コロナは心配ではあったけれど、我慢できずに見に来たのでした。

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■ところで、これらのマッチを収集した「ムッシュ松尾」氏って、誰? 何者??

僕はまったく知らなかったのだが、いろいろ検索するうちに判ってきたことは、豊丘村在住で同村内に『HAPPY DAYS』という雑貨屋さんを経営し(この1年半はコロナのため休業中)懐かしい様々な物品を収集している「サブカルおやじ」であるらしいということだ。

■むむっ? 「松尾」+「豊丘村」!? と言えば、いまの若い人たちなら即座に「GLIM SPANKY」のヴォーカル:松尾レミ を思い浮かべるだろう。ということは、もしかして、ムッシュ松尾は、松尾レミのお父さんなのか? 

ピンポーン! → 正解でした! 喫茶店のマスターにも確認しました。

この松尾レミのインタビュー記事(2018年 春)を読むと、彼女は「父親は61歳のカルチャー好きなヘンなおじさん」と発言している。ということは、現在 65歳か。僕より2つ上だな。そうなると、1975年〜1980年頃に彼が暮らしていた東京と京都? で、これらのジャズ喫茶のマッチは収集されたものと思われます。

■3つのテーブル上に並べられた個性あふれるマッチは、約300個。東京のジャズ喫茶が主で、あとは京都のジャズ喫茶。「イノダコーヒー」や、名曲喫茶(渋谷道玄坂百軒店「名曲喫茶ライオン」など)、ロック喫茶のマッチもある。長野県内のジャズ喫茶のマッチもいくつかあった。(松本「アミ」伊那「あっぷるこあ」「カフェドコア」飯田「ブルーノート」) それにしても、ホントよく集めたねえ!!

■この中で僕が行ったことがあるジャズ喫茶は、19軒しかなかった。

 新宿「DIG」「DUG」「びざーる」「木馬」「ピット・イン」 

 渋谷「ジニアス」「ジニアスII」「デュエット」「スゥイング」「音楽館」「メアリージェーン」

 自由が丘「アルフィー」 四ッ谷「いーぐる」 上野「イトウ」

 京都「しぁんくれーる」「52番街」

 伊那「あっぷるこあ」 松本「エオンタ」「アミ」

僕は茨城の田舎(茨城県新治郡桜村)の大学だったから、週末に常磐線に乗って東京へ出てきては、池袋文芸座でオールナイト映画を見て、明け方始発の山手線に乗って電車の中で熟睡。そのまま山手線を2〜3周したあと、新宿や渋谷のジャズ喫茶やレコード店めぐりをしていた。それは、1977年〜1982年の6年間のこと。

だから、東京では、中央線沿線の有名ジャズ喫茶には、一度も行く機会がなかった。ムッシュ松尾氏が通った時期と、数年微妙にずれているのかな? 

ぼくが渋谷でずっと通っていた、道玄坂百軒店「ブレイキー」のマッチは残念ながらなかったし、目蒲線西小山に住んでいた兄貴の所に泊めてもらった時には、大岡山の東工大前にあった「ガールトーク」に何度か行った。ここのマッチもなかった。

■そしたら、僕のツイートに「ムッシュ松尾」氏がリプライしてくれた。なんと! 松尾氏は東京に住んだことは一度もないんだって。もうビックリ。ずっと豊丘村で暮らしながら、休日に上京しては音楽喫茶とレコード屋めぐりをしていたんだそうだ。

もちろん、展示されたマッチの店すべてを訪れた訳ではなくて、古道具屋で見つけて集めたマッチもあると。それでも、200軒近くは直接行ったことがある店とのこと。いやあ、それにしても凄い。凄すぎる。

松尾氏も僕も、二人とも東京で一度も暮らしたことがないのに、東京のジャズ喫茶について熱い想いがあったことが、なんだか同志みたいでうれしかった。

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■京都河原町通荒神口角荒神町の2階にあった『しあんくれーる』。高野悦子『二十歳の原点』にも出てくる。一度だけ行った。ビル・エヴァンズが静かにかかっていた。『52番街』は確か同志社大学の裏手だったかな? 「アルテックA7」が鳴ってたように記憶している。

■サッチモの線画のマッチは『あっぶるこあ』。地元の伊那バスターミナルの通りの向かい2階にあった。僕が高校2年生の時にオープンした。同じクラスの小林クンは早々に入り浸っていたけど、僕が初めて中に入ったのは大学生になってからだ。実は怖くて一人では入れなかったのだ。

