『極北』マーセル・セロー・著、村上春樹・訳(中央公論新社)
■読み出したら途中で止められなくなって、一気に読了した。
『極北』マーセル・セロー著、村上春樹・訳(中央公論新社)だ。
読者を物語世界にのめり込ませるこのリーダビリティは『ジュノサイド』以来か。
ほんと、面白かったなぁ。もの凄く。
【注意!】以下の文章には、読書の喜びを奪うかもしれない記載が一部含まれていますので、一切の事前情報を目にせず「この本」を読みたい、楽しみたい、と感じた未読の方は読まないでください。配慮が足りずにすみませんでした。
短いチャプターで簡潔な文章のテンポがじつに心地よい。ぐいぐい読める。
しかも、読者の予想(期待)を次々と裏切って話の展開がまったく見えないのだ。だって、読み出して数十ページでいきなり「えっ!?」とビックリ仰天させられるのだから。それが終いまで続くのですよ。
読み始めた読者には状況が全く説明されない。まず大きな謎が提示される。 ここはどこ? いつの時代のはなし?
それが、ストーリーの合間合間に挿入される主人公の回想によって少しずつ明かされてゆく。そして、物語の前半でさりげなく蒔かれた伏線が次々と回収される終盤は圧巻だ。ただ、最後まで謎として残されるものもあるが。
これはやはり「純文学」と言うよりも「ミステリー」であり、近未来ハードボイルド冒険サバイバル小説の傑作だと思った。
タフでクールで、でも決して非情じゃない主人公「メイクピース」が、とにかくめちゃくちゃ格好良いのだ。射撃も得意ときている。
主人公は町の警察官だったのだが、警察学校の指導官ビル・エヴァンズの描写がシブくて好きだ。(たぶん、Bill Evans と綴るのだろうが、訳者は決して「ビル・エヴァンス」とは表記しない。スではなくて「ズ」なのだ。そんなこと、僕以外の人にとってはどうでもいい事なんだろうけどね)
あと、近未来設定のフィクションだけれど、細部が丁寧に描かれているので、読みながら映像がリアルにイメージできること。いや、このリアルさは別の大きな要因もある訳だけれど。
■上の写真を見て頂ければ判ることだが、「この本」は装丁が「イノチ」だ。
じつに美しい静謐な装丁。
そのことは、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』黒原敏行・訳(早川書房)の装丁と比べてみてもらえば、自ずとわかることではある。
そう、「この本」は『ザ・ロード』と同じく、「世界の終わり」に立ち会う主人公の物語なのだった。
でも大切なことは、この2冊の本のジャケットが「白黒反転している」ことだ。
そこが重要。『極北』は『ザ・ロード』を反転させた物語だから。
『ザ・ロード』の主人公が、めったやたら「センチメンタル」だったのに対し、『極北』の主人公は、あくまでもクールでドライときている。それに、ザ・ロードの父親と息子は、ひたすら南を目指すのに対し『極北』では逆に北だ。極北だ。
小説の舞台は「北シベリア」。
北氷洋に注ぐ大河「レナ川」河畔の都市ヤクーツクから東へ 1500km。バイカル湖畔に位置するイルクーツクよりもさらに遠く北東に位置する、世界で最も低い気温(零下70℃)を実際に記録したオイミャコンのあたりに建設された入植地「エヴァンジェリン」。
椎名誠の『冒険にでよう』(岩波ジュニア新書)『そらをみてます ないてます』(文藝春秋)、それに『マイナス50℃の世界』米原万里(角川ソフィア文庫)をすでに読んでいたから、その壮絶な環境は少しはイメージできた。あと、『脱出記』も単行本で読んでいたしね。
だから北シベリアの過酷な自然は、それなりに想像できるのだ。マイナス50℃にもなる冬の寒さも凄まじいが、夏のタイガの薮蚊の獰猛さときたら、そりゃぁもう人間が生活できるような環境じゃ全くない。
そんな凄まじい北シベリアの内陸部に、何故「英語を話す人々」が暮らす街ができたのか? そして、何故いまやゴーストタウンと化してしまったのか?
