「フクシマ」を予言するもの
■長野県小児科医会雑誌に載せる文章を書いている。ようやく書き上がったので、ここにも載せます。
「フクシマ」を予言するもの 北原文徳
文化人類学者の中沢新一氏は、私たちが生きる生態圏には本来存在しない「外部」が持ち込まれたテクノロジー、思想システムとして、原発と一神教の「神」とを挙げる。どちらも人間にとって実は同じものであると。だから、外国の原子力発電所はどこも巨大な神殿のような外観をしているのだと言う。でも、福島第一原発の原子炉建屋は、まるで映画セットの張りぼてのように簡単に破壊されてしまった。本当は人間の手に負えない「神の火」を、日本政府も、産業界も、われわれ国民も、その神に対する畏怖の念をすっかり忘れてしまって、ただ便利に利用してきたのだ。怖ろしいことだ。
先日NHK教育テレビで放送された「ETV特集・ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」は衝撃的だった。放射能は目に見えない。しかも、それをいま浴びていたとしても痛くも痒くもないのだ。番組のラストは、まるでガブリエル・バンサンの絵本『アンジュール』のようだった。翌日から立入禁止区域となる自宅に残された愛犬を見に帰った老夫婦の車を、いつまでも追いかけてくる黒犬。悲しかった。切なかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう?
ぼくはこの番組を見ながら不思議な既視感に囚われていた。20数年前に観た映画『ストーカー』にそっくりだと。エイゼンシュテインと並び称されるソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが1979年に撮ったSF映画だ。反体制の寓意に満ちた映画だったために、このあとタルコフスキーは亡命を余儀なくされる。原作は、ストルガツキー兄弟のSF小説『路傍のピクニック』だが、映画は 1957年9月29日、ソ連ウラル地方チェリヤビンスク核施設にあった放射性廃棄物貯蔵タンクが爆発し、広範囲に放射能汚染が発生した「ウラル核惨事」(ずっと隠蔽されていた)を題材としているようだ。
そうして、映画が公開された7年後にチェルノブイリの原発事故が起きた。
ところで、映画のストーリーはこうだ。ロシアの片田舎に巨大な隕石が落下したという政府発表があり、その周囲は危険な放射能が満ちているために周辺地域住民は強制退去させられ「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止区域となった。
しかし、その「ゾーン」内には人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるという噂があり、そこへ行きたいと願う作家と教授の2人を秘密裏に案内するのが、主人公のストーカー(密猟者・案内人という意味)の役目だった。彼らが落ち合うバーの向こうに、川を挟んで巨大な原子力発電所が見えている。
映画では「ゾーン」の外はモノクロ、ゾーン内に入るとカラーになるという仕掛けがあった。ゾーン内には「目に見えない」危険な区域がいっぱいあって、案内人のストーカーは「それ」を巧妙に回避しながらゴールの「部屋」へと向かう。
その「部屋」へと至る彼らの行程(滝のように水が流れ落ちる「乾燥室」から「肉挽き機」と呼ばれる恐ろしいトンネルをくぐり抜けハッチを開けると、体育館みたいな建物内に砂丘が広がる。そしてついに「部屋」の入口にたどりつくのだ)は、福島第一原発の原子炉がメルトダウンし、放水を浴びながら、地下に汚染された水が何万トンと貯まった原子炉建屋の中へ、防御服を着た東電の下請け作業員が向かう状況とそっくり同じだ。ほんと怖ろしいほどに。どちらも徹底的に「水びたし」じゃないか。
つまりは、あの「部屋」は、原子炉であり、神なのだった。タルコフスキーが言いたかったことと、中沢新一氏が言いたいことは結局は同じだったのだな。この部屋の前で、ストーカーは言う。「なんだ、結局だれもこの部屋を必要としていないじゃないか!」と。これはダブル・ミーニングで、神も原発も、人間は必要としていないという意味だとぼくは思う。
映画のラストシーンは鮮烈だった。
行って帰って来たストーカー一行を妻と娘がバーで待っている。その娘は、ゾーン内の放射能の影響を受けて歩行できないハンディキャップを負っている。でも、それと引き替えに彼女は、新たな別の力を得たのだった。このラストシーンで何故か画面はカラーに変わる。そこに微かな希望が見えたような気がした。
ところで、「フクシマ」の子供たちはどうか? それがいま、一番の問題だ。
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