陸前高田『ジャズ喫茶ジョニー』のママのその後
■共同通信が配信している連載記事『新日本の幸福』は、信濃毎日新聞では夕刊で連載している。その最新シリーズ「震災1年半 今も傷痕」をこのところずっと読んでいるが、正直とても辛い。でもなぜか読まされてしまうのだ。
昨日の水曜日の記事を読んでいたら、陸前高田「ジャズ喫茶ジョニー」店主、照井由紀子さんのことが載っていた。(以下転載)
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『新日本の幸福』(97) 「震災1年半 今も傷痕」(16)
何のために続けるのか --- 再開した店 友の姿なく ---
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岩手県陸前高田市の中心部にかつてあった、大きな2階建ての木造家屋。津波に流される前の「ジャズ喫茶ジョニー」は、商店街でも目立つ存在だった。そこから約3キロ離れた国道沿いの高台に、四角いプレハブの仮店舗が4軒並ぶ。右から2軒目が今のジョニー。引き戸を開けると、心地よいジャズのリズムと、コーヒーの香り。
カウンターの向こうで湯を沸かす店主の照井由紀子(59)の胸には、時折、思いがよぎる。「私は何のために、この店を続けているんだろう」
隣で雑貨店を営む中野貴徳(42)が、震災前のジョニーを撮った大きな写真を、窓際の明るいテーブルに広げた。「昔は漫画を読むのも難しいぐらい暗かったんだ」
ジョニーを始めたのは1975年。7千枚近いレコードや骨董品を飾った店で、夫はピアニストの秋吉敏子ら有名なアーティストを呼び、よくライブを開いた。夫ほどジャズへのこだわりがなかった照井は、もっぱら厨房での調理を担当した。客と言葉を交わすことは、ごくわずかだった。
10年ほど前に離婚したが、1人ででも店を続けるしか生きる方法がなかった。ただ、離婚前から悪くなり始めていた耳は、ほとんど聞こえなくなっていた。診察した医師は「何でほっといたんだ」と叱った。原因は「過度のストレス」と診断された。
それでも、毎日のように顔を出してくれる常連客の支えで営業は続いた。近くで写真館を営み、震災で亡くなった菅野有恒=当時(57)=もその1人。照井は菅野に教えられてカメラが趣味になった。
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昨年3月10日夜。コーヒーを飲んでいた菅野は、照井に言った。「何があっても、由紀子さんは僕たちが守るからね」。突然の言葉に驚いたが、うれしかった。
翌日の午後。照井は激しい揺れが収まると店の外に飛び出した。目にしたのは、海から迫る茶色の”壁”。津波はすぐそこまで来ていた。
「ゆきちゃん、逃げて」。叫び声が聞こえ、高台に走る。「バリバリ」。背後で店が崩れる音も分かった。木にしがみつき、助かった。
しかし、多くの友を津波は連れ去った。「私だけ仲間はずれ。置いてけぼりにされたみたい」。菅野は間もなく遺体で見つかった。照井はカメラを手にするのがおっくうになった。
昨年6月、避難所でコーヒーを入れていた照井を、菅野の写真仲間だった中野が仮設店舗に誘った。資金や機材、ジャズのCDは知人が集めてくれた。同9月、仮店舗でジョニーを再開した。「ここで細く長く続けてやる」と誓った。生き残った自分のため、そして今も支えてくれる仲間のため。
今ではかつてのジョニーの客も顔を出す。話題は自然と震災のことになる。補聴器を使っても、1人の声を聞き分けるのがやっと。「でも、全部聞いていたら、もたないかも。聞こえないぐらいがちょうどいいのかな」
(敬称略)
「信濃毎日新聞夕刊 2012/10/10 2面より転載」
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