物語の後半、さらにもの凄いゴーストタウンが登場する。でも、不思議と既視感が漂うのだ。
■ぼくが「この本」を読みながら頭の中で何度も流れていた曲がこれ。
「飛行機」ってさ、いつも宮崎駿の映画に出てくるみたいに、科学と文明の象徴なのだ。
絶対に無理だろうけれど、映画化してもらいたいな、クリント・イーストウッドに。「西部劇」みたいな雰囲気の映像でね。
■それにしても、『ジュノサイド』と同じく「この本」は、ほとんど「ネタバレ禁止」条例に触れてしまうので、どう読後感想を書いたらいいか判らないのですよ。
■いろいろ書きたくても書けないでいるのだけれど、これは「ネタバレ」になってしまうが、タルコフスキーの映画に関して、ぼくは以前「こんなこと」や、「こんなこと」を書いています。
こんにちは、はじめまして。
誰かのブログにコメントなどあまりしないのですが、読んだばかりの本に色々考えさせられたので検索してこちらにたどりつき、コメントしたくなってしまいました。
「極北」はタイトルに吸い寄せられるように読んだ本ですが、陰惨な内容にもかかわらず読後感は清涼でした。大きな理由は、主人公が女性だったからなのでしょう。
荒廃した世界の「希望」あるいは「救い」を象徴する主人公は女性であるのが必然なような気もします。決して明るい未来の到来を予想させる結末ではなかったのですが。
しかし、現実に「福島」を経験し、さらに人類ばかりか生物世界を破滅させてしまうのに十分すぎる核物質を貯めこんでいる現実を知ってしまうと、この物語に描かれた「その後」の想像世界でさえ、楽天的な未来観と感じてしまうのが悲しいです。
極北の自然にあこがれ、星野道夫さんや植村直己さん、sue harrison
の著作などを読む流れで手にした本でしたが、すべてが破滅に向う中、せめてこの小説世界のように、「国敗れて山河あり」であることを祈るものです。
長々とすみません。
「ストーカー」ももう一度見てみたいと思います!
投稿: はみんぐばあど | 2012年4月26日 (木) 13:45
はみんぐばあど さん。コメントありがとうございました。
ぼくも星野道夫氏の写真とエッセイが大好きです。つまりは「北の最果ての荒野」にずっと魅せられてきたのですね。あと、ジョン・クラカワーのノンフィクション『荒野へ』 も、北の荒野(ウィルダネス)アラスカに魅せられた青年のはなしで、これまたすごく好きな本です。
「かつてこれらの河はすべて名前を持っていた。丘だってそうだ。いや、風景の中の模様のようにしか見えないもっと小さなものだって、ひとつひとつ名前をつけられていたかもしれない。かつてここはひとつの場所だったのだ、と私は思った。
祖先たちが苦労を重ねて勝ち得た知識を、私たちはずいぶん派手に浪費してきたのだ。泥の中から僅かずつ積み上げられてきた、すべてのものを。」(『極北』p236)
「フェリックスは尋ねた。このような大きな都市で育ったものはこの中にいるか、と。一人もいなかった。そして私の他には、都市に住んだことのある両親を持つものさえいなかった。それは偶然ではない。電気や清潔な飲料水がなければ、下痢や渇きが毒素よりも素早く都市生活者たちを駆逐してしまうからだ。」(同 p249)より引用。
これらの文章をいま読むと、なんかもの凄くリアルに我が身に響いてくるのです。
投稿: しろくま | 2012年4月28日 (土) 01:05
こんにちは。お忙しいのにコメントありがとうございました。
「荒野へ」は映画版で見ました。
主人公の青年に純粋に共感するには分別のありすぎる年齢ですが、無謀だとか考えが甘いとか批判するには文明社会への義憤やウィルダネスへの憧れに、理解できる点も多いのです。
印象に残ったのは、彼がムースを撃ち干し肉を作ろうとして失敗したシーンでした。
頭の中で描いていたことと現実とのギャップに初めて遭遇したことで、その後の展開を示唆するものでした。
「極北」の主人公のことを思うと、その違いが歴然としており、むしろその父親のタイプに近い人種のように思われます。
さて先日、NHKで放映された「フローズンプラネット」で、まさしくその極北の民の生活が紹介されておりました。
トナカイに家ごとソリを引かせ移動する遊牧民の姿をお茶の間で目にする不思議さに、また小説「極北」の世界が頭に浮かんできたのは当然のことでした。
星野さんがいつも言っておられた世界の同時性、多様性の不思議さがこのまま持続することを願ってやみません。
投稿: はみんぐばあど | 2012年4月30日 (月) 01:02