ここで聴いて印象に残っているレコードは、

『The Soulful Piano』ジュニア・マンス・トリオ、『BLUE CITY』鈴木勲、それから、板橋文夫『濤』A面「アリゲーターダンス」と「グッドバイ」。人気の美人ママ(竹田成子さん)が仕切っていたが、ニューヨークへ行ってしまった。

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吉祥寺の『ファンキー』もジャズ喫茶の老舗だ。ただ、僕は行ったことはない。

先だって、松本の中古CD店『ほんやらどお』で、高田馬場にあるジャズ喫茶『イントロ』(ここも行ったことない)が開店20周年記念ライヴをCDにした『Soulful "intro" Live! 』(1995) を 700円で入手した。店主の茂串邦明氏がドラムを叩き、アマチュア・ミュージシャンの常連客が次々とジャム・セッションを繰り広げるアットホームなCDだ。

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■このCDの3曲目、レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」で、見事なアルトサックス演奏を披露しているのが『ファンキー』店主の野口伊織氏だ。玄人はだしの歌心とテクニック。ちょっと、アート・ペッパーみたいでビックリした。

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「野口伊織記念館」のサイトに行くと、なんと、彼は悪性の脳腫瘍で 2001年に 58歳の若さですでに亡くなっていた。知らなかった。ここの「野口伊織の作品」の中に、この「ジョージア・オン・マイ・マインド」が mp3ファイルで載っているのだが、何故かちっともアクセスできなくて残念。


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■新宿二幸(今のアルタ)うら『DIG』へはよく行ったな。まずは1階の『アカシア』でロールキャベツ(350円くらいだったか?)を食べてから狭い階段を3階へ上って行くと、ずんずん地響きのようにスピーカーから熱いジャズが降ってきた。マッチに描かれたビュッフェの絵は、エラ・フィッツジェラルドの『ガーシュウィン・ソングブック』のレコード・ジャケットから。

ここでは、ウディ・ショウ『Stepping Stones』、エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Light House』、そして、ファラオ・サンダース『Journey To The One』の Side C「You've Got To Have Freedom」を初めて聴いた。店を出たあと直ちに西口小田急ハルク裏のレコード店「オザワ」へ走って、ファラオ・サンダースのテレサレコード2枚組を買ったのだった。それ以来、無人島に持って行くなら「このレコード」と決めている。

「さいきんおげんきですか?」のマッチの斜め左上が、同じく新宿東口にあった『びざーる』のマッチ。地下の穴蔵へ降りてゆくと、デイヴ・ベイリーの『BASH!』がご機嫌に鳴っていたっけ。

■「DIG」が閉店して、もうずいぶん経ってからだったか、家族で新宿中村屋に入ったら、中平穂積さんがひとりテーブルでインドカリーを食べていた。

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■代々木『ナル』のマッチの2つ右。松本市緑町『凡蔵』の隣にあった『アミ』のマッチ。これは知らなかった。2階があって、靴を脱いで上がった。みな横に寝そべってくつろいでいた。

ファラオ・サンダースが大好きなんです!って言ったら、マスターが「ファラオなら、コイツが最高さ!」と『Love In Us All』のレコードを初見の僕にいきなし貸してくれた。当時入手困難だったので、うれしかったなあ。

確か、隣の店舗から火が出て、延焼で燃えてしまった。

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■国分寺時代、地下にあった『ピーターキャット』のマッチ。初めて実物を見た。千駄ヶ谷に移転後の店も僕は行ってない。国分寺の店の様子は、上原隆『こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎)79ページ「彼と彼女と私」に詳しい。

何かで読んだのだが、佐藤泰志の奥さん(まだ結婚する前)が、同時期に国分寺の別のジャズ喫茶に勤めていたらしい。『きみの鳥はうたえる』は国分寺が舞台だ。佐藤泰志は『ピーターキャット』を訪れたことがあるんじゃないかな。

■検索したら、『移動動物園』佐藤泰志(小学館文庫)の解説で、岡崎武志氏が書いていることが分かった。さっそく納戸から文庫本を取り出してきたところ。少し長くなるが以下に引用する。

