ところで、島村利正って誰?
■高遠町在住ならば、たぶん一度は聞いたことのある名前だと思う。いや、60代以上ならそうかもしれないが、50代以下だとどうかなぁ。
島村利正(1912〜1981年)は長野県生まれ。小学校時代に教師の影響で文学に目覚め、学校の図書館で夏目漱石、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などの作品を愛読した。
1926年、高遠実業学校に入学。実家は海産物商で、長男だった利正は実家を継ぐことを求められたが、それに反発。家を出て、尋常高等小学校の修学旅行で知った奈良の飛鳥園へ行く。小川晴暘が主宰する飛鳥園は古美術写真や美術雑誌の出版をおこなっており、利正はここで小川の薫陶を受けた。また、小川の使いで、このころ奈良に住んでいた志賀直哉邸や瀧井孝作邸を訪ねることもあった。
1929年、東京へ出て正則英語専門学校に入学。1936年に結婚すると、多摩川砂利掘事業を営む妻の実家に住み、その仕事に従事していた朝鮮人との親交から題材を得て、1940年に『高麗人』を「文学者」に発表、芥川賞候補となる(その後、1943年の『暁雲』、1957年の『残菊抄』、1975年の『青い沼』が芥川賞候補に挙がっているが、いずれも受賞は逸している)。
作品執筆のかたわら、戦中から撚糸業に従事しており、1955年に日本撚糸株式会社を設立して経営者となった。1957年に作品集『残菊抄』を刊行。しかし、1962年に会社が倒産してからは作家業に専念した。
師の瀧井孝作は文壇の釣り好きとして知られるが、利正も小さいころから釣りに親しみ、釣りに関する文章を数多く残した。作品集『残菊抄』の序文を寄せた志賀直哉はその中で、「戦後、度強い小説の多い中に島村君のしんみりした静かな作品は、また、その特徴ゆえに読者から喜ばれるのではないかと思っている」と書いている。
『仙醉島』は1944年に「新潮」に発表された作品で、郷里の伊那・高遠の祖母の話を小説にしたものといわれている。
あと、『忘れられる過去』荒川洋治(朝日文庫)p123 に載っている「『島村利正全集』を読む」と題された文章が素晴らしい。(以下抜粋)
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『島村利正全集』を読む 荒川洋治
戦争のはじまる前に、一見地味ながら、たしかな文章をもって登場し、人や周囲の自然を描いた人。それからはあまり作品を書かない時期があったけれど、1970年代はじめからのほぼ10年間に私小説の世界をひろげる清心な作品を書いて、読む人の心をとらえた人。その人たちにはいまも忘れられない人。それが島村利正である。(中略)
島村利正は戦前の日本人の庶民の暮らしをいつまでもたいせつに心にしまっていた人で、時代の変化でそれらが曲げられていっても、ときどき思い出したり、取り出して、自分を育てた人たちや時間を振り返った。長く静かな旅をするように、文章を書いた人だ。戦前の人たちのよき姿、つらい姿は、戦後の時間がかさむにつれ次第にかすんでいったが、それでも忘れられないものがある。
コアジサシは、水辺の小鳥。
「私はそのころ、コアジサシの白い姿を見ていると、思いがけず、少年時代に生れ故郷の山ふかい峠で見た、栗鼠の大群を思い出すことがあった。そして、それにつづいて、奈良の鹿と春日山のこと、若狭の海で見かけた奇妙な動物? と、そのときの旅行などを思い出した。それは私の、風変りな小動物誌でもあったが、私自身をふくめた人間の姿も、戦前の時代色のなかで、それらの動物と共に点滅していた。」(「鮎鷹連想」)
このあと、それぞれの小さな動物を「点滅」させて文章がつづく。ここにある「私自身をふくめた人間の姿」をとらえることは、島村氏の作品世界の基点であり基調だった。
「私自身」と「人間の姿」は同じものながら。微妙に消息を分かつものである。島村氏はその文学が「私自身」に傾くことを警戒し、ひろく「人間の姿」を知るための視覚を注意深く見定めようとした。「私」という人間が、他のもの、見知らぬもの、遠くのものと、どのようにかかわるのか。またそれをつづる文章が、どうしたら、人間のための文章になっていくのか。それを「私自身」の生活者の感性を台座にして、みきわめようとしたのだ。
「私自身をふくめた人間の姿」という「観念」は、1970年代という最後の「文学の時代」においても、そのあとも、多くの作者たちの作品から(あるいは発想から)失われたもののひとつである。
島村利正は、文学と生活の両面をみがきながら小説を書きついだ。それはそばにいる人の目にもつかないほどの変化と動揺をかさねる営みだった。「人間の姿」をもつ文学の姿は、この全集の刊行で鮮明になる。(「図書新聞」2001年12月15日号)
驚きました…❗私は1965年から2年間無理を言って当時の閑静な狛江町に広がる田園風景の島村先生宅2階に下宿させて頂き,県境の大川を越えもっと田舎の明治大学生田校舎へ通学してました。遠く京都.舞鶴からポット出て来て大変心細い中、祖父母や母達が島村先生と同じ信州出身と言う事で大変可愛がって頂い事が忘れられません、お淑やかなおば様から振る舞って頂いた鶏皮の信州味噌漬焙りは本当に美味しかったです、何とぞ先生のお子様ご家族とご連絡取れませんでしょうか…❗せめてメールだけでもお願いします。今回やっと島村利正先生にたどり着けて当時を噛みしめてる今日青春73歳です。
投稿: 奈良県在住の大屋泰 | 2017年5月13日 (土) 01:30
大屋さん。コメントありがとうございました!
学生時代、島村利正氏のお宅に下宿されていたのですか? ビックリです。島村利正生誕100周年のあと、何度かご子息ご令嬢が高遠を訪れ、高遠町図書館員の方々のご努力もあって、地元でも島村利正は盛り上がりをみせています。
ただ、個人的にはご子息ご令嬢の連絡先は知らないのです。申し訳ありません。図書館に問い合わせれば、教えてくれるかもしれません。
投稿: しろくま | 2017年5月14日 (日) 00:47