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2013年11月 4日 (月)

師匠とその弟子の関係は連鎖して行く(その1)

 

■今日 11月4日(月)文化の日の振替休日は、スタッフ4人に休日出勤してもらって「インフルエンザ・ワクチンの集中接種」を実施。午前9時から午後4時半まで、約130人に接種した。正直疲れた。やれやれだ。これだけ皆で苦労して一生懸命やっているのだから、もう少しワクチンの効果があってもいいのにと、毎度ながら思ってしまう。

 

■さて、このところずっと「小津安二郎」ばかりなのだが、実は今回も先日読み終わった『小津安二郎の反映画』吉田喜重(岩波書店)と、いま読んでいる『小津ごのみ』中野翠(ちくま文庫)のことを書こうと思っていた。しかし、吉田喜重の『小津安二郎の反映画』が案外手強かった。文章は平易なのに言ってることがむずかしい。ちゃんと理解できていないことがもどかしいのだ。

というワケで、この話題は宿題とさせていただきます。

 

■で、もう一つ。ずっと書こうと思っていたことを今日は書く。

NHK朝ドラ『あまちゃん』の脚本家、宮藤官九郎の師匠は、劇団「大人計画」主宰の松尾スズキだ。『あまちゃん』にも、原宿の喫茶店「アイドル」のマスター甲斐さん役で出演したいた。

実を言うと、ぼくは松尾氏の本を『老人賭博』(文藝春秋)と『ギリギリデイズ』(文春文庫)しか読んだことがなかった。もちろん大人計画の舞台も映画も見たことがない。あの、クドカンに原稿用紙の書き方から教えてやったという松尾スズキなのにだ。

 

 早速、松尾氏の最新刊『人生に座右の銘はいらない』(朝日新聞出版)と、処女作である『大人失格』松尾スズキ(知恵の森文庫・光文社)を入手して読んでみた。どちらも、すこぶる面白かった。最新作では案外マジメに真摯な解答をしていることに驚いたし、弟子であるクドカンに対して妬み嫉みを顕わにしている点が、師匠らしからぬ自虐的セコさを強調するキャラが見え見えで笑ってしまった。

 

『ギリギリデイズ』なんて、酔っぱらって書き散らかしただけのような文章(ごめんなさい。でも、だからこそのドライブ感と刹那さが絶妙にアレンジされた傑作だと思う)だったのに対し、『大人失格』の気合いの入った全力投球の文章は何だ? とにかく凄い! なるほど、これは傑作の誉れ高い本だぞ。

 

ただ、前半はちょっと硬い。『大人失格』で本当に面白い文章は、適度に肩の力が抜けた、もうどうでもいいかと著者が開き直った後の文章だ。「Hanako」連載初期の文章は、どうみたって彼の師匠「宮沢章夫」のモノマネだ。「『まぬけ』へのベクトル」を読むと特にそう感じる。話題の展開のしかた、文章のリズム、間の取り方。その口調。そのままじゃないか。松尾氏はたぶん自分でも意識していたんじゃないか?

 

ちなみに、彼らの「師匠の系図」を明らかにすると、

   宮藤官九郎 → 松尾スズキ → 宮沢章夫 となる。

 

で、松尾氏が師匠「宮沢章夫」の呪縛から解き放たれた瞬間が、『大人失格』を読んでいくとと何となく判るような気がするのだ。

ところで、師匠の宮沢章夫氏は無名時代の松尾スズキ氏のことをどう思っていたのか?