ところで、佐藤泰志と村上春樹の意外な関係について、少し触れておきたい。二人は1949年生まれの同い年という以上に、機縁がある。佐藤は函館、村上は神戸と、背後に山が迫る港町で青春時代を送った。高校はいずれもその斜面にあった。浪人時代を経て、北から、西からの上京者であり、どちらも国分寺で同時期に暮らしていた。

文壇デビューも佐藤が28、村上が30、とともに遅い。大学在学中に結婚相手を見つけ、一緒に住み始めたのが同じ1971年。アメリカ文学の影響を受け、ジャズが好きだったのも同じなら、佐藤夫人の喜美子さんは国分寺の「モダン」、村上夫人の陽子さんは神保町「響」と、どちらもジャズ喫茶でアルバイトをしていた。

村上春樹はジャズ好きが高じて、早稲田大学在学中の1972年に国分寺南口でジャズ喫茶「ピーター・キャット」(のち千駄ヶ谷へ移転)をオープンさせる。そこで考える。ジャズ好きの佐藤が、村上の「ピーター・キャット」へ行ったことはなかったろうか。と。

この妄想は、同じ国分寺在住の私を刺激する。しかし二人はおそらく言葉を交わしたこともないだろうし、やっぱりどこかが決定的に違うのだ。

小学館文庫『移動動物園』佐藤泰志 解説 281ページ:岡崎武志

■岡崎武志氏は、著書『ここが私の東京』の第一章「佐藤泰志 報われぬ東京」で、佐藤泰志についてさらに詳しく書いている。こちらは全文ウェブ上で読める。

実は、岡崎氏も指摘していない「この二人」の共通点がもう一つある。

それは、「走る人」であることだ。東出昌大主演で最近映画化された、佐藤泰志原作の『草の響き』は、ランニング小説だ。河出文庫『きみの鳥はうたえる』に収録されているこの小説に関しては、以前ブログに書きました。

■『アルフィー』は自由が丘の駅近くにあった硬派のジャズ喫茶。肩まである髪のまだ若いマスターがブイブイいわせていた。一度しか行ったことないけど、デヴィッド・マレイの『ロンドン・コンサート』が、がんがん鳴っていた。

■僕が通った1970年代後半の渋谷はすっかり変わってしまった。

ハチ公口から街へ出て、スクランブル交差点を渡って「109」を左に道玄坂を少し上ると右手が「百軒店」の入口だ。曲がって左に中華「喜楽」坂の右手に「道頓堀劇場」。突き当たり正面左側に、卵入りカレーの「ムルギー」、その左奥2階がジャズ喫茶『音楽館』。右側の細い路地を真っ直ぐ行くと、ロック喫茶『BYG』と老舗名曲喫茶『ライオン』。さらに奥へずんずん行くと、円山町のラブホテル街。

ただ驚いたことに、喜楽は小綺麗なビルに建て変わったけれど、いまも現役で営業を続けている。ムルギーに至っては、建物も外装も内装も椅子もテーブルも?当時のまま営業を続けている。

大槻ケンヂが『行きそで行かないところへ行こう』で通った頃には、会計のレジに割烹着でちょこんと正座した、永六輔みたいな角刈りの気っぷのいいおばあちゃんはいなかったのかな? リンクした島田荘司氏の文章は、残念ながらさすがにリンク切れだった。

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★【1978年ころの渋谷「百軒店」の店舗一覧:「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』だ 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。 一番下の通り右から6軒目に、ちゃんと『ブレイキー』も載っている!】

滝本淳助さんのツイート(2021年9月16日)より、1978年の「ムルギーから左奥の眺め」

「ムルギー」を左に奥へ進むと、右角の1階にロック喫茶『ブラックホーク』(2階が『音楽館』)道の左側には『スウィング』(しばらくして宇田川町へ移転)があった。右へ曲がって細い路地を入って行くと、右手1階に『ミンガス』(ここは入ったことない)。対面2階に目指す『ブレイキー』があった。遅い時間で所持金にゆとりがある時は「ムルギー卵入りカレー」で、早い時間に着いた時は『ブレイキー』(午前9時半に開店した)で、黒すぐりジャム入り紅茶とたまごサンドのモーニングセットをよく食べたなあ。遙かむかしの話だ。

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(上から3段目左端のマッチが、渋谷百軒店ロック喫茶『ブラックホーク』。最上段左から4番目が『名曲喫茶ライオン』のマッチだ)

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