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2010年8月 4日 (水)

『ひそやかな花園』角田光代(毎日新聞社)

■この小説の面白さを、ネタバレなしで紹介することは不可能です。


だから、もし興味を持ったなら、何の前情報もなく「この小説」を読み始めてみて下さい。そうして、あなたが最終章を読み終わった時、得も言われぬ満足感にひたれたなら、何よりもうれしい。

そういう小説です。

あと、検索で先頭にでてくる「サンデーらいぶらりぃ」青柳いづみこさんの『ひそやかな花園』書評。1行目から完全ネタバレなので、未読の方は読んじゃだめです。


でも、作者の「連載を終えて」は読んでも大丈夫かも。

ついでに、忌野清志郎の大ファンであった、角田光代さんの「追悼文」も発見した。


<以下、少しネタバレあり> 

ぼくは読み始めて10ページも行かないうちに、ははぁ、この小説は、角田光代版『わたしを離さないで』なんだなって、瞬時に理解した。

そして読み終わったいま、その「予感」が、まんざら間違いではなかったと感じている。
ほぼ同世代の(でも、微妙に年齢の異なる)男の子3人と女の子4人。

この子供たちは、毎年夏休みの数日間を家族といっしょに高原のウッドハウスで過ごす。サマーキャンプと称して。子供たちは、彼らがどういう間柄なのかは知らされていない。いっしょに参加した大人たちは、どうも何か隠しているらしい。


彼らは、運命を超えた宿命で結ばれた子供たち7人だったのだ。


その宿命とは、本来なら「生まれてくる必要がなかったかもしれない子供たち」という共通点があること。
でも、彼ら彼女らの母親はみな「無敵な気分」でもって、彼ら彼女らの誕生を心から望み、そして産み育ててきた。
そのことが果たして正しかったのか? それとも。


この小説は、あの傑作『八日目の蝉』のネガ・ヴァージョンだと思う。
血縁のある実の親子でも、乳幼児期という子供にとって一番大切な時期をいっしょに過ごせなかったなら、決して親子の愛着関係は結べないし、全くの赤の他人でも、お互いに愛着関係が形成されれば、確かに「親子」になれる。『八日目の蝉』は、そういう小説だった。


ところが、『ひそやかな花園』では逆に、オギャーと生まれてきた子供自身にはどうしようもない「自分の出自」に焦点があたるのだ。遺伝子学的、生物学的な自分の出自は、果たして「どうしようもない宿命」なのか?

この小説の中で、この問いが何度も提示される。


小説を読みながら、いろんな思いが自分にはね返ってくる。
「ぼくはどこから来たのか、ぼくは何者か、ぼくは何処へ行くのか?」

でも、歩まねばならぬ。そう思う。だって人間だから。


地球上に存在する生き物の中で、人間(ホモサピエンス)は特異な生物だ。
世界中のありとあらゆる土地で、人間は生活しているからだ。
動物でも、植物でも、そんな生物はひとつもない。
自分に合った環境の土地にずっと定住して動かない。


ところが現世人類は、今から約7万年前にアフリカ大陸を出て、あれよあれよとヨーロッパからユーラシア大陸を移動し、またあるグループは中近東からインド、東南アジアを経てオーストラリアへ渡った。さらにマンモスを追って北上したグループは、アリューシャン列島を越えアラスカに至り、さらにたった数百年で北アメリカから南アメリカ最南端まで一気に縦断したという。

人間はなぜ、そうまでして移動して行ったのか?
それは、人間だけが持つ「好奇心」のたまものだと思う。
「ここよりほかの場所」への好奇心。

あの山の向こうには、いったい何があるんだろう?
どんな人たちが住んでいるんだろう?

そういう「旅する心」が本質的に備わっているんだと思う。
人生も旅だ。当たり前のようだけれども、この本を読み終わって、
あらためてしみじみそう思った。


最終章がいい。とってもいい。この章の書き手(私)が、あの、紗有美であることに、すごく「ほっ」とした。角田光代は、こういう女の子を描くのが実にうまい。

ふと読み返すと、プロローグも実は紗有美の「一人語り」だ。
なるほど、そういうことか。


ところで、この小説に登場する「ハル」と、『キッドナップ・ツアー』の主人公「ハル」とは明らかに別人なのだが、作者の中では、どこかでつながっているのだろうか?


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