 

その答は、『考える水、その他の石』宮沢章夫(白水社)p55。「下北沢と怪しい眼差し ---- 大人計画と松尾スズキについて」に書いてある。

 

 数年前、松尾スズキにはじめて会ったのは、私が演出するナベナベフェヌアの第一回公演『電波とラヂオ』の稽古場で、彼がどういう経緯でそこに来たのか今になっては私にもよくわからないが、それは今でも変わらない不健康そうな顔色と怪しい目つきを携え彼は私の前に現れた。

その姿は貧乏が実体化しているとしか私の眼には映らず、実際、その日の所持金を手のひらに出してみると、彼の手の上には小銭ばかりが二百円ほどしかないので、そうした貧乏はもう十年前には終わっているんじゃないかと思っていた私にしてみれば、まだここに存在しているのだと認識させられ、ひどく不思議でならなかった。 (中略

 

前述したトラディショナル・プアーやニュー・プアーと明らかに違うのは、彼らが、彼らの貧乏を表現する手立てを持つことによって時代の雰囲気を作り出す奇妙としか言いようのないパワーを内在させていることだ。

 時代とともにその姿は変化するが、ここで不思議なのは<町>が表現に形を与えることだ。かつての新宿がそうだったろう。吉祥寺がそうだったこともある。今、そのことで私が感じる<町>こそ、下北沢に他ならない。

 大人計画の魅力とは、すなわち下北沢が形象する、この時代の隠蔽された領域に漂う空気だ。無論のことそれは作ろうとして作られたものではなく、かつて「薬品関係」の怪しい仕事をしていた者のなかからやみがたく湧き出す<表現>に違いない。(中略)

 おそらく彼はそんなことには気づいてはいまい。彼の内部の<呪われた部分>がそうさせ、そのことから私は、『猿ヲ放ツ』を、<下北沢ニュー・ゴシック・ロマンス>と呼ぼうと考えているのだ。(『シティロード』1991年4月号)

 

■『考える水、その他の石』宮沢章夫(白水社・2006年刊)を読むと、「大人計画」のことが何度も出てくる。宮沢氏本人もこう言っている。

 

いきなり私事で恐縮だが、評論集(この本)を出すことになった。それで過去の原稿を整理する必要があり、まとめて目を通して驚いたのは、大人計画について書いた文章がやけに多いことだ。なぜ私はこんなに、大人計画について書いたのだろう。彼らの何が私に多くを語らせたのか。(p68「本能の物語」『シティロード』1994年 4/5月合併号)

 

はじめて「大人計画」が登場する文章は、たぶんコレだ。

■劇団健康『カラフル・メリィでオハヨ』/大人計画『手塚治虫の生涯』

 

 知人が出演、あるいは演出する舞台を同じ時期に二つ観た。ひとつがあのケラが主宰する劇団健康で、知名度も高く、一定の評価も与えられているが、もうひとつは、私の舞台にも出演してくれた松尾スズキの、そんな名前を聞いても、誰だそいつはと言われるだろうけど、まるで無名の大人計画である。

 

(中略)ストレートな物語をどう語るかについての冒険だ。重層的な、「面白さ」への志向があるからこそ、この舞台を、ケラの作品を私は支持するのだ。

その冒険について、そうした面白さについて、久々に刺激を受けたのが大人計画の舞台だった。もちろん役者のなかにはまだまだ未熟な人もいるし、幾つかの部分でクオリティの低い印象を受けもするのだが、語らずにはいられない面白さがそこにはあった。

『手塚治虫の生涯』と題されたその作品は饒舌とも思えるほど過剰に物語りが語られていく。それはガルシア・マルケスを想起させるし、過剰な物語が迷宮のなかを彷徨する様は、トマス・ピンチョンの小説世界だ(っていうのはほめすぎか)。逸脱したり、後戻りしたり、ひとつの物語から、また別の物語へとイメージが錯綜する文脈の重層的な構造は、私の頭脳を刺激してやまなかった。

私も自分の舞台で同様の方法を取るが、山藤章二さんをはじめとするお年を召した方々は「何だかわからん」とおっしゃるよ。そんなの知ったことかであるよ。

 重層的な非決定の面白さだ。(p108『TARZAN』1988年10月より)

 

なんと、最大限の賛辞ではないか! すごいな。しかも宮沢氏は、松尾スズキのことを「弟子」とは言わずに「知人」と言っている。(まだつづく)

 

 

 

 

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